三 新しい現代史への扉

 中村政則氏は終焉の時代をめぐる議論で九〇年代に終焉したシステムの出自を一九六〇年代にあるとし、所謂一九四〇年代論を退けた(18)。ところが六十年代以降についての史学分野での研究論文は、時系列的な体系だった記述となると少ない。それは所謂「通史」モノにおいて六〇年代以降を担当した人による記述に依存していると言える。またそこでの記述には一つのパターンがあり、高度成長から経済大国化に至る経緯を企業支配、学歴社会、利益誘導、消費文化といった面から保守政権長期化の構造として捉えるものであった。これに対し、筆者は一九六〇年代以降を戦後民主主義と戦後保守主義の対立による日本型の国内冷戦の構造としてとらえ、その冷戦の責任を問うことが新しい現代史への扉を開けることになると考えている。

 ここで世界的な国内冷戦対立構造の比較を行う余裕はないが、一般論として冷戦のような二大勢力による対立の均衡が長期化した場合、次のような三つの組織力学が機能し、価値形成と意思決定に重大な影響を及ぼす。

  1. 組織外力学 組織部外者に対する働きかけ
  2. 組織間力学 他の組織に対する対する働きかけ
  3. 組織内力学 組織内部の成員に対する働きかけ

 対立構造そのものが長期安定化した場合、一般に@は軽視される。重要なことは組織の既存の成員にいかに良い顔をするかであり、新規参入者の拡大は組織内の既存の力学関係を流動化させる不安定要因だからである。対立構造そのものがさらに長期化するともっと妙な事が起きてくる。組織間力学の変動幅が小さかったり、重大な変化が期待できないとなると対抗組織間での馴合いが始まる。かくして国対委員は他の組織への働きかけの場として党内で高い評価をされる舞台となった。党員拡大という組織外力学での業績より、組織間力学に長けている方が党内人事での評価ポイントが高いのである。こうして党内政治を優先する諸政党が寄り合えば国政全般が院内政治となるのは当然である。細川連立内閣から村山政権に至る「政界」再編では、見事なまでに国対族が表の檜舞台を占めたものである。

 このような組織間システムがもたらす重大な意味とは、第一に組織間取引の舞台へ新規参入を目論む団体に高い参入障壁を形成することであり、第二は組織の自己保存が自己目的化することであり、第三に組織防衛を旨とする諸団体による相互依存の組織間システムはそれ自体が既得権益(冷戦利権)となるである。このような状況が続くと現状打破を掲げ第三軸が登場するが、悪くすると冷戦長期化故にその希少価値もまた長期化が可能となる。つまり、冷戦あっての第三軸であり、冷戦崩壊は第三軸の崩壊でもあった。

 この冷戦化の組織力学は「タテ社会」と呼ばれた日本的な組織の封建性と結びつき、価値形成(それは人材形成のことである)に決定的な影響を与えた。筆者はこれを「属性評価システム」と呼ぶ。属性評価システムとは、その人物がいかなる資質を持つかではなく、どのような組織、集団、派閥、人脈、学歴に属しているのか、誰が推薦しているのか、右か・左かといった属性により人材評価が決定される仕組みである。このような仕組みは日本のどこの組織でも観測され、多くの場合、それは慣行として機能する非定型システムであった。アカデミズムもその例外ではない。そもそも学歴社会が形成され経営体として大学は受験競争、最大の受益者であった。かくして、人生は属性の獲得をめぐる競争となり、能力は属性を獲得する能力となったのである。

 六十年代は冷戦・保守政権・経済成長の三要因が長期化の様相を示し、一方では既成政党の組織化の進展が限界に達し、他方では既成政党に属さない領域で運動の先鋭化が生じた。しかし、五〇年代の組織動員に対する未組織者の大衆参加、六〇年代の高度成長による企業の発展が同時に企業組合を拡大するという予測にもかかわらず保守政権は長期化した。五十年代、民衆の政治行動への参加は「生活第一主義」を背景としたが、当時からそれは生活の権利擁護が政治運動へと結びつく可能性と、生活擁護故に小市民的に保守化する危険性の双方が指摘されていた。六十年代、これは生活革新主義と生活保守主義に対置されるが、七〇年代以降は「市民」は「私民」となり生活保守主義へ傾斜したとされるのである(19)。この方向性は八〇年代になるとさらに強まり私生活中心主義という表現が用いられるようになった。

 七〇年代は日本型冷戦構造、つまり、保革対立構造の完成期である。それは冷戦化への抵抗は大きく後退し、国際問題が争点に占める比重は低下した。政党組織の目標を@政権獲得、A党勢拡大、B組織防衛の三点に集約した場合、@の実現可能性が低下し、その他方、巨大企業・官公組合への依存が強まった結果、A未組織への働きかけとして機能は選挙期間を除いて低下し、専らBが意図せざる結果として肥大していった。また選挙期間と言っても組織内有名、組織外無名の「新人」を候補者に立てることで、政党はいよいよ未組織化にある「私民」から遠ざかった。七十年代に市民運動・住民運動が増加する傾向となったが、これら政治領域の新規参入勢力にとって五五体制による政党システムは政界への高い参入障壁を形成した。その他方で、保革対立構造の恒久化は価値形成に重大なステロタイプ化をもたらした。すなわち反動か・革新か、右か・左かという二分法が呆れるほどに蔓延したことだ。六〇年代半ばから七〇年代にかけて文化大革命の影響は左派知識人内における政治的潔癖主義の傾向を強め、「程度は質を伴う」という尺度から遠ざかった。

 このような見方が誤解であるとの反証は容易である。しかし、重要なのは価値形成の力学である。つまり、政治・運動やアカデミズムの当事者が実際に何を考え行動したのかということと、「部外者」としての一般(未組織化)大衆、あるいは新規参入の若い世代からどのように見えていたかということの間では、当事者の想像以上にギャップがあった。しかも、現実にどうあるかより、どのように見えているか、というステロタイプ化された情報の方が一般社会の価値形成に、はるかに大きな影響力を与える。左派知識人が「右ヨリ」との誤解を受けないようにとの配慮から自らの言論の空間を狭めた点も大きかったのではないか。

 保革対立の構造こそ無党派形成のマニュファクチュアであった。私生活中心主義といった知識人による大衆批判はこの構造形成と同行していたと思う。世に大学知識人こそ最も“私生活中心”的な人々と思われているにもかかわらずである。一九七〇年、日教組大会は子供たちの傾向を「三無主義」と命名したが、三無とは「無気力」、「無関心」、「無責任」を意味する。その後、「無感動」が加わり四無主義となった。一九八〇年にはさらに「無作法」を加え五無主義となった。

 私生活中心主義の家庭から五無主義と呼ばれる子供たちが育ち、国民の九割以上が自らを中流と認識する標準化された社会が作りだされた。そのような過程の中で民衆にとって「抵抗」の意味も相当に変化したと思われる。現代史はその新たな抵抗を充分に規定し得ただろうか?

 『歴史評論』は帝国主義的歴史観と対決する民衆の側に立つことを標榜しているが、「対決しない」民衆や、冷戦構造そのものへの抵抗という観点、あるいは消極的ながら「無」であることに含まれる抵抗の意味を読み取ること、さらには抵抗対象の再概念化が必要ではないだろうか。