Lawyer's Bench II

by 夏井高人


これは,月刊アスキー誌に連載しているコラム「Lawyer's Bench II」の記事を一部改訂した上で再掲するものです。

この再掲について,アスキー社からご協力を得たことにつき感謝します。

このコラムの最新記事は,月刊アスキー誌をご覧ください。

Lawyer's Bench」のバックナンバーは,こちらです。


目    次

コーネル大学に旅しながら考えたこと(1) 月刊ASCII 2001年5月号206頁
コーネル大学に旅しながら考えたこと(2) 月刊ASCII 2001年6月号222頁
デジタル情報化されない権利 月刊ASCII 2001年7月号191頁
最高裁の判決情報公開 月刊ASCII 2001年8月号245頁
めいわくメール 月刊ASCII 2001年9月号191頁
こちらを立てればあちらが立たず 月刊ASCII 2001年10月号221頁
情報倫理の視点 月刊ASCII 2001年11月号237頁
デジタル・コンテンツのネット配信に活路を見いだす 月刊ASCII 2001年12月号293頁
世界のサイバー犯罪立法動向 月刊ASCII 2002年1月号229頁
タスマニアの春−オーストラリア旅行記(1) 月刊ASCII 2002年2月号181頁
青い空に白い雲−オーストラリア旅行記(2) 月刊ASCII 2002年3月号197頁
オーキッドの花束−オーストラリア旅行記(3) 月刊ASCII 2002年4月号253頁

コーネル大学に旅しながら考えたこと(1)

  この3月20日から23日までの間,私は,ニフティ法務部の丸橋氏[1]と一緒に,米国ニューヨーク州イサカの町にあるコーネル大学を訪問した。快適なフライトと良い天候に恵まれ,短期間ながらとても素晴らしい旅をすることができた。

 コーネル大学は,全米でもトップクラスのロースクールとして知られており,また,そこで運営されている法情報システム(LII)も高く評価されている。私達は,知的財産法と法情報学を専攻するマーチン教授とお会いし,意見交換をし,ロースクールの施設見学をさせていただいた。

 それと相前後して,インターネットやコンピュータに関連する重要な判決が相次いで出された。日本ではゲームソフト「ときめきメモリアル」事件[2]とカラオケ・マシン事件の最高裁判決,アメリカではNapster事件の控訴審判決,フランスではプロバイダが通信傍受を実施する際の費用負担を命ずることが憲法違反になるとした判決が出されていたし,帰国後の27日には中古ゲームソフト事件の東京高裁判決が出された。他方で,欧州では欧州評議会の「サイバー犯罪条約草案」が公表されていたし,帰国後,日本では個人情報保護法案が国会に上程された。裁判と立法の両面で,ますますもって情報化社会へ向けた大きなうねりが到来していると言える。コーネル大学への旅の最中にも,これらの判決や条約のことについて,ずっと考えてみた。

映像ソフト等の著作者人格権

 ときめきメモリアル事件判決では,ゲームソフトの経験値を記録するメモリ・カードの内容を意図的に変更し,エンディングに達しやすくする行為がソフトの著作者人格権を侵害すると判断された。要するに,作者が意図したとおりのイベントを順番にこなしてからでないと結末を見ることが許されないのだ。普通の小説等では,結末から読んでも何も問題がないことと比較すると,非常に奇妙な判決だ。他方,カラオケ・マシン事件判決では,専ら音楽著作物を使用する機械装置であることが予め分かっている場合には,著作権侵害とならないように教示した上で納品しなければ,機械装置の納入業者も共同不法行為をしたことになると判断された。試みに,この2つの判決をミックスしてみると,DVDプレーヤやビデオ再生装置を販売するメーカーは,それらが専ら他人の著作物を使用する機械装置であることが予め分かっていることになるから,常に最初から最後まで順に演奏又は画像再生するのでなければ映像作品等の著作者人格権を侵害することになる。したがって,スキップやランダマイズの機能があってもそれを絶対に使用しないよう教示してから,販売しなければならないことになる。何とばかげた論理だろうか。マーチン教授にこの点について質問してみたが,「米国にはmoral rightsが存在しなくてよかった」とのこと。たしかに,米国の著作権法では著作者人格権を保護していない。[3]

 ところで,日本のゲーム業界は,冬の時代なのだそうだ。ソフトの違法コピーや中古販売にその原因を求める者もある。たしかに,そのような面が存在することは否定できないことだろう。しかし,本当の最も大きな原因は,無駄に開発費を投じたゲームが多くなったことやつまらないゲームがほとんどであることに加え,ゲームソフトそれ自体が全体として生産過剰になっているからではないかと思う。人間が娯楽のために利用できる時間は1日の中でも数時間に満たないが,娯楽は,ゲームだけではない。ネットサーフィンもデジタル音楽もパラパラもグルメもある。要するに,既に娯楽の飽和状態なのだ。中古ソフト業者だけにその責任を押しつけるのは,明らかな間違いだと思われる。

ロースクールの優れた教育環境を支えるものは何か

 さて,コーネル大学の学校施設は,どれもすばらしいものばかりだった。これは,州政府,企業,個人等から巨額の寄付があることによって達成されたことだ。それだけではない,マーチン教授の授業では,大統領選関連事件の連邦最高裁での弁論とNapster事件の弁論の実況中継を記録したストリームを教室で学生に見せ,それについて討論させているという。これは,裁判情報の公開が保証されているから可能となることだ。また,教員間の競争にも非常に厳しいものがあるのではないかと感じた。ロースクールの教員の多くは職業弁護士であり,教員になる前に,毎日の弁護士業務の中で,すさまじい競争と試練にさらされて鍛え上げられているのだ。加えて,学生の多くが,小さいころから自分の意見をまとめて他人に呈示する訓練を受けており,議論に慣れているということも言える。

 しかし,これらの事項に関する日本の現状は,かなりお寒いといわざるを得ない。財政支援が確保され,良い教材があり,教員の質が維持されていなければ,どうして良い法学教育ができようか。安易なロースクール論議にも再考を促したい。

[1] 2001年7月現在,富士通法務部勤務

[2] 最高裁平成13年2月13日第三小法廷判決

[3] 著作者人格権としてではないが,著作物の同一性を法的に保護する条項はある。


コーネル大学に旅しながら考えたこと(2)

 コーネル大学ロースクールには,全米最高クラスの法情報データベース(LII : Legal information Institute)[4]がある。コーネル大学滞在中,私は,その主任教授であるマーチン教授と会談を持った。

 法情報データベースと言っても,その基本構造には種々のものがある。コーネル大学のシステムは,分散データベースをめざしており,集中管理型のデータベースをめざすオーストラリアのAustLII(Australasian Legal Information Institute)[5]と好対照をなしている。どちらのシステムでも,現時点では,HTMLベースでの情報提供をしているが,今後は,SGMLXMLの応用を模索しているようだ。元来,SGMLは法律文書の記述に非常に適していると言われているが,それが実証されつつあることになる。オーストラリアのタスマニア州では,既に,州法がSGMLで記述され,公開されているということなので,近いうちに是非とも行ってみたいと思う。

公共部門と民間部門の役割分担

 法情報には,法律や条令のほか判決等の情報が含まれる。法律は国から,判決は裁判所から出されるものであり,その第1次ソースは,常に公共部門から提供されることになる。しかし,条文や判決そのままでは,一般人が理解するには難しすぎることがあるし,ロースクールでの教材としても不適切であることがある。そこで,
WESTLAWのような出版社がケースブック(判例集)や条文集等を編集して出版している。このような事情は,日本でも変わらない。Lexis-Nexisのような商用データベースでは,第1次ソースとしての法律情報等を素材に,それを利用しやすく加工した法情報を,Webや印刷物等を通じて提供している。つい最近までは,政府や裁判所が情報提供をすることには消極的なことが多かったので,大学や商用データベースが,事実上,第1次ソースの提供という役割も演じてきた。しかし,現在では,日米とも,政府や裁判所からの第1次ソースの提供がかなり活発になってきており,大学や商用データベースの果たすべき役割にも大きな変化が生じている。マーチン教授とは,このような問題について突っ込んだ意見交換をすることができた。基本的には,公共部門と民間部門とが,それぞれの持ち味を活かした「あり方」を模索すべきなのだという結論になった。日本では,残念ながら,それが癒着したような状態がずっと続いてきたことを否めない。だが,今後は,透明性を確保した上で,より良い法情報サービスの提供のしかたをしっかりと考えるべき時代になったのだと思う。また,そのために,XML等のドキュメント記述技術や分散環境により適合したネットワーク管理技術に対する期待にも非常に大きなものがある。

法情報の提供速度

 コーネル大学滞在と前後して,欧州では,「サイバー犯罪条約」の草案についての議論が高まっていた。現代社会は,変化が大きい。その変化に対応して,立法も迅速になされる。各国の新規立法情報の多くが
Webでも入手可能となってきている。とりわけ,サイバー領域に関連する立法は,世界的な影響を及ぼしあう性格を持っているため,各国の法制の研究を踏まえた議論が必要だ。しかも,かなり迅速にやらなければならない。そのために,Webという装置は,非常に重要な役割を果たしている。要するに,法学の世界でも,オンデマンドな検索や研究が要求されているのだ。牧歌的な研究室というイメージは,既に昔のものとなっている。サイバー犯罪に関しては,20015月に開催されるG8東京会議でも議題とされており,各国とも,国際協力に基づいた迅速な犯罪捜査と刑事裁判を実現しようと努力している。しかし,迅速でありつつ,それと同時に,慎重であることも必要だ。犯罪捜査の要求は,人権保障とのバランスがとれていなければならない。このことは,誰でも分かっていることだ。しかし,そのバランスがとれているかどうかを考察することについても,従来とは比較にならないほどの迅速さが要求されている。

 検討材料としての法情報は,可能な限り速く,正確かつ確実に提供されるべきだろう。そして,その情報を理解し活用するために,大学や商用データベースに求められているものも大きいのではないかと思う。

 このようにして,時代の速度に応じた法情報の提供が必要になると同時に,それに対する対処も変化してきている。大変な時代かもしれないが,その利点を上手に活かす工夫を重ねることが重要だと思う。

[4] http://www.law.cornell.edu/

[5] http://www.austlii.edu.au/


デジタル情報化されない権利

 情報社会は,情報の流通・蓄積・再利用を急速に促進している。ブロードバンドが実現し,記憶媒体の密度と処理速度は驚くべき技術革新のさなかにある。このことは,その促進のレベルと正比例して市民のプライバシーが消滅しつつあることも意味している。

 このような中で個人情報保護のための法制度整備も進められている。プライバシー・マークのような民間レベルでの自己コントロールだけではなく,法的な制裁を伴うルール造りが進められているのだ。これらは,いずれもOECDのプライバシー保護8原則等にも見られるような「自己のプライバシー・データを自分で管理する権利」(自己情報コントロール権)という考え方をベースにしている。しかし,このような考え方は,本当に万能だろうか?

自分がコントロール可能な対象は他人もコントロール可能

 自己情報コントロール権という考え方は,対象となるデータが存在しており,管理可能なことを前提にしている。その上で,それを誰に委ねるか,誰にも委ねないか,間違いがある場合に削除又は修正の請求をするかどうかを,その情報のオーナー(情報主体)の判断に任せている。これらは,特にデジタル化された個人情報の場合には問題になることが多い。何故なら,デジタル化された個人情報は,複製が容易であり,そのために,その流通・蓄積・再利用・加工等も非常に容易だからだ。他方で,データにエラーがある場合には,その修正・削除も容易だ。このことは,紙に書かれた文字とは際立った違いということができるだろう。

 しかし,自分にとって管理しやすい対象は,実は,自分以外の誰かにとっても管理しやすい対象となっている。デジタル化された名簿やメール・アドレス等のデータベースは,誰にとっても重宝なものだろう。特に,ダイレクト・メールを発送し,SPAMメールを送信してくる商業広告業者にとってはそうだろうし,また,信用調査会社や興信所を含め,個人の何らかの秘密情報を調査する組織・団体にとっても非常に有益な素材となる。

 そして,いわゆる情報家電と呼ばれる機器は,このことをますます促進させることになるだろう。本当に実装できるかどうかは分からないが,もしIP V6が実用化されて,もっと多くの機器にIDを付することができるようになれば,日常生活のほぼすべての個人情報が家電メーカーの手の中に入ることになる。

 加えて,暗号化を含むセキュリティ手段は,万能ではない。技術である以上,それを破る技術もいつかは開発されてしまうだろう。仮に万全な技術であったとしても,その技術によって保護されているデータを扱う従業員や担当者のすべてが人格高潔な人々であると保証することなど絶対にできないだろう。

 要するに,自己情報コントロール権は,実は,自己情報が濫用される可能性を当然の前提にしており,濫用された後に,被害者が自分で問題を解決することを期待するという考え方だということになる。

デジタル情報としてコントロールされないことが重要

 このように考えてくると,個人情報の濫用をさせないための最も有効な手段は,個人情報が最初から情報として存在しないようにすることだということに気づくだろう。存在しない情報は,自分にとっても他人にとっても管理することができない。

 私は,著書『ネットワーク社会の文化と法』(日本評論社,1997)の中で「そもそも個人情報をデジタル化させないで放置してもらうことを求める権利」を肯定すべきだと主張した。これは,自分に関する属性情報を情報として出現させない権利だから,自己情報コントロール権では対処できないプライバシー保護の問題を解決するための非常に有益な法的な権利だ。私は,これが21世紀において最も重要な基本的人権の一つだと考えている。

 そして,このような権利が存在するということを前提にして,情報家電についても一定の規制を法律で定めるべきことを提案したい。つまり,情報家電から通信ネットワークを通じてデータが伝送させる機能を削除するスイッチをつけていない限り,そのような家電製品を販売する行為は違法であるという法制を整備するのだ。このような法律が存在しない限り,その製品を購入しただけで,その家電を通じて,家電メーカー等が個人情報を収集することに同意したものとみなされてしまうだろう。

 読者諸氏の賢明な洞察と選択を期待したい。


最高裁の判決情報公開

 最高裁のWebサイト[6]には,これまでも,最新の最高裁判決や知的財産権関連訴訟の判決が公開されてきた。最近,最高裁は,労働事件判決の公開を開始した。今後は,最高裁判例集に収録された判決全部を無償公開する予定だという。公開されている判決は,原文そのものではなく,関係者名を仮名にするなどの処理がなされたものだし,HTMLで公開されているがゆえの限界もあるが,通常の用途には十分に耐え得るものだろう。

 判決は,裁判所で作成される。このため,最も信頼性の高い判決情報の提供者は,裁判所以外にはあり得ない。近時,アメリカ合衆国の連邦最高裁も判決情報のWeb公開を始めたが,日本国も,国際レベルで通用する法情報の提供をし始めたと評価することができるだろう。

法情報は国民の財産

 情報学の立場では,法律条文や判決文といった法に関連する情報は,「法情報」という情報のグループに分類される。しかし,法情報は,それ自体で何か意味を持つものではない。その法情報が,社会の中で,実際に機能して初めて意味を持つ。例えば,死刑が合理的なものだと考えられている社会でなければ,死刑を持つ刑罰法規が正義に適ったものだとは考えられないだろう。つまり,法情報は,その法情報が機能する環境とワンセットとなっている。環境が変化すれば,それまで機能していた法が機能しなくなるかもしれない。法情報学は,このような相互関係についても考察する学問だ。

 ところで,ごく普通の市民は,その社会の中で機能している法に無関心であることが多い。特に,日本では,歴史的な理由もあってか,「法律はお上のもの」という考え方が強く,どんなに悪い法律であっても無批判に肯定しまうことがある。とかく,一般市民の間では,法を知るための素材としての法情報を獲得・認識・活用しようという気構えも薄れがちだ。自分が何か事件に巻き込まれるなどの出来事にでも出くわさない限り,むしろ,法とは無縁なほうが良いと考えている人も少なくないだろう。

 しかし,本来,法律は,個々の市民生活を規律するための自主的ルールの一つだ。もし社会の規模がもっと小さければ,マンションの自治会で自分たちのルールを自分たちの手で作成するのと同じように,国のルールである法律も自分自身で作り出すことになるだろう。しかし,現在の国家の規模では,そのようなことは全く不可能だ。だから,国内全部に適用されるルールとしての法律は,国会において国民の代表が審議・可決して法律が作られるだけだ。従って,法律は,元来,国民自身の財産であり,国民は,「何が法であるのか」を知る権利がある。また,法の適用の結果として裁判所から示される「判決」もまた,市民が従うべきルールの一種だ。ただ,これまた,市民の代表が自分で裁判をするには,あまりに社会と法律が複雑化・専門化してしまっているために,プロフェッショナルである裁判官が裁判を担当することになっているのに過ぎない。しかし,それは,規模の問題に過ぎない。本質的に,市民は,判決の情報についても知る権利がある。

何が欠けているか

 このような観点からすると,最高裁による判決情報の無償公開という方針決定は,非常に好ましいことだと言える。

 しかし,問題もある。

 まず,判決が全部でどれくらいあるのか,公開される判決は,全体の中でどのように位置づけられるのかが分からない。最高裁の判決だけをとってみても,最高裁では,「最高裁判例集」に収録される判決だけではなく「裁判集」というものに収録された膨大な判決も保存してきた。「最高裁判例集」に収録されたものだけが判決ではないのだ。その全部が公開されなければ,公開された「判決」が正しいものであるかどうかを正確に評価・測定することもできない。このことは,日本の国益にも反するものと言える。

 他方で,Web上の情報は,URLがしばしば移動し,コンテンツも消滅することがあるなど,非常にうつろいやすい。そして,ページの概念がない世界だけに,引用が難しい。このことは,訴訟戦略にも大きな悪影響を与えるかもしれない。しかし,この点に関しては,法情報学の分野において先進的な研究もあるのだから,大いに採り入れてほしいものだ。

 また,判決は,法律専門家によって書かれた文書なので,一般市民にとって理解しやすいものでない場合もある。内容を分かりやすく伝えるための媒体として,メディアや大学や法情報企業の果たすべき役割も,ますます大きなものとならざるを得ないだろう。

 そして,判決情報が社会のツールとして十分に機能するためには,判決がルールとして機能するための環境や条件についても,もっと分析・検討されなければならない。これは,学者の仕事かもしれない。

 以上のような問題点が克服されるかどうか,今後の動向を見守りたい。

[6] http://www.courts.go.jp/


めいわくメール

 インターネットで利用可能なリソースの中で最も広く利用されているのは,電子メールに違いない。「インターネットと言えば,iモード携帯電話のeメールのことだと信じている女子高生がたくさんいる」という風説が流れるくらいまで,電子メールは,社会のすみずみで活用されるようになっている。

 ところが,世の中では,広く使用されているサービスや道具だてが存在すれば,それに目をつけて一儲けしようとたくらむ業者が出てくるのは当然のなりゆきだ。電子メールの世界では,他人に勝手に商業用宣伝広告メールを送りつける業者が無数に発生している。このような電子メールを,俗にスパム・メール(SPAM)という。法律家の中では,望まれない商業用電子メール・メッセージ(unsolicited commercial E-mail message)と呼ぶことが多い。

 スパム・メールを送りつける業者の種類は,多種多様だが,その中で特に社会問題化しているのは,アダルト・サイトと出会い系サイトだ。電子メールを悪用した詐欺事件も山ほどある。いわゆるネット詐欺だ。電子メールを用いた勧誘からネット詐欺にはまる被害者の数も少なくない。また,出会い系サイトで知り合った男女間で殺人事件が起きてしまったことも記憶に新しい。

送信行為それ自体を規制するのは難しい

 だが,めいわくメールを法律で規制しようとしても,難しい問題がいくつかあり,解決の道は遠いというのが現状だ。
欧州では,電子メール・アドレスも個人情報であると考えられているようだ。そして,欧州共同体の調査検討委員会が
20011月に提出した報告書は,「事前の同意がないのに,スパム・メールを送信する目的で他人の電子メール・アドレスを収集する行為は個人情報の目的外利用になるから違法だ」という見解を示している。これは,ひとつの考え方だし,個人情報保護の観点からは,正しいアプローチといえる。日本の個人情報保護法案は,欧州共同体における個人データ保護のアプローチと非常に似たアプローチを採用しているので,この法案が可決されると,日本でも同様の議論が必要になってくるだろう。例えば,CRMConsumer Relationship Management)等の手法が個人情報保護の観点から見て問題がないかどうかが議論されるようになるだろうし,その中で,電子メールによるマーケティングの適法性が問題となるに違いない。しかし,このようなアプローチにも限界があるかもしれない。例えば,アドレス自動生成ツールを使って自動的に生成される電子メール・アドレスは,収集されたものではなく,生成されたものに過ぎない。このようなものについては,個人情報保護という切り口だけでは対応し切れないのではないかという疑問が残る。

 商業用電子メールの大量送信は,メール・サーバに負荷をかけ続けている。時として,メール・サーバがダウンすることもある。とりわけ,HTMLメールを用い,画像や音楽等のデータを加えた巨大な電子メールが大量に送信される場合の弊害は,深刻なものとなっているようだ。このことは,ブロードバンドによって回線容量が大きくなったとしても,サーバでの処理が大規模に改善されない限り,基本的には変わらないだろう。そして,このようにメール・サーバがダウンすることを知っておりながら,それでも良いと考えて大量にメールを送信したような場合には,事案によっては,業務妨害罪(刑法233条)[7]によって処罰可能なのではないかと考えられる。しかし,刑罰による対応は,かなり悪質な事案でないとだめかもしれない。

法改正や自主規制で対応することは可能

 私は,内容面での検討を進めることによって,もう少し別の対応を工夫する余地があるし,また,電気通信事業者は,利用約款を見直す必要があると考える。

 例えば,人材派遣業や風俗営業等に関連する電子メールに関しては,文字送信型の人材派遣や風俗営業を届出制にし,その宣伝広告の方法を限定するなどの法的対応が可能だ。児童ポルノ禁止法についても同じことが言えるいかもしれない。いずれにしても,Web上のポルノ画像サイトだけがアダルト・サイトではない。

 他方で,電子メール・アドレスの自動生成ツールを使って大量にメール送信をした場合には,メール・システムの利用を禁止するように利用約款を改訂することは可能だ。プロバイダが統一的にこのような約款を利用できるように,関連団体がガイドラインを設けることも有効な手段といえるだろう。

 さらに,政府と業界団体のいずれについても,電子メールを利用する上の問題点を明確に示し,その対応策を教えるような啓蒙・教育活動をもっと積極的にすべきだろうし,そのための予算も十分に確保すべきだろう。

 ただし,いずれの場合でも,電子メールの利点を損なわないように十分の配慮を尽くしてほしいと思う。とりわけ,送信途中の電子メールの内容を予め調べることは,通信の秘密に対する重大な侵害となる。また,表現の自由も最大限尊重されなければならない。いわゆる「角を矯めて牛を殺す」ようなことがあってはいけないのだ。

[7] 刑法233

虚偽の風説を流布し、又は偽計を用いて、人の信用を毀損し、又はその業務を妨害した者は、3年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。


こちらを立てればあちらが立たず

 インターネットが日常的なツールとなったことは,非常に良いことだ。いまや,ほとんどすべての人々がインターネットを利用可能な状況へと向かいつつある。しかし,この「ほとんどすべての人々」の中には,善良な市民だけが含まれるわけではない。犯罪者や倫理観に乏しい者や性格異常者も含まれる。

 インターネットの利便性を重視し,バリアフリーを実現しようとすればするほど,それに正比例して,インターネット上のトラブルも増加し,その被害の深刻さも著しく増してしまうということができる。

このことは,およそありとあらゆる社会資源について言えることだろう。特定の資格や一定の能力を持った者だけにアクセス権限が与えられるのではなく,広く一般人にアクセス権限が認められる環境では,このことを避けることはできない。

 要するに,「こちらを立てればあちらが立たず」という関係(二律背反の関係)が生じているのだ。ものの本に書いてあるようなインターネットの牧歌的で伝説的な時代は,すでに終わってしまったというべきだろう。

ブロードバンドの普及とウイルスの繁殖

 ブロードバンドの拡充と常時接続が実現することによって,インターネットの利便性は大幅に向上した。そのこと自体は,一般市民に対して,大きな利益を与えるものだろう。しかし,このことは,反面で,Code Redを含むウイルスや悪質なワームの侵入・繁殖を非常に容易にすることともなり,マスコミでも大きく取り上げられるようになった。

 Code Redのようなタイプのワームは,パッチを当てていないWindows 2000などの特定の種類のオペレーティング・システムで動いているマシンであれば,そのマシンの規模の大小を問わず,どのマシンでも増殖・発症が可能だ。そして,一定の条件が備わると,特定のマシンをめがけてDDoS攻撃(分散サービス拒否攻撃:Distributed Denial of Service Attack)を開始する。要するに,個人ユーザのマシンであっても,それを踏み台として,次の攻撃のための前線基地にしてしまうのだ。

 このことから,現時点でのインターネット・ユーザは,すべてサーバ管理者と同等の自覚を持ち,自分のマシンについては,ウイルス・チェックを励行し,ファイアウォールを設置しないと,安心してインターネットを利用できない状態になっているということもできる。誰でも簡単にインターネット接続ができるようになったために,誰でも自分のマシンをサーバ管理者と同等に管理しなければならなくなってしまったのだ。

 これまでのインターネットの商業利用では,そのことが意図的に隠蔽されてきたのかもしれない。しかし,現時点では,そのようなごまかしが通じなくなってしまっている。インターネットでは,いまや自分のマシンを自分の責任で管理する能力を持ったユーザであることが求められている。そして,このような能力を持たず,標準的な対応をしようとしないユーザは,いずれ損害賠償責任を含む法的責任を負わされるようになるだろう。

ウイルスをネット監視することの功罪

 このような状況の下において,いくつかのサービス・プロバイダによって,ネット上で自動的にウイルス・チェックをするサービスが導入され,注目を集めている。実際問題として,一般的なインターネット・ユーザのすべてに対して高度な技術的能力を求めることは無理なことだ。その意味では,便利なサービスかもしれない。

 しかし,問題もある。例えば,電子メールをプロバイダが全部ウイルス・チェックするということは,観点を変えてみると,通信傍受そのものだということになる。しかも,ウイルスに感染している電子メールは自動的に駆除されてしまうのだろうが,これは,他人(ユーザ)の電磁的記録(電子メール)を第三者(プロバイダ)が一方的に破棄・破壊する行為だということになる。

 もちろん,これらのことについて,ユーザが事前にきちんと説明を受け,納得の上で同意しているのであれば,特に問題はないといえるだろう。しかし,これらの措置が何も説明なしに,プロバイダによって一方的に実行されるとすれば,そのような行為については,電気通信事業法や刑法に定める罰則の適用や損害賠償責任などを含め,さまざまな法的責任の発生が問題となり得るだろう。しかし,すべての電子メールについて一律にウイルス・チェックをかけるのでなければ,今後も悪質なウイルスやワームの蔓延を防ぐことができないかもしれない。

 ここでもまた,「こちらを立てればあちらが立たず」という二律背反の関係が存在する。

 また,プロバイダがネット上でウイルス・チェックしてくれることだけでは,解決できない問題もある。例えば,ネット経由ではなくFDCD-ROMなどの媒体を介した感染は,ネット上のチェックでは防止することができない。要するに,ネット上のウイルス・チェックを利用していても,それと同時に,自分のマシン用のウイルス・チェックも併用していなければ,何の意味もないのだ。

 それにしても,まったく面倒な時代になったものだ。自己責任と自己管理を自覚させるための何らかの教育システムが必要になってきているのかもしれない。


情報倫理の視点

 インターネットやモバイル器機を用いた犯罪行為や非違行為の報道が増えるにつれ,情報倫理の重要性が強く叫ばれるようにもなってきている。

 しかし,実際には,情報倫理をきちんと定義することは難しい。

 例えば,教育機関で情報倫理を論ずるときには,いきおい道徳教育的な色彩が強くなってしまうようだ。お行儀や作法のトレーニングの問題としてとらえられることもある。他方で,会計,経営,法律などの分野でも,情報倫理の問題が真剣に考えられている。そこでは,それぞれの領域での日々の業務で扱う個人データの保護などの問題が議論されることが少なくない。これは,教育関係者が考える情報倫理とは少し違うものかもしれない。また,どの分野においても,情報リテラシと情報倫理とが混同されていることも珍しくない。個別分野での特殊な職業倫理の問題が情報倫理の問題として理解されていることもある。

 このように,情報倫理については多種多様の理解が存在するが,私は,次のように考えてみたい。

どのようなモデルを想定すべきか

 まず,インターネット上では,新しい環境に適合した新しい多様な価値観と生活スタイルを拡張しようという指向性を持った人々が多数存在する。しかし,インターネット特有の文化を否定的にとらえ,在来的な価値観と生活スタイルをインターネット上でも通用させようという人々もこれまた多数存在する。情報倫理は,どちらかというと在来的な価値観をインターネットの中にも投影しようという動きの中で論じられることが多い。少なくとも,現実世界と同様な意味での「秩序」という枠組をインターネットの中にも構築しようという姿勢が反映されていることだけは事実だといえるだろう。

 電子技術が関係する領域で,一定のルールを実効的に通用させるための方法としては,少なくとも3つのメソッドがあり得ると考えられる。第1は法律による強制力の行使,第2は電子技術による技術的対応,第3はユーザによる自主管理だ。たとえば,ネット犯罪に対して刑罰を加えるのは法律によらなければならない(罪刑法定主義)。しかし,アタックに即応する電子的な防御は技術的対応によってのみ実現可能だ。他方で,自主的に運用指針を構築し,それを遵守することによって,より柔軟に対応できる問題も少なくない。たとえば,個々の企業や業界団体などによるガイドラインの設定,プライバシー・ポリシーやセキュリティ・ポリシーの設定などがそれに該当するだろう。

 ところで,情報倫理も広い意味での「倫理」の一種(応用倫理)だとすると,倫理は内心の支えによって実効性を持つべきもので法律によって強制されるものではないから,法的対応とは異なる性質を持つといわなければならない。おそらく,情報倫理の問題は,法的対応や技術的対応の場面においてではなく,主として,自主管理による対応という場面で意味のあるものではないかと思われる。

ローカル・ルールは標準的なプロトコルになれるか

 さて,現実問題として,共通の倫理基準や価値観が内面化されていない人々に対しては,特定の倫理観の強制などできない。ある価値観に基づけば正義の実現だと信じられていることが,他の価値観を信ずる人々にとっては悪魔の所業だと受け取られることもあるだろう。要するに,ある問題に対する価値判断がほぼ一致している人々の間においてのみ,情報倫理は,ルールの適用のためのメソッドの一つとして正常に機能する。

 その意味では,情報倫理がまともに機能するのは,ローカル・ルールだけに限定されるのかもしれない。情報倫理が持つこのような特性は,法や技術が一定の普遍性を持っているのと著しく異なるものだ。そして,それは,情報倫理が持つ内在的な限界の一つだといわざるを得ない。

 ところが,ここに一つの問題がある。

 つまり,インターネットは,グローバルな環境であり,その環境の中には,相互に異なる多種多様な価値観を持つローカル・ルールが混在し同居しているということだ。それぞれのローカル・グループが持つ倫理基準が衝突する場面も少なくない。

 だから,もしインターネット上で共通に利用可能な標準プロトコルとして情報倫理をとらえようとするのであれば,自分が信ずる倫理基準の普遍性をテストする必要がある。普遍性のない倫理基準を掲げながら,「これがインターネットのスタンダードだ」と声高に叫ぶのは非常に滑稽なことだ。

 そして,標準プロトコルが見つかったとしても,それは,自分の信じてきた倫理基準と矛盾するものかもしれない。本当は,そのことを素直に認める寛容と勇気が求められているのではないだろうか。非常に難しい問題だ。


デジタル・コンテンツのネット配信に活路を見いだす


 音楽レコードのネット配信に関しては,Napster事件以来,世界中で議論と訴訟が繰り返されてきた。これまでの流れを見ると,商業音楽コンテンツについては,デジタル・コンテンツとして何らかのかたちでネット配信をする以上,音楽レコード会社も,コンテンツ配信サービスも,原作者や出版社に対して,別途,著作権使用料を支払うべきだという流れに大きく傾いている。

 こうした中で,2001109日,全米音楽出版社協会(NMPA)は,原作者などの著作権使用料徴収代行をしているハリー・フォックス・エージェンシー,全米レコード協会(RIAA)と連名で,音楽コンテンツのネット配信に関し,音楽レコード会社が音楽コンテンツをネット配信する場合には,原作者や出版社に対し,別途,著作権使用料を支払うということを内容とする新たな合意をしたと報道されている。

 この合意に示されている新たな基本的枠組は,音楽コンテンツを含む商業デジタル・コンテンツの流通のみならず,日本の既存の出版業界などにも大きな影響を与えるのではないかと思われる。

著作権法の基本ルールはどうなっているのか?

 すべての著作物の著作権は,著作者が保有している。これは,当然のことだ。では,音楽コンテンツの原作者は,誰なのだろうか?

 楽曲については作曲家,歌詞について作詞家が原作者になる。演奏者自身が作曲家であったり作詞家であったりすることもあるが,演奏者が別の人やグループの場合には,その演奏者は,別の作曲家や作詞家の作品を演奏することによって生成される2次的な著作物の著作者になる。

 また,最初からデジタル・コンテンツとしてコンピュータによって生成された音楽コンテンツなどを除き,普通の音楽演奏を録音した録音データは,同様に,オリジナルの楽曲そのものとは異なる2次的な著作物である以外にはない。音楽レコード会社は,このような意味で,まさに他人のコンテンツを2次利用し,あるいは,他人のコンテンツを流通するためだけに存在しているということができる。

 紙に印刷された小説や日記などを映画化したり,アニメ化したり,デジタル・コンテンツ化したりする場合の原作者と映画監督やコンテンツ作成会社などとの関係も同じだ。

 このような次的な著作物を生成するためには,もちろん,原作者の許諾を要する。要求されれば,原作者に対し,著作権使用料も支払わなければならない。

新たな基本的枠組はどのような影響を与えるか

 ところが,日本のコンテンツ業界では,このことが明確に意識されてきたとは思われない。
たとえば紙で出版された小説,論文,エッセイなどを原作者に何ら断りなしにデジタル・コンテンツ化し,商業製品ないし商業サービスとして流通させても何も問題ないと信じ込んでいるような企業経営者は,決して珍しい存在ではない。

 デジタル化されたコンテンツから得られる果実を,原作者に分配する必要などないと信じこんでいる経営者も決して少なくないらしい。

 今回の新たな合意は,このようなあまりに楽天的で自己中心的な考え方に対して,猛省を促すことになるかもしれない。
 これまで,出版社やコンテンツ製作会社や配信会社は,違法コピーを含むコンテンツの「ただ乗り」に対し厳しい姿勢で臨み,著作権使用料や損害賠償金の支払いを求めてきた。ゲーム・ソフトを含むソフトウェア・ベンダーでもそうだ。

 しかし,今後は,本来のルールどおりに,自らも襟をただして,原作者に対するペイをきちんとしていくべきだろう。
他方で,このような基本的枠組は,コンテンツ・ビジネスのあり方それ自体にも再考を求めるようになるかもしれない。というのは,この基本的枠組に基づいて分配されるべき正当な利益と著作権使用料は,どのようにして算出されるべきかが厳しく問われるようになるからだ。

 現在,多くの商業ネット・コンテンツの利用は,固定価格制となっている。しかし,ビジネスの本来あるべき姿は,需要に応じて価額が変動する自由市場価格制なのではないか。その意味で,独占禁止法などの適用除外とされている再販売価格制度は,その根本から見直されるべき時期が来ていると言えよう。

 ファンの心をつかみ,よく売れるコンテンツは,より高額の単価が自動的に設定されるようにすべきだ。逆に,ファンの心をつかむことのできないコンテンツは,自動的にどんどん単価が下がり,ついにはほとんど無料に近くになっても仕方がない。安くなっても後に人気が出れば,また価格が上昇するのだから何も問題がない。

 そのような浮動的な価額設定システムをネットワーク上に構築し運用することこそが,本来あるべき姿ではないかと思うようになってきた。


世界のサイバー犯罪立法動向

 1995年から検討が重ねられてきた欧州評議会のサイバー犯罪条約(Cybercrime Convention)が,いよいよ大詰めの段階を迎えた[8]

このサイバー犯罪条約は,サイバー領域での犯罪行為に対し,世界各国が共通の内容をもった刑罰法規を整備し,そして,各国の捜査機関が相互に協力して迅速にサイバー犯罪の捜査にあたることができるように,刑事訴訟法などの手続法規を整備することを目的とする国際的な基本合意だ。

日本国政府は,この条約に加盟することを決定した。正式加盟をするためには,政府が条約を締結するだけでは足りず,国会での承認手続が必要だが(日本国憲法73条),サイバー犯罪へ対抗しようとする世界各国政府の動向などの流れを見ると,結論としては,国会も条約加盟を承認せざるを得ないのではないかと思われる。したがって,今後,日本国においても,サイバー犯罪条約に基づき,刑法や刑事訴訟法などの基本的な法令の改正を含めて,サイバー犯罪に対処するための国内法制の整備が進められることになるだろう。

他方で,コンピュータ犯罪に対する動向を冷静に観察してみると,世界には,もう一つの潮流も存在している。それは,プライバシーを保護するための刑事法制整備の動きだ。たとえば,EUの個人データ保護指令や電子商取引ガイドラインなどに基づくプライバシー保護法制がその代表例だ。しかし,サイバー犯罪条約が脚光をあびているのと比較すると,こちらのほうの動きに対しては,マスコミやサイバー法の専門家などもあまり着目していないようだ。

いずれにしても,世界各国は,サイバー犯罪条約への加盟をめざし,それと同時に,プライバシー保護を強化するために,積極的に刑事法制の整備を進めつつある。

世界の立法動向の特徴は何か

 サイバー犯罪に対処するための立法のやり方は,世界各国でまちまちになっている。これは,それぞれの国の立法の仕組みが異なっていることと,文化的背景や基本的なものの考え方が異なっていることによるものと思われる。

 世界各国のサイバー犯罪関連の法律を比較検討してみると,次のような傾向があるということができる。

まず,内容的には,まず,

@ コンピュータ・システムへの無権限アクセス行為,データやシステムの破壊行為や妨害行為,データやプログラムの無権限複製行為,コンピュータ・ウイルスを含む犯罪的なプログラムやデータの製造・配布行為などのベーシックなサイバー犯罪行為に対する刑罰法令の整備が主要なものとなっている。

しかし,それだけではなく,

A ネットワーク上の通信データの盗聴行為,他人のプライバシー・データへの無権限アクセス,他人のプライバシー・データの無権限利用や開示行為などを厳重に処罰するための法制整備も急速に進行しつつある。そして,

B 公務員によるサイバー犯罪に対しては,公務員以外の一般人がそれを犯した場合と比較して,特別に重い処罰を加えるような立法例が多くなってきている。

他方で,立法のスタイルを見てみると,日本での普通の立法スタイルと同じように,

C 刑法その他の関連法規に必要な修正を加えるというスタイルの立法が最も多い。ドイツ,フランス,イタリア,アメリカなど主要国各国は,このようなスタイルを採用している。オーストラリアでは,各州のための連邦モデル刑法典を制定しているが,基本的には同じスタイルのものと考えてよい。

しかし,

D コンピュータ犯罪のための特別の法典を定める例もある。たとえば,イギリスとシンガポールのコンピュータ不正使用禁止法,マレーシアのコンピュータ犯罪法,イスラエルのコンピュータ法などをその例としてあげることができる。

日本国の法制整備では何を考慮すべきか 

 これら世界の立法動向における特徴から何を学ぶべきだろうか?

まず,いわゆるネット犯罪やネット犯罪者だけに目を奪われてはならないということを強く主張したい。スタンドアロン・コンピュータからの顧客データの抜き取り行為を含め,プライバシーを含む個人データは,かつてないほどの脅威にさらされ続けている。個人データを侵害する行為に対する明快な処罰法を立法する必要がある。

また,センシティブなデータを管理する責任を有する者に対する処罰をもっと強化すべきだろう。特に公務員は,国民の秘密データを最も大量に処理する職責を負っており,その権限が濫用された場合の被害は,想像を絶するものがあるからだ。

そして,新たに制定される法律には,その法律で用いられている用語についての定義規定をきちんと含めるべきだ。日本の法令では,用語それ自体の意味が明確でなく,不必要な議論を呼んでしまうことがある。

 以上を考慮しつつ,合理的な立法が迅速になされることを期待したい。

[8] 20011123日にブタペストでサイバー犯罪条約の署名式典が開催された。この日,日本を含む世界の約30カ国がサイバー犯罪条約に署名した。今後は,条約に示された条件を履行するために,日本国でも国内法の整備が進められなければらない。


タスマニアの春−オーストラリア旅行記(1)

 20011123日から123日まで,シンガポール経由でオーストラリアを旅行した。

 目的は,タスマニア州政府の法令自動管理システムを調査するためと,そして,1129日と30日の両日にわたってシドニー工科大学で開催されたAustLIIAustralasian Legal Information Institute)の会議に出席するためだった。

 シンガポールは,赤道近くにあるので,年中夏だが,オーストラリアがある南半球の気候は,日本とは逆になる。しかも,タスマニアは,南極に近く,日本で言えば北海道に相当する大きな島だ。気候も北海道と良く似ている。タスマニア州の州都ホバートは,小樽によく似た漁港から発展した小都市だが,その住宅街などの様子は,アイルランドの片田舎の町のような感じがする。ホバートでは,Elms Hotelに投宿した。ここは,今回の旅に同行していただいた指宿信教授(当時鹿児島大学:現立命館大学教授)がインターネットで探して予約してくださったところだった。イギリスのB&BBed & Breakfast)形式の小さなホテルで,ガーデニングが美しい。宿の主人夫婦もとても良い人達だったし,快適にくつろぐことができた。そして,タスマニアを発つ日の小旅行で見た薄紫色のポピーの群れや,ウェリントン山の樹木の間に漂う何とも言えず芳しい大気は,一生忘れることができないだろう。

タスマニアの選択

 日本を含む近代的な民主国家は,法治国家と呼ばれている。しかし,法を創る者も不完全な人間である以上,間違った法律や悪い法律が存在し得ることを否定することはできない。だからといって,ソクラテスのように,「悪法も法である」と言って毒杯を飲み干すことなど,誰も承諾したくはないだろう。したがって,民主国家という意味での法治国家では,自分に適用される法がどのようなものであるかを知る権利が必要となる。

 この権利は,基本的人権の一種として,「法にアクセスする権利(Right to access to Law)」と呼ばれている。そして,法は,法情報という形式の情報として存在するので,法にアクセスする権利は,「法情報にアクセスする権利(Right to access to Legal Information)を当然に含むことになる。

 1990年代の初頭,タスマニア州は,一つの選択を迫られていたという。当時,新たな法律を次々と制定する必要があったが,従来の政府機関や議会の処理能力ではとても処理しきれないこと,しかも,紙を使った立法作業や法律改正作業には重大な問題があることも分かっていた。特に,どのような法律が存在し,どのような法改正がなされ,改正された後の法律がどのようなものかを知ることは,紙による処理を前提にする限り,ほぼ絶望的な状況にあったらしい。

 そこで,タスマニア州政府は,州民に対し,立法作業担当職員を増員し,関連予算(税金)を大幅に増額するか,それとも,立法作業をコンピュータ処理に移行させ,州民がいつでも通信回線を介して法情報にアクセスできるようにするか,そのどちらを選択するかを迫った。

 そして,その投票の結果は,驚くべきものだった。州民の大半が州政府の新方針を支持し,州政府職員を大幅増員するのではなく,立法システムを全面的にコンピュータ化することが強力に推進されることになった。そして,このような政策を法的にサポートするために,法律の公布をデータベースへの登録によって行うことができるようにするための法律が新たに制定された。

タスマニアの選択は何を意味するか

 タスマニア州のシステムは,SGMLの技術を応用したもので,法律案の文書作成から正式の法律文の生成やWeb公開までが統合的に自動処理されている。立法に関与する職員も,現在では,このシステムなしの立法作業などとても考えられないという。州民や議員も,このシステムを大いに歓迎しているらしい。しかも,我々日本人でさえも,インターネットを介して,タスマニアの立法活動をいつでも調査することが可能なのだ。

 このことは,電子技術が「法情報にアクセスする権利」をより確実なものにしたということを意味している。

 ただ,このようなシステムが合理的に機能するためには,一つの環境が必要だということも事実だと思われる。それは,国民自身が法というものに強く関心を持ち,積極的に立法に関与しようという姿勢を持つような環境が必要だということだ。

 俗に「どの国でも,その国民のレベル以上の政府を持つことはできない」と言われているが,「どの国でも,その国民のレベル以上の法を持つことはできない」ということも一方の真理ではないかと思われる。


青い空に白い文字−オーストラリア旅行記(2)

 タスマニアでの仕事を終えた後,カンタス航空でシドニーに移動した。

 シドニーは,すでに初夏の様相を見せていた。市街は雰囲気も明るく,非常に快適なところだ。ただし,夜のシドニーはそうでもないらしい。私が宿泊したホテルのすぐ前にあるハイドパークでは,夜間には,違法な薬物の売買がなされるということだ。日中は,とても美しい公園なのに,残念なことだ。日本でも薬物汚染が進んでいるということだが,この問題は,文明社会に共通の悩みなのだろうか。

 ハイドパークの向こう側には大教会がある。これに隣接して,かつて監獄であった建物が博物館として公開されている。タスマニアにもかつての監獄の遺跡や建造物があり,また,国内で最もセキュリティが高いという刑務所が現実に運用されている。私は,それらも見学してきた。監獄というモチーフは,この国の歴史を語る上での基本モチーフになっているような気がする。

 その博物館を先に進むと,古い石造りの歴史的な建造物に混じって裁判所や国立図書館などが続き,そして,大きな公園に出る。その先を下ると有名なオペラハウスだ。

 強い日差しに耐え切れずにサングラスを取り出しながら,その公園のゲートからふと見上げると,深く青い空に真っ白な文字が浮かんでいた。某ドット・コム企業の名称のようだ。飛行機雲で書いてある。どうやって書いたのだろう。地元の人達には少しも珍しくない光景かもしれないが,私にとっては初体験であり,しばらく見とれてしまった。

フリー・アクセス

 シドニーを訪問した理由の一つは,シドニー工科大学(UTS)をメイン会場として開催されたAustLIIの会議に参加することにあった。この会議のテーマは,「インターネットを介した法(Law via the Internet 2001)」だった。そして,この会議での合言葉は,法情報へのフリー・アクセスであり,そのための手段としてのインターネットの活用とその問題点をめぐって研究報告と討論がなされた。

 多数の非常に興味深い報告の中でもひときわ興味をひいたのは,サリー・ケイさんからの報告だった。彼女の報告は,オーストラリアの裁判所が情報公開に積極的であると同時に,ネット技術を用いた情報公開に伴う様々な問題に対処するために,ガイドラインを設け,それを実施しているという内容だった。例えば,離婚事件を含む家事事件や少年事件などでは,個人の氏名が公開されてしまうことによる弊害は確かにある。しかし,それでもなお,裁判が公正に実施されているかどうかを監視することは国民の基本権の一つであり,そのために裁判情報へのフリー・アクセスが確保されなければならない。この相矛盾する難題への回答は,情報の種類による切り分けだった。

 彼女の説明によれば,一般的な裁判情報はWebにより世界に公開される。しかし,センシティブな情報については,州民であることの認証を得た者だけがアクセスすることができる。そして,最もセンシティブな情報については,裁判所構内に設置された端末装置のみからアクセス可能だということだった。また,デジタル文書による判決の作成者である裁判官を確定するために,電子署名が利用されているということだった。
このほか,ニュージーランドのデビッド・ハーベイ裁判官からも同様の報告があった。

飛行機雲と法典と

 私は,会議の合間に,シドニー市内にある連邦と州の政府刊行物販売所にも立ち寄ってみた。そして,法律集を何冊か購入した。これは,日本の官報に相当するものだが,法律ごとに1冊ずつ製本されて販売されている。販売所の職員は,「Webの情報は便利だけれども,すぐにURLが移動したりコンテンツが消滅したりするからだめだよ。法律は紙に限る。」と自慢げに言う。しかし,私が犯罪統計の出版物はないかと質問すると,「それは,司法省のサイトを見てくれ」とあきらめ顔だった。

 飛行機雲で書かれた白い文字は,手に取ることができなくても多くの人の目に触れることができる。しかし,空の中に詳細情報を全部書き込めば,弊害もあるだろう。紙の法典は,電気のない場所でも読めるし,詳細に情報を埋め込むこともできる。しかし,それを購入した者しかアクセスできない。

 では,インターネットは,どのように活用するのが一番合理的なのだろうか。法情報の伝達と利用を考える旅は,ますます多くの課題を突きつけるものだったが,それと同時に,いくつかのヒントも与えてくれたようにも思う。


オーキッドの花束−オーストラリア旅行記(3)

 ニューヨーク・テロのあおりを受けてアンセット航空が経営不振に陥ってしまったため,私達は,シンガポール経由でオーストラリアを往復した。シンガポール航空は,機内サービスが世界一良好な航空会社として知られており,女性客室乗務員の民族衣装風の制服も有名だ。

 シンガポールの国花は,オーキッド(蘭)だ。どこのホテルにも様々な色の蘭が飾ってある。いずれも清潔に栽培されたものだ。

 シンガポールそれ自体も蘭の花のように美しく清潔な国だが,まるで水栽培の野菜工場や観賞用花類の栽培ハウスのように全体が完全に管理されているようだ。これは,日本だと軽犯罪法上の罰金で住むようなゴミのポイ捨て行為等が,かなり重い罰則で処罰されているからだとも言われている。また,インターネット上の通信を国家が監視する国のひとつとしても有名だ。

 一般に,ASEAN諸国をリードしているのはシンガポールとブルネイだと言われているが,その理由が何だか分かるような気もする。

サイバー・コートは実を結んでいるか

 シンガポールの最高裁判所を見学した。入口を入ると,「マルチメディア・コート(Multimedia Court)」と書かれた案内施設があり,ビデオを見ることができる。これは,1990年代早々にこの国の裁判所が導入した裁判用コンピュータ・システムだ。当時はまだインターネットが普及していなかったため,裁判所施設内をLANで結び,裁判官席や傍聴席にも端末用パソコンを配置して,電子ファイリングを大幅に導入することに大きな力点が置かれていたようだ。おそらく,このような試みは,国家規模のものとしては,最も早い時期に属するものといえるだろう。

 現在,シンガポールでは,「サイバー・コート(Cyber Court)」を導入したとされている。そのプロモーション画像は,インターネットの裁判所サイトで見ることもできる。しかし,その実態は,よく分からない。そもそもシンガポールそれ自体が小さな国なので,インターネットによる裁判の需要がどれだけあるのかが分からない。どの弁護士も,裁判所の近くにオフィスを持っており,インターネットで裁判をする実益がほとんどなさそうに思われる。しかも,シンガポールの国民は,和解や調停を好み,話し合いによって紛争解決が図られることが圧倒的に多いと言われている。これは,歴史的な理由もあって,華僑系やインド系の人々の共同体の中で,それぞれの民族の自治的な紛争解決システムが機能しており,かつては植民地支配者の側のものであった裁判所を利用しなくてもよいように,シンガポールの社会が組み立てられてきたということにも大きな理由があるのだろうと推測する。

 しかし,それにもかかわらず,なぜシンガポールの裁判所は,マルチメディア・コートやサイバー・コートの導入を大々的に宣伝するのだろうか?

シンガポールのサイバー法には根があるか

 シンガポールは,裁判所の施設だけではなく,法律そのものについても,サイバー・ワールドに対応する斬新な法律や法典をどんどん制定してきた。たとえば,電子商取引法,電子署名法,コンピュータ犯罪法など,サイバー法のお手本のような法律がたくさん制定されている。

 これらの法律や法典は,その周辺の諸国の立法活動にも非常に大きな影響を与え続けており,これらの諸国でも続々と新たなサイバー法が制定されている。インドでは,2000年に総合的なサイバー法である情報技術基本法が制定された。マレーシアには有名なコンピュータ犯罪法を含む1997年のサイバー法が存在するし,タイでも2001年に新たなインターネット法が制定された。いまや,東南アジア諸国の法(特にビジネス関連法)の未来を占うためには,シンガポールの法制に対する注意深い観察が不可欠なものとなっている。

 だが,シンガポール市内の主要な書店をほぼ全部巡ってみても,そこには,自国の法律の教科書や条文集・判例集などがほとんど売られていない。ロースクールで用いられるのは,アメリカやイギリスの出版社から発行された一般的なコモン・ローの教科書だけのようだ。これなら日本の書店でも入手することができる。それだけではなく,シンガポールのサイバー法に関する専門論文を入手することも非常に難しい。もしかすると,そんなに多くは存在していないのかもしれない。これは,一体どういうことなのだろうか?

 シンガポールのオーキッドは,国外にも盛んに輸出されているらしく,空港で花束を購入できるだけでなく,日本にいてもインターネットで輸入することもできるようになっている。

 私は,帰国便を待ちながら,ロビーのテーブルに飾られた純白の可憐なオーキッドを見つめているうちに,この国の国花こそが,この国の本質そのものを示しているのではないかと,ふと思った。


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Last Modified : Jul/01/2002