Lawyer's Bench

by 夏井高人


これは,月刊アスキー誌に連載しているコラム「Lawyer's Bench」の記事を一部改訂した上で再掲するものです。

この再掲について,アスキー社からご協力を得たことにつき感謝します。

このコラムの最新記事は,月刊アスキー誌をご覧ください。


目    次

不正アクセスの行方 月刊ASCII 2000年5月号136頁
みんな誰でもプライバシー侵害 月刊ASCII 2000年6月号112頁
ネットにつながる「あなた」は誰? 月刊ASCII 2000年7月号168頁
言われたくない I Love You もある 月刊ASCII 2000年8月号144頁
共通理解を生むための「マップ」づくりを考えよう 月刊ASCII 2000年9月号104頁
米国ビジネス特許紀行(その1) 月刊ASCII 2000年10月号128頁
米国ビジネス特許紀行(その2) 月刊ASCII 2000年11月号237頁
有害情報をどう見わけるか 月刊ASCII 2000年12月号294頁
IT革命は本当に福音か? 月刊ASCII 2001年1月号310頁
日米の電子署名法を比べてみると 月刊ASCII 2001年2月号230頁
知的財産権をめぐる無思慮な議論を批判する 月刊ASCII 2001年3月号246頁
ネット投票にはこんなに問題がある 月刊ASCII 2001年4月号286頁

不正アクセスの行方

 199986日に制定された不正アクセス禁止法が2000213日に施行された。
 その施行日前の駆け込み的な示威行動でもあったのか,その日までは執拗に繰り返されていた政府機関のサイト等に対するアタック行為も施行日以降は妙に急速に沈静化してしまった。これで,当分は不正アクセス禁止法が発動されることもないかと思われていた矢先,他人(福島県在住)のIDとパスワードを無断使用してインターネット接続プロバイダを利用した行為が不正アクセス禁止法違反にあたるとして,千葉県警組織犯罪対策本部(ハイテク犯罪対策室など)は,岐阜県在住の男性容疑者を逮捕し,317日に千葉地検に書類送検したと報道された
<http://www.mainichi.co.jp/digital/netfile/archive/200003/16-1.html>。要するに,他人の「なりすまし」による不正アクセス行為であるが,この法律が適用される最初の事案なのだそうだ。
 このような他人の「なりすまし」によるアクセス行為が何かしら違法なアクセス行為であるということは誰にでも理解しやすいだろう。しかし,厳密にはどのような行為が不正アクセス禁止法で処罰される可能性があるのかを明確に説明するのは,意外と面倒だ。一般のユーザにとっては,他人が勝手に自分のコンピュータを使ったら不正アクセス行為ではないかと単純に考えることが多いだろう。しかし,他人のコンピュータの無断使用行為でもこの法律違反となる不正アクセス行為になるものと不正アクセス行為にならないものとがある。
 どういうことかというと,この法律の条文上,不正アクセス行為として処罰される行為がかなり限定されているのだ。この法律の条文は,警察庁のサイト
<http://www.npa.go.jp/police_j.htm>などで誰でも見ることができるが,非常に分かりにくい。そこで,簡単に説明すると,この法律で保護されるのは,IDやパスワードなどを利用してアクセス・コントロールがなされたコンピュータ・システムに限定されている。しかも,処罰対象となる行為は,そのようなシステムに対し,ネットワーク経由で(つまりリモートで)アクセスをする行為,そして,ID・パスワードの他人への貸与とか他人のID・パスワードの売買といった不正アクセス行為を助長する行為のみである。したがって,アクセス・コントロールがなされていないコンピュータ・システムが無断使用されても不正アクセス行為にはならないし,リモートではなく,直接にキーボードを叩いて盗み出したパスワードなどを入力しそのコンピュータにアクセスする場合も問題とならない。このことは,今後のネットワーク社会を展望する上で様々な論点を発生させることになる。
 まず,保護されるコンピュータ・システムが限定されているという点だが,社内LANなどでも小規模なシステムでは個人認証がいい加減なものが少なくない。まして,個人が家庭内等で構築しているネットワーク・システムでは,認証が組まれていない場合が多い。ところが,今後通信回線への接続料金が急激に値下げされ,24時間常時接続可能になり,家庭用テレビ・ゲーム機やデジタル・テレビ受像器がネット端末となってCATV回線等に接続されるようになると,アクセス・コントロールされていない裸の端末装置が無数にネット上に接続され続け,そのような家庭用システムに対する無断アクセス行為が続出するかもしれない。しかし,これらの端末装置に対する無断アクセス行為は,それがアクセス・コントロールされていない限り,不正アクセス行為として処罰対象にはならないのだ。これは,大きな問題だ。というのは,ホーム・バンキングとか家庭用の家計簿管理等のためのデータが個人用のパソコン内に記録されている場合,それが家庭内のパソコンへのネットワーク経由による無断アクセス行為によって外部に持ち出されてしまうかもしれないからだ。これでは,ホーム・バンキングを安全に運営するために銀行やクレジット会社などがセキュリティの確保のためにどんなに努力してみても,まるで尻抜けになってしまうだろう。もちろん,個人のプライバシーも裸同然だ。
 また,リモートによらない無断アクセスは,この法律で処罰される不正アクセス行為ではない。ところが,現実には,会社のパソコンを従業員が勝手に利用して社内秘密情報とか顧客リスト等のデータを盗み出し,社外に持ち出して換金するといった犯罪が頻発しており,最近でもNTTの職員による電話番号情報等の不正流出行為が何度も摘発されているが,このような行為は,リモートでなされるのではなく,データが記憶されているコンピュータ・システムに対して直接になされることが少なくない。要するに,単純な情報持ち出し行為なのだ。リモートによる不正アクセス行為と同様に社会的に問題となり得る行為であるのに,リモートでアクセスされない限り不正アクセス行為にはならない。しかも,大切な個人情報の無断持ち出し行為やプライバシー侵害行為それ自体は,いまだに何ら処罰対象とはなっていないのだ。
 アメリカ合衆国の立法例を見ると,連邦法レベルでは,コンピュータ濫用禁止法と電子通信プライバシー保護法という2つの法律によってほぼ完全に個人のプライバシーとネットワークの安全が刑罰法によっても確保されている。詳しくは,私のホームページ内に参考として挙げてある資料
<http://www.isc.meiji.ac.jp/~sumwel_h/lib/index.html>を参照していただきたいが,今後,この問題も含め,ネットワーク社会における法というもののあり方をもっと掘り下げて検討し続ける必要性がありそうに思われる。


みんな誰でもプライバシー侵害

 通勤電車に揺られながらうとうとしていると,時折,車掌の車内アナウンスが流れることがある。最近しばしば耳にするのは「他のお客様にご迷惑となりますし,心臓ペースメーカーに悪影響を与えますので,車内では携帯電話のスイッチをお切りください」というような内容のアナウンスである。そのような時には,吊革にぶらさがりながら「これは,誰か乗客から苦情が入ったな」などと考えたりする。でも「そんなに神経質にならなくても,大抵の場合は大丈夫じゃないの?」などと思ったりもする。しかし,隣の客の胸元からチャラリラリン♪と大きな着信音がして,まだ神田あたりなのに「はいっ!ただいまそちらに急行しているところです!間もなく新宿駅に到着します!」なんて大声でやられると,とたんにむかついてくる。特に,それが誰かとデレデレいちゃつく会話だったりするとなおさらである。「このやろ!はやく切れ!」と内心思ってしまう。そして,しばらくして冷静になってみると,自分も携帯電話で呼び出しがあれば同じことやっていることをやっと思いだし,「人間というものは,とことん自己本位な動物だなあ」と反省したりもするのである。
 さて,携帯電話には,たしかに文明の利器ではあるが,かくも他人迷惑な側面もある。最近,そのような様々な迷惑の中でも最も大きな迷惑はプライバシー侵害ではないかと思うようになってきた。というのは,携帯電話の受話装置からでる音は非常に小さなものだから,それを隣から盗み聴きすることは簡単ではない。しかし,会話というものは,相手の言葉を引用しながら進行していくものだから,携帯電話に大声で話しかけている者の言葉の中に相手の言葉が混じりこんでしまうのだ。たとえば,「いくら何でも「うそつき」って言うのはひどいじゃないか!」とか「え〜っ!ほんとに**君と**しちゃったの!?」などというような言葉の中には,明らかに相手の言葉が混じっている。また,「それじゃ,渋谷のハチ公像の前で午後6時に!」とか「**会社の契約はうまく取れました!指示どおりにプロジェクトを進めます!」とかいうような言葉の中には,少なくとも相手との間の合意内容が含まれてしまっている。そして,その相手の言葉などの中には,プライバシーにかかわるものの少なくない。当然,事柄によっては,企業秘密の漏洩とか守秘義務違反なども問題となり得る。場合によっては,その会話を盗み聞きした者によるストーカー行為が発生する危険性もないではない。これがiモード携帯電話などで電子メールを読んでいる場合には,もっとひどいことになる。隣のお嬢さんが携帯電話のスイッチをクルクル動かして読んでいる電子メールをその脇又は後ろから盗み読むことは容易なことだ。
 さらに,CCメールの機能を使って複数の相手にメール送信したりすると,メールのヘッダ情報の中に指定されたメール受信者のアドレスが列記されてしまうので,それを目にして,それまで知らなかった人やメーリング・リストのアドレスを知ってしまったりすることもある。こういうのは,大抵の場合,「うっかり」ということが多いだろうが,無知や他人に対する配慮不足から安易になされることもある。ところで,公開された電子掲示板やメーリング・リストに関しては,そこに記述されている情報が公開を前提にするものであるためにプライバシーは存在しないと理解されている。「存在しないもの」に対しては「侵害」もあり得ないから,自ら公開した個人情報に対してはプライバシー侵害が問題となる余地はない。だから,公開の電子掲示板やメーリング・リストへの書き込みや投稿には一定の覚悟が必要だ。その書き込まれた記述内容によって,結果的に,自分が低く評価されたり会社を解雇されたりすることもあり得る。また,自分では秘密のことだと思っていることが秘密ではなくなってしまう。もしそうなっても何も文句を言えないのだ,ということを予め十分に覚悟しておくべきだろう。
 これに対し,閉鎖的なメーリング・リストに関しては本当にプライバシーが存在しないのかどうか議論の余地はある。なぜなら,夫婦間や恋人同士の秘密の会話内容には明らかにプライバシーとして法的に保護されるべきものがあるのだから,会話者の人数がもう少し増えてもプライバシーとして理解すべきものがあってもおかしくないからだ。当然のことながら,受信者が単なる個人の場合には,プライバシー侵害が問題とされ得る余地が飛躍的に大きくなる。それをプライバシーに含めるべきかどうかについては議論もあるが,個人メール・アドレスを誰か知らない人に知られることそれ自体がとても気味の悪いことだと感ずる人も決して少なくないだろう。それが訴訟に発展すれば,どちらの側に立っても大きな消耗を強いられることになる。
 ちょっとした配慮によって他の人から不快感をもたれないで済み,また,大事な人の大切なプライバシーを守ることができるのであれば,ちょっとだけ便利さを犠牲にし,少しだけ我慢したほうがずっとベターな生き方だと言えるのではなかろうか。


ネットにつながる「あなた」は誰?

 インターネットにはいろんな情報がある。中には普通の百科事典なんかよりもずっとまともな情報サイトもたくさんある。ジャズ・アーチストである坂田明さんが火をつけたと言われているミジンコ・サイトはその例だろう。権威ある市販の図鑑などよりも生き生きとした動画などを見ると,「本職の研究者は,どうしてネットの威力と画像技術のすばらしさを活用しようとしないのだろう?」と考えてしまう。アニメ・サイトとかゲーム・サイトなど多種多様なマニアのサイトなどを見ると,思わず「ほんと好きだなあ〜」と妙に感心させられてしまう。ちなみに,私自身は,中年ガンダム・マニアの一人であり,大学の研究室の片隅にはジオングのフィギュアも飾ってある。また,ネット上の電子掲示板には,日々様々な人間模様が展開されている。時として喧嘩の仲裁に入ろうかという気にさせられることもあるが,面倒なことに巻き込まれるのもいやだし,傍観していることが多い。ここらへんは悩ましい問題を含んでいる。もちろん,数あるサイトの中にはかなり悪趣味なものとか変質的なものもある(内容は省略)。
 このような多様なネット参加が可能となっている背景には,匿名でのネット参加が許されているということが大きく寄与している。そして,人間は,自分の好きなことには時間と金を無限につぎ込む動物のようだ。そのためでもあろうか,インターネットで成功するビジネスというのは,物欲や金銭欲や性欲を含めた人間の「欲望」というものに直接訴えかけるものを何らかのかたちで商品やサービスとするものに限られるようだ。自分の正体が分からない時には,その欲望を実現しようとする気持ちが一層強まってしまうのも人間の性といえよう。
 このように,インターネットは,子供を含む普通の市民にも幸福のかけらを多様に与えてくれる便利な道具だ。しかし,その便利さは悪人にとってもまったく同じだということに注意すべきだろう。しかも,人間の欲望を直接に刺激するものは合理的な判断を鈍らせることが多い。実際,ネット詐欺やネット上の誹謗中傷,麻薬取引,個人情報の漏洩などの事件があとをたたず,その被害者及び被害金額も馬鹿にできない水準となってきている。たしかに,犯罪行為を含む何らかの違法行為があった場合,法は,被害者が加害者に対して損害賠償請求をすることを認めている。しかし,加害者が誰なのかが分からなければどうにもならない。このために,インターネットの接続のためには本人確認と登録が必要であるとするフランスの「ネット登録法案」のようなものも出てくるのだろう。この法案は,ネット・ユーザのプライバシー保護の観点から批判と議論を呼んでいる<http://www.mainichi.co.jp/digital/netfile/archive/200005/25-4.html>
 この問題は,非常に難しい問題だ。アメリカ合衆国の議論などを見ると,ネットだけではなく現実社会においても市民の匿名性を維持することの重要性を指摘する見解が少なくない。たとえば,政府機関の窓口で苦情を言う場合でも,実名だと仕返しが怖いけれど匿名であれば安心だ。若い女性ユーザなどの場合には,ストーカーその他の性犯罪者による被害を防止するために匿名性の維持が有効だ。また,人種偏見その他の差別から身を守るためにも匿名性が必要だとも言われている。これは,「あなたは誰?」の質問に対して答えなくても良い自由ないし権利とでも言えよう。
 しかし,すべてのことについて匿名性を維持すると,困ることもある。そもそも安心して取引をすることなど不可能だ。また,もし犯罪があった場合には,警察による捜査が困難になるのは明らかだ。匿名性によって犯人の割り出しが難しくなるからだ。そのために安易にプロバイダのサーバ装置一式が押収されてしまうと,単にプロバイダのサービス運営に支障が出るというだけではなく,犯罪とは関係のないユーザ全部の情報が警察の手に入ってしまうことにもなる。そして,犯罪捜査の過程でサーバの中身を見た警察官や検察官や裁判官の記憶は消えない。その消せない記憶が何らかの問題を発生させる引き金となる危険性は否定できない。何しろ,これらの人々も,様々な欲望を持ったごく普通の「人間」の一員なのであり,しかも一般市民にとっては匿名の存在なのだから。このように,匿名性の問題についての対処には,常に一種の二律背反のようなものがつきまとってしまうことになる。
 そこで,考えられることは,重要な取引や通信については,信頼できる機関によって本人の証明を付したものを利用することにし,それ以外のものについては匿名性を許容し,ユーザ各自が自分の責任と負担で対応するという棲み分けをしていくことだ。とかく難しい問題については,「白か黒か」的な議論が多いが,相互に矛盾する様々な要求を満たすためには,こうした異なる手法を混在させ,ユーザが自由に選択できるようなシステム運営を考慮することが重要ではないかと思われる。要するに,「あなたは誰?」という問いに対して確実な証明付きで返答が与えられるべき部分と,そうではない部分とがあるということになる。
 このような中で,2000524日,日本でも電子署名法が成立した。この法律の条文は,通産省のサイトなどで公開されている<http://www.miti.go.jp/kohosys/topics/00000061/>。この新しい電子署名法によって,電子署名を認証する機関の信頼性確保のための法的仕組みが整備されたことになる。また,電子署名について現実の署名と同等の法的効果が認められ,ビジネスの世界で電子取引を遂行する上での支障の一つが取り払われたことにもなる。そして,電子署名の認証業務を阻害した者については3年以下の懲役又は200万円以下の罰金という罰則も設けられた。
 この法律が「あなたは誰?」を合理的に証明するためのシステムを支えるものとして,ビジネスにとっても市民にとってもより良く機能していくことを期待したい。


言われたくない I Love You もある

 人間には誰にでも愛情欲求というものがある。だから,男女の別を問わず,たとえそれが冗談やお世辞にであったとしても,自分にとって好みのタイプの人から「愛してる」と言われると,決してイヤな気持ちはしないものだ。ただ,調子に乗って悪のりすると,いわゆる不倫関係に発展して収拾がつかなくなったり児童福祉に反する結果を招くことがあるからご用心。これとは逆に,「愛してる」と言ってくる相手が自分にとって好みのタイプでなかったり嫌いなタイプだったりすると,ますますもって嫌いになることもあるし,さらにはストーカー行為とかセクハラ騒動とか痴漢騒ぎとかにまで発展してしまうこともある。この種のごたごたは,現実社会でもインターネット上でもあちこちで目にすることができるだろう。

 ところで,インターネットでは,知らぬ人からラブレターが届くことがある。しかも,来て欲しくないラブレターが来ることがある。電子メールに乗せたloveウイルスが世界中をかけめぐったのは,この5月初旬のことだった。新聞でも「メリッサを超す破壊力」等々との見出しで大きくとりあげられた。報道された被害件数を見る限り,このウイルスによる被害は非常に大きなものであったようだ。当然のことながら,合衆国のFBIをはじめ世界各国の捜査機関も犯人探しに狂奔した。そして,どうやらフィリピン在住の者が犯人らしいというところまで突き止められたのだが,当時,フィリピンにはウイルス犯罪に対処するための法律がないと考えられていたため,犯人と目された者の逮捕にまでは至らなかった。フィリピン政府と議会は,ことの重大性を認識し,ウイルス犯罪者を重罰に処する規定を含む「eコマース法」を急遽可決・成立させた。しかし,この法律の遡及適用(法律が可決される以前の時点に遡ってその法律を適用し犯人を処罰すること)はできないため,結局,loveウイルスの犯人を処罰することができないだろうと思われていた。

ところが,6月末になって,当初の容疑者とは別の者がloveウイルス事件の容疑者として逮捕された< http://www.hotwired.co.jp/news/news/business/story/20000630102.html>[]しかも,新しくできたeコマース法によってではなく,以前からある「アクセス機器規制法」によってだ。それだったら最初からこの法律に基づいて捜査をすればよかったのではないかとも思われるが,いずれにしても,もし有罪になればかなり重い刑に処せられることになるらしい。このようにして,ラブレターの発信者は世界中の人々から嫌悪されてしまったわけだが,その後,もっとあくどいウイルスを混入したラブレターを作成・発信する者も出てきているようだ。安心はできない。

電子メールそれ自体は非常に便利な道具であり,現代社会では不可欠のアイテムとなりつつある。電子メールを悪用したウイルスが猛威をふるっても,だからといって電子メールそれ自体が「悪い」存在だと考えるユーザはいないだろうし,この世から電子メールそのものを抹殺してしまうべきだと考えるユーザもいないだろう。しかし,たとえば,麻薬取引や児童売春など専ら犯罪行為を遂行する目的でメール・サーバを立ち上げているような場合には,そのメール・サーバや発信されたメールは,違法なものとして没収・抹消されることはあり得るし,世論の多くもそれを支持するだろう。要するに,使い方の問題なのだ。このことは,電子メールを含むネットワーク技術が人類史上最も汎用的な道具だということによるものと思われる。

 同様のことは,インターネットで用いられるすべての技術について言えるはずだ。そもそもインターネットの根幹をなすTCP/IPプロトコルやパケットの仕組みから始まって,商用音楽レコード業界からは目の敵にされているMP3にしろ何にしろ,すべてがそうである。とりわけ,音楽データ交換用のフォーマットやサービスは,アマチュアの音楽家や無料配信を希望するアーティストの間での音楽データ交換のためには非常に便利な道具となり得るものなのだから,その仕組みそれ自体を違法視することは,特定の業界による事実上の国際的カルテルを黙認することにもなり,決して許されることではない。つまり,専ら著作権侵害行為その他の違法行為を目的とするインターネット・サイトを法に反するものとして扱うことは当然のことだが,だからといってそのようなサイトを支える技術そのものが悪いということはできない。これは,ちょうど,日常生活で用いられる包丁のような刃物を用いて時として凶悪な殺人事件が発生することがあり得るとしても,だからといって刃物という道具そのものの製造が違法な行為となるわけではないし,通常の用法に従った利用が禁止されるわけでもないことと全く同じことだ。とかく,何か事件があると,その事件に関連する要素すべてが「悪いもの」として扱われてしまう傾向がないわけではないが,冷静な対処が必要だろう。

さて,話題をラブレターに戻そう。

あるアンケート調査の結果によると,電子メールの利用が増加しているとは言っても,恋人とデートの約束をするために電子メールを利用する頻度は意外に低いのだそうだ。これは,無粋だからとか面倒だからという理由によるのか,あとあとのために証拠を残さないようにしようということからなのか,私にはよく分からない。だが,現在のところ,電子メールが電話による会話と同じような意味で日常的な道具にはなっていないのは事実だと思う。それだけに,道具としての電子メール・システムのセキュリティもまだまだ完全なものではない。ウイルス対策という意味でもプライバシー保護という面でも,一般市民の生活を守るための堅実で使いやすいセキュリティ技術が確立されることを切望する。

[注] その後,フィリピン警察当局は,この法律でも有罪とすることができないと判断し,容疑者に対する不起訴が確定したと報道されている。


共通理解を生むための「マップ」づくりを考えよう

私は,大学で講義をいくつか担当している。その中で,学生に対し「今朝は新聞を読んできたか?」と問いかけることがしばしばある。しかし,元気よく「読んできました!」と答える学生はそう多くはない。その原因についてはいろいろと考えられるが,習慣という要素が大きいようにも思われる。つまり,子供は,家庭内で親が新聞を読んでいる姿を見て育たなければ,新聞を読むという習慣それ自体が身に付かない。家庭で新聞を定期購読していても,通勤電車内で読むために親がその新聞を持って出てしまい家庭内に新聞が存在しない場合とか,親がテレビやビデオばかり見ていて新聞を読まない場合などには,その家庭の子供にとって,そもそも新聞を読むという行動パターンを知ったり修得したりする機会が存在しないことになる。同じことは,一般の書籍や辞書についても言えるだろう。親自身が日常的に辞書や辞典をひく習慣のない家庭では,その子供が辞書をひけるようになるのは困難だ。家庭に書棚が存在せず,まともな本も置いていないのに,親が子供に向かって「本を読みなさい」というのでは,そう言われた子供も反発するだけだろう。

このような現象が起きてきたのは,たぶん,人口の大都市集中の結果,それぞれの家庭の親が狭い家屋の中で高額の住宅ローンにあえぎながら書棚や書籍を購入する余裕はなく,長距離通勤等のために疲れ切って,自宅で新聞を読んだり読書をしたりする気持ちにさえなれないということもあるのかもしれない。そのような環境の中で育ってきたのであれば,若い世代における書籍離れや新聞離れが顕著化してくるのは当然のなりゆきというものだ。

 ところが,最近になって,紙媒体に慣れ親しんでいないことによる社会的弊害が多く指摘されるようになってきた。たとえば,電子辞書をうまくひけない,インターネット検索ができない,ワープロで文書を作成できないなどである。これらは,キーボードを打てないからとかパソコンを利用できないからそうなるというのではない。たとえば,辞書の場合には,そもそも辞書というのが「あいうえお順」又は「アルファベット順」にデータを並べた一種のデータベースだということが理解できてきないから,キーワードを入れるところまではどうにかできるが,関連情報の検索ができないし,意味をとったり用例として利用することができない。インターネット検索の場合には,現実の社会の仕組みがどうなっているのかを知らないので,ロボット検索などによって得られたデータの山の中から必要な情報だけを選別することができない。文書作成の場合には,各分野・目的に応じた書式の選定の重要性を理解できず,人によっては,文章構成それ自体ができない場合さえある。普段何も考えておらず書籍に親しんだこともなければ,文章を作成できなくなるのは当たり前のことだ。

考えてみれば,人間は,その成長段階や経験等に応じて大小精粗様々なマップを頭脳内に持っており,そのマップに従って外の世界を理解するのだから,その脳内のマップが貧弱であれば,その者の世界に対する興味・関心や理解,そして,世界に対して訴えるべき意見や主張も小さくゆがんだものとならざるを得ないだろう。このマップは,個人の頭脳の中だけではなく,社会の中にも「共通理解」として存在する。いわゆる「常識」と呼ばれているものもそれに含まれる。

ところで,この「共通理解」もまた正しくないことがあり得る。たとえば,最近,「通信と放送の融合」なることが言われているが,これもその例の一つだ。この融合論によれば,「通信」と「放送」はこれまでは全く別のものであり異なる法制度に基づいて規律されていたものだったが,今後それが融合するのだという。たしかに,放送法や電波法などの適用がなく通信事業法に基づいて運営されるインターネット上でラジオ放送や地上波テレビ放送とほぼ同じサービスが提供されている。逆に,有線テレビ局ではインターネット接続サービスや電子メールサービスも提供している。これまで通信媒体と考えられていたものの上で放送のようなことがなされ,放送媒体の上で通信サービスが提供されているのだ。

しかし,私は,この融合論は,意図的にせよ何にせよ,あまりにひどくゆがめられた狭隘なマップに基づくものと考える。つまり,通信も放送も,「情報伝達媒体」というくくり方からすれば,もともと同一のものだ。ただ,これまでの時代において現実に利用可能な技術(周波数帯の利用を含む。)が限られていたために,技術的な限界が社会的なマップの限界となって,それぞれ異なる法制を要すると考えられてきたのに過ぎない。

だが,インターネットを含むデジタル情報技術の急速な発展は,これまでの技術的限界を既にほぼ全面的に解消してしまっている。放送技術などに特有の要素を重視した保護政策や規制政策は歴史上の一時的にだけ意味のあった特殊現象だ。そして,実は,ただ1個の通信法だけがあれば最初から足りていたのだ。その意味で「通信と放送の融合論」は間違ったマップに基づく見解だといえよう。正しいマップによれば,本当は,「通信」も「放送」も,「情報伝達媒体」という大きな集合の中の部分集合に過ぎなかったのだ。そして,次に来るであろう問題は,印刷媒体とデジタル媒体との関係に関連するものとなるだろう。つまり,新聞・書籍とインターネットとの関係(特に再販制の問題)が浮上するのだ。

 今後,社会的なマップを正しく形成していくために,ますますもって真の叡智が求められる時代となっていくように思う。そこでは,知識・経験が豊かであることだけではなく,世界に対する理解の深さと様々な利益に対するバランス感覚の良さとが求められるに違いない。


米国ビジネス特許紀行(その1)

 2000年7月24日から30日にかけて,私は,ビジネス特許の実状を視察するツアー(日本経営協会主催)に視察団長として参加し渡米した。この旅行が実現するについては,関係諸機関から様々なご協力も得た。この場をお借りして感謝の言葉を申し上げたい。視察旅行の訪問地は,合衆国東端ワシントンDCにある米国特許商標庁(USPTO),バージニア州にあるNetwork Solutions (idNames.com)社など,合衆国西端ワシントン州のシアトルにあるAmazon.com及びMicrosoft本社などだ。日程と移動距離からするとかなりハードな旅行でもあったが,とても楽しく有意義でもあった。この視察旅行の概要は,私のホームページ内に「私的なレポート」<http://www.isc.meiji.ac.jp/~sumwel_h/doc/BMP2000/>として公表している。この旅行で得た成果の中には,広く周知し,多くの人々に考えてもらいたいことも含まれている。そこで,このコラムの場で何回かに分けてその成果のいくつかを紹介しようと思う。
今回は,
USPTOでの会談などの話題を提供しよう。

 私たちは,7月25日の午前にUSPTOを訪問した。USPTOでは,原則として,民間団体からの視察旅行等に応対しない方針だとのことだったが,関係諸機関のご助力によりここを訪問できたことは非常に幸運なことだと思う。USPTOの建物は,非常に大きく,最新の設備が導入されており,内装なども立派だった。そして,受付から会議室に通ずる廊下の左右壁面には,古い特許証書や歴史上重要な技術関係の図面等の資料をきれいに額に入れ,たくさん飾ってあった。それを見ると,アメリカ合衆国が過去の歴史上「特許」や「発明」をいかに重視してきたかをすごく実感することができる。リンカーン大統領が彼自身特殊な船舶などの発明家でもあったということ,また,新型大砲などの強力な兵器の開発と特許化を奨励し,南北戦争において,当初は南軍よりも不利な戦況にあった北軍を最後の勝利へと導いたということは,米国の特許制度史上でも最も有名な逸話の一つだが,これもまた宜なるかなというような感をいだく。日本の高校教科書では,リンカーン大統領が黒人奴隷解放論を採用したことが南北戦争における勝利への鍵になったのと同時に,そのことがまたリンカーン大統領暗殺の原因にもなったという浪花節的ないし情緒的なことしか書いていないことが多い。しかし,日本の政府と企業は,現代のグローバル化した情報ビジネスの世界でもなお通ずるこの冷酷な現実をもっと厳しく直視すべきだろうと痛感した。
 会議室では,
USPTOのスーパーバイザーや特許審査官(examiner)の方々など多数が応対してくださった。同行した通訳のW氏によると,「日本の政府機関の担当者等が訪問しても数人の審査官が応対するのが通例なので,異例な歓待だと思う」という。ありがたいことだ。

 さて,ここでは,非常に友好的な雰囲気の中で,USPTOのビジネス特許の歴史,審査基準や審査方法,審査官の教育システム,今後の方針等についてのブリーフィングを受けた後,自由に意見交換をした。折しも,訪問の数日前にはUSPTOから「ビジネス・メソッド特許ホワイトペーパー」が公表されたばかりであり,これに関連する説明も盛り込まれていた。このホワイトペーパーは,インターネット<http://www.uspto.gov/web/menu/busmethp/index2.htm>を通じて入手することができる。

 まず,用語の問題だが,説明によれば,「ビジネスモデル特許(Business Model Patent)」という用語は,概念として狭すぎ既に古いのだという。USPTOは,今後,ビジネスモデルを含め,様々なビジネスの方法を「ビジネス方法特許(Business Methods Patent)」として,その特許による保護を検討していく方針だという。そして,今後出現する可能性のあるビジネスの方法としては,ヒトの遺伝子情報を応用した様々なビジネスの方法が予測されるという。たしかに,今回の視察旅行の訪問先では,どこでも「Business Methods」という用語を用いており,「Business Model」という用語を耳にすることは,ほぼ皆無に近かった。また,ビジネスの方法の特許化についても,よく考えてみると,結構昔からなされていることになるという。たとえば,IBMの創立者であるホレリス氏から出願されたパンチカードの特許は,紙のカードを用いた集計手段等に関する特許であり,一定の機械・技術を用いた「集計ビジネスの方法」を特許化したことになり得るという。もし本当にそうだとすれば,確かに,インターネットが普及する以前から「ビジネス方法特許」が多数存在していることになる。この点を含め「ビジネス方法」の定義と歴史については,上記ホワイトペーパーにも詳細に記述されているので,是非とも参照されたい。

 他方で,申請されたビジネス方法特許の審査について日本の特許庁もひどく苦労していることは周知の事実だが,USPTOでも事情は全く同じのようだ。特に,情報ネットワーク技術の応用としてのビジネス方法特許は,それ自体が新しいものであり,先例に乏しいため,先行特許として引用される特許も極めて少なく,関連技術等の調査が大変なのだそうだ。しかも,ビジネス方法特許の実際の内容となっている個々具体的な「ビジネスの方法」は,先行特許等の情報の中に含まれていることは少なく,膨大な量の特許外情報の検索・調査をしなければならない。このため,USPTOでは,商用DBも含めデータベース・システムの大規模な導入と活用をしているとのことであり,審査官の教育システムの中でも情報検索と分析のためのトレーニングが大幅に取り入れられているという。日本では,データベースそれ自体がまだまだ未発達なだけではなく,商用DBに利用料金を支払って情報検索することの重要性が十分に理解されているとはいえない現状にある。今後,日本の情報産業の発展を考えると,データベースの社会資源としての重要性を正しく評価し,そして,その利用に対する適正な料金の支払及びその利用のためのトレーニングというものを,ビジネスや投資の面からも,また,税務・会計の面からもしっかりと検討すべき必要性があると思う。


米国ビジネス特許紀行(その2)

 今回は,シアトルでのAmazon.comの担当者との会談の話題を提供しよう。

 実は,Amazon.com訪問はこの視察旅行の目玉の一つだったものの,当初,その実現が危ぶまれる中で,いわば見切り発車的に成田空港を出発したのだった。これは推測だが,有名なワン・クリック特許を取得したことに対してマスコミその他から厳しい非難を受けたという苦い経験から,見知らぬ訪問者への対応に,やや神経質になっていたのかもしれない(同社の顧問弁護士は,某著名新聞紙上で「インターネットのダースベーダーだ」と書かれたそうだ。)。また,折しも,同社は,ネットワークを利用した書籍販売事業の新たな世界展開を企図し,その大詰めの段階だったことから,新規事業計画の詳細が事前に漏れることを危惧していたのかもしれない(帰国後,同社が日本の書籍物販企業等と手を組んで,日本国内でも事業を開始するということが報道された。)。

 しかし,我々の視察旅行がまじめな目的によるものであり,企業スパイでもないことを理解してもらえたのかどうか,ワシントンDCに到着してみると,現地のエージェントから,Amazon.comの担当者との会談が実現できる見込みだとの連絡を受け,私も本当にほっとしたのだった。

 Amazon.comとの会談は,同社の顧問弁護士が所属するシアトルのPerkins Coie 法律事務所内の応接室で行われた。Coie は,現地では「クイ」というような感じに発音するらしい。会談場所がAmazon本社でないのは残念だった。だが,その代わりに,サイバー法の領域では先進的な弁護士事務所として非常に有名なPerkins Coieの明るく爽やかなオフィスを見学できたし,加えて,シアトル市内でも最も高層で美しいビルの中にある事務所のテラスからシアトルの湾内を航行する船舶や針葉樹で豊かに覆われた周囲の山々などの風景を十分に味わうことができるという予想外の余録もあった。日本の標準的な弁護士事務所とは相当かけ離れたその執務環境の快適さに,私は,ちょっとだけ羨望の気持ちを覚えた。ともあれ,私たちは,標準的な日本人にふさわしく,そのテラスからピラニアの如くがつがつと写真を撮りまくったのだが,会談中には,テラスと隣接するその応接室の窓越しに,別の訪問者ご一行様(中南米人又は米国人らしい)が同じように記念写真を取りまくっている姿が見えたので,どうやら「カメラ好き」は日本人観光客だけの特権ではないらしい。

 さて,会談は,Amazon.comの知的財産権担当役員Jacobs氏との間で,顧問弁護士も同席して行われた。終始楽しい雰囲気の中で自由に意見交換がなされたし,双方とも得るものが多かったと思う。

 会談の中で意外だったのは,Amazon.comは,ワン・クリック特許をビジネス方法特許だとは考えていないということだった。周知のとおり,Amazon.comは,多くのネット関連特許を取得している。有名なものとしては,アソシエイツ特許がある。説明によれば,こちらのほうは,ビジネス方法特許だと考えているという。どこがどう違うのかというと,ワン・クリック特許は,書籍受発注の仕組みをネットで自動化した普通のシステム特許に過ぎず,ネットワーク・システムを離れてビジネスのスタイルとしての特許を取得したものではないのに対し,アソシエイツ特許のほうは,純粋にビジネスの方法それ自体を特許化したものだという。少し分かりにくいし,顧問弁護士も「difficult」だと言っていたので,明確に識別するのは難しいことだと思う。ただ,日本のいわゆるビジネス・モデル特許関連書籍の中では,ワン・クリック特許がいわゆるビジネス・モデル特許の代表例としてあげられることが多いのに,当の本人はそう思っていないというあたりは,非常に興味深い。今回の視察旅行における最初の訪問先であるUSPTOでも,日本を出発する前に理解していたこととは違うことを教えていただいたのだが(前回のコラム参照),これまた貴重な体験だった。

 Amazon.comがビジネス方法特許を取得し,他のネット書籍販売企業に対して訴訟を起こしたことは有名なことだが,この点に関する説明も明確だった。「後から見れば簡単」という格言があるそうだ。「コロンブスの卵」と同じ意味らしい。要するに,「額に汗して」新たな技術を開発したのに,苦心の末に特許を取得したとたんに「そんなのは昔からみんな知っていたことだ」と言われるのは心外だというのだ。たしかに,個々の要素技術は既知のものかもしれないが,それらを組み合わせてビジネスで実用的なものとして利用できるシステムを開発し,実際に特許を取得するのは容易なことではないという。実際,訴訟をしてみると,ワン・クリック特許開発チームのエンジニア達は,裁判所を説得するための説明資料の作成やミーティング等でくたくたになってしまったし,弁護士報酬を含めた訴訟費用も馬鹿にならず,「もう,こりごり」だそうだ。これを聞いて,私は,新に意味のある特許技術は,それを開発するのにも,また,取得した特許を守るのにも,多大の労力を要するものだなあと痛感した。所詮,努力なしの「濡れ手に粟」的な発想では,ビジネスに結びつくことはないのだろう。

 こうした苦労が伴う特許取得なのだが,ワン・クリック特許の発明者達に対する報酬は,これまた意外にも,CEOからの「Thank you」の一言だけだったらしい。以来,Amazon.comでは,MicrosoftIBMのように「1日1件出願」とまではいかないが,相当数の特許を出願・取得している。そのために,現在では,特許技術開発者に対し,奨励金に代わる報償として,ストック・オプションを与えているという。これは,Amazon.comのような小さなベンチャー企業は,相当多数の特許を保有していないと,万が一,大企業から特許侵害を主張された場合に,クロスライセンス契約の締結によって切り抜けようとしても,ライセンス料の差額分の支払いだけで巨額になってしまい,多数の特許を保有する大企業にたちまちつぶされかねないからだという。比較的楽天的な気分でいることの多い日本のベンチャー企業にとっても「他山の石」とすべき一言というべきだろう。


有害情報をどう見わけるか

 世の中にはいろんな情報がある。インターネットが汎用性の高い情報伝達媒体として多くの人々によって,国境と時間の壁を越えて広く利用されるようになるにつれ,情報のもつ多様性もますます拡大してきている。その中で,いわゆる「有害情報」をめぐっては,その規制の必要性が叫ばれている。そして,そのための新たな法制度を設けることも検討されている<http://www.mainichi.co.jp/digital/network/archive/200010/30/2.html>。インターネット・サービス・プロバイダは,警察や個々のユーザなどから「有害情報だから削除せよ」と要求されたり,苦情を受けたりすることが珍しくない。もちろん,問題となるコンテンツや記述等の中には,麻薬取引関連の情報やネット詐欺のための記述のように明らかに違法なものもある。しかし,問題とされている情報が本当に有害であるかどうかは,いつでも容易に識別できるわけではない。アップされている画像が違法なわいせつ画像になるのかどうか,あるいは,電子掲示板への書き込みやホームページ上の記述などが他人に対する誹謗中傷として名誉毀損的な表現になるのかどうかなど,中には専門の法律家でさえ判断に苦しむものも少なくない。

実は,よく考えてみると,一口に「情報」と言っても,コンピュータで処理される情報は,単なる電子符号の列に過ぎない。そして,「有害」や「有益」などを含めた情報の種類・属性なるものは,要するに,その電子符号の列に対する,その受け手から見た主観的評価であるのに過ぎない。したがって,正確に言うと,情報それ自体には,最初から「種類」も「属性」も存在せず,その情報を受ける人間の側に様々な価値判断や評価が存在するだけだということになる。だから,人間の評価という観点を捨象するのである限り,「有害情報」なるものが自立的・客観的に成立することはありえない。そして,人間の主観的な判断というものは,その判断者の価値観,世界観あるいは性格,好み,生活習慣などによって決定的に左右されてしまうものだから,判断基準そのものが不動のものでは決してあり得ないのだということができるだろう。

さて,本当はこうなのだということを踏まえた上で,いわゆる「有害情報」なるものの本質を考えてみよう。

まず考えなければならないのは,ある情報を「有害だ」と考える人がいるとしても,そのような情報が存在するのは,その情報が「有益だ」と考える人が存在するからだということだ。その上で,多くの人にとって「有害」と感ずる情報であっても,結論として駆除すべきものと,短絡的な対応を慎みよく考えてから対応を考えるべきものとがあることを認識することが重要だ。たしかに,有害とされる情報について,反対の立場の人々が「有益だ」と考える根拠が,正義の観点からみて絶対に許されないものである場合には,それは駆除すべき情報として扱ってよいと思われる。たとえば,その情報が存在することに有益性を見出すのが犯罪者集団しかいないというような場合はそうだ。これに対し,たまたまその情報が有害だと感ずる人が多数派であるという理由だけで有害とされているものは違う。もし,何らかの事情の変化によって,その情報が「有益」だと感ずる人が多数派になれば,それまで「有害」とされた情報が「有益」となり,逆に,それまで「有益」とされていた情報が「有害」とされることもあり得る。このことは,革命や戦争などによって国家体制が根本から変わってしまうような場合,あるいは,時代の変化と共に人々の価値観に大きな変化が発生するような場合には,現実にしばしばみられることだ。たとえば,かつては白い目で見られた身なりや髪型などでも,現代では流行ファッションの一部になっているものも少なくないし,その逆もまた真だ。

また,その情報を「有害だ」と声高に主張する人がいるためにそのように扱われているけれども,本当は,多くの人々にとってどちらでも良い情報もある。この場合には,多くの人々が無関心であるために,結果的に,ごく少数の人々によって社会全体の価値判断基準が支配されてしまっていることになる。

 このように,「有害情報」とされるものがなぜ有害と判断されるのかという社会メカニズムを冷静に考察してみると,日ごろ何となく有害ではないかと感じている情報の中にも必ずしも有害と決めつけるわけにはいかないものも含まれており,その識別基準を安易に定めることは非常に危険なことだということが分かる。ここでもまた,バランスの良い冷静な判断が求められていると言えよう。

IT革命は本当に福音か?

 今国会においていわゆる「IT基本法」が成立した。2000121日にはデジタル・テレビ放送が開始された。また,パソコン雑誌や経済雑誌でも情報家電関係の記事が数多く掲載されるなど,世はあげてIT(情報技術)礼賛の気分に満ちている。このような社会的動きのことを「IT革命」と呼ぶらしい。簡単に理解できるようでいて実はよくわからない言葉だが,何となく良いことがたくさん起きるような予感をさせる言葉として受け取られているらしい。たしかに,最近ヒット商品が出にくくなっている家電メーカーにしてみれば,情報家電製品を売り込む絶好のチャンスだ。

 しかし,非常に遺憾なことだが,カタログ・スペックと現実に実装され実現されている機能とが必ずしも一致していないことは,しばしばある。このことは,数多くのパソコンやアプリケーション・ソフトでも見られる。だから,IT革命なるものによって,世間で言われているように凄いことが本当にすぐに起きてしまうとは思えない。このことを一応おくとしても,実は,現代社会は,もっと深刻な問題をかかえこんでしまったのだということを忘れてはならないと思う。つまり,情報家電を含むさまざまな情報技術が身近なものとして家庭内に入り込んでくるということは,パソコンで接続されたインターネットがかかえるほぼすべての問題を,インターネットとは無関係だったはずの家庭内に持ち込むことになるということを意味しているのだ。

 たとえば,いわゆる「クラッキング」がそうだ。現在普及している家電製品は,ネットワークに接続されているわけではない。したがって,ネットから侵入するという手法によるクラックキングが発生することはない。しかし,デジタルTV受像器を含む情報家電は,要するにコンピュータ装置が組み込まれた家電製品であり,しかも,ネットワークに接続された家電製品だ。そうである以上,その情報家電を動かすためのプログラムが当然組み込まれている。このプログラムは,多くの場合,ネットを通じて制御または破壊可能なものだろう。だとすれば,ネットに介入することが可能な限り,リモートによるクラッキングは,情報家電についても成立可能だ。

 また,プライバシー侵害も心配だ。双方向デジタルTVや情報家電の多くは,ユーザの動向に関する情報を蓄積し,その蓄積された情報を多くの企業に提供することのできる機能を持っている。たとえば,冷蔵庫にどのような食品が出し入れされているか,電子レンジでどのような料理が調理されたかといった情報を蓄積することは容易なことだ。ネットでそのような情報のやりとりをした上で,レシピを送受信したりとか,健康管理メニューを送受信したりといったようなサービスが提供されるようになるまでには,そう長い時間を要しないだろう。しかし,ここでやりとりされているのは,その冷蔵庫や電子レンジに出入りしていた食品等のデータによって解析可能なプライバシー情報なのだ。クッキーの技術の応用も可能だろう。加えて,ネットに接続された情報家電は,LANに接続された端末装置と同じだから,そのディスク等に記録された情報が相互に丸見えになってしまうこともあり得る。このことは,一部のCATVなどで既に発生している。つまり,普通の従来型の冷蔵庫や電子レンジでは絶対にあり得ないことが,情報家電では,インターネットに接続されたパソコンと同じレベルで発生してしまうことになる。

 他方で,通信機能を持つ情報家電では,コンピュータ・ウイルスの問題やいわゆるSPAMメールの問題が発生してしまう危険性もある。たとえば,デジタルTV受像器のネットワークを通じて,大量のダイレクト・メールがどんどん送り込まれ,ハードディスクが一杯になってしまい,TV画像の受像のために必要な領域を食ってしまうというようなことがあり得る。このダイレクト・メールの中には,アダルト系の情報など,児童には見せたくないものも含まれるだろうが,子どもたちは,家庭内でテレビのリモコン・スイッチを押すだけで簡単にそのような情報を手にしてしまうかもしれない。このことは,携帯電話でも同じなのだが,通信機器だということを実感しにくいタイプの家電製品の中でこれらの問題が起きてしまうということが最大の問題だ,ということもできよう。

 このような様々な問題をはらみつつ,いわゆるIT革命は,いよいよスタートを切ってしまった。今後は,普通の市民が安心して情報技術の恩恵を享受できるような工夫も同時に考えていかなければならない。情報家電を製造販売するメーカーや情報家電を活用して様々なサービスを提供しようとしている企業各社に対しては,一般市民の安全を守りつつ情報家電の良さを活かしたビジネスを賢明に展開することを切望する。


日米の電子署名法を比べてみると

昨年5月,日本の電子署名法が制定された,この電子署名法は,20014月から施行される予定だ。

電子署名法は,世界各国で法制化が推進されている法律の一つだ。それは,今後のネット・ビジネスを安全・確実に展開するためには,ネット上でなされる電子行為が本人によってなされたものかどうかを間違いなく確定できることが生命線ともいうべき最重要ポイントであり,そして,そのために現在利用可能なシステムとしては,電子署名が最も有望な仕組みだからだ。

世界各国の電子署名法は,それぞれの特色を持ち,相互に長所・短所を持っているが,日本のネット・ビジネスを考える上では,日本の電子署名法とアメリカ合衆国連邦の電子署名法とを比較し検討してみるのが非常に有益だと思われる。

まず,日本の電子署名法の基本構造を一口で言うと,それは,民事訴訟法を実質的に一部改正する部分(3条)と電子認証業務を行う企業等のための電子認証業法としての部分(4条以下)の2つの部分を持つ法律だ。一つ目の部分は,電子署名が付された電子文書の場合でも,一定の要件を満たす限り,電子署名の持ち主がその電子文書を作成したものと推定できることを定めており,電子文書によってなされた電子契約に関連する訴訟では大きな意味を持つ。二つ目の部分は,電子認証業務の信頼性を確保・維持するために不可欠のものだと言えよう。しかし,日本の電子署名法は,PKI(公開鍵暗号方式)による電子署名を一応念頭に置いて制定されたものであり,他の種類の電子的な本人確認システムに対応しているとは限らない。また,上記のような基本構造を持つ法律であるために,小口取引に参加する消費者を保護するための条項も全く含まれていない。しかも,電子署名を用いた電子取引の法的要件や法的効力などについて定める法律ではない。

これに対し,アメリカ合衆国連邦の電子署名法は,まず,電子署名をPKIに限定せず「電子的な音響,シンボル,プロセス」によるものだと定義している。「音響」とは声紋によるものを,「シンボル」とはパスワード等によるものを,「プロセス」とはリモートによる筆跡の認証その他様々な電子的処理によるものを想定するものと思われる。また,連邦電子署名法は,消費者保護のためにも周到な準備をしている。つまり,消費者が電子署名を用いる場合には,その内容・方式,電子署名による契約の効果,電子署名を用いるために必要な機器・ソフトウェアその他電子署名に関する重要な情報を事前に開示すべきことを規定し,また,消費者が電子署名を用いることを撤回した場合の取扱等もきちんとフォローしている。さらに,連邦の電子署名法は,各州で採用が進んでいる統一電子商取引法(UETA)を基軸とする電子商取引の法制整備を実質的に推奨している。このUETAは,電子商取引の法的要件及び法的効果等を詳細に定めるモデル法律で,サイバー法の世界では最も注目を集めているものの一つだ。そして,この法律の中には,アメリカ合衆国の世界に対する態度として,電子署名及び電子商取引をグローバルに推奨・推進することが明確に宣言されている。その意味で,この法律は,アメリカ合衆国連邦の電子商取引基本法としての位置付けをすることができるだろう。

さて,電子商取引は,B2BからB2Cへとその勢力範囲を広げつつあり,今後C2CP2Pも非常に活発になるだろう。B2Bとは異なり,一般消費者がプレーヤーとして加わるB2CC2Cでは,消費者の保護をきちんと確保しなければならない。そうでなければ,一般の消費者は,電子小取引が危険なものだと思うだろう。そもそも,消費者だけが電子取引上のつけを支払わされなければならない理由などないのだ。他方では,きちんとした電子商取引法がなければ,電子商取引の法的要件や法的効果について判断するための判断基準が存在しないことになる。なるほど,優秀な弁護士や裁判官なら「解釈」によってその基準をみつけることもできるだろう。しかし,現在求められている判断基準は,普通の人にも分かる判断基準なのだ。

 21世紀のビジネスは,顧客オリエンテッドなビジネスでなければならない。その意味でも,一般消費者の利益もバランスよく考慮に入れ,安全・確実な電子商取引を実現するための分かりやすい判断基準としての電子商取引法が制定されることを望みたい。

知的財産権をめぐる無思慮な議論を批判する

20世紀に引き続き21世紀に入っても、あいかわらずインターネットに関連する法制度見直しの議論がマスコミをにぎわせている。

新聞記事によると、違法に複製された音楽コンテンツがいわゆるファイル交換ソフトウェアによって広範に流通してしまうことを防止するために、デジタル・コンテンツに著作権管理情報を付することを義務づけることにしようという動きもあるようだ。たしかに、自分の著作権を守りたいと考える著作者は、自己責任の原則に従い、きちんと著作権管理情報を付してデジタル・コンテンツを公表すべきだろう。このような管理情報を保護するための法制度の整備は、すでに現行の著作権法の中で実現されている。著作権管理情報を改竄したり破棄したりする行為は、それ自体で著作権の侵害行為とみなされ、そのような行為をする者は、損害賠償責任を負うだけではなく処罰されることもある。

しかし、このような管理情報をすべてのデジタル・コンテンツに付することを義務化し、強制することは大きな間違いだ。それを強制することは、そのような技術を持たない著作者を不当に迫害するような結果となるだけではなく、著作権制度の基本原理にも反することになるからだ。

著作権法は、無名や変名(ペン・ネーム)等による著作物の公表を認めている。これは、思想・信条の自由を守るためのものだ。つまり、著作物の中には、政治的メッセージや宗教的メッセージを含むものが少なくない。たとえば、ビートルズのヒット曲の中には政治的メッセージを含むものがあるが、そのメッセージを嫌う政治家は存在するだろうし、また、隠れたベストセラーと言われるグレゴリオ聖歌はキリスト教徒の祈りそのものだが、他の宗教の信者にとっては心地よいものではないかもしれない。もちろん、ビジネスで利益を得ようとすれば実名で勝負せざるを得ないが、実名を出すことをためらう者も決して少なくない。世界の古典とされている様々な書籍の中にも、最初は政府からの弾圧を恐れて偽名で公表されたものが少なくない。シェークスピアでさえ、実在した人間の名前ではなくペン・ネームなのではないかという説が有力だ。このようなメッセージのすべてについて実名による公表を義務づけてしまうと、弾圧や迫害やいわれのない差別その他の重大な混乱をひきおこしてしまう危険がある。だから、誰が著者か分からないものやペン・ネームによるものが存在するのだ。これは、いわば、これまでの歴史の中でさんざん戦争や人殺しを繰り返してきた人類が苦悩の末に見つけだした極めて正しい調整原理とでも言うべきものだろう。ところが、デジタル・コンテンツについて、実名による管理情報を付与することを義務付けるとすれば、結局、その管理情報から権利者の情報を検索することによって、特定の思想や宗教観を持つ者だけをあぶり出すことを可能にしてしまう。このようなことは、著作権法1条に掲げられている文化の発展という理想とマッチしないことはいうまでもないし、また、インターネット上の平和を支えるための重要な思想である「多元主義」(異なる思想や価値観の共存を互いに承認すること)にも明らかに反する。

 著作者の経済的利益を守る以前に、メッセージを発信するすべての者の思想・信条の自由を守るべきだ。思想・信条の自由が守られないところでは良い著作物も決して産み出されず、良いコンテントがなければデジタル・コンテント産業も成立しないのだ。だから、著作権の管理情報を付することを義務化し強制することは大きな間違いなのだ。

 他方で、ドメイン名に関しては、不正競争防止法の改正によって対処しようという動きがある。このアプローチは、企業の商標や商号を守るという目的のためには全く正しいものだといえる。しかし、ドメイン名は、企業だけのものではない。仮にドメイン名が不正競争防止法で保護されるとすれば、商人ではない個人や団体のドメイン名が保護されないだけではなく、ドメイン名があたかも企業のためのものであるかのような誤解を与える危険性がある。それでも、個人であれば、人格権の問題としてドメイン名の紛争に対処することが可能だろう。しかし、NPOや政党や宗教団体や学校などを含む非営利団体のドメイン名については何も保護されない。なぜなら、これらの団体は、商人ではないのだから不正競争行為が問題となる余地が最初から全くないからだ。逆に、ドメイン名関連の裁判においては、これらの団体に対して企業が相対的に優位に立つというような危険性さえも憂慮される。

 著作権の保護についてもドメイン名の保護についても、社会と文化全体を見渡したバランスの良い法的解決が模索されることを切望する。

ネット投票にはこんなに問題がある

 情報社会は,いよいよ民主主義の核心部分にも及んできた。政府は,公職選挙法を改正した上で,まず自治体選挙からネット投票の導入を検討する方針を固めたと報道されている<http://www.asahi.com/tech/ec/20010123a.html>。たしかに,選挙結果を迅速に集計したり,遠隔地にいる者でも投票できるようにしたりするためには,このシステムは有用なものだと言えるだろう。

 現実に,機械装置を用いた多数決それ自体は,すでに珍しいものではない。たとえば,日本の国会でもボタンを押して議決するシステムが導入されている。アメリカ合衆国では,州民の地方自治参加のためにCATVを用いたリモート投票システムが導入されている州もある。しかし,反面で,ネット投票には様々な問題もあることもかなり以前から指摘されてきた<http://citeseer.nj.nec.com/49379.html>。問題の所在は,ネット株主総会の議決など民間部門でも全く同じなので,論点を整理して紹介してみよう。

秘密投票の確保

 まず,近代国家においては「秘密投票」という社会システムが確保されていなければならない。誰が誰に投票したのかが分かってしまうと,自由意思に基づく投票によって合理的に民主主義を維持することができなくなる。だから,選挙では「投票の秘密」が確保されなければならないし,それを維持することによって市民のプライバシーも守られる。
ところが,他方では,投票権の平等を確保することも重要なことだ。そのために選挙管理委員会による選挙人名簿との照合や選挙会場の監視等がなされる。しかし,投票の秘密が守られている限り,紙の投票用紙によってどの候補者に投票されたのかは開票まで全く分からず,問題も比較的少ない。しかし,ネット投票では,投票者の投票権の行使を確認するために個人識別番号が用いられることになるだろう。そして,この個人識別番号とネット上のトランザクションとしての投票行為とをマッチングすることによって,リアルタイムに個人の投票行為及び投票内容をモニターすることができる。これでは,秘密投票とはいえない。

セキュリティの確保

 ネット上での投票データは,選挙管理用のデータベースに蓄積される。ところが,このデータベース上の投票データがクラックされてしまうと,選挙のやり直しが何度でも必要になる。のみならず,クラックの事実を知らないで投票集計がされると,民意に反する者が議員に選出されてしまうことになる。このように,ごく少数の者のクラッキングによって選挙結果が左右されてしまう可能性があるのでは,すでに投票システムとしては失格であるといわざるを得ない。

 この問題を解決するためは,単に投票データのセキュリティを確保すれば良いというわけではない。そのシステムに接続する全てのネットワーク・システムと端末装置について一定以上のセキュリティを常に確保しなければならないだろう。選挙や議決では,不正アクセスなどの違法行為を後に処罰するのでは遅すぎる。リアルタイムに安全性と信頼性が維持されていなければならない。アメリカ合衆国におけるブッシュ氏対ゴア氏の大統領選挙の様子を見ても分かるように,何度も集計をやり直さなければならない要素を含む選挙システムは,それ自体が大きな社会的不安要因なのだ。

情報操作の防止

  すべての投票システムは,恣意的な情報操作がないことを前提に運用されている。現実世界では,ごく少数の人間だけで投票用紙の全部を一枚一枚書き換えることなど事実上不可能だ。作業数の膨大さが情報操作を困難にしており,また,もし不正行為がなされても発覚しやすい状況をつくりだしているということもできる。しかし,ネット投票は集中管理をしなければ機能しない。システムの管理者や侵入者は,プログラムの書き換えやデータの置換えによって,すべての投票データを自由自在に操ることができる。だから,ネット選挙が実現している社会では,民主的に正当な手続に従って選出されたかのように国民に信じ込ませたままで,非常に単純な方法によって独裁者となることも不可能ではない。

 この問題は,およそ全ての人間を信じないという前提にたたない限り解決できないのかもしれない。しかし,だからといって,映画「ターミネーター」の世界を現実化させてしまうことは,人類にとって最も愚かしい選択であるのに違いない。ネットで実現すべきこととそうでないこととを賢明に切り分けて判断することが重要だ。


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Last Modified : May/01/2001