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朝日カルチャーセンター千葉 講座用プリント           担当 加藤 徹
 夏〜秋の漢詩  平成二十六年(2014)七月二十五日金曜日=旧暦六月二十九日







 
  二十四節気   雑節・節句・その他
 七月二十三日…大暑  八月二日…七夕(旧暦七月七日)
 八月七日…立秋
 八月二十三日…処暑
 九月八日…白露
 九月二十三日…秋分
 十月八日…寒露
 十月二十三日…霜降
 
 九月一日…二百十日
 九月八日…中秋の名月(旧暦八月十五日)
 九月二十日…彼岸
 十月二日…重陽(旧暦九月九日)
 十月二十日…土用
 
★消暑(銷暑。消夏)の漢詩
 
   夏夜追涼
楊万里(1127〜1206)
  夜熱依然午熱同  夜熱 依然として午熱に同じ
  開門小立月明中  門を開き 小く立つ 月明の中
  竹深樹密虫鳴処  竹 深く 樹 密にして 虫鳴く処
  時有微涼不是風  時に微涼有り 是れ風ならず
 
 カヤ、リョウをオう。ヨウバンリ。ヤネツ、イゼンとしてゴネツにオナじ。モンをヒラき シバラくタつ ゲツメイのウチ。タケ フカく キ ミツにして ムシナくトコロ、トキにビリョウ アり コれカゼならず。
 
 
★二十四節気の「白露」と中秋の名月
 
   月夜憶舎弟
杜甫(712〜770)
  戍鼓断人行  戍鼓 人行断え
  辺秋一雁声  辺秋 一雁の声
  露従今夜白  露は今夜より白く
  月是故郷明  月は是れ故郷に明らかならん
  有弟皆分散  弟有り 皆分散す
  無家問死生  家の死生を問ふ無し
  寄書長不達  書を寄するも 長く達せず
  況乃未休兵  況んや乃ち未だ兵を休めざるをや
 
 ゲツヤ、シャテイをオモう。トホ。ジュコ、ジンコウ タえ、ヘンシュウ イチガンのコエ。ツユはコンヤよりシロく、ツキはコれコキョウにアキらかならん。オトウト アり、ミナ ブンサンす。イエのシセイをトうナし。ショをヨするもナガくタッせず。イワんやスナワちイマだヘイをヤめざるをや。
yue4 ye4 yi4 she3 di4   du4 fu3  shu4 gu3 duan4 ren2 xing2 / bian1 qiu1 yi1 yan4 sheng1 / lu4 cong2 jin1 ye4 bai2 / yue4 shi4 gu4 xiang1 ming2 / you3 di4 jie1 fen1 san4 / wu2 jia1 wen4 si3 sheng1 / ji4 shu1 chang2 bu4 da2 / kuang4 nai3 wei4 xiu1 bing1
※759年、四十八歳の杜甫が家族とともに漂泊の旅を続けていた時の漢詩。
 戍=慣用音「ジュ」、呉音「ス」、漢音「シュ」。「戌(ジュツ)」「戊(ボ)」とは別字。
 
 
★七夕の説話の起源
 
六朝・梁の殷(いん)芸(うん)『小説』より(明代の『月令広義』七月令の逸文)
 天河之東有織女、天帝之子也。年年機杼労役、織成雲錦天衣、容貌不暇整。帝憐其独処、許嫁河西牽牛郎、嫁後遂廃織?。天帝怒、責令帰河東、但使一年一度会。
 天の河の東に織女(しょくじょ)有り、天帝の子なり。年年、機杼(きちょ)に労役し、雲錦の天衣を織り成し、容貌を整ふるに暇(いとま)あらず。天帝、其の独処を憐れみて、河西の牽牛郎(けんぎゅうろう)に嫁すことを許す。嫁して後、遂に織?(しょくじん)を廃す。天帝怒り、責めて河東に帰らしむ。但だ、一年に一度会はしむ。
 
 
★乞巧奠(きっこうでん)の起源
梁・宗懍『荊楚歳時記』より
 七月七日、為牽牛織女聚会之夜。是夕、人家婦女結綵縷、穿七孔針、或陳幾筵酒脯瓜果於庭中以乞巧。有喜子網於瓜上。則以為符応。
 七月七日、牽牛・織女の聚会の夜と為す。是の夕、人家の婦女、綵縷(さいる)を結び、七孔の針を穿(うが)ち、或は金銀・鍮石(ちゅうじゃく)を以て針と為し、几筵(きえん)・酒脯(しゅほ)・瓜果を庭中に陳(つら)ね、以て巧(こう)を乞ふ。喜子の瓜上に網すること有れば、則ち以て符応と為す。
※乞巧=(針仕事の)腕前の上達を祈ること。 鍮石=真(しん)鍮(ちゅう)、黄銅。 喜子=蜘蛛(クモ)
 
 
★中秋の名月と玄宗皇帝
 楽史(930ー1007)の伝奇小説『楊太真外伝』に引用する「霓裳羽衣(げいしょううい)曲」の起源説話二種のうちの一つによると、玄宗は道士の導きで天上の月宮殿に遊び、そこで聞いた天女の舞楽を忘れられず、地上に戻ってから霓裳羽衣の曲を作ったという。
 
 又『逸史』云。羅公遠天宝初侍玄宗、八月十五日夜、宮中玩月、曰「陛下能従臣月中遊乎」。乃取一枝桂、向空擲之、化為一橋、其色如銀。請上同登、約行数十里、遂至大城闕。公遠曰「此月宮也」。有仙女数百、素練寛衣、舞于広庭。上前問曰「此何曲也」。曰「霓裳羽衣也」。上密記其声調、遂回橋、却顧、随歩而滅。旦諭伶官、象其声調、作霓裳羽衣曲。
 又『逸史』に云ふ。羅公遠、天宝の初めに玄宗に侍す。八月十五日の夜、宮中に月を玩ぶ。曰く「陛下、能く臣に従ひて月中に遊ぶや」と。乃ち一枝の桂を取りて空に向ひて之を擲(なげう)てば、化して一橋と為る。其の色は銀の如し。上(しょう)に請ひて同(とも)に登り、約(およそ)、行くこと数十里、遂に大城闕(だいじょうけつ)に至る。公遠曰く「此れ月宮なり」と。仙女数百有り、素練寛衣、広庭に舞ふ。上、前(すす)みて問ひて曰く「此れ何の曲か」と。曰く「霓裳羽衣なり」と。上、密かに其の声調を記し、遂に橋に回(かへ)り、却(かへ)りて顧みれば、歩に随ひて滅す。旦(あした)に伶官に諭し、其の声調を象(かたど)りて霓裳羽衣の曲を作らしむ。
 
(参考)謡曲『邯(かん)鄲(たん)』より
 月(つき)(ひと)(おとこ)の舞なれば、雲の羽(は)(そで)を重(かさ)ねつヽ、喜びの歌を、謡(うた)ふ夜(よ)もすがら
 
(参考)白居易「長恨歌」の末尾 楊貴妃と玄宗皇帝と七夕
…七月七日長生殿、夜半無人私語時。在天願作比翼鳥、在地願為連理枝。天長地久有時尽、此恨綿綿無絶期。
 七月七日長生殿、夜半人無く私語するの時。天に在りては願はくは比翼の鳥と作(な)り、地に在りては願はくは連理の枝と為らん。天長く地久しく時有りて尽きんも、此の恨は綿綿として絶ゆる期(とき)無からん。
 
 
★漱石の房総半島旅行
 
   無題
夏目漱石(1867〜1916)
  西方決眥望茫茫  西方 眥を決し 望めば茫茫たり
  幾丈巨濤拍乱塘  幾丈の巨濤 乱塘を拍つ
  水尽孤帆天際去  水尽きて孤帆 天際に去り
  長風吹満太平洋  長風吹き満つ 太平洋
 
 ムダイ。ナツメソウセキ。セイホウ、マナジリをケッしてノゾめばボウボウたり。イクジョウのキョトウ、ラントウをウつ。ミズ ツきて コハン テンサイにサり、チョウフウ フきミつ タイヘイヨウ。
※明治二十二年(1889)、二十三歳の漱石は八月七日から月末まで房総半島を旅行。漢詩文の紀行文『木屑録』(ぼくせつろく)を書き、親友の正岡子規に見せた。
 
 
★日清戦争(1894年7月25日から1895年11月30日)の漢詩
 
   無題
勝海舟(1823〜1899)
  隣国交兵日  隣国 兵を交ふるの日
  其戦更無名  其の戦い 更に無名なり
  可憐鶏林肉  憐れむべし 鶏林の肉
  割以与魯英  割きて以て魯・英に与ふ
 
 ムダイ。カツカイシュウ。リンゴク、ヘイをマジうるのヒ、ソのタタカい サラにムメイなり。アワれむべし、ケイリンのニク、サきてモッてロエイにアタう。
※鶏林=朝鮮半島の古名 魯英=ロシアとイギリス
(参考)勝海舟『氷川清話』より「日清戦争には、おれは大反対だつたよ。なぜかつて、兄弟喧嘩だもの犬も喰はないじゃないか。(中略)一体支那五億の民衆は日本にとつては最大の顧客サ。」
 
   金州城
正岡子規(1867〜1902)
  旌旗十万捲天来  旌旗 十万 天を捲きて来る
  一戦国亡枯骨堆  一戦して国亡び 枯骨 堆し
  犬吠空垣人寂寞  犬は空垣に吠え 人は寂寞
  満城風雨杏花開  満城の風雨 杏花開く
 
 キンシュウジョウ。マサオカシキ。セイキ ジュウマン テンをマきてキタる。イッセンしてクニホロび、ココツ ウズタカし。イヌはクウエンにホえ、ヒトはセキバク。マンジョウのフウウ、キョウカ ヒラく。
※明治二十八年(1895)四月二十八日、新聞「日本」の連載記事「陣中日記」より
 金州城=現在の中華人民共和国遼寧省大連市金州区。日露戦争でも激戦地となった。
 
以上