(2) 一九五〇年代の位置

 逆コースの始点をどこに置くかについては定説がない。しかし、その起源を冷戦にたどれば結局、大戦末期の米ソ間における戦時大同盟の亀裂となる。アメリカの反共主義に因があるとすれば反共とデモクラシーはアメリカにとって同居し得るものであり、別に「逆」ではないということになる。そもそも「逆コース」の命名は日本の側にあり、アメリカの政策決定過程から規定することには限度がある。「逆」が成り立つのは、それを「逆」と受けとめる主体と思考があり、行動があるからである。つまり、抵抗あっての「逆コース」であり、抵抗がないならばそれは単なる政策の変更に過ぎない。かくして、一九五〇年代を性格付けるための重要な要素の一つとして、この時代の抵抗をいかに定義するかという命題が浮上する。

 日本人が占領政策を一般に歓迎し協力したという側面については相当の研究蓄積があるが、抵抗の側面については実証研究が少ない。そもそも抵抗の事例そのものが少なく、そして抵抗は占領軍当局にとって治安対象のため、この種の活動は治安情報という表面化しにくい資料に記録されている(11)。そして、今一つは、抵抗の過大な評価は避けるべきであるという配慮が、むしろ研究蓄積を薄くしてしまった面がある。しかし、占領下の抵抗、抵抗といかないまでも被占領心理(12)は、明らかに六〇年安保闘争に向けて結集された民衆の抵抗の連続性を形成しており、その子細な分析が今後の課題である。この時代の日本人の内面をよく伝える史料としてプランゲ文庫があるが、これもようやく日本国内で閲覧できるようになったに過ぎず、その膨大さから検証はこれからの課題と言える(13)

 一九五〇年代は強権による復古反動的保守主義と、実力行使の抵抗による戦後民主主義という対立構造を形成し、六〇年安保闘争を転機とし双方が議会主義を前提とする戦後保守主義と戦後民主主義へ転換した。重要なことは五十年代の対立には国内冷戦対立の激化ばかりではなく、「冷戦化への抵抗」、つまり脱亜入米と脱冷戦の対抗関係があった点である。この「冷戦化への抵抗」とは全面講和・中立といった米ソいずれにも与しないという意味では無党派的な志向を持っていた。

 政局における国内冷戦化の進行は一九五五年の政党再編(所謂「五五体制」という言葉は六〇年代以降定着した表現であり、五〇年代後半において体制と呼ぶに値するほどの堅牢さはなかった)を、その組織化の起源とするが、このような政党組織化の進行は同時に行動する無党派が表面化した時代でもあった。具体的にはデモ等の組織動員に際し未組織労働者や一般市民の大衆参加が顕著となり、大会等の主催者側にとって参加規模の事前予測が困難となった。六十年安保闘争においてこの大衆参加は頂点に達し、この行動する無党派に政党・組織はどう対応すべきかが大きな課題となった。その他方、「声なき声」と言われた民衆の無行動をどう評価すべきかは、今日に引継がれた問題である。既成政党、行動する無党派、国内冷戦、冷戦化への抵抗、行動しない民衆、これらが六〇年代以降にどのような連続・非連続を形成したのかという点に、筆者は新しい「現代史」への扉を見出す。その前に民族概念をめぐる政治的潔癖主義(14)、そして学問の官僚制化の二つを現代史研究の危機としてとりあげたい。