(1) 「占領期」

 今日、研究上、「占領期」の時期区分としての妥当性は殆ど認められていない。朝鮮戦争勃発前後からの一九五〇年代を転換点としてトータルにとらえようとする傾向があり、独立・講和も転機というよりは五〇年代の一連の流れに位置付けられて理解されている。独立と言っても現実には対米従属下の広義の安保体制が条約化されることで狭義の安保体制へと変化したに過ぎず、この独立・講和の意義の比重は「吉田ドクトリン」が神話にすぎなかったことが実証されることでさらに低下している(5)

 戦後研究の第一の論点とは、戦時・戦後の連続性・非連続性に関する問題である。今日、その連続・非連続に関する研究視野は、これを一九四〇年代から五〇年代にかけての戦時転向−敗戦転向−戦後転向として、長期的な観点から検証してゆこうとしている。赤澤史郎氏・北河賢三氏等による一連の研究は「文化」を切り口としてこうした広い視野から取り組もうとするものである(6)

 今後、この戦時と戦後の連続・非連続の研究から導き出された類型は他の時期における比較(例えば、八十年代と九十年代)にも適応できるだろう。今、その類型を抽象化してみると連続性は@「意図したことがらの連続性」とA「意図せざる結果としての連続性」に大別できる。そして、この類型に対し研究者がどのような評価をとるかについては否定的、肯定的、客観的の3つの評価視点に類別されるだろう。

 例えば@「意図した連続性」では、所謂「旧意識の残滓」が封建的、軍国主義的、非民主主義的要素としてa否定的に評価される場合、あるいは高度経済成長に典型されるような戦後システムの起源を総力戦体制下の革新官僚の思想と行動に見出しこれを積極的に評価するようなb肯定的評価や、単にその思考の連続性を指摘するに過ぎずその価値を評価するというのではないc客観的評価である。

 A「意図せざる結果としての連続性」も、例えば、敗戦後の組合の叢生についてその組織主体の起源が戦時統制による諸組織の形成にあった場合、これを単にその機能の継承という点の指摘に止める場合(客観的評価)、戦時組織の継承であるが故に否定的に評価する場合(否定的評価)、そうではなく改めて戦後の労働運動興隆をもたらした等々の観点からその連続性を肯定的に評価しようとするもの(肯定的評価)の類別がある。

 同様に非連続性の類型も@「意図した非連続」とA「意図せざる結果としての非連続」に大別できる。そして、ここでも評価視点には否定的、肯定的、客観的な三類型が想定できる。非連続性に関する評価軸では「外発か、内発か」ということがよく言われるが、筆者はさらに「上から、下から、国から」という評価軸も用意したい。「上から」・「国から」の区別は前者が知識人・文化人による啓蒙的なスタイル、後者は国家により権力的に推進されるスタイルを意図している。これら連続性・非連続性についていずれが強いかというような二者択一的な論争の時期は過ぎ、現在では両者の相互補完性や、双方の混在の実態を特定化するというより精緻化された分析の段階にある。

 例えば、これを総力戦体制と民衆という観点から見ると、目的意識としては国家が掲げる聖戦理念を共有しているにもかかわらず、歯車として個々の民衆が遭遇した戦争体験は多様であった。それはほんのわずかな境遇の違いが死生を分かち、ちょっとした地位の差が大きな苦しみの不平等を生み出した。総力戦体制による現代化は、強制的な同質化、標準化、平準化の他方で、臣民というお題目の下に格差の拡大、断片化、利害と欲求の多元化<それは対立と亀裂の深化でもある>を助長した。意図したもの<臣民化>と、意図せざる結果<群衆化>であり、それが戦後的な意味での大衆状況や階層形成にどのような影響をもたらしたのかを模索することが課題である。

 非連続性の特定化については必ずしも研究が充分ではなく、連続性の析出に傾斜する嫌いがある。政策形成過程に関する戦時・戦後の比較分析は相当の蓄積を見る事ができるが、これから大きな課題となるのはその運用面、実際面においてどのようなことが見られたかである。戦時であれ、戦後であれ、政策形成過程とは意図したところに対する分析であり、「意図せざる」部分は運用面を分析しないと見えてこない。総じて言えることは降伏・占領の受容から民主改革が進行した一九四六、四七年までの研究は一定の広がりを示してきたが、その先となると五〇年代へ飛躍する傾向があり一九四七〜五〇年にかけての研究の蓄積は薄い。

 非連続性の特定化が進まないもう一つの大きな理由として、地方軍政部に関する研究がようやく始まった段階にあることが指摘できる。地方軍政部が本格稼働するのは一九四六年後半から一九四七年にかけてのことであり、丁度先に指摘した研究蓄積の薄い年代と重なる。周知のように占領政策は間接統治であったが間接であるが故に分析は煩雑となる。つまり、政策形成過程については日本の政治・行政−占領軍−極東委員会/合衆国政府という三重/四重構造としてこれを捉えなくてはならない。他方、その運用の実際には地域史・社会史の視点が必要となるが、ここでも地方民衆−地方行政−地方軍政部という三重構造から解明するための労力を惜しんではならないのである。また、占領期は資料集については相当の充実を見てきているが中には利用者に一定の熟練さを必要とするものもあり、当面は資料編纂とその分析が研究の中心となりそうである(7)。特に戦時・「占領期」・一九五〇年代の三時期の連続・非連続を検証するためには疎開者とその帰郷、大量の復員者、農地改革、統制の連続と非連続、公職追放、地方選挙、レッドパージ・追放解除等々が地域社会の権力構造にどのような影響をもたらしたのか、ということが大きな課題である。地方軍政部の政策運用面への介入(建前上は不介入ということになっているが)は、その地域の軍政官の価値観によって異なり軍政にも地域色がある。また総選挙が先行し地方選挙が後となったため選挙デモクラシーの改革は「外から」・「国から」となった。これに対し地方は民主化に際し「上から」・「下から」はどう対応をしたかという点も大きな課題となろう(8)

 非連続性の検証として指摘したいのが日本の官僚システムの手法は占領改革によりどう変化したかという問題である。政策ではなくその手法、施策の問題である。アメリカの総力戦体制はニューディール・システムの延長上にあったがその源流は20世紀末の技術的行政学にある。第二八代大統領ウッドロウ・ウイルソンは「行政の領域は経営の領域である」(9)としたが、この行政の規範は一九三七年、ギューリック=アーウイック編『管理科学論集』(10)として集大成された。これは「行政管理に関する大統領委員会」のためにまとめられたもので「行政の基本目的は最小の労力と資材で、有効に作業を完遂することである。能率こそは、行政の価値体系において最高の鉄則」とされた。この能率を規範とする行政国家の上に総力戦体制が乗ってきたのである。

 これに対し恐慌対策から日中戦争期にかけ日本の行政は能率化・効率化の観点に欠け、むしろ、セクショナリズムによる非効率を克服するためさらなる統制の拡大を行うという悪循環に陥っていた。また、大規模化した行政は能率を規範とすればこそ大量の新中間階層を必要とするものである。ところが、日本ではその新中間階層の層が薄く根こそぎ動員は人材の確保を直撃した。結局、不足を現場の精神力で補うか、さらなる統制拡大により官僚制の逆機能を全社会現象化するか、という悪循環にあった。占領軍による行政改革はまさにこの点に注がれたのではないか。統計科学、費用・便益分析、対効果分析等々、戦前には見られなかった行政手法がもたらされたのではないか。即ち、民主改革とは能率化・効率化だったのである。