21世紀の裁判所と書記官
by 夏井高人
初出 : 書記官171号 18頁(1997/05/01)
目 次
1 国際化
2 情報化
3 司法社会化
4 専門化
1 調書事務
2 準司法的事務
3 調査事務
4 秘書的事務
5 窓口・相談事務
6 システム・マネージメント
1 情報処理能力
2 語学力
3 専門知識
4 折衝力・表現力
5 職業倫理
1 司法の存在意義
2 正義と公平
このたび富士見同窓会から何か書記官事務に役立つことを書いてほしいと原稿執筆の依頼を受けたのですが,これまでの私の経験に鑑みどのようなことを話したらよいかを検討した結果,「21世紀の裁判所と書記官」と題して,これから書記官の皆さんに考えていってもらいたいこと,それから私自身の個人的な見解ではあるけれども,これからの裁判所として向かっていってほしいという提言的なものを書いてみようと考えました。
私は,これまで約14年の間,裁判官の仕事をしてきましたが,この3月をもって退官する予定です。その間,裁判官としていろいろと考えてきましたし,また,法学研究者としてもいろいろなことを考えてきました。さらに,過去2年間にわたり裁判所書記官研修所の教官としてもいろいろなことを考え,また経験し,自分なりに悩んだり苦しんだりしたこともありました。これから書くことはこれらの経験をふまえてのことです。ただし,私がここで提言することはすべて個人的な意見であって,最高裁判所事務総局の方針などとは一切関係ありません。この点をご留意願いたいと思います。
まず最初に,21世紀の社会はどのようなものになる可能性があるか,そして社会の変化と裁判所との関わりがどのようなものになるかについて私なりの展望を述べてみたいと思います。
1 国際化
第一に指摘しなければならないことは国際化ということです。
第二次世界大戦後,日本が国際社会に復帰して既に50年以上の年月がたちました。海外に旅行することも自由になり毎年かなりの人が海外旅行をしています。外国からも多くの人々が日本にきています。テレビの中でアメリカの映画や海外の音楽が流れることも別に珍しいことではありません。しかし,私がここで指摘したい国際化は,このような表面的なことではありません。
我々日本人は,外国の文化を受け入れ,外国の文化を楽しんでいるように見えても,実際には一種のムラ社会のような同族意識というか自分たちだけの価値観を堅く守って,結局は自分たちと異なる考えや異なる感性を持った人々を認めようとしないという一般的な傾向をもっているように思われます。しかしながら,これから先,真の国際化が進む社会においては,ものの考え方や感じ方だけではなく,宗教,倫理,その他人間の本質に根ざすところからまったく異なる人々と真の意味で対等につきあっていかなければならないのです。しかも,日本語は,世界の中でも非常に特殊な言語に属しており,全くインターナショナルな言葉ではありません。たしかに我々は中学や高校で英語を習っていますが,読むにしても書くにしても話すにしても,自分自身の言葉として英語を習得しているわけではありません。ところが,実際の国際社会では,英語はインターナショナルな共通語なのです。我々は,これからの地球の中で,地球の中の日本という場で生きていく,そういう生き方を考えた場合には,実際に英語でものを考え英語でものを書き英語のものを読むといったような生活をしなければならないし,自分自身のもっている価値観だけで他のものを排除するというような考え方ではなく,お互いの違いを前提とした上でどのようにつきあっていくかということを常に考える必要に迫られるわけです。我が国の裁判においても,これまでは日本人同士の紛争が持ち込まれることが一般的であったし,日本人同士であればハラでものがわかる,したがっていつかは和解ができる,あるいは情けや同情で情状酌量の判決をもらえるといったこともあり得たかもしれませんが,そのような要素をすべて取り払ったところで,民事裁判においても刑事裁判においても公平で正義に合致する裁判を実現していかなければならないことになるかもしれません。国際化ということが裁判所に及ぼす影響というものは,そのような観点から考えなければなりません。
2 情報化
次に,情報化ということを考えなければなりません。
我々の生活の中には,既にパソコンその他のデジタル機器が大量に持ち込まれています。書記官の仕事もかつてのようなペンと紙による仕事からワープロによる仕事が普通になっています。そのことだけから情報化と考えるのは非常にわかりやすいことですし,これで終わりだと思いがちです。しかし,私がここで情報化として指摘したいことは少し違います。
人類の歴史の中で自分の知識や考えを伝えるための媒体として最初に生まれたのは,おそらく音声言語であったと思われます。これは,空中に音声が発せられると消えてしまうものです。そのうち,人類は記録ということを考え出したに相違ありません。古代メソポタミアの楔形文字などはその最初の形のものでしょう。やがて,人類は紙というものを見つけだしました。グーテンベルクによる印刷術の発明により同一の文字を記載した紙が大量に作られ複製されるということが可能になりました。現代社会はどうでしょうか。現代では我々の考えや感情はデジタル情報によって伝達されます。また,デジタル情報そのものとして保存されます。このデジタル情報は一瞬にして何万ものコピーを作ることもできます。しかも,ほんの1秒も2秒もかからないうちに全世界の隅々まで伝達することが可能なものです。そればかりか,デジタル情報それ自体がデータベースに蓄積され,加工され,さらに自己増殖をしていくという性質を持ったものです。この情報化というものは,我々の考えや感情を伝達する基本的な方法の変化をもたらすものですから,我々の生活そのものを根底から変えるものになるに違いありません。現在の裁判所は,たしかにワープロは使っているけれども,いまだにワープロによって印刷された紙を使って仕事をしています。しかし,これからの社会においては,デジタル情報そのものを相手として仕事をしていくことになるでしょうから,仕事の仕方自体も根本的に変わることになるかもしれないということを考えなければならないのです。
3 司法社会化
第三に,司法社会化ということを考えるべきでしょう。
現時点での日本では裁判官にしろ弁護士にしろその人口が限られていますし,かなり特殊で専門的な職業であると考えられています。また,日本人の国民性として裁判を好まないことはつとに指摘されていることですし,どちらかというと裁判所の外で紛争を解決するということが一般的であり,また当たり前の紛争解決の方法です。しかし,これからの社会においては,日本国内をみただけでも弁護士人口が相当数増加します。また,弁護士業務の自由化という問題が避けて通れない問題となることが予想されます。おそらく何万人もいるというアメリカの弁護士が日本に大挙して押し寄せてくるという事態は避けられないのではないかと思われます。いったいこれから増えていく弁護士は何をするでしょうか。彼らは裁判を職業としてそこから収入を得て暮らしています。従って,これまで当事者同士だけで解決できていた問題であっても,どうにかそれをお金になる裁判の方に振り向けようとするに違いありません。そうしなければ生きていけないわけですから。そうなりますと,弁護士の数が膨大に増えるというそのことだけで日本の社会がかなり司法社会になる可能性があります。また先ほどの国際化ということと非常に密接な関係がありますが,価値観の異なる多様な人々が同じところで住む社会,そこにおいては法によって公平に紛争を解決するという方法を採らなければ社会がバラバラになってしまいます。現在のアメリカ合衆国がそのような仕組みを前提とした社会となっています。したがって,国際化が進めば進むほど,裁判による紛争解決ということが必然的に増大することになります。
4 専門化
四番目に専門化ということが考えられなければなりません。
後でも述べますが,コンピューター技術の発達によって,これまで機械的な単純労働とされていたものがかなり自動化されるようになりました。人間の考えや感情それ自体がデジタル情報によって伝達されるわけですから,単なる機械労働だけではなくて,知的な労働の一部またはかなりの部分もコンピューターによって処理されるようになるかもしれません。そうすると,これまで単に大量の仕事をこなせるというだけで専門的であると評価されていた人々が専門家であるとは見られないような社会が出現するかもしれません。そこにおいて真の専門職いわゆるプロフェッショナルとして認められる人々は,どのような人々でしょうか。それはコンピューターによって処理できないような真の意味での専門性をもった人々ということになります。コンピューターによっても処理できるような仕事,あるいはそれ以下の仕事しかできない人々は,一定の低い賃金しか与えられず,場合によっては社会的な地位も非常に低いものとなっていく可能性もあります。その中で他の人よりも多くの尊敬が与えられ,多くの賃金あるいは報酬をもらえるようになるためには,真の意味での専門家になる必要があります。ここでいう専門化というのはそういう意味です。
コンピューターによっては処理できないような仕事,それは何でしょうか。それは,人間の高度な直感とか判断力を駆使しなければ解決できないような仕事です。そして,そのような仕事を処理することのできる能力を持つことを私は21世紀における専門化と考えたいと思います。
さらには,人々の仕事の多くがコンピューターによって自動処理される中で,おそらく人間そのものの回復ということが強く叫ばれるようになると思います。仕事が大量に迅速になされる,それ自体は非常に結構なことではありますが,人間は生身の動物です。心や感性を持った動物です。単にロジックによって解決できたということだけでは満足できない側面をもっています。訴訟において仮に敗訴判決を受けたとしても,その判決の理由付けのいかんによっては満足する人もあるはずですし,また実質敗訴に近いような和解であっても十分に納得して和解をする人は現実にたくさんいるわけです。このようなことは何によってもたらされるのでしょうか。単に担当裁判官や書記官の口先だけのレトリックによってもたらされるのでしょうか。そうではないだろうと思います。最終的に21世紀において生き残れる人材というのはこのような意味において高度に人格を陶冶した人間,そういう人たちだけが生き残れるのかもしれません。
以上のような展望をふまえた上で,これからの書記官事務の変化という観点からさらに考えてみたいと思います。
現在,書記官事務は大きな曲がり角にきているといわれています。そのことの背景には,先に述べたようなパソコンやワープロを利用した事務手続の変化ということもありますし,また,迅速な裁判の要求がかなり強まっているということもあるかもしれません。またさらには書記官自身の職業意識の変化ということもあるかもしれません。しかし,書記官の仕事というものは,私なりに考えてみますと,裁判所にとってかけがえのない仕事であり,書記官抜きの裁判所というものを想定した場合,かなりいびつな問題がでてくる可能性があるのではないかと思います。ここでは具体的な事務に即して,本来書記官に対して何が期待されるべきかという観点から,いくつか指摘してみたいと思います。
1 調書事務
第一に調書事務について検討してみたいと思います。
従来,供述調書については二通りの考えがあったといわれています。一つは,「書記官としての専門性は,見事に要領調書を書くというところに第一に求められるべきだ」というような考え方です。もう一つ,その反対にある考え方は,「供述調書を作るような仕事は,本来書記官の仕事ではない」という考え方です。この二つの考え方は,それぞれの立場の人たちの職業観なり世界観なりで基礎づけられているものであり,その基礎となっている職業観・世界観それ自体についてどうこう論ずることはできません。しかし,客観的に書記官が何をしているのかということをみた場合,裁判所の中で証言の存在を公証できるのは書記官だけしかいないというのは誰にも否定できないわけです。裁判官は,判断者であって手続の正確性や手続がなされたこと自体を判断者自らが公証することは本来正義に反する,あるいは手続の公正さに反するのではないでしょうか。判断者以外の者が専門家として手続の存在及びその正確性を公証しなければ,いわゆるお手盛りあるいはごまかしということが当然現れてくるでしょうし,誰も裁判所を信用しなくなるでしょう。裁判所に出現する証拠の中で書証の重要性はいうまでもありませんが,直接に裁判官が面前で心証を形成するための証人の証言,その重要性はかなり大きなものがあります。いったい法廷でどのような証言が存在したのか,それを公証できるのは書記官しかいないわけです。手続を記録する口頭弁論調書ではなおさらのことです。その意味で,書記官にとって調書作成事務というものはもっとも基本的な事務であることは否定できないことですし,書記官自身の存在理由そのものとしてとらえてもいいのではないかと思います。
かつて,古代メソポタミアの世界においては,「書記」というものの占める地位が非常に大きなものであったといわれています。古代メソポタミアの多くの国々では,神の代理人あるいは神自身としての王が支配者として存在しました。その支配者である神のもっとも大事な部下は書記でありました。当時,文字というものを自由に駆使できたのは書記だけでした。書記は神の代理人あるいは神そのものである王の言葉を公証します。また,民が訴えた場合にはその訴えを公証し,神の代理人または神そのものである王に民の声を伝えます。いったい,王の声あるいは民の声が何であるかを公証できたのは書記だけであったわけです。もちろん,書記しか文字を使えなかったという技術的な理由もあるかもしれませんが,書記というものに対する尊敬や書記の非常に高い地位というものがその記載された内容の正確性の担保ともなっているわけですし,またその記載された内容が正確に公証されていることがさらに書記の地位を高めていたということが事実として存在していたようです。供述調書に限らず,口頭弁論調書においても,何が手続としてなされたかを判断者自身が公証することは正義にも公平にも合致しないことですから,やはり判断者とは異なる者としての書記官が公証するということの重要性は失われないように思われます。ただし,その具体的な方法は様々な電子機器の利用ということを考えるべきでしょうから,今とは相当変わることになるかもしれません。それでもなおかつ,書記官の存在根拠としての調書作成事務というものの重要性は,第一の視点として見失ってはならないと思います。
この点に関連して,2つの課題を示唆しておきたいと思います。
一つは,調書作成能力の維持・鍛錬という課題です。裁判所の供述調書作成事務は,目下,ある種の試練のときを迎えておりますし,今後どうなっていくのかは私にも分かりません。おそらくこれから当分の間は,要領調書と速記録と録音テープ反訳とが混在した状態が続くでしょう。また,民事訴訟法の改正にともない,一定程度まで簡略調書なども導入されてゆくだろうと思います。しかし,供述調書の作成は,それ自体が自己目的なわけではなく,要するに供述証拠をどのように記録するのが事件の審理にもっとも適合しているのかという観点から考えるべきだろうと思われます。このことは,これまでの供述録取においても要領調書が適当な事件と速記録が相当な事件との振り分けというかたちで議論され検討されてきました。したがって,この二つの種類の調書に録音テープ反訳が加わっても基本は同じことで,訴訟経済や可能な予算を検討に入れた上で,当該事件の解決にもっとも適切な方法はどれかというかたちでの議論と検討が今後も必要なのだろうと思われます。このような観点から考えてみますと,要領調書という供述調書の作成という仕事はこれからもその重要性を失わないどころか,要領調書が適している事件においてはまさに天下一品の要領調書を作成しなければならないのであり,その意味で,今後も調書作成能力の維持・鍛錬のための努力を怠ってはならないし,さらに良い調書のための研究も深めていかなければならないでしょう。これが一つめの課題です。
二つ目の課題は,弁論調書の充実です。民事訴訟法の改正により,争点整理手続が充実したものとなりました。新しい手続きによる争点整理がどこまで成果をあげるかは,裁判所と当事者の意識改革と努力の積み重ねいかんにかかておりますが,争点整理の必要性がますます重視されていくことだけはまちがいないだろうと思います。この争点整理は,通常の口頭弁論期日になされることもあると思います。争点整理までいかないにしても,事件によっては,わざわざ特別の手続きを踏まなくても,当事者の法廷における主張のうち重要なものについて弁論の要領欄をちょっとていねいに書いておくだけでぐっと審理がひきしまることも決して少なくないと思います。私の個人的見解によると,弁論調書は,極限状態または究極状態における要領調書です。たしかに,そこに記載されるのは供述証拠ではなく当事者の主張ではありますが,いずれも人間の口から発せられる音声であることに何らかわりはありません。ちょっときついことを言うと,当事者の発言の意味・趣旨をどうまとめるかが書記官の能力を判定する一つの基準ともなりえます。今後,争点指向性の高い訴訟運営が望まれることを考えると,弁論調書の充実とそのための書記官の能力の涵養ということも重要な課題にすべきであろうと思われます。
2 準司法的事務
次に,準司法的事務というものを考えてみたいと思います。
いろいろな論文や紹介記事などを読みますと,ドイツの司法官(文献の多くでは「司法補助官」と訳されています。)についての記事が紹介されています。ドイツの司法官は,日本の書記官に相当する職種であると考えられております。日本とドイツでは裁判所の組織構成が全く異なっていますから,そのまま直輸入的な形でものを考えることはできませんが,日本でもドイツでも,書記官あるいは司法官の持つ能力が非常に高いということが次第に認められてきておりますし,そのことが今回の民事訴訟法の改正にも反映されています。
今後,裁判官と全く同じというわけにはいかないかもしれませんが,ドイツの司法官制度の例などを参考にしつつ,書記官がある程度まで司法的な機能を担うことが十分に考えられます。たとえば,これは全くの私見ではありますが,調停主任としての仕事とか,あるいは甲類家事審判事件を担当する仕事とか,簡裁の少額事件訴訟を担当すること,そのようなことまでは現在の書記官の能力を持ってしても可能ではないかと思っています。もちろん,そのためには立法的な裏付けが必要であり,立法的な裏付けを得るためには,裁判所にいる者だけではなく,弁護士やその他一般国民の基本的な承認が必要です。法的な紛争を解決するための方法として最終的な形態は判決によらざるを得ませんが,その中間的な形態としては様々なバラエティが考えられるのあり,和解にしても調停にしてもできるだけ早くより少ない費用で解決できるのであればそれに越したことはありません。そのような仕事を担当するものとして裁判所の中の人材を見渡した場合,私は書記官がもっとも適任であろうと思っています。
3 調査事務
三番目に,調査事務ということを考えてみたいと思います。
裁判所法60条3項の規定によると,書記官は裁判官の命により裁判に必要な調査事務をすることができることになっています。現時点では裁判所法の期待するような調査事務が十分なされているかどうか私にはよくわかりません。しかしながら,もっぱら裁判官の立場だけからものを考えてみますと,裁判官が日々多忙な仕事を送っており調査補助者を必要としていることは紛れもない事実であると思っています。単に判例や文献の調査だけではなく,これからの裁判のためには基礎となるデータとか様々な経験則をも含めて非常に広範囲なデータの収集が必要であり,さらに収集したデータを整理して裁判に使えるような材料(コンテンツ)の形まで仕上げる作業が必要になります。これをすべて裁判官にだけ背負わせていた場合,裁判官の負担というものは信じられないほど大きなものになり,場合によっては現在の司法システムの崩壊を招く原因になるかもしれません。前述の国際化とか情報化という要素がこの点において大きく影響してくると思っています。
これまでの日本においては単一民族による10年前も20年前も同じような訴訟がただ累積的に蓄積され,あるいは繰り返されていただけですから,一度仕事のやり方を覚えてしまえば,何年たっても大体同じようなことをやっていれば一応仕事になるということができたかもしれません。しかし,これからの社会においては,全く知らなかった出来事にも対応できなければならず,しかも日々これまで未経験のような全く異なる事件がくるようになるかもしれないのです。これを生身の人間である裁判官一人にだけ負わせることによる司法のリスクというものを我々は考えなくてもよいのでしょうか。私は,一人の人間だけではなくて,チームワークとして仕事をしていくというやり方を考えてもいいのではにかと思っています。
4 秘書的事務
次に検討することはこれと密接に関連することです。裁判のために必要な様々な経験則や一般的な知識を得るための方法として,現在では紙に書かれた書物や書類を読むという仕事が一般的な仕事のやり方です。これからの情報化社会を考えますと,ネットワークを利用した調査というものが基本的なあり方になるに違いありません。現時点でも,様々なデータベースが利用されるようになってきています。現時点では,データベースが利用されているといってもデータベースそれ自体の種類や数が限られているので,特定の裁判官がデータベースの利用の仕方に習熟するのにそれほど手間暇はかからないかもしれません。しかし,これからの社会では,地球全体での裁判動向やものの考え方の傾向を考えた上で裁判をしなければならないような事件が増えてくるかもしれません。とりわけ知的財産権に関する事件はそうであろうと思います。おそらく製造物責任などの消費者保護に関連する事件もそうであろうと思われます。そのような事件に関する様々な動向調査やデータの収集は世界中にある少なくともインターネットに接続された多数のデータベースから多角的にデータ収集をする必要がありますし,収集されたデータに基づく分析やドキュメントの作成などは,かなり複雑な作業になってくる可能性があります。仮に判断者である裁判官が自分自身でそれをこなすとすると,そのようなデータ収集だけに追われて判断がおろそかになるということが起こるかもしれません。裁判官も人間である以上,能力に限度があり,分業により解決できる問題は解決すべきだと思います。また事件の種類によっては弁護士との応対とかその他関連官庁との連絡が必要なものもでてくるかもしれません。この場合,裁判官が直接担当した方がよい問題もあるかもしれませんが,そうでない事柄も多いように思われます。現時点での書記官事務のあり方をみますと,いったいそのような仕事を誰がするのかということがかなり曖昧になっているように思われます。私の個人的な見解としては,秘書的事務というのは非常に重要な事務であり,前述の調査事務と一体になって,裁判体の補助業務という形で位置づけられるのではないかと思っています。その意味で書記官の公証官としての業務の次にくる第二の重要な業務として調査事務と秘書的業務をあわせた補助的業務というものを考えるべきではないかと思っています。なお,秘書的事務というと,いわゆる「お茶くみ」のことだと思う人もあるかもしれませんが,そのような人には,ぜひとも秘書検定の受験をおすすめします。
5 窓口・相談事務
次に,窓口などでの相談事務ということも重要なものになっていくであろうと思われます。
先に指摘したように,現在行われている業務のうち,かなりのものがコンピューターによる自動処理が可能になってくるだろうと思われます。たとえば,窓口などの応対についてもディスプレイやタッチパネルによって自動的に対応できるものがかなりあると思います。また,その方がユーザーである国民にとっても便利なものが少なくないと思います。しかし,当事者本人は単に法律的に紛争を解決してほしいというだけではなくて,様々な悩みを抱え,非常に不安な状態で裁判所にやってきます。逆に怒りに理性を失った状態で裁判所を訪ねてくる人もあるかもしれません。そのような生身の人間である当事者に対してどのように対応するかということは,相手によって異なるかもしれませんが,人間でなければできない部分も相当あるのではないかと考えていますし,単に話を聞いてあげるだけで収まってしまうという事柄もかなりあるのではないかと思われます。現在の書記官事務のあり方をみていても,特に中小庁においてはそうであると思いますが,窓口における手続相談の段階で一定程度気が休まったということで当事者が帰るという現象を私はたくさん目撃してきました。これは弁護士による法律相談とは全く異なることで,要するに当事者の不平不満に単に耳を傾けるということだけかもしれませんが,それによって当事者が心安らかな状態になり,よけいな紛争を避けることができるということであれば,それに越したことはないわけであり,換言すると一種のカウンセリング的業務ということもできるかもしれません。これから先,電子技術がますます発展し,無機的な対処が町中のどこでも普通になった世の中というものを想定してみますと,ますますもって人間対人間のふれあいに基づく対処の仕方の重要性というものが大きくなってくるのではないかと私は思います。そのような直接に人間が応対する仕事というものは,機械によって処理される仕事と異なり,非常に大きな時間と苦労とが伴います。また,仮にそのような仕事を書記官が担当するとすれば,書記官自身の人格識見もかなり高いものでなければなりませんし,相当の忍耐力も要求されるのではないかと思われます。しかし,そのような難しい仕事をこなしていくということにもまた書記官としての専門性を見いだしていくべきではないかと思うのです。
6 システム・マネージメント
書記官事務の変化について最後に指摘をしておきたいことは,システム・マネージメントということです。
システム・マネージメントというと聞き慣れない言葉ですし,これまで標語として掲げられていたコート・マネージャーと同じことかどうかという疑問がわくかもしれません。私自身はコート・マネージャーという用語は,その言葉だけではあまり意味がないように思っていました。聞こえのいい言葉ではありますが,内容をよく考えないと実質が伴わないと思うのです。私がこれからの書記官の仕事として考えるシステム・マネージメントというのは,電子機器を利用するにしろしないにしろ,裁判所業務を一つのシステムとして理解し,そのシステムの中で裁判部の仕事の流れの全部を見渡してその流れが円滑であるかどうかをマネージメントする仕事のことを指しています。そういう仕事の中でも,とりわけ電子機器を利用した仕事の仕方,その中での書記官の位置づけというものに注目したいと思います。電子機器を利用した業務,これは現時点でも多くの企業においてどんどん取り入れられています。書記官は確かに電子技術の専門家ではありませんので,ハードウェアの維持管理などをすべてやれといわれてもそれは無茶なことだと思います。むしろ外注した方がよいというものが多いかもしれません。ただ,裁判所で扱うデータは非常に秘密性の高いものが多いのであり,また裁判所の訴訟手続というものを熟知していなければ全体の流れを正確に把握することができないという特殊な問題があることを認識しなければいけません。裁判所の手続やさらには実体法的な知識をきちんとわきまえた上で,しかも,当事者である国民のプライバシ−その他の秘密事項を責任を持って守れるのはいったい誰なのでしょうか。私は,おそらく書記官しかいないのではないかと思います。同じ仕事を外注することは理論的には可能ですが,その場合,今述べたような点が本当に保障されているのかどうか,このことはじっくり考えてみるべきではないでしょうか。
これまで,紙とペンによって仕事をしていたあるいはワープロを利用するにしてもアウトプットされた紙に基づいて仕事をしていた仕事のあり方からネットワークを利用した仕事の仕方に変わった場合,そのようなネットワークによる仕事のトレーニングを受けていない書記官がシステム・マネージメントを担当せよというのはひどい話だというような批判が出されることも考えられます。しかし,社会状況が変わればハードルは次から次へと新たに生まれてくるのであり,そのハードルの存在を無視して現在のままでいいということは,裁判官を含めどのような職種の人にも許されないことであると思います。我々は国民のために国民の税金によって仕事をしているのですから,自分自身のためにハードルを無視するということは許されないと思います。
今後21世紀の裁判所が相当程度電子化され,技術的には迅速な裁判が可能になったとしても,それを実際に運営・運用するのは我々裁判官と書記官なのです。そして,裁判官は判断者であり,書記官の調書事務について前述したように,判断者自身が手続の公正さを担保することは本来許されていないのですから,誰か他の者が手続の基本的な道具であるシステムの公正さを担保しなければなりません。その誰かいうのは私としては書記官以外に考えられないのです。
以上を前提にこれからの書記官に要求される能力について考えてみたいと思います。既に書いてきたところからおわかりのとおり書記官にはこれまで要求されなかった様々の能力が新たに要求されることになるであろうと思われます。
1 情報処理能力
まず,第一に情報処理能力です。
これは書記官だけではなくて,これからの世界に生きていく人すべての人々に要求される能力であろうと思われます。アメリカ合衆国のクリントン大統領は教育改革に関する演説の中でアメリカ国民のすべてのものがインターネットを自由自在に使いこなせるようにしたいということを述べていたということです。大統領がそのような希望を持っているといないとに関わらず,電子情報処理による情報伝達が社会のもっとも基本的な社会基盤になっていくわけですから,情報処理能力がないということは要するに会話をできないとか読み書きができないということと同じようなことを意味する時代がくると思います。裁判所の仕事もおそらくそうであろうと思われます。まして,前述したような書記官が専門家として生き残っていくためにしなければならない様々な仕事を考えると,一般人に求められていることよりもより高度なものとしての情報処理能力が要求されてしかるべきだと思われます。
この点については,既に富士見同窓会の機関誌の中で私が情報リテラシの問題として指摘をしておきました。ここでは詳述しないのでそれを参照してください(「書記官」164,165,166,168号)。
2 語学力
他方,国際化に伴い様々な国の人が日本にやってくるということは前述したとおりで,そのような人々が当事者になる訴訟が増加することは必然であろうと思われます。訴訟のコストというものを考えた場合,外国人のために常に通訳を用意するということがどのような意味を持つかということをよく考えてみる必要があると思います。我々自身が仕事外においても少なくとも英語くらいは使えるようにならなければこれからの社会を生き抜けない以上,専門家である我々はそれ以上の高度の語学力を身につけ,我々自身の仕事として,その語学力を駆使できるようなそのような状態をもたらすような努力が必要ではないかと考えます。理想としては,英語のほかに中国語や韓国語などのアジアの言葉も使えるようになりたいものです。
前述した人間でなければ応対できないような仕事,その応対すべき相手は日本人だけとは限りません。外国人当事者が窓口相談にきたときに,担当の書記官が「あなたのいうことはわからないから通訳を頼んできます。ついては一〇〇万円出しなさい」といったら,その当事者はどう考えるでしょうか。ほんの片言でもいいから何かその人の国の言葉で話しかけてあげたら,その人は少しだけでも心が安まるのではないでしょうか。どうしても対処できない場合には無理をすることはありませんが,日常会話くらいはできる力があってもよいのではないかと思います。
3 専門知識
それから21世紀における専門性ということは,最初に述べたとおりですが,これからの書記官に求められる専門知識というものも大きく変わっていく可能性があります。現在の書記官に求められる専門知識は,訴訟法の知識や実体法の知識だけではなく調書や記録に関する特殊な通達に関する知識なども専門知識として要求されていることは事実です。ところがこれからの裁判においてはおそらく電子データを前提にした裁判が普通になっていくでしょうし,現にアメリカはそうなりつつありますから,これからの書記官における専門知識というものはそのような電子データであることを前提として何かを考えることができるような知識でなければなりません。しかも,それは機械により自動処理が可能であるようなレベルのものではなく,相当高いものであることが考えられます。私が予言者でない以上,具体的に日本の裁判所がどのように変わっていくかはどうともいえませんが,いずれにしても何らかの形でこれまでと違った形での専門知識というものが要求されるでしょうし,そのような意味での専門知識を蓄え,活用していく能力を鍛えることを放棄した瞬間に書記官は専門家でないと見なされるようになるでしょう。
4 折衝力・表現力
今後の社会における多様性というものを考えると,書記官の当事者に対する応接などについても,これまで以上の工夫が必要になってくるでしょう。その工夫のためのもっとも重要な要素は,折衝力と表現力です。語学力を身につけても,それを上手に使いこなすためには,使い方の工夫が必要なのです。折衝力や表現力は,単にテクニカルな問題のトレーニングだけでは解決できない要素をたくさん含んでいます。その人自身の人格も露骨に反映されるでしょう。しかし,大事なことは,正義と公平の実現のために誠実に応対しているのだという姿勢を常にもつことだろうと思います。その姿勢を持ち続ける限り,なにか壁にぶちあたっても良いヒントが生まれるかもしれませんし,アドバイスをしてくれる人もでてくるでしょう。また,誠実さは,チームで仕事をする場合にも非常に大切です。書記官という資格の上にあぐらをかくことなく,このような姿勢を基本に持ちながら,たえず工夫改善を続けていくことが大事なのだろうと思います。
5 職業倫理
要求される能力として私が最後に指摘したいのは職業倫理です。書記官が公証官としてもその他の仕事をするものとして高い尊敬と地位を与えられているのはなぜか。それは単に公務員であるとか高い俸給をもらっているとかということによってではないと思います。現実に働いている書記官の皆さんが高い職業倫理をもって適切に国民に対応しているからであると思います。これからの社会においては,そのような職業倫理をさらに強める必要があります。これまでの社会は先にも指摘したとおり日本人だけの価値観に基づいた事務処理で一応足りた社会でした。しかし,これからの社会は様々な価値観をもった人たちとつきあっていかなければいけない社会です。そこにおける職業倫理というものは,どのような価値観をもった人たちから見ても公平であり正義にかなった仕事の仕方であると認めてもらえるようなもの,そのような仕事をするものとしての裏付けとなる職業倫理でなければなりません。日本人同士であれば倫理観の高さを理解してもらえるようなあり方だけではなくて,様々なタイプの人たちに対しても倫理観の高さを理解してもらえるようなそのような倫理観の高さが求められます。裁判所は単に法律によって権限が与えられているというだけで国民から尊敬を受けているのではなくて実際に裁判官や書記官が高い倫理性の下に仕事をしているから信頼を得られています。その信頼が失われたとき,いったい誰が判決の力を信じるでしょうか。人間社会というものはそうしたものであろうと思います。
1 司法の存在意義
このように考えてきますと,21世紀の社会においても変わらぬものがあるということに思い至ると思います。司法は何のために存在し司法の本質は何であるかということです。これは社会における様々な出来事がどのように変化してもきっと変わらぬものであろうと思っています。日本国憲法において保障されているとおり,国民は法の下に平等であります。しかし,それは観念的にそうであるということであって,現実に平等であることを確保するような仕組みが存在しなければ絵に描いた餅です。国家機関として真の意味での平等を担保できるための装置それは司法しかありません。国民が,公平と正義というものを確保されているという安心感がなければ国家というものはおそらく成り立たないであろうと思われます。そういった意味での司法の存在意義は,司法の具体的なやり方が変わったとしてもおそらく変わらないであろうし,変えてはいけないものであろうと思います。私がここまで述べてきたことはこのような考え方を基礎にしたものであります。
2 正義と公平
これだけ現象的な変化の著しい世の中ですから,その目に見える変化だけにとらわれてうろたえることは愚かなことであると思われます。我々がどれだけ厳しい状況の下に置かれたとしても,それを乗り越えていくための力の本当の源泉になるものは「正義と公平を守るものは我々しかいないのだ」というプライドだけしかないだろうと思いますし,またそのようなプライドがあってこそ先程述べたような職業倫理も維持可能ではないかと思っています。
私ごとで恐縮ですが,私は法廷にでるときに法服の下には背広を着ずに常にワイシャツだけで出かけておりました。そのことについては賛否両論あると思います。だらしないと思われる方もあるかもしれません。私がなぜ法服の下はワイシャツだけなのか,その理由はワイシャツが白いからです。法服が黒い理由については,ものの本によると「どのような色にも染まらないからだ」といわれています。それなりの理由のあることでしょう。私が法服の下に白いワイシャツだけを着ているのは,これは一種の「死装束」というような私独特の感性に基づく行動です。人を裁くということは恐ろしく重いことです。軽率にできることではありません。もちろん,手法として,当事者が緊張しないように柔らかいものの言い方をしたりその他様々な工夫をしますが,どのような工夫をしたところで,裁判所が人を裁いているということは変えようのない事実です。また,そもそも人間が誤り多き動物であるとしても,人が人を裁くのである以上,基本的な部分での間違いがないように最大限の努力と精神力の集中をすべきことは当然のことだと私は考えていました。したがって,もし私が誤り多き裁判ばかりをするようになってしまったときには私自身の裁判官としての生命を絶つべきであるとそのような考えに基づいて,法服の下には白いワイシャツを着ていたのです。人格的に高い人であればわざわざそのようなことをしなくても自分の心だけでしっかりと自分を守っていくことができるかもしれません。私自身は,そのように人格的に立派な人間ではなく普通の人間です。私自身の弱き心をどうにか支えていくために法服の下にワイシャツを着て仕事をして参りました。
21世紀の人々はワイシャツも法服も着ないかもしれませんが,しかし,裁くことの重みはやはり変わらず非常に重いものであり続けるに違いありません。裁判官は判断者であり書記官は裁判官と一緒に正しい判断をするために仕事をしている人々です。しかし,裁判官も書記官も同じ裁判所の人間の一部分であることにかわりはありません。直接,責任を負いあるいは責任を負うべきは裁判官かもしれませんが,当事者はどちらの区別もなく裁判所の人間として裁判官と書記官をみるでしょう。ですから,裁判に携わる者はすべてそのような裁判の重みというものを常に自覚し続けなければならず,そうでなくなるとき,司法にとって一番肝心な正義と公平を守っていくことができなくなるのかもしれません。私がこれからの若い人たちに期待したいのは,そのような意識を持ち続けるということです。
おわりに,私の提言があまりに理想主義的すぎて現実的ではないと感じるであろう読者のために,私が書記官研修所教官当時に授業でしばしば用いていた比喩をひとつだけ披露しておきましょう。
すなわち,北極星は,なぜ北極星たり得るのでしょうか?
それは,あまりに遠くにあって人間の手がとどかないところにあるからです。もしも北極星がすぐ近くにあるのであれば,その位置が一定せず,航海の目じるしにすることなどできないはずです。むしろ手がとどかないほど遠いところにあるからこそ,人の目標となり目じるしとなることができます。理想とはそもそもこうした性質を持つもので,逆に人間が完全に実現することができるようなものは真の理想ではないのかもしれません。それでもなお,目じるしとしての理想が存在しなければならないのです。
これから先,私は,裁判所を離れて別な角度から法の研究を続けていきたいと考えています。全く別の立場でものを書いたりものをいったりするかもしれません。しかし,私がこれからも裁判所に期待したいことは,裁判所が今まで述べたような意味で正義と公平を守る存在であり続けてほしいということに尽きます。
最後に,これまでの仕事の中で苦労をともにしてきてくれた書記官,速記官,事務官をはじめとする職員の皆さんには,心から感謝の言葉を申し上げます。
(追記)
私は,この4月から明治大学法学部の教授になり,「法情報学」と「情報文化論」の講義を担当する予定です。いま,私は,書記官研修所教官当時の研修生や研修員の皆さんとの厳しくも楽しくなんとも濃厚なおつきあいという二度とない経験をとてもなつかしく思い出しています。私は,この「すばらしい」経験を終生の誇りにし,こころの支えとしたいと思います。卒業生の皆さんのますますのご活躍をお祈り申し上げます。
(平成9年3月脱稿)
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最終更新日:1997/12/06