再考、八・一五と五・一九
六〇年安保闘争を、今日、検証の対象として取り上げることの意義は、この闘争を境に日本人の政治に対する態度に大きな変化が認められるからである。殊にそれはより若い世代において政治離れという顕著な傾向を生み出した。
従って、六〇年安保闘争に対する筆者の視点は、狭義には戦後民主意識の一つの転換点を象徴するものとして、広義には近代日本における精神史的考察ということになる。
闘争は、しばしば、政治的スローガンやイデオロギーの下に結集をする事により形成されるが、個々の参加者の動機付けとそれら運動の理論との間には必ずしも一致が見られるわけではない。従って、筆者は安保闘争がいかなる論理の下に戦われたかということには余り興味がない。むしろ、安保闘争は指示する側の論理と参加する側の心理が、単にその目的において一致を示した結果、あのような国民闘争への高まりを形成したのである。
このことは、運動の論理が社会的には余り継承されず、安保と限らず、運動という形態?大衆動員?そのものが、今日に至り消滅したという事実に最もよく示されているだろう。
わが国はその精神史において、右から左に至るすべての政治ロマンチシズムや政治主義を消費した。八・一五と五・一九が大きな時代の変化を象徴するものとして記憶されるが、これは八・一五が右からの政治ロマンチシズムの敗北を、五・一九が左からの政治ロマンチシズムの挫折を決定づけたという文脈において初めて明確に把握することができるのである。
五・一九は単に左翼の挫折だけを意味するのではなく、それはより広い意味での近代の終焉を意味している。
仮に戦後思想に対し現代思想という時代を想定し、現代思想の「現代」とは戦後思想の「近代」に対する「現代」であると理解したのであるならば、戦後と現代の分水嶺とは、この左右両翼の挫折に共通した意識なのではないかと考えるのである。そして、この共通の意識とは政治主義のことであり、政治ロマンチシズムのことである。
ここで言う「政治ロマンチシズム」とは独自の用語となるので(つまり、橋川文三氏による一連の議論とは区別し、そしてまた、政治思想上のそれともまた区別し)、その含意を幾分、説明しておく必要がある。
まず第一に、政治ロマンチシズムは、政治主義を意味する。政治主義とは次のような観念である。
「人が様々な事象に対して示す関心の中で、政治に対して示される関心こそ最も立派な関心であり、政治的な事柄に対し自己犠牲的な行動により関与することが最も立派な行為である」
このような考えが暗黙の規範を形成している社会では、青年とは「大志」を抱き、「天下国家」を語るものであるという固定観念が支配的となる。立身出世と大衆動員を可能とする社会心理とはこのような規範を背景とした社会である。
しかし、このような規範は五・一九以降の高度経済成長と大衆文化の拡大とともに急速に失われていったように思う。それどころか、所謂「根暗」というレッテルの拡大とともに、今度は逆に「政治」に関心を持つことを「恥じる」ような気風にまで発展したと言える。
第二に、政治ロマンチシズムは「美」の認識と「善」の認識の混同から生じている。これは「正しい」ことは「美しい」ものであるという前提、もしくはそうあって欲しいという願望から形成される。
第三に、政治ロマンチシズムとは、形成過程にある社会に特有な政治参加への意志であり、社会建設への意欲である。それは政策形成過程への「距離へのパトス」でもあり、その距離が拡大することへの抵抗でもある。
社会・政治体制(=世の中)全体が発展過程にあり、未だ創造の対象となりうるとされており、それゆえに形成過程に参加することで既存の体制を変革することが可能であると実感できる余地がある。
このような歴史段階に生きる若者は社会建設への参加と、自らの人生を重ね合わせることが容易である。逆に成熟し、社会建設がある程度達成された状況では、政治過程への距離感が何らかの情念を人々にかき立てることは少ない。
服に例えるならば、オーダーメイドと既製服の相違である。六〇年代までは若者にとって社会とは影響力を行使することで何か自分たちの意志を反映することが可能なものと映っていた。戦後国家は一五年しか経ていなかった。しかし、それ以降になると社会とは既成事実化し、どんな社会を作るかではなく、社会にどのようにして自己の心身を合わせてゆくかというふうに変わる。
政治・社会も生産から消費の対象へと変わったのである。どんな制度にするかではなく、その制度は何を提供するのかが問われ、提供されるものに状況対応的になった。
第四に、政治ロマンチシズムは共同幻想が成立しうるところでのみ可能であり、共同幻想がないところでは単に政治的テロリズムへと傾斜するのみである。政治ロマンチシズムには、常に、「このような考えを持つのは特定、特殊の人々だけではなく広範な国民的、大衆的基盤がある」との確信が存在する。つまり、前衛意識の反対である。その反面、その基盤となる民衆意識に対し我こそはその代弁者であるという自負がその行動を支えるのである。
後衛支持の確信と前衛意識の奇妙なバランス。その根底を支えるのが、同時代史的感覚の存在である。同じ時代を共に体験し、同じ時代を共に生きているという歴史への共有意識である。その共有が肯定的に表現されたとき、それは「共同幻想」という一つの「美」の前提となる。
戦後政治史の中で60年安保闘争は、資本主義か、社会主義かという体制選択の最終的な分岐点であった。確かに、アメリカによる占領改革という段階で社会主義への展望はほぼ閉ざされており、二.一ストにおいて挫折は決定的であった。しかし、社会主義への展望が一定の大衆的基盤や動員を伴い得る時代の最後をどの時点におくかとすれば、やはり60年安保までとみなすのが妥当だろう。
そして、近代日本の精神史的な考察において、60年安保とは日本においてもはや「政治」とは右翼的な観点からも、左翼的な観点からも、ロマンチシズムの対象たり得なくなったことの確認であった。
それは政治認識における「美」の喪失である。
このような転換が最も象徴的な現象として現れたのが、1960年6月19日の新安保条約の「自然承認」の場においてであった。この自然承認は単に新安保の成立だけを意味したのではない。
それは装置としての国家機能の自立であった。
それは権力装置としての無人格な国家の登場であり、無制限に拡大する大衆社会と消費文化の登場である。
このあたかも機会仕掛けの時計のごとく機能する装置国家の始動は、三十数万人のデモ隊が国会を包囲するという、まさに衆人環視の中で「自然承認」されたのである。
あの時、国民はなぜ国会に突入しなかったのか。なぜ、見つめるだけで、終わったのか。
あの時、民衆は何を期待したのか?
院内多数にも届けとばかりシュプレヒコールを飛ばし、それで何かが変わるのではないかと期待したのか?。あり得るはずもないことを期待したというよりは、そうせざるをえないと、何か行動をしないではいられないという切羽詰まった想いが国会を包囲した。しかし、それでも、一体、何が期待されていたのかを、問うた時、「国会突入反対」とは、護憲ゆえの秩序擁護であり、結局それは安保体制の護持となったことを考えるべきである。制定過程において、実際には米軍憲法であった日本国憲法を、美しく謳いあげることに安住した戦後民主主義の破綻がそこにあった。
こうして右から左にいたる政治ロマンチシズムの実験が終わり、そこに残された政治・国家のイメージとは極めて無機質で、力学的で、欲求本意のものであった。それはある意味で政治というものの本来の姿なのかもしれない。
政治とは、本来、真、善、美の対象ではない。しかし、いかにもそうであるかのように見せる必要はある。この世に、支持者が存在し、支持されるものが存在する限りは。