むすびにかえて ―北朝鮮帰国事業の責任を問う裁判

 筆者が、六〇年代以降の日本を、保守支配構造としてではなく、冷戦支配構造の長期化として捉えなければならないと考えた契機は、今日の南北朝鮮に対する考察に契機があった。朝鮮半島は二大勢力による対立の均衡が長期化した組織力学の典型を示している。そして、一九六〇年は冷戦型支配構造とという二つの前提が人々の発想を拘束し始めた時でもある。李承晩政権を倒壊せしめた韓国の市民・学生運動が六〇年安保闘争に大きな与えた影響を与えた他方で、本土の安保闘争が沖縄の基地闘争と連携を示す可能性は見られなかった。しかし、この発想に対する二つの拘束性が最も強く痛感させられたのは北朝鮮帰国事業をめぐる問題である。

 帰国事業というのは一九五九年から八四年にかけて約一〇万人の在日朝鮮人(配偶者等の約六千人の日本人を含む)を北朝鮮に送り込んだ事業である。六一年までに全体の八割が帰国し、その後、在日の中で北朝鮮社会の実体が広まり帰国者は激減した。北朝鮮は当時の日本社会よりもはるかに貧しく、帰国者は北朝鮮社会で深刻な差別と人権侵害を受け、強制収容所で命を落とすことすら稀ではない。北朝鮮では三階層(核心階層・動揺階層・敵対階層)五一区分による「出身成分」という事実上の身分制があり、帰国者は僅かな例外を除きまず上から三二番目「日本帰還民」の監視対象に分類される。この「成分」にある人が社会的に上昇することは殆ど不可能であり、それどころか様々な差別により政治犯に仕立て上げられる危険性が高い。こうなると「逮捕投獄者家族」(四二番目)、「処断者家族」(四五番目)という成分があり、一人の検挙により一族が全てさらに転落するのである(ちなみに第五一番目は「資本家」)。

 また、帰国者の多くが帰国以来、在日の肉親と音信不通の状態にあり、その生死の確認すら容易ではない。つまり、帰国事業とは新たな民族離散問題だったのである。

 ところが一九六〇年前後の当時、北朝鮮は「地上の楽園」と喧伝され、報道機関も知識人も最大限の善意をもって「気の毒な」在日朝鮮人の「楽園」への帰国を応援した。当時の言説を見ると北朝鮮がまるで最良の社会主義国家のような錯覚に陥る。社会科学とは推測の科学でもある。当時の知識人が推測を見誤った背景には二つの限界があった。第一は、社会主義という属性だけで北朝鮮を評価したからである。第二は、朝鮮差別という日本社会の性格を変えることよりも差別対象者の帰国というその存在の消滅による問題解決を無意識に選んでいたことである。帰国者は今や三世の代までを含めると数十万となり出身成分は継承されている。在日の多くは帰国した肉親が迫害を受ける事を恐れ実体を話すことができない状態にあり、他方、日本の報道は何故か一九六一年以後になると帰国事業の話題から全く遠ざかった。この問題に関わり驚いたことは北朝鮮や、帰国事業への評価は馬鹿馬鹿しいほどに冷戦の力学が働いていることだ。とにかく北朝鮮を批判すると無闇に「反動」とレッテルを貼られることがあり、朝鮮差別や植民地支配に対する贖罪意識も加わり、長期に及ぶ「犯罪的無視」になったと思う。この七月、元帰国者・金幸一さん(韓国在住。六二年、三八度線を突破し韓国に亡命)が朝鮮総連を相手に帰国事業の責任を問う前代未聞の訴訟を起しその第一回公判が行われた。この問題は戦後日本における最悪にして最大規模の人権侵害事象であり、その起源はあろうことか六〇年安保闘争が激しかった頃にある(20)

 九〇年代日本現代史の総括として筆者が痛感を伴って述べざるを得ない問題提起とは、第一に、冷戦崩壊に至り真の社会主義は存在しなかったという観念と権力現象としての存在を使い分ける試みが認められたが、観念としての社会主義と権力現象としての社会主義を区別して考えることの是非が問われるべきである。より抽象的には知識人の責任問題―観念世界に対してのみ責任を負うのか、現象に対してなのか、双方に対してなのか―を提起する。第二は、戦後日本という存在拘束性をどう評価すべきかである。いかなる類的普遍性の標榜にも一定の欺瞞が含まれてしまう不可避性を、戦後日本は終焉することにより我々につきつけてきた。理想の追求が異端の排除を伴うように、民族意識を否定すれば事足りるというようなことはもはや通用しないのではないか。第三は、保守支配ではなく、冷戦支配の構造として戦後を捉えなおす必要性である。これら三点を総称して冷戦の責任として捉えてゆくことが現代史には不可欠である。そして、この問題に取組むのであれば、いよいよもって六〇年代以降の新しい現代史の扉を開かざるを得ないと筆者は考える。