照 会 文

こんにちは、川島高峰です。
 私は明治大学で非常勤講師をしています。

 このたび、六十年安保闘争に関するページを立ち上げました。URLは

 http://www.isc.meiji.ac.jp/~takane

です。このトップページの真ん中にある「再考 八・一五と五・一九」をクリックして下さい。

全体に
 (1) 戦後民主主義の上に安保闘争をどう位置づけるか、という精神史的考察
 (2) 当時の文化人、知識人の発言録

という、二つの構成からなっています。

 (2)では、藤原弘達、日高六郎、大江健三郎、清水幾太郎、上山春平、篠原一、高畠通敏、神山茂夫、江田三郎などの発言を集めています。もっと、もっと充実させたいところです。おっと、石原慎太郎もいたりします。

 色々な意味でみなさんが何かを考える契機になればと思い、紹介させて頂きました。よろしくお願いします。
 



〈六〇年安保闘争の再考から見えてきたアフガン報復戦争に関する私見〉



川 島 高 峰
2001年11月7日現在

 私は1960年、当時の安保批判の全てが正しいとは思いません。
また、保守の全てが誤りであるという一面的な評価にも同意できません。
そのことは、今日のアフガン戦争に対する事態についても共通します。
6000人殺されて冷静でいられる社会があるとすれば、それは冷徹な独裁者の計算によってだけ設計された全体主義社会ではないでしょうか。

 しかし、今回、安保闘争のページをつくりながらつくづく思ったこととは、

 現代の国際貢献に、六〇年安保闘争へ寄せられた思いを越える何かがあるだろうか?

という疑問です。
 人が何かに寄せる思いというものは、それが正しい、正しくないにかかわらず物事を動かしてゆく力となります。
ところが、そういう、心の力というものがまるで見えてこない。
これは自衛隊の海外派兵を推進する方にも、反対する方にもです(もちろん、運動の当事者は除きます)。
言論空間が、なにか非常に狭い。重大なことが、せまい世界でしか議論されていない。

 戦争をすることに対する覚悟も、平和を守ることに対する覚悟もさして強くない。

 運動をされている方はピンとこないかもしれませんが、「なんとなく国際貢献」なんだ。
 行くのは自衛隊と決めてかかっているから当事者意識なんてまるでない。日本が参戦しているのではなく、自衛隊が参戦しているわけだ。
 こういう曖昧状況で、事態の推移を支配するのは、突発的な事件や、より指導力や支配力のある政治主体の思惑になる。

 こういうのが一番、まずい。無責任の体系が、今、動き出している。
 参戦する以上、攻撃に参加するのは当然、という覚悟もない。
手続きに問題があることは言うまでもないが(脱憲法的、合法的参戦)、その他方で、日本人の護憲意識というものも、さしたる覚悟がなかった。先進国から孤立するの一言で、何もしないわけにはいかないに簡単に流れた。

 平和を守ろうと思うならば、戦闘に参加しようとするのと同じ程の覚悟がいるのだ。

 日本人には、覚悟というものがない。
 それならば、せめて、この国際政治の状況を利用するだけの政治手腕や、マキャベリズムがあるか、を問うと、これも相当に心もとない。
 対米協力を装いながら、日本国の国益、ならびに日本人の生命、財産、権利を最大限に守るという計算が、どの程度あってやっているのか疑問だ。
 保守は好きではないが、悪党ならせめてそのくらいの計算高さがあって欲しい。
 ところが田舎者丸出しで、「旗を見せろ」に振り回されている状況に、なんの頼もしさも感じられない。
 ベトナム戦争に韓国軍は30万人参戦した。それで韓国の対米地位が向上したとは到底、思えない。
 私が、アメリカ大統領ならば、いかに安いコストで、日本に参戦させ・協力させるかを考えるだろう。米軍憲法前文の「名誉ある地位」にこだわって着いてくる日本は、実に扱いやすいと考えるだろう。

 覚悟もない、思いもない、計算も立たない、

六十年安保闘争を再考してみて、とりあえず、今、現在、私に見えてきたことがこれです。
 
 

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