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朝日カルチャーセンター 千葉教室  平成三十年三月十八日

    漢字文化からひもとく日本  知の生産財としての漢字文化

講師名  明治大学教授 加藤

講座内容 

 「和漢洋」という言葉があるとおり、漢字文化は日本人の教養の大動脈です。日本の歴史を漢字や漢文からひもとくことで、私たちの祖先が何を思い、どんなことを試み、この国の形を作ってきたかを明らかにします。

 漢字や漢文は過去、二回にわたって日本社会に革命的な変化をもたらしました。一回目は遣唐使の時代。二回目は幕末から明治にかけての近代化の時代。日本だけが今も「平成」などの元号を使う理由と、日本が中国の属国化や西洋の植民地化を免れた理由は、実はつながっています。私たちの先祖が漢字や漢文をどう活用してこの国を守ってきたか、その歴史を明らかにします。

 

★漢字の特徴と漢字文化圏(漢字圏)

 漢字と儒教を受容したのは、東アジア(とベトナム)の集約農業圏だけであった。漢民族と隣接する遊牧民族は、漢字よりもむしろチベット系の表音文字を好んだ。

 漢字は「形・音・義」の三つの要素をもつ「表語文字」である。世界の文字の歴史は、表意文字・表語文字から表音文字へと変化してきたが、中国は例外で、二〇世紀半ばの短い一時期に漢字全廃とローマ字化を目指した他は、表語文字である漢字を使い続けてきた。

 英語は表音文字、日本語は表語文字と表音文字の混用(漢字とかなの交ぜ書き)、中国語(中国では「漢語」と呼ぶ)は今も表語文字のみである。

 なお中国でも、突厥文字やチベット文字、モンゴル文字など、非漢民族系の多くは民族固有の文字として表音文字を選ぶ傾向がある。

 

★漢字の字数

西暦一〇〇年 『説文解字』 九千三百五十三字

  六〇一年 『切韻』 一万六千九百十七字

 一七一六年 『康熙字典』 四万七千三十五字

 一九九四年 『中華字海』 八万五千五百六十八字

参考 日本の『大漢和辞典』修訂第二版(補巻も含む) 五万一千百九字

   日本の漢字ソフト『今昔文字鏡』 最新版で約十七万字以上

 

★漢字のデメリット

 「表音文字」にくらべるとエントリーコストが高い(しきいが高い)。『千字文』のように、最低でも一千字の漢字をマスターしないと普通の読み書きはできない。

 常用漢字を習う日本の小学生は一千六字を、繁体字を習う台湾の小学生は三千字、簡体字を習う中国本土の小学生は四千七百十八字を学習する。

 日本の小学生が学ぶ漢字の文字数は中国の数分の一にすぎないが、日本語の漢字は音読みと訓読みの両方を覚えねばならず、しかも音読みには「呉音、漢音、慣用音、唐音」など様々な種類があるため、漢字学習の記憶量は日本人も中国人も大差ない。

 日本は早くから「仮名(かな)」という独自の表音文字をもっていたおかげで、女性や子供も文字の読み書きができた。葛原勾当のように全盲のハンデを克服して日記を書き残した人もいた。また、字音語だけでなく、民族の固有語である和語の古い文字資料も、比較的豊富に残っている(朝鮮語やモンゴル語との比較)

 一方、昔の中国では、女性や子供、盲人、外国人は、漢字学習のエントリーコストの高さゆえ、文学に参画することが難しかった。

 

★漢字のメリット

 簡潔に表現できる。英語ではbeautifulの九文字だが、漢字なら「美」の一字で済む。

 表語文字なので、発音が変わっても文字は変わらない。中国語を知らない日本人も、漢字を見れば意味はわかる。

 普遍化・統一化に有利である。表音文字しかもたないヨーロッパは、古代ローマ帝国の分裂後、各地の言語の方言化、各国語化が進み、二度と統一国家があらわれなかった。これと対照的に、表語文字しかもたない中国は、黄河文明以来の中華帝国が王朝交替を経ながらも周辺に拡大を続け、二十一世紀の今日まで連綿と続いている。

 

★周辺民族の漢字の受容

 中国本土

 紀元前二千年紀の漢字は、黄河文明という、今日の中国の領域から見ればごく狭い地域のローカルな文字にすぎなかった。

 紀元前一千年紀の孔子の時代でも、漢字圏は狭かった。春秋時代の呉や越、楚などの国々の現地語は、漢民族の言葉ではなかった可能性もある。

 紀元一千年紀、漢字圏は東方の中国国外にまで拡大した。遣唐使時代の日本もその一部。

 

★日本の対中外交の原点

一世紀 漢の光武帝と「漢委奴国王」の金印

三世紀 邪馬台国の女王、卑弥呼が魏に遣使

四世紀 いわゆる「謎の四世紀」

五世紀 いわゆる「倭の五王」が中国の南朝に遣使

六世紀 日本、有史時代に入る。

七世紀 中国への遣使。「朝貢」と「冊封」(さくほう)からの離脱への模索。

 聖徳太子(厩戸皇子 574年ー622年)

 遣隋使 六〇〇年(推古天皇八年)〜六一八年(推古天皇二十六年)に五回以上

 推古天皇十五年(西暦六〇七年)、小野妹子、隋に渡る。翌年、裴世清を伴って帰国。ただし、隋の煬帝から日本(当時の呼称は「倭」)への返書は、帰路に百済において奪われた、とされる。

 

★『隋書』俀国伝より抜粋 

*「俀国伝」は「倭国伝」を中国人が筆写ミスしたものと思われる。「俀」の音読みはタイ・テ、訓読みは「ヨワし」。「倭」とは別の漢字だが、字の形が似ているための誤記であろう。

 

 開皇二十年、俀王姓阿每、字多利思北孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言俀王以天爲兄、以日爲弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰「此太無義理。」於是訓令改之。

 開皇二十年(西暦六〇〇年)、倭王の姓は「アマ」、字は「タリシヒコ」、号は「オホキミ」が使者を送り、隋の宮中に参上させた。隋の文帝(楊堅)は担当官に命じ、倭の風俗を問わせた。使者は答えた。「倭王は天を兄とし、日を弟とし、天がまだ明けぬうち出て政務を聴き、跏趺して坐り、日がのぼると『あとは我が弟に委ねよう』と言ってやめます」。文帝は「無茶苦茶すぎる」と言い、倭の使者に訓令してこの間違った風習を直させた。

 

(このあと「冠位十二階」を始め、倭国の文物制度や習俗に関する記述があるが、省略。)

 

 有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以爲異、因行禱祭。有如意寶珠、其色青、大如雞卵、夜則有光、云魚眼精也。新羅、百濟皆以俀爲大國、多珍物、並敬仰之、恆通使往來。

 阿蘇山という山があり、そこの石は理由もなく火が起こって天まで届く。人々は神秘的なことと考えて、祈って祭る。如意宝珠という宝物は、色は青で、大きさはニワトリの卵ほどで、夜になると光り、魚のひとみだとも言われる。新羅と百済の両国は、倭は珍しい物産が多い大国であると思い、倭を敬い仰ぎ、常に使者を通わせて往来している。

 

 大業三年、其王多利思北孤遣使朝貢。使者曰「聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子至書日沒處天子無恙」云云。帝覽之不ス、謂鴻臚卿曰「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」

 大業三年(西暦六〇七年)、倭の王タリシヒコは使者を派遣し朝貢した。使者は言った。「海の西の菩薩天子が手厚く仏法を興隆なさっていると聞き、朝拝に私が派遣されました。あわせて、出家者数十名が仏法を学びに参りました」。倭の国書には「日いずるところの天子、日、没するところの天子に書を致す。つつがなきや」云々と書いてあった。煬帝はこの国書を見て不機嫌となり、外交担当官に「蛮夷の書で無礼のあるものは二度と朕に聞かせるな」と命じた。

 

 明年、上遣文林郎裴清使于俀國。度百濟、行至竹島、南望𨈭羅國、經都斯麻國、乃在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國、其人同于華夏、以爲夷洲、疑不能明也。又經十余國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於俀。

 翌年、煬帝は文林郎の裴世清を倭国に派遣した。裴世清は百済を経て竹島に至り、南に耽羅国を望み、ツシマ国を経た。これは大海の中にある。さらに東のイキ国へ至り、またチクシ国へ至り、さらにまた東の秦王国に至った。秦王国の人は中国人と同じで、これは中国の史書にある「夷洲」と思われるが、確実なことはわからない。さらにまた十余国を経て海岸に到達する。チクシ国から東はみな倭に属する。

 

 俀王遣小コ阿輩台、從數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。後十日、又遣大禮、哥多毗、從二百余騎郊勞。

 倭王は、「小徳」の位にある「オホタイ」(大河内直糠手=おほしかふちのあたいあらて?)なる者に従者数百人をつけて、儀仗を設け太鼓や角笛を鳴らして歓迎した。十日あと、また「大礼」のカタビ(額田部連比羅夫=ぬかたべのむらじひらぶ?)に二百余騎をつけて、郊外で旅の疲れをねぎらった。

 

 既至彼都、其王與清相見、大ス、曰「我聞海西有大隋、禮義之國、故遣朝貢。我夷人僻在海隅、不聞禮義、是以稽留境、不即相見。今故清道飾館、以待大使、冀聞大國惟新之化。」清答曰「皇帝コ並二儀、澤流四海、以王慕化、故遣行人來此宣諭。」既而引清就館。

 裴世清は倭の都に到着した。倭の王は裴と会見して大いに喜び、言った。「私は、海の西に大隋という礼儀の国があることを聞き、使者を派遣して朝貢しました。私は野蛮人で、海外の辺境にいるため、礼儀作法を存じないため、内側に留まり、すぐにはお目に掛かりませんでした。今はもう道を清め、館を飾り、大使の来訪をお待ちしていました。どうか大国維新の王化に浴したいと思います」。裴世清は言った。「わが皇帝陛下の徳は陰陽に並び、恩沢は四海に流れています。倭の王であるあなたが中国の徳化を慕われているので、わが皇帝陛下は私を使者としてこちらに派遣し、宣諭することになったのです」。倭王は裴世清を館に案内した。

 

 其後清遣人謂其王曰「朝命既達、請即戒途。」於是設宴享以遣清、復令使者隨清來貢方物。此後遂

 その後、裴世清は人を遣って倭の王に言った。「わが朝廷から受けた使命は達成しました。すぐに帰国の途につきたいと思います」。そこで宴を設けてもてなし、裴世清を出発させた。倭の王は裴世清に使者を随伴させ、倭の特産品を献上した。その後、倭との交流は絶えた。

 

★遣唐使

六一八年 隋滅亡、唐王朝

六三〇年(舒明天皇二年) 第一回遣唐使

 唐の太宗は、日本に帰国する遣唐使に高表仁を随伴させた。日本に到着した高表仁は、礼を争い、太宗の言葉を伝える使命を果たさぬまま唐に帰国した。唐の使者と礼を争った日本側の相手は、『旧唐書』では倭の王子、『新唐書』では倭の王とする。

六四五年 大化の改新。日本初の元号「大化」元年

六六三年 白村江の戦い

六七二年 天智天皇、崩御

 天武天皇の治世(六七二年 ー六八六年)に天皇号と国号「日本」が成立したか。

七〇二年 武則天(六二四年ー七〇五年)が皇帝だったとき、日本から三十二年ぶりに遣唐使が到着。唐は旧来どおり「大倭国」の使者として扱おうとしたが、日本の遣唐使は「日本国」からの使者であると主張した(『続日本紀』)

 

以上