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牛田、わが町

Usita, Mia Urbo

 2003年12月から2006年9月まで、広島市の牛田山(牛田緑地)と京橋川(きょうばしがわ)にはさまれた「牛田」というところに住んでいました。
 緑が豊かで、空気がおいしく、空も広く、人もやさしい町でした。
 ここに住んだのはわずか二年半でしたが、私たち家族がこの町を忘れることは、一生ないでしょう。

 このページの写真は、すべて私がデジカメで撮ったものです。
2004.4.13 加藤 徹  最新の更新 2006.10.4

こうへい橋  旧太田川  牛田総合公園
見立山  無字碑  牛田緑地
牛田山の頂上  弥生文化時代の墳墓  二葉山
不動院  三瀧寺  自宅から見た景色





こうへい橋
Kohei Ponto
 そのむかし、日本に軍隊があったころ、「工兵第五連隊」がかけた吊り橋です。
 いかにも兵隊さんが架(か)けた橋らしく、設計に無駄がありません。戦前・戦中は、この橋を渡り、兵隊さんが演習場に通いました。
 原爆投下のときは、多数の被災者がこの橋を向こう側からこちらに渡り、逃げてきたそうです。
 いまの橋は戦後の昭和29年(1954)に架け替えられたものです。
 「工兵橋」という名称も、いまは漢字ではなく、ひらがなで「こうへい橋」と書きます。
 橋のたもと(写真の奥)に、「こうへい橋」の由来を書いた金属プレートがあります。

 橋の幅は、人がふたりすれ違えるていどです。吊り橋なので、歩くと橋桁がわずかにユラユラして、その歩き心地がなんとも言えません。

 この橋についてはこちらのサイトをどうぞ。
 工兵橋の架かる川 京橋川 < ヤマネコの森

撮影地点の地図






旧太田川(本川)
Honkawa Rivero (Malnova Otagawa Rivero)
 遠くに大芝水門と、山並みが霞んで見えます。
 川ぞいの道は、往復4.8キロメートルの「牛田ランニングコース」になっていて、足にやさしいクッションの舗装になっています。「ランニングコース」ですが、散歩したり自転車でこの道を楽しむ人も多いです。
 あちこちの中州には樹木が生え、水鳥の楽園になっており、白サギのような大型の鳥も多数棲息しています。

撮影地点の地図






牛田総合公園
Usita Sogo(sinteza) Parko
 牛田山の斜面につくられた公園です。上の二枚の写真(夕方と夜)は、牛田総合公園の敷地のなかでも比較的低い場所にある「バラ園」です。
 拙宅のすぐ近くにあるので、よく散歩に行きます。昼間も夜も綺麗ですが、いつも閑散としています。
 深夜の照明の電気代が、もったいない気がします。


 いちばん高いところ(展望広場。右の写真)からの眺望はすばらしく、昼間は、広島の市街地の中心部はもちろん瀬戸内海の島々も一望できる一大パノラマになっています。

 高いところから広島を見おろす夜景を楽しみたいかたは、部屋を暗くしてからこちらのサイトをどうぞ。
 
瀬戸の夜景

撮影地点の地図






見立山(みたてやま)
Mitateyama Monto
見立山の上から撮影。夕暮のビル街に沈む広島城。
見立山にて。ビル街の向こうに瀬戸内海の島々が蜃気楼のように浮かぶ。
 標高118mメートルの見立山は、独立した山ではなく、牛田緑地(下記参照)の突端部です。
 上述の牛田総合公園の展望広場から歩いてすぐで、食後の散歩でのぼれる「山」です。住宅街の近くですが、草木が密生しており、タヌキも出没します。

 「見立山」の名前の由来:いまから四百年以上前の戦国時代、広島は、今とちがっていくつかの島に分かれ、葦がおいしげる寒村でした。当時の海岸線は、今の白神社(全日空ホテル脇)あたりにありました。
 中国地方の大半を制圧した戦国大名の毛利氏は、山中の郡山城(広島県高田郡吉田町)から出て、交通の便がよい海辺にあらたに城を築くことにしました。
 天正17年(1589)、毛利輝元(もうりてるもと)は、築城予定地を選ぶため、二葉山や己斐山にのぼって広島の地を見おろしましたが、場所を決められませんでした。最後にこの山にのぼり、当時あった島のなかで最も広かった「在間」という島に広島城を築くことに決めました。
 毛利の殿様がお城を見立てた山、ということで、これ以後、この山は「見立山」と呼ばれるようになりました。

 広島市の山の標高一覧、カシミール展望図(CGによる山頂の広角度眺望図)などは、こちらのサイトをどうぞ。
 
広島市街地の山々 < ひろしま百山

撮影地点の地図






見立山の無字碑
Enigma Monumento de Mitateyama Monto
 牛田総合公園のすぐとなりの「見立山(みたてやま)」=牛田緑地の突端部の中腹にある記念塔です。
 道路から山を見上げると必ず目に入る、目立つ位置にあります。
 近づいて見ると、文字がみな無惨に削りとられており、何の塔かわかりません。
 牛田の住民は、この塔を毎日、遠くから見あげて暮らしています。でも、何の塔かを知らぬ人がほとんどです。

 実は、この塔は、昭和7年(1932)に建てられた軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)拝受五十周年記念碑でした。
 軍人勅諭とは、明治15年(1882)明治天皇から陸海軍人に与えられた勅諭のことです。
 第二次世界大戦の物資不足のとき、この塔の銅の文字板は「お国のため」に供出され、ノッペラボウの塔になりました。
 日本が戦争に勝てば、銅の文字板はすぐにもどされるはずでした。
 しかし、銅板は、もどされませんでした。
 かといって、この塔は壊されることもなく、周囲をフェンスで囲われました。
 誰も触れたがらぬノッペラボウのこの塔は、半世紀以上もちゅうぶらりんです。
 ヒロシマ、そして日本には、こんなノッペラボウたちが、他にもいるような気がします。

 この塔について、詳しくはこちらをどうぞ。
 見立山の記念塔 < ヒロシマの今から過去を見て回る会

撮影地点の地図






牛田緑地
Usita Ryokuti(Verda Zono)
夕方、牛田緑地の尾根道。
 牛田山は、最高部でも標高261メートルほどの、馬蹄形の山地です。
 牛田山とその周辺の雑木林を「牛田緑地」と言います。広島市街地の「コンクリート砂漠」に囲まれた原生林で、小鳥や小動物の楽園になっています。

 自然の樹木が密生する標高百数十メートルほどの尾根伝いの道を、小鳥たちのさえずりを聞きながら歩くのは、とても気持ちいいです。
 自宅から十分も歩けば登山気分を味わえるというのは、牛田の住民の特権でしょう。
 牛田緑地には、ところどころ茂みがとぎれた「ビューポイント」があって、市街地や瀬戸内海を見おろす景色を楽しむことができます。

 地図を見ると、見立山−牛田山−尾長山−天神峠−二葉山を結ぶ「広義の牛田緑地」は、「C」を左右裏返した勾玉(まがたま)の形に見えます。
 この勾玉を取り囲むように、牛田緑地のふもとには、不動院−牛田早稲田神社−饒津(にぎつ)神社−広島東照宮−仏舎利塔−高天原墓園−・・・・・・など、多数の神社仏閣や墓地が飛び石的に並んでいます。
 近所の中高年や小学生のハイキングコースとして親しまれてる牛田山ですが、本来はアニメの「もののけ姫」のような霊的な場所なのかもしれません。

      牛田緑地の山道の写真、牛田山から市内を見おろした眺望などは、こちらのサイトをどうぞ。
 牛田山

撮影地点の地図






牛田山の頂上
Supro de Usitayama Monto

 標高261メートルの牛田山の頂上から、市街地を見下ろしたところ。瀬戸内海に宮島が霞んで見える。
 

 見立山から牛田緑地を尾根にそって上下しつつ、小一時間も歩くと、牛田山の頂上に着きます。
 残念ながら、私のデジカメの性能と撮影の腕前では、山頂から肉眼で見える大パノラマの雄大さを紹介できません。
 生で見る風景は、この写真より百倍もすばらしいです。
 山頂からは、地上35階・高さ150メートルの「リーガロイヤルホテル広島」も眼下に見えます。

← 山頂から、偶然、火事の猛烈な煙が見えました。
(2004年5月2日午後3時57分撮影)

 山頂には「陸軍輸送」と刻まれた石柱があります。なぜ? →

 牛田緑地の山道の写真、牛田山から市内を見おろした眺望などは、こちらのサイトをどうぞ。
 牛田山 展望図 < ひろしま百山

撮影地点の地図


 宇品プリンスホテルから一望した広島市街地。手前の海は宇品港。
 写真の右手に、手前から、比治山、二葉山、牛田山の三つの山が、重なり合うように写っています。





牛田の弥生文化時代の墳墓
Tombo de Yayoi-Erao en Usita
 雨あがりの夕方、霧にけむる牛田山と、早稲田神社。


 牛田早稲田神社は、牛田山のすそのの中の、小高い丘のうえに立っています。
 社殿の横に写っている石の築山は「広島県史蹟 弥生時代古墳跡」の記念碑です。
 昭和32年(1957)9月、ここ早稲田神社の再建工事中に、表土の地下1.5メートルのところから、坐ったかたちで葬られた男性の人骨が発見されました。調査の結果、いまから1900年前の弥生時代の墳墓であることがわかりました。

 二千年前、弥生時代の広島では、海岸線は現在より数キロメートルも内陸部まで入りこんでおり、当時の海を見おろす山地には「高地性集落」が発達していました。
 この神社の背景に写っている牛田山の頂上(標高261メートル)の近くでも、弥生時代の「西山貝塚」が発見されています。
 伝説によると、この弥生時代、神武天皇(じんむてんのう)の遠征軍が九州から瀬戸内海をとおって近畿に東征する途中、広島の「埃宮」(えのみや)に数年間ほど滞在した、と言われています。
 神武天皇が実在したかどうかは別として、広島市東区のとなりの安芸郡府中町には、いまも「えのみや」という神社が実在しますが、やはりこの早稲田神社と同じような小高いところにあります。
 広島市東区の弥生時代の遺跡としては、この「牛田の弥生文化時代の墳墓」のほかにも、
県史跡「木の宗山銅鐸銅剣出土地」(東区福田町字狐が城867番地の1)
県史跡「疊谷弥生遺跡群」(東区上温品四丁目65番1号 安芸高校内)
 などがあります。
 たぶん弥生時代の人たちは、夕日に照らされた牛田山を船の上から見あげたのかもしれませんね。

 広島市東区にある文化財・遺跡の一覧は、こちらをどうぞ。
 
広島市東区の文化財一覧 < 広島市のHP

撮影地点の地図






二葉山
Hutabayama Monto
 牛田山の頂上(標高261m)から二葉山と仏舎利塔を見下ろす。市街地のむこうに瀬戸内海の似島(にのしま)が、そのまたむこうに江田島が霞んで見える。
小雨にけむる二葉山と仏舎利塔
闇夜に浮かぶ二葉山と仏舎利塔
 二葉山は、JR広島駅の北にある、標高139メートルの小山です。
 山のてっぺんには、銀色のタマネギのような「仏舎利塔」(ぶっしゃりとう)があり、夜間はライトアップされて市内のあちこちから見えます。

 なんの変哲もない小山に見えますが、実は日本一(おそらく世界一)のものを持っています。
 なんだかわかりますか?

 答えは「二葉山を守る会」のサイトをどうぞ。
 
日本一の森を守ろう!

上の右二点の撮影地点の地図






不動院
Hudoin Templo


 関ヶ原の合戦で石田三成らとともに活躍した、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)ゆかりの寺です。
 広島市で唯一国宝に指定されている建物があります。
 国道54号線と、アストラム・ライン(東京の「ゆりかもめ」に似た交通機関)のすぐ近くですが、別の空間のような感じがします。
 また、豊臣秀吉の遺髪墓などもあります。

不動院のホームページ

撮影地点の地図






三瀧寺
Mitaki Templo
 「みたき」は、最寄りのJRの駅は三「滝」と書きますが、お寺の名前は正式には三「瀧」と書くようです。
 このお寺は、広島市街地の西の山の中腹にあります。
 「向晩意不適、駆車登古原」(晩にむかいて意かなわず。車を駆りて古原に登る)という漢詩の名句がありますが、私もたまに牛田の自宅から車を10分ほど走らせて遊びに行きます。

 市中心部から遠くないのに、まるで別世界の深山幽谷の雰囲気です。
 写真の「三瀧寺多宝塔」は、和歌山県の広八幡神社にあった1526年創建の塔を、原爆犠牲者供養のため1951年に移築したもので、広島県重要文化財に指定されています。

 三滝ホームページ < 広島市のHP

 

撮影地点の地図






自宅から見た景色
Mia Hejmo

南のベランダから。
朝の
二葉山。左の幼稚園から子供たちの元気な歌声が聞こえてきます。似島(にのしま)と新幹線も見えます。

北の窓から。
アストラムラインも見えます。
光明学園と見立山





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