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朝日カルチャーセンター・千葉教室   平成二十五年一月二十五日(金)
講師・加藤 徹
☆今年の干支について
(一)甲子 (二)乙丑・・・ (五)戊辰・・・ (三十)癸巳 (三十一)甲午・・・ (六十)癸亥
 
☆今年の立春・・・二月四日
 
【七言絶句】
 府西池
白居易(はく・きょい 七七二〜八四六)
柳無気力枝先動  柳 気力無くして 枝 先づ動き
池有波紋氷尽開  池 波紋有りて 氷 尽く開く
今日不知誰計会  今日 知らず 誰か計会するを
春風春水一時来  春風春水 一時に来る
 
 白楽天が河南府の長官だった時(五十九歳からの三年間)の作。和歌にも影響を与えた。
 
[読み方] ヤナギ キリョク ナくして エダ マづ ウゴキ、イケ ハモン アりて コオリ コトゴトく ヒラく。コンニチ シらず タレか ケイカイするを。シュンプウ シュンスイ イチジにキタる。
 
[大意] 柳の木にはまだ気力は無いが、柳の枝が春の気配を感じて先に動いている。池の水面には波紋がおこり、氷をすべて融かした。今日のこのすてきな光景は、誰が計算したのだろう。春の風と春の水が、同時に来るだなんて。
 
【和歌】                 紀貫之(きのつらゆき 八六六?〜九四五)
袖ひぢてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ
 
 
【五言絶句】
 寒梅
新島襄(にいじま・じょう 一八四三〜一八九〇)
庭上一寒梅  庭上の一寒梅
笑侵風雪開  笑ひて風雪を侵して開く
不争又不力  争はず 又 力めず
自占百花魁  自から百花の魁を占む
 
[読み方]テイジョウのイチカンバイ。ワラいてフウセツをオカしてヒラく。アラソわず、また ツトめず。オノズから ヒャッカのサキガケをシむ。
【和歌】                  新島八重(八重子。一八四五〜一九三二)
 明日の夜は何国の誰かながむらんなれし御城に残す月かげ
旧・会津女子高校に残る新島八重の自筆の書。
 
 
 
 
 
 
 
 
【七言律詩】
 無題
松平容保(まつだいら・かたもり 一八三六〜一八九三)
自古英雄多数奇  イニシえよりエイユウ スウキ オオし。
胡為大樹棄連枝  ナンスれぞタイジュ レンシをスつるや。
断腸三顧許身日  ダンチョウす サンコしてミをユルすのヒ、
揮涙南柯入夢時  ナミダをフルう ナンカ ユメにイるのトキ。
万死報恩志未遂  バンシもてオンにムクゆ ココロザシ イマだトげず、
半途墜業恨何涯  ハント ギョウをオつ ウラみナンぞハテあらん。
暗知気運推移去  アンにシる キウン スイイしてサり、
月黒橋頭啼子規  ツキ クロき キョウトウに シキはナく。
 
 戊辰戦争で負けた会津藩主の松平容保が、戦後、幕府と薩長を恨んで書いた漢詩。出典は池内儀八『会津史』巻十。作家の司馬遼太郎も歴史小説『王城の護衛者』でこの漢詩を引用したが、『会津史』所載の字句とはかなり違う。
 
[大意] 昔から英雄に数奇な運命はつきものだ。しかし、どうして大樹(徳川将軍)は、枝(会津藩など)を見捨ててしまわれたのだろうか。その昔、京都守護職につくことを何度も依頼された頃を思い出すと、後悔で断腸の思いだ。かつての日々が夢と消えた今、涙ばかりがあふれてくる。孝明天皇の御恩にお報い申し上げようと頑張ったが、志を遂げぬうち、万死に値する罪人になってしまった。公武合体の構想が道半ばで失敗したことは、恨んでも恨みきれない。天下の気運は推移して、たぶん、時代はもう元にもどるまい。月が暗い橋のあたりで、天下の混乱を予言するかのように、ホトトギスが鳴いている。
 
[語注] ○大樹=将軍の異称。『後漢書』馮異伝の「大樹将軍」の故事から。
○三顧=『三国志』の諸葛孔明の故事をふまえる。
○南柯入夢時=「南柯の夢」の故事をふまえる。
○月黒=一に「目黒」に作る。
○橋頭啼子規=「天津橋上聞杜鵑声」(『邵氏聞見録』巻十九)の故事をふまえる。北宋の学者・邵康節は、洛陽の天津橋で、それまで洛陽にいなかったホトトギスの声を聞き、天下の気運の流れが南から北へと変化したことを察知し、近い将来、天下の政治が乱れることを予言した。果たして数年後、南方出身者である王安石が登用されて「新法」が始まり、新法党と旧法党の激しい対立が生まれ、北宋滅亡の遠因となった。官軍に敗れた松平容保は、南(薩長土肥の西南雄藩)の勢力が伸張して旧幕府勢力と対立し、日本を二分して多大の犠牲者を出したことを暗に批判している。
 
 
【七言古詩】
 白虎隊詩
佐原盛純(さわら・もりずみ 一八三五〜一九〇八)
少年団結白虎隊 ショウネン ダンケツす ビャッコタイ
国歩艱難戍堡塞 コクホ カンナン ホサイをマモる
大軍突如風雨来 タイグン トツジョとして フウウ キタり
殺気惨憺白日晦 サッキ サンタンとして ハクジツ クラし
?鼓喧?震百雷 ヘイコ ケンテンしてヒャクライ フルい
巨砲連発僵屍堆 キョホウ レンパツして キョゥシ ウヅタカし
殊死衝陣怒髪竪 シュシ ジンをツいて ドハツ タち
縦横奮撃一面開 ジュウオウにフンゲキすれば イチメン ヒラく
時不利兮戦且却 トキ リあらずして タタカいカつシリゾき
身裹創痍口含薬 ミには ソウイをツツみ クチにはクスリをフクむ
腹背皆敵将安之 フクハイは ミナ テキなり ハた イズくにかユかん
杖剣間行攀丘嶽 ケンをツエついてカンコウし キュウガクをヨづ
南望鶴城砲煙? ミナミのかた ツルガジョウをノゾめば ホウエン アガる
痛哭呑涙且彷徨 ツウコクし ナミダをノみて シバラくホウコウす
宗社亡矣我事畢 ソウシャはホロびぬ ワがコト オワる
十有九人屠腹僵 ジュウユウクニン ハラをホフりてタオる
俯仰此事十七年 フギョウす コのコト ジュウシチネン
画之文之世間伝 コレをエガき コレをブンにして セケンにツタう
忠烈赫赫如前日 チュウレツ カクカクとして ゼンジツのゴトく
圧倒田横麾下賢 アットウす デンオウ キカのケン
 
[書き下し] 少年団結す白虎隊、 国歩艱難 堡塞を戍る。大軍突如として風雨来り、殺気 慘憺として白日晦し。?鼓 喧?して百雷震ひ、巨砲 連発して僵屍堆し。殊死 陣を突きて怒髪竪ち、縱に奮撃すれば一面開く。時利あらずして戦ひ且つ却き、身には瘡痍を裹み 口には薬を含む。腹背は皆 敵なり、将た安くにか之かん。剣を杖ついて間行し 丘嶽を攀づ。南のかた鶴が城を望めば 砲煙?る。痛哭 涙を呑みて且く彷徨す。宗社は亡びぬ 我が事畢る、十有九人 腹を屠りて僵る。俯仰す 此の事 十七年、之を画き之を文にして 世間に伝ふ。忠烈 赫赫として 前日の如く、圧倒す 田横麾下の賢。
 
[大意] 会津藩の少年たちが団結して白虎隊。自分の国の歩みの困難に際して、命をかけて陣地を守った。しかし、官軍の大部隊は突如として風雨のように激しく会津に押し寄せてきた。惨憺たる殺気のために、昼間の太陽すら暗くなるほどだった。軍隊の太鼓は百の雷鳴のごとく響きわたり、巨大な大砲の弾丸は降り注ぎ、戦場の死体は山のように積み重なった。白虎隊の少年たちは、決死の覚悟で敵陣に突撃し、怒髪は天をついた。縦横無尽に奮戦して、ようやく血路を切り開くことができた。しかし、腹背はみな敵軍で、どこに行けばよいというのか。刀を杖のかわりにして間道を進み、山(飯森山。いいもりやま)へよじ登った。南のほう、鶴が城を見ると、砲煙があがっていた。少年たちは痛哭し、涙をのんで、しばらくさまよった。「故郷の藩は滅んだ。われらもこれまでだ」。十九人が切腹して倒れた。あの日から十七年、われらは下をうつむいて悲しみ、天を仰いで嘆息し、絵や文にして世に伝えてきた。少年たちの忠烈の心は赫赫と輝き、まるで昨日のようである。古代中国の斉の田横に殉じた五百人の忠臣たちをも、圧倒している。
 
[語注]○?鼓・・・戦陣の小太鼓と大太鼓。
○殊死・・・決死
○宗社・・・宗廟と社稷。先祖を祭る場所と、土地神や穀物の神を祭る場所。転じて国家。
○十有九人・・・白虎隊のうち、「白虎士中二番隊」の生き残りの少年たち二十人が自刃、奇跡的に命を取り留めた飯沼貞吉(明治初年に貞雄と改名。一八五四〜一九三一)を除く十九名が死亡。
○田横・・・秦末の英雄。民間から身を起こして斉の王となったが、漢の劉邦と戦って敗れた。劉邦は田横の人物を評価し、厚遇することを約束して招いたが、田横は生き恥をさらすことを嫌って自決した。田横の人柄をしたう食客たち五百人もまた、田横のあとを追って自殺した。
 
 明治十七年の作。佐原盛純は会津出身の漢学者。
 別本には「社稷亡矣可以巳、十有九士屠腹死」(シャショクはホロびぬ、モッてヤむベし。ジュウユウキュウシ、ハラをホフりてシす)と作る。また「十有六人」「十有六士」とする本もある。