?  

歌舞伎の歴史



 出雲のお国は「出雲阿国伝」等の伝説によると、出雲大社の鍛冶職中村三右衛門の娘であるという。「当代記」等には「出雲国の神子、名は、国」と記されているので、お国が出雲大社の巫女と名乗っていたことがわかる。お国は北野神社境内に小屋掛けをし、お国の小屋は連日押し寄せる客で満員札止めという盛況であった。
 慶長八年(1603)、伏見城では、徳川家康に将軍の宣下があり、北野天満宮では、出雲のお国が、「かぶき踊り」を創始したのである。鉦や太鼓の伴奏に恋の歌を乗せ、お国扮する男装の麗人が茶屋女と戯れるという演出は、たちまちのうちに京のなかの評判となった。すぐにも、お国の踊りをまねる女性達が都のあちこちに現れた。
 なかでも最大の規模は、四条河原で興行された、茶屋女の経営する歌舞伎であった。
 数十人の遊女達が白粉の香をまき散らして総踊りする形式で、琉球から新しく渡来した三味線が、扇情的な音色を響かせた。記録(1608)によれば、そこには「数万の群衆が押し寄せた」ともいう。
 お国の芸は新しくかぶき踊りと呼ばれるようになり、と同時に念願の「天下一」になったのだ。
 お国は、慶長12年(1607)一座を率いて江戸に打ってでた。江戸での興行は、。江戸城本丸と二の丸の間に舞台を設けることを許され、「見るもの市の如し」という評判を呼んだという。
 だが、江戸城の主でやがて二代将軍となる肝心の右大将秀忠は公演の場に姿を見せず、ついでお国の創始した女歌舞伎は幕府によって禁制の運命をたどる。
 天の岩戸の伝説いらい、女なしでは、夜も日もあけぬ日本であるが、お国の芝居が500年もの長きにわたり、日本人をよろこばせた。否、今日では、海外公演によって外国人にも、歓迎されている。
 出雲のお国が、出雲大社の修理勧進のためと称して、京都に出てカブキ踊りをやったが、カブクという語は、当時の説明に異相を称するとあるように、若い女性が髪を短く切って男装をして踊った。お国は、江戸に慶長12年(1607年)に下っている。お国の芝居は、神に仕えるものであった。ここに、歌舞伎が発展する秘密がひそんでいる。


斎藤英三郎氏「歌舞伎へようこそ」より
Top
Next