序 Post-modernとしての現代とContemporaryとしての現代

 現代史とはどこからどこまでを指すのだろうか。近年、現代とは第二次世界大戦以降の時代を指すことに便宜上なっている。従来は、帝国主義の成立を近・現代の区分としてきたが、冷戦を一つの時期として捉えたとき、近代・現代という時期区分の枠組みそのものを再考する必要がある。「近代化」を前提とした状況が現代であるとしても、そもそも「近代化」概念をめぐっては論争があっても定説がない。八〇年代の日本ではポスト・モダンが現代思想領域を中心に議論されたが、すでに六〇年代の先進国では「脱工業化」概念による次の発展段階が模索されていた。「脱工業化」概念に「イデオロギーの終焉」というイデオロギー性があったことは看過できないが(1)、冷戦崩壊から約十年、むしろ、イデオロギー性を理由に過小評価してしまったことの方が問題ではないか(2)。ポスト・モダンにせよ、脱工業化にせよ、時代の終焉という認識を起点としたが、何が始まるかを明示し得なかった。ポスト・モダンがともすると難解となるのもその概念の曖昧性による。

 他方、「現代史」とはすぐれて同時代的感覚の範囲にある時期を意味している。従って、その対象範囲は歳月や世代の経過と共に変転する。筆者(一九六三年生)の場合、当初は「昭和史」(中学生くらいまでか?)、継いで「戦後史」という表現に変わった。大学院後期課程に在籍した頃、『日本同時代史』が歴史学研究会により編集された(一九九一年完結、全五巻)。九〇年七月に書かれた同シリーズ「刊行にあたって」は、「戦後史」を「同時代史」と表現した理由を次のように説明している。

「『戦後』という形で四五年間をくくるには、あまりにもこの間の変化は大きく、時代把握として必ずしも適切ではなくなった。若い世代では『戦後』の対象範囲をイメージしにくい者も多い。しかも、今を生きるわれわれにとって、『現在』を透視する歴史が求められている。」(傍点筆者)

 

 「戦後」が過去となったという認識の他方で、「同時代史」という言葉には明らかに今を生きるものにとっての意味を史的に問うニュアンス(史的実存)がある。明らかな過去ならば「今を生きるわれわれ」と直接に意味合いをはない時代なのだから「同時代史」とするのは矛盾である。むしろ「戦後史」とする方が客観的ではないか。「しかも」という表現に転換点の歴史認識が集約されているのだろう。

 日本では「戦後」が長く、結局、戦後何年という呼び慣わしは戦後五十年まで広く用いられた。この「刊行にあたって」の五年後、鹿野政直は『岩波講座 日本通史』(3)で、八〇年代末から戦後五十年までを「終焉の時代」と表現している。それは天皇「崩御」から代替わり、冷戦崩壊、湾岸戦争と国際貢献(平和主義のなし崩し)、バブル経済の崩壊、五五体制崩壊と政党再編、阪神淡路大震災、オウム・サリン事件に至る一連の終焉現象であった。未だ新しい時代を規定するものが見えてはこないが、この終焉から日本現代史について筆者は少なくとも次の事が指摘できると思う。

 第一点は、この「終焉」したもの、あるいは「破綻」をきたしたものの起源をめぐり、論争が生じたことである。これら崩壊要因を何らかのシステムの形成要因とみなした場合、そのシステムは何時、どのようにして形成されたのかという問題である。これには一九四〇年代論と一九六〇年代論がある。一九四〇年代論の是非は戦時・戦後をめぐる連続・非連続の評価をどう特定化するかという点にある。また、六〇年安保闘争を転機とする場合、五〇年代、六十年代との連続・非連続が特定化される必要がある。こうして四〇年代から六〇年代への一連の連続・非連続の特定化は、七〇年代から九〇年代へと遡及することで、現代史や戦後史の時期区分の見直しへと発展する要因を含んでいる。

 第二点は、戦争と戦後をめぐる記憶が同時代性を喪失したものとなったことである。戦争体験とそれに連続する戦後体験は、世代・地域・階層・階級に対し横断的な記憶を形成していた。まさに戦後日本と書いてナショナルとルビを打つことができるような時空が存在したのである。これに対し、今や、「戦争」はおろか「戦後」を知らない世代が増えつつある。そういう世代にとって「『現在』を透視する歴史」はそれ以前の世代とは異なってくる。

 第三は、冷戦の責任と冷戦後責任という視点から「戦後」を見なおす必要性である。これは「戦後日本」という時代が思考に与えた制約とは何であり、そしてその制約が故に見過ごされた問題とは何かを掘り起こしてゆく作業である。歴評ではリレー討論として社会主義の再考を行ったが、単に社会主義や社会主義陣営の問題としてではなく、冷戦の対立構造を総体としてとらえてゆくことが必要である。そして、冷戦型対立構造が長期安定化してしまったことの帰結として、価値形成に及ぼした力学的不可避性(制約)を検証してゆくことである。戦後保守主義も、戦後民主主義も戦争と戦後をめぐる「記憶の共同体」を形成し、それ故に生じた発想の制約を、冷戦の責任として考えてゆくことが必要である。

 なお、本稿では詳しくは述べないが、時代の終焉によりタブーが解禁となり新たな史料や証言が多数出てきたこと(天皇の独白録等がその典型)、ソ連崩壊により旧ソ連時代の史料が徐々に開示されていることなど、資料の可能性も一変しつつある。まず国会議事録Webでは一九四七年以降、最新の国会までの議事録が検索できるようになった。また省庁の情報公開(その殆どが一九四七年以降の文書に限るようである)も開示請求という「関所」はあるがWeb上で行政文書の検索ができる。アメリカの機密解禁文書についてもWeb上で入手ができる(4)