はじめに一言

  • 本稿は、二年まえの平成7年度に私が受け持った授業「現代中国文学研究A」で配布した参考プリントの原稿の一部を、ほぼそのままHTML化したものです。

  • 15回の授業で、結局「死について」と「女性問題」のふたつのテーマしか取り上げられませんでした。今回HTML化するのは、後者です。

  • 私は今年度も同名の授業を担当します。くわしくは担当授業科目をどうぞ(クリックしてください)。

  • 授業は同名でも、授業内容はもちろん二年前とは違います。が、多少、今年の授業内容と関係ある記事もふくんでいるので、旧稿を載せることにしました。

  • 今年度、私の「現代中国文学研究A」を聴講するかたは、授業の参考になさってください。

  • 二年前の旧稿をいま読み返してみると、幼稚な表現や、学生さんのウケねらいの部分など、われながら気になります。しかし、あえて、数カ所を除いてほぼそのままHTML化することにしました。
     あるいは、なつかしいと思って読んでくださる卒業生のかたもいるかもしれない、と、思い・・・

       加藤 徹  97,3,18記



以下、本文





現代中国文学研究A(1995年前期)



テーマ2 

女性について





 「女性」のテーマで取り上げる詩の冒頭部の所載頁は以下のとおり。各自テキストを入手のうえ、事前に目をとおしておくこと(生協で買えます)。

テキスト:松枝茂夫編『中国名詩選』上・中・下(岩波文庫)

  • 上巻……26頁,28,32,42,49,55,57,61,62,63,65,73,120,146,148,149,153,156,157,164,191,194,198,202,206,254,256,260,270,289,302,324

  • 中巻……32,35,43,162,171,178,180,185,186,189,196,222,230,257,260,261,262,263,276,280,293,305,339,344,364

  • 下巻……88,89,95,103,134,153,191,192,194,196,202,212,214,218,219,223,224,229,242,322,417,496,497,504






妊娠する女性






(' _ ')  原始芸術において、地域を問わず「地母神像」はたいてい妊婦である。これは女性崇拝の例である。
 ところが、女性が出産で苦しむのは、女性が悪い存在であり、神罰を受けたためだとする神話・伝説も多い(例:『聖書』のイヴ)。これは女性蔑視の例である。
 いずれも、女性にだけ出産の苦痛を負わせている男性たちの負い目の裏返しである。
 中国でも日本でも、この矛盾した感情は人々の潜在意識の中に地下水脈のように流れ続けてきた。その地下水脈は、ときたま「文学」として意識の地表に吹き出している。


 谷の神は死なない。それを玄牝(げんぴん=神秘な黒色をしたメスの部分)という。玄牝の門を、天地の根という。綿々と永遠に存続するようであり、いくら使っても尽きることがない。

      (『老子』第六章)

(' _ ') ; 『老子』に代表される道教系は、女性の出産能力を「宇宙の根本原理」と結びつけて説く。対照的に儒教系は、孔子が「女と小人は養いがたい」と述べたように、女性の出産能力に対して比較的に冷淡である。


 旧中国では、女性はそれ事態では、なんら価値を持ちえぬものであった。子を生んで、夫の後継ぎをつくってこそ存在価値を認められる。

     (村松暎『中国列女伝』中公新書 2頁)

(^o^) 中国や西洋と違い、昔の日本では、精神面では女性優位が確立していた。
 たとえば漢語で「夫婦」と男性が前に来るところを、古代日本語では「メオト」「イモセ」と必ず女性を先に言った。中国や西洋では最高神はたいてい男性だが、日本では、縄文系のイザナミも、弥生系のアマテラスも女神だった。
 特にイザナミは人類最古の神の一つといってもよいほど古い歴史を持つ。最近の研究によれば、縄文遺跡から出土する妊婦土偶は「原イザナミ」の女神像であるという。


 つまり土偶は、最古のものもすでに、子供を妊娠し生んで育てる母としての働きをする女性を表す意図を持って作られたので、早期や前期にもすでに、母神の性質を持つ女神の像であったと思われるのだ。そしてこのような母神的な女神像としての意味を、土偶は縄文文化の中で、晩期の末まで一貫して持ち続けたに違いないと思える。

    (吉田敦彦『昔話の考古学』中公新書 173頁)


 イザナミは火神を生んだとき、陰部に瀕死の火傷を負って苦しんだ。そのとき撒(ま)き散らされた吐瀉物(としゃぶつ)、大小便から、冶金や治水などの有益な神々が生まれた。

    (『古事記』より要約)

m(_ _)m ただし、そんな古代日本といえども、実生活の面では、やはり男性優位社会だったようだ。その一例が「間引き」である。


 [前略]ブラジルとベネズエラの国境付近に住む農耕民ヤノマモ族の場合では、間引きの結果、一五歳未満の男女の比率は一四一対一〇〇となっている。ところが成人の男女の比率は一〇五対一〇〇。これは彼らがしょっちゅう戦争をしていて、男がよく死ぬためであって、戦死が男女の比率の均衡を調節する結果となっている。しかし、平和に暮らす人びとの場合には、男女の比率の大差は修復できない。ヨーロッパの原人から中石器時代にいたる人骨三〇九体の男女比は、一二五対一〇〇となるといわれ、とくに中石器時代人では、一四八対一〇〇となっており、女児の間引きの可能性が説かれている。このような海外の研究から横山浩一氏は、縄紋人骨の男女比に着目した。[下略]

    (佐原眞、大系日本の歴史『日本人の誕生』小学館 212頁)

('.'), 岡山県の津雲貝塚で発見された縄文人骨は、男27体・女29体と均衡している。ところが、広島県の大田貝塚で発見された縄文人骨は、男41体・女21体と不均衡である。ひょっとすると……。
 この事情は近世に入っても変わらなかった。


 鎖国直前に来日した宣教師コリャードの『懺悔録』(1632)に、暴力的方法により何度も中絶した日本女性の告白が出ている。また宣教師ルイス・フロイスも『日欧比較文化』 で「二十回も堕胎した女性がいる」と驚きの目をもって語っている。日本における堕胎と間引きの習慣は、来日外人をよほど驚かしたものとみえる。

    (立川昭二『日本人の病歴』中公新書 178頁より要約)

(_ _) 中国人やヨーロッパ人は、堕胎や間引きより「捨て子」「子供売買」を選んだのである。
 女性は、幸い「間引き」を免れて成人できたとしても、今度は「出産」で命を落とす危険性が待ち構えていた。


 飛騨の過去帳から作成された衛生統計によると、二一〜五〇歳の死因のうち男女こみで一二%が産後死および難産死によって占められていた。女子に限るならば、それは四分の一を上まわっていたことだろう。

    (鬼頭宏『日本二千年の人口史』PHP125頁)

(-.-)y-~~~ 洋の東西を問わず、昔話に「継母(ままはは)によるいじめ」が数多く登場する道理である。




女性の地位の低下







 牝鶏(めんどり)がトキをつくるのは、家が落ちぶれる前兆である。

    (『書経』牧誓)


 女子と小人は養い難し。

    (『論語』陽貨)

(-.-) 精神的な女性優位が確立していた古代日本も、「文明化」が進むにつれて次第に男性優位に傾いていった。「オンナ」は平安時代以降に生まれた。


 をんな[女]…平安時代以降の語。ヲミナの音便系として成立し、それまで女の意を代表していたメ(女)という語が、女を卑しめ見下げていう意味にかたよった後をうけて、女性一般を指し、特に「をとこ(男)」の対として結婚の関係を持つ女をいう。

    (大野晋・他『岩波古語辞典』)

(-.-)y-~~~ 「メ」(妻、女)から「オンナ」へ、という語変化のプロセスは、英語やドイツ語の「ワイフ」の消長と軌を一にしている点、興味深い。
 ちなみに、現代語で「畜生メ!」「この野郎メ!」というときの「メ」は、軽侮の意の古語「女」の転用なのである。


 神が、最初の女を男の頭からつくらなかったのは、男を支配してはならないからである。
 しかし、足からつくらなかったのは、彼の奴隷になってはならないからである。
 肋骨(ろっこつ)からつくったのは、彼女がいつも彼の心の近くにいることができるようにである。

    (ラビ・M・トケイヤー、加瀬英明・訳
      『ユダヤ五〇〇〇年の知恵』講談社 136頁)

(-.-)y-~~~ ユダヤ教徒の聖典『聖書』(キリスト教徒は『旧約聖書』と呼ぶ)も基本的に男尊女卑思想だが、まだしもだった。
 キリスト教の段階になると事態は急速に悪化した。


 五八一年フランスのマコンで開かれた公会議では、深刻な問いが提起された。つまり、「女性は理性的存在として分類されるべきか、それとも獣として分類されるべきか、また彼女は魂をもっているか、そしてほんとうに人類の一部をなすのか」を知ることが懸案とされたのである。

      (池上俊一『魔女と聖女』講談社 105頁)

(-.-)y-~~~ 印欧語族の多くでは「ヒト」は「男」と同じ単語で表される(例:英語の man)。


 woman の wo- の部分が、元来は wif(後のwife)であり、それは「蔽われたもの」と いうことで「女」という意味であった。英語のwifeは今ではもっぱら「結婚した女性」、つまり「妻」を意味するようになったが、もともとは結婚してない女性でもワイフといわれていた。ワイフに相当するドイツ語 Weib は、「妻」の意味に使われることはほとんどなく、普通は「女」を意味する。

    (渡辺昇一『英語の語源』講談社 81頁)

(-.-)y-~~~ 英語では「ミス」「ミセス」など女性についてのみ既婚・未婚をやかましく区別する。日本語の「〜さん」は、男女や既婚未婚の区別なく使える。だから英語圏の人々が日本語を勉強してこの「〜さん」という語を知ったとき、みな一様に、なんと便利で民主的な言葉だろう、と感銘を受けるという。


 纏足(てんそく)というのは、かんたんにいうと、三、四歳のときから足を緊縛して成長をとめ、婦人の足を三、四歳のときのままにしておくことである。足の親指を除いた第二趾以下の四本を足底へ折り曲げてしまうのであるから、ほとんど人体改造に近い施術であった。「女は作られていくものだ」というボーヴォワールのことばをまざまざと想い起こさせる奇習である。その目的は婦人を家庭の中に幽閉するためであった。
 ちょうど昔の日本の婦人が、オハグロといって、結婚すると、そのしるしに歯を黒く染めさせられたように、婦人の貞節に当初のねらいがあった。と同時に、戦争中の日本婦人がモンペをはかされたときのような、南宋時代の非常時意識---生めよふやせよという掛け声とも関連があった。


    (岡本隆三『纏足物語』東方書店/福武文庫 14-15頁)

(-.-)y-~~~ 哺乳類の足は、大きく分けて、ゾウやカバの足のような蹠行性(べったり型)と、ウマやシカの足のような蹄行性(ほっそり型)に大別できる。
 ヒトは二本足で歩く関係上、蹠行性である。それゆえヒトのオスは、バレリーナや纏足女性の足のような疑似蹄行性の足に夢中になり、現代女性もハイヒールを履くのである。
 靴文化の歴史が浅い日本人には理解しがたいが、中国人やヨーロッパ人は「靴」に強烈な性的イメージをもつ(例:シンデレラ、中国映画「秦俑」)。




セックスとジェンダー






\(^o^)/ 告白します。私・加藤徹は以前、女性でした。そして君も。・・・


 [前略]人類の原型はすべてが女性であり、男性が生まれるのは女性型の胎児の性腺が精巣に変化したとき、ということになる。そして最近の研究では、初期の胎児の脳は男女とももともとは女性型で、男は胎内にいるあいだに徐々に男性型に変わることがわかった。

      (大島清『ヒトはみな生まれる前は女だった』二見書房 5頁)

\(^o^)/ 私が「オス」でなく「男」になったのは、幼稚園に入園するころでした。


 マネーは性的アイデンティティは四〜五歳でもうできあがっていて、いまさら変えることはできないと言っています。三歳までなら変えられると言っています。ということは、性的アイデンティティの臨界期と言語学習の臨界期は、ひょっとすると同じではなかろうか、と私は推測するのです。つまり、ジェンダーというのは、じつは言語のことではないかと。
  我々が男性である、女性であるというのは最初は大人に教えられたわけです。その言葉を聞かない以前に我々はジェンダーをもちえないのではないか。とすればジェンダーとは言語なのです。  [中略]
 ですから人間社会を離れて言語を知らなかった野生児は、一人の例外もなくセクシュアリティをもたず、性的行動を示さない。[中略]
 まさしく性欲は本能ではありません。


    (小倉千加子『セックス神話解体新書』学陽書房 152-153頁)

(-.-)y-~~~ 人間の幼児が狼に育てられた「野生児」は、現在まで三十数例発見されている。
 中でも有名なのは、一七九九年フランスで発見された「アヴェロンの野生児」(発見当時推定年齢十二歳)と、一九二〇年にインドで発見された「狼少女」アマラ(発見当時推定年齢一歳半)とカマラ(同八歳)である。


 ゴリラの雄は体重約二〇〇キロの巨体をもつが、精巣はわずか体重の〇・〇二パーセント、ふたつで三五グラムしかない。チンパンジーの雄は実に体重の〇・三パーセント、ふたつで一二〇グラムという巨大な精巣を持つ。ゴリラは、配偶者防衛がきちんとできていて精子間競争が無い。一方、チンパンジーは乱婚制で、雌は複数の雄と交尾し、雌の体内で複数の雄の精子が交じり合う(精子間競争)ため、精巣の大きな個体が子孫を残すうえで有利となる。

    (長谷川真理子『オスとメス=性の不思議』講談社 144-145頁より要約)

(-.-)y-~~~ 近代以降の「一夫一婦制」はヒトの本性に根ざしたものか否か。自然状態にあった原始のヒトの雌雄の関係は、本来、どうだったのか。
 雌が一人の特定の雄とだけ関係を持つ「貞淑」なゴリラ型か。
 それとも、雌が不特定多数の雄と次々と関係を持つ「淫乱」なチンパンジー型か。
 その答えは、ヒトの雄の体重と精巣の重量比を計算すれば明白である。が、『オスとメス=性の不思議』の著者が注意しているように、「ヒト」と「人間」は違うのだということを忘れてはならない。


 側性化とは、大脳の機能が左右どちらかに片寄って行われるのをいい、より高度な機能を行うために生み出された現象と考えられます。[中略]
 この側性化が女性よりも男性のほうで進んでいるのです。

    (Quark編『男のからだ・女のからだ』講談社 156頁)

(-.-)y-~~~ 理工系の学部に女子学生が少なく、文学部・教育学部は逆に男子が少ない。その理由は、男女の脳の違いに起因するのだろうか。ただし脳の男女差とは、ハードウェアの違いというよりソフトの違いである。




少女の不気味な予言






(-.-)y-~~~ 卑弥呼やジャンヌ・ダルクの例を取るまでもなく、「神の声」を聞く預言者には女性が 多い。


 崇神天皇の命をうけて越の国に派遣されたオホヒコのミコトは、道中、短いスカートをはいた不思議な少女に会った。
 少女は「天皇は自分の命が狙われていることも知らず、女遊びにうつつを抜かしている」という内容の歌をうたい、姿を消した。
 天皇はその報告を受け、謀反(むほん)の予言であると解釈し、いちはやく征討軍を送ったので、戦争となった。

                                (『古事記』『日本書紀』より要約)


 [前略]思春期少女のルーマーは、まさに社会変動のバロメーター、流動する世相を映 す鏡である。
 なぜ、思春期少女なのか。
 民俗学の開祖・柳田国男はその著書『妹の力』で幕末の「おかげまいり」のように、思春期少女の鋭敏な感性が、時代の変動をはじめにとらえて狂い舞う現象を指摘している。産業革命の本家イギリスのニューヨーク州の寒村ハイズビルで思春期少女二人が起こしたポルターガイスト事件が、十九世紀の世界をゆり動かした心霊主義運動のはしりとなった。元来、『源氏物語』にあって、「葵(あおい)の上」にとりついた病原体「もののけ」に感応して、それを自らの体に引きとる「よりまし」は「女の童」であった。つまり平安時代の昔から感受性の鋭い思春期少女が、病原体に感応する媒体ーメディアだったのである。
 しからばこれら、「学校の怪談」に錯乱する少女たちは、現代の社会病理にいち早く感応して舞い狂う「よりまし」なのではあるまいか。

    (中村希明『学校の怪談』講談社 214-215頁)

(-.-)y-~~~ 「ルーマー」は「トイレの花子さん」や「口裂け女」などの噂の意。「ハイズビル事件」は「フォックス姉妹事件」のこと。
 みなさんも、自分の小中学校のころを思い出してみて下さい。一般に、男子より女子のほうが「キューピットさん」「エンゼルさま」による自己催眠にかかりやすかったはずです。


 [前略]一九世紀にグリムが手を加えた「赤ずきんちゃん」は、事件の残酷さを二人の生還ということでやわらげています。しかし、グリムが手本としたフランスの『ペロー童話集』に収められている「赤ずきんちゃん」では、狩人は出てきませんで、お祖母さんと赤ずきんちゃんが狼に食べられて死んでしまうところで終わっています。
 [中略]この時いらい何世代にもわたって、西欧の親たちはこの童話を、娘たちへの警告物語とし て利用してきました。今世紀に入ってから、この童話の解釈研究がすすみ、精神分析学者のエーリッヒ・フロムは、赤ずきんちゃんがお祖母さんのところに持っていくように言われたワインの入ったビンを、処女性の象徴だと理解しました。[中略]
 また、ドイツのカール=ハインツ・マレはこの童話を徹頭徹尾性的な物語、それも赤ずきんちゃん が両親の性行為を目撃し、みずからも犯されてしまう物語として解釈しています。

    (森義信『メルヘンの深層』講談社 74-75頁)

(-.-)y-~~~ 古来、男性の女性観は「崇拝と蔑視」という矛盾に満ちている。その理由は、女性が男性に無い能力をもっていて、男性は常にその女性特有の能力に対してコンプレックスを抱いてきたからである。
 出産は女性にしかできない。しかもそれは大変な苦痛をともなう。男性の潜在意識の底には、女性に対する負い目と嫉妬が埋もれている。
 男性は、自分が生まれたことにより女性(母)を傷つけ、また子供を生ませることによって女性(妻)を傷つける。男たちはその原罪意識から自由になろうと、あれこれともがいてきた。時にそれは女性崇拝となり、時にそれは女性蔑視となる。
 

男たちはみな、自分がかつて女であったことを忘れてしまっている。「女性問題」とは、実は「男性問題」のことに他ならない。




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