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月と不老不死 古代中国と日本の月文化 (シリーズ・月をめぐって)
朝日カルチャーセンター・新宿教室 2016年11月3日木曜
担当 加藤 徹 http://www.geocities.jp/cato1963/
 
★柿本人麻呂(660ー724)の和歌
 
天海丹雲之波立月船星之林丹榜隠所見 (『万葉集』巻七雑歌)
  天の海に雲の波立ち月の船星の林に漕ぎ隠る見ゆ
  アメのミに クモのナミタち ツキのフネ ホシのハヤシに コぎカクるミゆ
 
 ※漕ぎ「進む」ではなく、漕ぎ「隠る」である点にご注目ください。
 
 
★『楚辞』天問より 伝・屈原(前343ー前278)作の四言古詩
夜光何徳
死則又育
厥利維何
而顧菟在腹
夜光は何の徳ありてか
死すれば則ち又育す
厥の利 維れ何ぞ
而して顧菟 腹に在り
ヤコウはナンのトクありてか @
シすればスナワちマタ、イクす A
ソのリ、コれナンぞ B
シカしてコト、ハラにアり C
 
@夜光(月のこと)には何の「徳」(生得のパワー)があるのか。A死ねばまた生育する。B一体、どんな利があって、C自分の腹の中に「顧菟」(通説ではウサギで「玉兎」に同じ。ヒキガエル説、「顧」と「菟」説、トラ説もある)を住まわせているのか。
 
@yè gu?ng hé dé As? zé yòu yù Bjué lì wéi hé Cér gù tù zài fù 
 
 
★各国語の「月」の語源。諸説があります。左は一例です。典拠は省略します。
 
日本語「ツキ」 < 動詞連用形「尽き」の名詞化 cf. トキ(時) < 「溶き / 解き」
 
漢字「月」の字源 < 大きく欠けた三日月を描いた象形文字
漢語「月」の語源 < 缺(ケツ。常用漢字では「欠」に書き換える)と同系
 
近代英語moon < 中英語mone < 古英語 mona < ゲルマン祖語*menon < 印欧祖語*men- < 印欧祖語 *me-「測る・計る」
 
 
★古代人の世界観
論理的思考 logical thinking 近現代の科学的な見方や考え方。科学の基礎。
類比的思考 analogical thinking 人間にとって自然な見方や考え方。
 
 以下にかかげる類比的思考は、宗教や芸術、創作の世界などでは今も健在です。
「目に見えるこの世(現世)の背後には、目に見えないあの世(幽冥界)が広がっている」
「現世の似ているものどうしは、霊的なパワーでつながっている」
「現世と幽冥界の境界は、呪術的な方法によって一時的に開くことができる」
 類比的思考による循環世界観を左に示します。
一日
一月
一年
一生

新月

出生

三日月

若年
黄昏
満月

老年

晦日

(地下世界での生命の更新)
(星の林での生命の更新)
(生命の更新)
(墓の中での生命の更新?)

新月

(再生?)
cf.「死と再生の儀礼と演劇の起源」http://www.geocities.jp/cato1963/sitosaisei.html
 
 
★『?(かつ)冠(かん)子()』泰鴻より。中国の戦国時代の、?(やまどり)の羽の冠をかぶった隠者に仮託した書と伝えらていますが、後世の偽書説もあります。
 
日信出信入、南北有極、度之稽也。
月信死信生、進退有常、数之稽也。
列星不乱其行、代而不干、位之稽也。
 
 日は信に出でて信に入り、南北極有り、度の稽なり(太陽の黄道は天空の緯度経度の基準である)。月は信に死に信に生き、進退常有り、数の稽なり(月の満ち欠けは暦日の基準である)。列星は其の行を乱さず、代はるも干(おか)さず、位の稽なり(方位の基準である)。
 
※印欧祖語の月は「計るもの」という意味でした。古代中国人も月を「数の稽」と見なしています。古代の日本でも「日知り」は「聖(ひじり)」で、「月読(つきよみ)」は神の名でした。古代人にとって月齢の周期は、宇宙の数理法則の象徴だったのです。
 
 
★『周礼(しゅらい)』秋官司寇より。周の文王の息子で西周建国の功臣であった周公旦(前11世紀ごろ)に仮託された書物ですが、実際には、戦国時代の成立とも言われています。
 
司?氏掌以夫遂取明火於日、以鑑取明水於月、以共祭祀之明粢、明燭、共明水。
 司?氏(しけんし)は、夫遂(ふすい)(陽燧(ようすい)。夫燧。凹面鏡の着火器具)を以て明火を日に取り、鑑(かがみ)を以て明水を月に取り、以て祭祀の明粢(めいし)(神霊にそなえる「しとぎ」)と明燭とを共(そな)へ(供え)、明水を共ふるを掌(つかさど)る。
 
 
★『淮南子(えなんじ)』覧冥訓より。『淮南子』は、前漢の武帝のころ、淮南王(わいなんおう)・劉(りゅう)安(あん)(前179〜前122)が学者を集めて編纂させた書物です。
 
夫陽燧取火于日、方諸取露於月。天地之間、巧暦不能挙其数、手?忽?、不能覧其光。然以掌握之中、引類於太極之上、而水火可立致者、陰陽同気相動也。此傅?之所以騎辰尾也
 
夫()の陽燧(ようすい)(着火用の凹面鏡。「夫燧」の誤写説あり)は火を日より取り、方諸(大きな蛤)は露を月より取る。天地の間(の距離)は、巧暦(暦学に通じた人)も其の数を挙ぐる能はず(正確な数字を言えない)。手は忽(こつ)?(きょう)(はっきりしない物。「恍惚」に同じ)を?(ちょう)する(つかまえる)も、其の光を覧()ること能はず。然るに掌握の中(手で掌握できる道具の中)を以て類を太極(太陽と、太陰=月)の上より引き、而して水火立ちどころに致すべき者は、陰陽の同気、相動けばなり。此れ傅()説(えつ)(殷王朝の人名)の辰尾(天空の星。彗星のしっぽ説や、「尾」宿説あり)に騎()る所以なり。
 
※凹面鏡という道具を使えば、遠い宇宙の天体である太陽のエネルギーを、地上の火に転換できます。科学が未発達だった古代の人にとって、これは神秘でした。太陽も太陰(月)も、天体は不老不死です。天体のパワーと地上のパワーを同調させれば、いにしえの傅説のように不死のパワーを得られる、と古代人は考えました。傅説は殷の時代の伝説的な人物です。『荘子』大宗師によると、彼は「道」を得て武丁(王の名前)の宰相となり、その後は天上の星になったと伝えられています。
 
 
★『淮南子』覧冥訓より「嫦娥奔月」の神話。嫦娥はもともと「?(こう)娥()」という名でしたが、前漢の文帝の諱(いみな)「恒(かん)」と似た字形を避けるため、後に「嫦娥」と改名されました。
 
?請不死之薬於西王母、?娥窃以奔月、悵然有喪、無以続之。
 
?(げい)、不死の薬を西王母に請()ふ。?娥、窃(ぬす)みて以て月に奔(はし)る。悵然として喪(うしな)ふ有りて、以て之に続くこと無し(彼はがっかりして、逃げた妻を追いかける気力もなかった)。
 
※?は太古の弓の名手で、射日神話でも有名です。嫦娥は?の妻でした。彼女が自分だけ不老不死の薬を飲んだいきさつや、彼女のその後の運命については、後世、さまざまな説話が語られています。 
★唐の詩人・李商隠(812ー858)が詠んだ七言絶句「嫦娥」。自分を裏切って去っていった女性を嫦娥になぞらえて詠んだ、という説もあります。
 
雲母屏風燭影深  雲母の屏風 燭影深し @
長河漸落暁星沈  長河 漸く落ちて 暁星沈む A
嫦娥応悔偸霊薬   嫦娥は応に悔ゆなるべし 霊薬を偸みしを B
碧海青天夜夜心   碧海 青天 夜夜の心 C
 
@ウンモのビョウブ、ショクエイ、フカし。Aチョウカ、ヨウヤくオちて、ギョウセイ、シズむ。Bジョウガはマサにクゆなるべし、レイヤクをヌスみしを。Cヘキカイ、セイテン、ヤヤのココロ。
 
@雲母がキラキラと輝く屏風。ロウソクのともしびの影が深い。A夜はふける。天の川もだんだんと落ち、明け方の星も沈みゆく。 B嫦娥はきっと後悔しているだろう。不老不死の霊薬を盗んでしまったことを。 Cみどりの海、青黒い空、毎夜の孤独な心。
 
@yún m? píng f?ng zhú y?ng sh?n Acháng hé jiàn luò xi?o x?ng chén Bcháng é y?ng hu? t?u líng yào Cbì h?i q?ng ti?n yè yè x?n
 
 
★謡曲『邯鄲(かんたん)』の詞章より
月人男(つきひとおとこ)の舞なれば、雲の羽(は)(そで)を重ねつヽ
喜びの歌を、謡(うと)ふ夜もすがら。
 
 
★楽史(930ー1007)の伝奇小説『楊太真外伝』に引用する「霓(げい)(しょう)(う)(い)(きょく)」の起源説話二種のうちの一つ
 
又『逸史』云羅公遠天宝初侍玄宗、八月十五日夜、宮中玩月、曰「陛下能従臣月中遊乎」。乃取一枝桂、向空擲之、化為一橋、其色如銀。請上同登、約行数十里、遂至大城闕。公遠曰「此月宮也」。有仙女数百、素練寛衣、舞于広庭。上前問曰「此何曲也」。曰「霓裳羽衣也」。上密記其声調、遂回橋、却顧、随歩而滅。旦諭伶官、象其声調、作霓裳羽衣曲。
 
 又『逸史』に云ふ羅公遠(有名な道士の名)、天宝(742〜756)の初めに玄宗に侍す。八月十五日(中秋節)の夜、宮中に月を玩ぶ。曰く「陛下、能く臣に従ひて月中に遊ばんか(遊びにゆきませんか)」と。乃ち一枝の桂を取りて、空に向ひて之を擲(なげう)てば、化して一橋と為る。其の色、銀の如し。上(皇帝への敬称)に請ひて同じく登り、約行くこと数十里、遂に大城闕に至る。公遠曰く「此れ月宮なり」と。仙女数百有り、素(しろ)練(ねりぎぬ)の寛(ゆる)き衣にて、広き庭に舞ふ。上、前(すす)みて問ひて曰く「此れ何の曲ぞ」と。曰く「霓裳羽衣なり」と。上、密かに其の声調(曲のメロディー)を記す。遂に橋に回り、却りて顧れば、歩みに随ひて滅す。旦(あした)(翌朝)に伶官(音楽担当の役人)に諭し(勅令をくだし)、其の声調を象(かたど)りて霓裳羽衣の曲を作らしむ。
 
 
★唐の詩人・李賀(791ー817)が詠んだ七言古詩「夢天」(天を夢む)。月の上から、杯(さかずき)のようにまるい地球が雲と海水におおわれた情景を描写しています。
 
老兎寒蟾泣天色   老兎 寒蟾 天色に泣く @
雲楼半開壁斜白   雲楼 半ば開きて 壁 斜めに白し A
玉輪軋露湿団光   玉輪 露に軋りて 団光を湿し B
鸞佩相逢桂香陌   鸞佩 相逢ふ 桂香の陌 C
黄塵清水三山下   黄塵 清水 三山の下 D
更変千年如走馬   更変すること千年 走馬の如し E
遥望斉州九点煙   遥かに望む 斉州 九点の煙 F
一泓海水杯中瀉   一泓の海水 杯中に瀉ぐ G
 
@ロウト、カンセン、テンショクにナく。Aウンロウ、ナカばヒラきて、カベ、ナナめにシロし。Bギョクリン、ツユにキシりて、ダンコウをウルオし、Cランパイ、アイアう、ケイコウのミチ。Dコウジン、セイスイ、サンザンのモト、Eコウヘンすることセンネン、ソウバのゴトし。Fハルかにノゾむセイシュウ、キュウテンのケムリ、Gイチオウのカイスイ、ハイチュウにソソぐ。
 
@雨模様の夜空。月の中の、老いた兎と寒々としたガマガエルが流す涙が、ポタポタと降る。A夜の雨雲は、黒い楼台のようにそびえたつ。雲の扉がなかば開き、雲の壁が斜めに白く輝く。B月の光だ。天空をすすむ宝石の車輪は、ギギイッと露を散らしつつ、まどかな濡れた光を発する。C(私の魂は雲の階段をのぼる)天への道は、月にはえている桂のかおりに満ちていた。天の道を、仙女たちが、霊鳥の鸞を彫りこんだおびだまをシャラシャラ鳴らして歩いてくる。D(月へと昇る私は、下界をふりかえった)太平洋の中の三つの仙島のあたりでは、黄色っぽい塵のような大地と、青青とした海の水が、滄桑(そうそう)の変をめまぐるしくくりかえしている。E宇宙から見れば、千年の歳月も、馬が走り去るような一瞬にすぎない。Fはるか中国のほうを見おろすと、点のような煙が九つ、ポツンと見えるだけ。G(地球の姿は)まるい杯の中に注がれた、ひとたまりの海の水のようだ。
 
@l?o tù hán chán qì ti?n sè Ayún lóu bàn k?i bì xié bái Byù lún yà lù sh? tuán gu?ng
C luán pèi xi?ng féng guì xi?ng mò Dhuáng chén q?ng shu? s?n sh?n xià Eg?ng biàn qi?n nián rú z?u m? Fyáo wàng qí zh?u ji? di?n y?n Gy? hóng h?i shu? b?i zh?ng xiè
 
 
★『十訓抄』(じっきんしょう/じっくんしょう。1252年成立)第十「才芸を庶幾すべき事」第64話
 唐の玄宗の帝(みかど)、年ごろ月を愛する志深くして、夜々むなしくし給ふ事なかりけり。道士、これを感じて帝に申すやう「君、月を愛し給ふこと、年久し。月の中を見せ奉らん」と奏しければ、帝、悦びてしたがひ給ふ。
 道士、八月十五夜の月の午時(午夜の誤りか)ばかり、庭に立ちて、桂の枝を月に向ひて投げ上げたりければ、銀の階(きざはし)、月の宮に続きけり。この時に道士、先立ちて引き奉る。昇ることいくほどならずして、月の内に入り給ひぬ。玉の宮殿、玉の楼閣、数知らず。舞台の上に、十二人の妓女舞ふ。おのおの白衣を着たり。楽の声、舞の姿、のどかに澄めば、玉を動かすかんざし、雪をめぐらす袖、みな光り輝けり。二階の宮殿あり。甍(いらか)ごとに玉を磨きて、目もあてられず。玉の簾(すだれ)を上げて、一人の主(あるじ)これを見る。すべて、ものの音、舞の姿、所のありさままでも、心もおよび給はず。斧の柄も朽ちぬべく思(おぼ)されけれど、名残(なごり)惜しながら、舞だに見はてずして、帰り給ひにけり。
 帝、この曲を心にしめて、世にとどめ給へり。盤渉調(ばんしきちょう)の声なり。霓裳羽衣といふ、すなはちこれなり。中ほどばかりを見給ひけるによりて、始終もなき楽(がく)なりといへり。
 ただし、このことおぼつかなし。古き目録にも「霓裳羽衣は壱越調(いちこつちょう)の楽なり。もとの名をば壱越(いちこつ)波()羅()門(もん)といひけるを、同じ帝の時、天宝年中に、もとの名を改めて霓裳羽衣と名づく」と記(しる)せり。よくよくたづぬべし。
 
 
★『竹取物語』(成立年代不明。9世紀後半〜10世紀前半か)の結末です。「富士山」の語源は「不死山」、という説話です。
 
 中将、人々引き具して帰りまゐりて、かぐや姫を、え戦ひとめずなりぬること、こまごまと奏す。薬の壺に御文添へ、まゐらす。広げて御覧じて、いといたくあはれがらせたまひて、物も聞こし召さず、御遊びなどもなかりけり。大臣・上達(かんたち)を召して、「いづれの山か天に近き」と問はせたまふに、ある人奏す、「駿河の国にあるなる山なむ、この都も近く、天も近くはべる」と奏す。これを聞かせたまひて、
  会ふこともなみだに浮かぶわが身には死なぬ薬もなににかはせむ
 かの奉る不死の薬に、また、壺具して、御使ひに賜はす。勅使には、つきの岩笠といふ人を召して、駿河の国にあなる山の頂に持てつくべき由仰せたまふ。嶺にてすべきやう教へさせたまふ。御文、不死の薬の壺並べて、火をつけて燃やすべき由仰せたまふ。その由承りて、つはものどもあまた具して山へ登りけるよりなむ、その山をふじの山とは名づけける。その煙(けぶり)いまだ雲の中へ立ち上るとぞ言ひ伝へたる。
以上