数学教育の過去・現在・未来

古代ギリシャの哲人の言葉とされる「幾何学を知らざるもの、この門に入るべからず」は、理念的な対象を厳密に論ずる数理世界の体験が、哲学的な思索のための前提である、という箴言と見なされ、数学は、以来、中世から現代に至るまで、労役から解放された《自由人の教養リベラル・アーツ》の中核部分を担って来た。この伝統が現代の学校制度にも反映しているのだが、21世紀の「知識基盤社会」が叫ばれる中で、数学教育は、その基盤を支えるという重責をいま果たしている、といえるだろうか。

《知》は、しばしば誤解されるように、不動に確立された教条的知識ではなく、つねに再生を繰り返すダイナミックな生命体にたとえるべきものであるが、《知》の伝達を担うはずの教育の現場では、しかしながら、すでにしっかりと 確立され、したがって生命的な躍動感を失なった「知識」を、「所有」するものが、していないものに「伝授」するという形式をとりがちである。これでは真の《知》の有り様を生き生きと伝えることは出来ない。教育という仕組みの持つ必然的な悪徳とでもいうべき状況が、我が国でも明治時代に近代化に向けた学制を確立した直後から既に現れていたことは、有名な新渡戸稲造のエッセイ(たとえば『教育家の教育』,1907)にも見出すことが出来る。「高等教育が普及」し、市場の原理からの影響を強く受けるようになった現代、我々は教育の持つこの問題に遥かに深刻に晒されている。現代の大学が「研究と教育の両立」を謳うのは、研究活動だけでは生命体としての学問を維持することが出来ないこと、それとともに、単なる教育活動に偏することの知の危険を察知しているからである。

とりわけ、数学においては、理念的には``論理的な厳密性'' 、世俗的には``正解主義''という、素人目には容易には反論しにくい「錦の御旗」があるために、その教育は、数学の真の姿を生々しく伝えるというよりは、しばしば、数学的な知識を効率的に「伝授」し、そして論理的な誤謬や誤解を「矯正」する、といった啓蒙主義に傾きがちである。 大学における「研究」は、これに対する大きな歯止めであるが、若い学生が、限られた学生生活の期間に、数学との生き生きとした出会いを通じて数学教育のもつこの危ない傾向に反省的に気づくのは容易でない。実際、教員志望の学生がせっかく大学の数学を「経験」しても、単位が取れて卒業し教育現場に出た途端に、大学における現代数学の思索とは「関係の見えない」学校数学の小さく狭い世界の中で、それを、ときには「丁寧に」、ときには「分かりやすく」あるいは「楽しく」、そしてときには「素早く」、教えることに満足してしまう危険性は小さくない。それでは、数学教育の持つ大きな可能性、すなわち、数学的認識が深化するときの感動に寄り添う責任と魅力に気づかないだろう。そもそも、生き生きとした数学的世界を体験すれば、近頃の我が国で重視されている、単なる技術的な知識の有無や、形式的な処理の正確さなどは色褪せてしまうはずである。いや、いまや「課外活動」などにおける生徒の指導と監督に追い回されていて教科教育どころではない、という信じがたい状況の学校も数多くあるという。そうした中では、「知識の定着」が教育の目標とすらなってしまうのであろう。こういう厳しい教育の現場では、《数学的認識の深化体験の共有》という数学教育の理想は分かっている教員であっても、理想の実現を目指した実践を継続して行くことは極めて難しいに違いない。「時間がない」「仲間がいない」「理解者がいない」、…、そして「自分が勉強する余裕がない」からである。

明治大学理工学部の数学科は、中等教育(中学、高校)の教員を目指す入学生を多く抱えている。数学科の卒業生に対する社会的な期待は、教員に限らないが、私達は、私達の卒業生が、若い世代の数学的な体験を充実させるという希望をもって、上に述べたような困難を抱えた教育現場に飛び込んで行くことを重く受け止め、教員を志望する学生にあらゆる支援をして行こうと決意している。数学科の卒業生が、古代より尊重されて来た《数学的精神》と近代社会の基盤となっている《数学という思想》を未来の世代に伝えるという崇高な任務を担って社会に出て行くことに重い責任感を持って、カリキュラムを編成している、ということである。

卒業生の進路が、特に教員に限定されていない理学系数学科が多い中、我が数学科が、指導的な教員の養成を大きな教育目標の一つとして掲げるのは、《厳しい学理的な体験》と《数理科学全般に渡る確かな教養》に裏付けられた《数学的自信》こそが、困難な教育状況の中で理想の火を灯もし続けるために大切だからである。しかしさらに重要なことは、このような確かな実力と広い教養を持った教員を養成するという、数学科におけるこの新しい教育の理念が、単に数学教育の改善に資するのみならず、加速する社会的な変容の中で、社会数理科学文化の高揚を通じて我が国全体の知識基盤を真に強化することになることである。すでに欧米では新しい数学教育を受けた卒業生が社会の様々な分野で革命的な変化を生み出していることからも、この展望は絵空事でないと我々は考えている。

多くの有力な理学系数学科の中で、カリキュラムと講義において教員志望者を強く意識して、全教員が《より良い数学教育》の実現を目指して日々努力しているという点で、明治大学理工学部数学科は、特異な存在であることを密かに自負している。