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中野、わが町

Nakano, Mia Urbo

 2006年秋から、東京都中野区に住んでいます。
 このページの写真は、すべて私がデジカメで撮ったものです。
2006.11.2  最新の更新 2009.5.8 加藤 徹

中野区役所「水位観測情報【10分水位】」※大雨・洪水注意のときに

わが家  杉山公園  千年けやき  犬屋敷の跡
中野刑務所の門  哲学堂公園  桃園川緑道
大詔奉戴記石碑  願かけ地蔵尊  メモ  リンク





わが家
wa ga ya  Mia Domo
 ↑中野サンプラザから撮影(2006.11.1)。
 写真のまんなかは、中野区の南部。左手に新宿、右手のほうは杉並区です。
 三十万人以上が住む中野区の人口密度は、1平方キロあたり約2万人で、日本一だそうです(べつに自慢になりませんが)
 この写真のなかに、わが家も、米粒より小さく写っています。

 ↓明治大学・和泉校舎(杉並区永福1-9-1)から撮影。
 画面左手に、中野サンプラザが見えます。池袋のサンシャインや、新宿の高層ビル群も見えます。





杉山公園
Sugiyama Kouen  Sugiyama Parko
 中野区本町六丁目15番

 青梅街道と中野通りが交差する十字路の近くにあります。道路のランドマークとして、ドライバーには「杉山公園」はよく知られた地名です。

 公園の面積は1,294.91平方メートルあり、中野区の公園としてはそれなりに広く、いつも子供たちの元気な声でにぎわっています。

 左は、公園で遊ぶ子供たちを優しく見守る親子三体の「杉山地蔵尊」の写真です。


<杉山公園の立て看板の説明書き>
杉山公園の由来
 杉山公園は、明治の実業家杉山裁吉(すぎやまさいきち)氏が令嬢みさをさんの病気療養のため、自然環境ゆたかな田園風景をもとめて居をかまえた所です。
 この地に移られてからの杉山氏は多年の事業から隠退し、みさをさんの療養につくされました。しかし、そのかいもなく、みさをさんは明治四十一年、二十五歳の若さで世を去りました。両親の悲しみは非常に深いものでしたが、みさをさんの冥福を祈ると共に多くの子供達が健康ですこやかに育つように祈願されました。
 大正十四年に夫人が逝去されたのを機に邸宅、土地を当時の中野町に寄付し、親子三体の地蔵尊を彫った石碑を建立されました。昭和六年に杉山裁吉氏が逝去された後、昭和九年三月、東京市より杉山公園として開園されました。
 現在は中野区に移管され、日毎(ひごと)に増す交通事故から子供達を守り、またよき遊び場として地域のみなさんから親しまれる公園となっております。

中野区


<親子地蔵の横にある石碑の文章>

杉山一家嗣なく血統絶ゆるも
代々の精霊は永くここに
鎮りて中野町の繁栄と
其の住民の幸福を
祈らむ





千年けやき
sen nen keyaki  Mil jaroj Zelkovo

 中野区中央5-43-1

 推定樹齢六百年。
 地元住民から「千年けやき」と呼ばれて親しまれる、ケヤキの巨木です。
 中野区立桃園(ももぞの)第三小学校の校門の脇にあり、同小のシンボルになっています。
 「けんこうなからだ、やさしいこころ、きわめるちから」の象徴としての「け・や・き」でもあるそうです。

 いまは、校庭を元気に走りまわる子供たちの成長を見守るこのケヤキですが、六百年前、このあたりには、どんな風景が広がっていたのでしょう?
 日本には、樹齢千数百年のケヤキの巨木が、何本もあります。
 樹齢千五百年、山形県東根市の大ケヤキ。
 樹齢千六百年、兵庫県朝来市の、八代の大ケヤキ。──
 わが中野区のケヤキは、これらにくらべると、まだまだ若いです。
 千年後、このあたりには、どんな風景が広がっているのでしょう?

 この「千年けやき」は、井上靖(いのうえ・やすし)の小説『欅の木(けやきのき)』(集英社、1971)にも登場します。
 作者の井上氏は、東京の住宅地のなかにしっかりと生えているこの巨木を見て、よほど感銘を受けたのか、小説のなかで、このケヤキの様子を詳細に描写するとともに、ケヤキに託し、人生論を語っています。
「幸福は求めない方がいい。求めない眼に、求めない心に、求めない体に、求めない日日に、人間の幸福はあるようだ」(井上靖『欅の木』)




犬屋敷の跡
inu yasiki no ato  Monumento de Hundejo

 中野区中野4-8-1

 JR中野駅北口からすぐの、中野区役所の南に、犬の銅像が並んでいます。
 この犬たちは、江戸時代にあった「犬屋敷」(中野御囲)の記念碑です。

 「生類憐れみの令」を出した徳川五代将軍綱吉のとき、野良犬を収容して飼育するため、ここに巨大な犬屋敷が作られました。
 西は高円寺まで及んだ敷地の面積は三十万坪に達し、収容された八万数千匹の犬のエサ代だけで、年間十万両かかった、と言われています。
 当時をしのぶ建築物は、何も残っていません。ただし、囲町(かこいまち)公園という名称や、中野に隣接するJR高円寺駅付近の道路の形状に、当時の広大な「犬屋敷」の痕跡が残っています。

 江戸から東京にかけて四百年以上のあいだ、国家権力の中枢たる政府機関は、ずっと千代田区にあります。
 現在でこそ中野は、新宿副都心に隣接する繁華街ですが、戦前までは田んぼの多い田舎でした。
 国家権力にとって、汚いもの、やっかいなものは、中野に押しつけられる傾向がありました。
 五代将軍綱吉の「犬屋敷」も、そうです。
 八代将軍吉宗のとき、はるばる安南(ベトナム)から江戸城に象が献上されました。吉宗は、最後はこの象をもてあまし、結局、中野村(当時)の百姓・源助に払い下げました(「中野の象小屋」。現在の中野区本町二丁目、朝日が丘児童館の公園にあった)。

 明治から昭和にかけても、中野には、国家権力の尻ぬぐい的な施設がありました。
 多数の思想犯を収容した豊多摩刑務所(中野刑務所。次項)も、謀略と諜報に従事する秘密戦士を養成した陸軍中野学校(現在の、中野区役所)も、都心の千代田区ではなく、中野に置かれました。

 いまの中野には、おもてむきは、国家権力の尻ぬぐい的な施設はありません。
 でも、ひょっとして、実は・・・・・・




中野刑務所の門
Nakano Keimusyo no mon  Barbakano de Nakano Prizono

 中野区新井3-37-3

 昭和58年まで、中野には刑務所がありました。
 思想犯や政治犯などの知識人が、たくさん収容されていました。
 中野の宅地化が進むなど、時代の変化によって、刑務所は廃止されました。その跡地は分割され、現在、
  
平和の森公園
  東京都下水道局中野処理場
  法務省矯正研修所東京支所
の三つの施設として利用されています。
 往年の刑務所は、その門だけが、いまも法務省矯正研修所の敷地のなかに記念として残されています。

中野刑務所の略歴
 豊島監獄(明治43年〜大正11年)
 豊多摩刑務所(大正11年〜昭和21年)
 連合軍(進駐軍)の拘禁所(スタッケード)(昭和21年〜昭和31年)
 中野刑務所(昭和32年〜昭和58年)

中野刑務所(およびその前身の監獄)に収監されていた有名人(敬称略)
 大杉栄、荒畑寒村、亀井勝一郎、小林多喜二、中野重治、埴谷雄高、河上肇、三木清(獄死)、藤本敏夫(加藤登紀子氏と獄中結婚)ほか

 




哲学堂公園
Tetugaku Dou Kouen  La Filozofia Parko
哲学堂公園の建築群


鬼神窟(一階に接神室、二階に霊明閣)


庭園
 中野区松が丘1-34

 仏教哲学者で「お化け博士」としても有名な井上円了(1858−1919)が、私財を投じて作った公園です。

 哲学をテーマにした公園は、全国的に見ても珍しいそうです。
 それほど広くない敷地のなかに、哲学にちなんだ独特の建物が建ち並んでいます。
 井上は、迷信を打破する立場から妖怪やオカルトの研究を行った合理主義者でした。
 しかしこの庭園には、真昼でも、あやしい雰囲気がムンムンと立ちこめています。

 敷地のなかにある「幽霊梅」は、実際、明治時代に幽霊が出たと騒がれた梅を、ここに移植したものだそうです。
 ただし、当時の梅の木は、いまはもうなく、その跡地があるだけです。

 公園のなかの建物や施設は、それぞれ小規模ですが、独特の名称と「役割」をわりふられています。
 例えば「鬼神窟きしんくつ」という建物は、外見は普通の民家です。
 しかし、その名称と役割には、おどろおどろしいものがあります。
 「鬼神窟」の説明板にいわく──
「髑髏庵どくろあんから復活廊ふっかつろうを通り、この屋に至れば精神は俗界を離れて霊化するとして、この名が与えられ、その内室を接神室せっしんしつ、楼上を霊明閣れいめいかくと呼ぶ」

 公園の出入口に立っている「七十七場名称案内」看板によれば、園内の施設名は、以下のとおりです。
1哲学関、2真理界、3鑽仰軒、4哲理門、5一元牆、 6常識門、7髑髏庵、8復活廊、9鬼神窟、10接神室、 11霊明閣、12百科叢、13時空岡、14四聖堂、15唱念塔、 16六賢台、17天狗松、18筆塚、19懐疑巷、20経験坂、 21感覚巒、22万有林、23三字壇・哲史塀、24三祖碑、25唯物園・哲史蹊、 26物字壇、27客観廬、28進化溝、29理化潭、30博物隄、 31数理江、32観象梁、33神秘洞、34狸燈、35後天沼、 36原子橋、37自然井、38造化澗、39二元衢、40学界津、 41独断峡、42唯心庭、43心字池、44倫理淵、45理性島、 46心理崖、47鬼燈、48概念橋、49先天泉、50主観亭、 51認識路、52直覚径、53論理域、54演繹観、55帰納場、 56意識駅、57絶対城、58聖哲碑、59観念脚、60観察境、 61紀念碑、62相対渓、63理想橋、64理外門、65幽霊梅、 66宇宙館、67皇国殿、68三学亭、69硯塚、70無尽蔵、71万象庫、72向上楼、73望遠橋、74星界洲、75半月台(76と77は、文献記録が欠けており不明)

 十五分もあれば、ざっと全部回れてしまいます。
 しかし、それぞれの施設にこめられた寓意を体得して、哲学的にめざめるためには、一生かけて散策しても足りないのかもしれません。



参考サイト 
哲学堂公園(中野区のHPの一部)






桃園川緑道
Momozono Gawa Ryokudou  Verda aleo de Rivereto Momozono
 
桃園川緑道
←西はJR阿佐ヶ谷駅(杉並区)の近くから、東は中野区の東端である神田川まで、住宅地のあいだを延々と4.3キロメートルにわたって続く緑ゆたかな遊歩道です(杉並区の部分が2km、中野区の部分が2.3km)。自転車も通れます。
 道の下には、暗渠化された旧・桃園川が流れています。
 この写真は、杉並区側(写真の手前)から、道路をはさんで、中野区側(写真の奥)にむかって撮影したものです。


→東端は、神田川(写真)に合流して終わります。
 写真のむかって左側(東岸)は、新宿区北新宿2丁目。右側(西岸)は、中野区中央1丁目。遠くに新宿の高層ビル群が見えます。春は桜が美しいです。
神田川。中野区と新宿区の境界。

参考サイト 
桃園川緑道(中野区のHPの一部)








大詔奉戴記念碑
Taishou Houtai Kinen Hi  La Sxtona Monumento de La Imperiestra Deklaro
 
場所 中野区中野3丁目の住宅街の路地

大詔奉戴記念碑
 正面の文字「国威宣揚 (改行) 陸軍大将 男爵 本庄繁謹書
 むかって左の側面「昭和十八年十二月八日大詔奉戴記念」
 右側面「桃園子寶會建之」

 東京の住宅密集地を歩いていると、ときどき路地裏で思いがけない古い遺物を発見し、しばし歴史の断章に思いをめぐらせることがあります。

 例えば、この路地裏の石碑もそうです。これは、戦争中の昭和18年(1943)12月8日に、当時の「桃園子宝会(ももぞのこだからかい)」が建立した「大詔奉戴(たいしょうほうたい)記念」の石碑です。
 「大詔奉戴」という言葉の意味は、「天皇陛下が発せられた「おおみことのり」を、大日本帝国の臣民がありがたくおしいただく」という意味です。

 昭和16年(1941)12月8日、日本軍がアメリカやイギリスと戦争を始めたその日に、昭和天皇の「宣戦の詔勅」が公布されました。以後、昭和20年に戦争が終わるまで、毎月8日は「大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)」とされ、日本国民は愛国心を具体的に態度で示すことを求められました。例えば学校では、毎月8日は、児童・生徒は御真影を奉拝し、「日の丸弁当」を食べることになっていました。
 この石碑の「国威宣揚」の題字を書いたのは、昭和史上、有名な軍人である本庄繁(ほんじょう・しげる。1876〜1945)です。本庄繁のやしきは、当時の地名表記では「上の原町8番地」(現在の中野区東中野2丁目)にありました。

 なお、この石碑が建っている場所の近くには、異色の革命思想家・北一輝(きたいっき)が逮捕・処刑されるまで住んでいた屋敷もありました。







願かけ地蔵尊
Gankake Jizou-son  La Sxtona "Zizou" Statuoj de Pregxo
 
願かけ地蔵尊
 所在地 中野区上鷺宮一丁目2番13号

 この「上鷺宮の願かけ地蔵」の脇に立つ中野区教育委員会の立て看板と、中野区のホームページの解説文によると……

 この2体のお地蔵様のうち、左側の大きい地蔵尊は、正徳5年(1715)に建立され、「奉供養仏講中 上鷺宮村願主 篠氏敬白」と刻まれている(念仏講とは、村の人が寄り合って念仏を唱えた信仰集団で、加入している信者を講中と呼んだ)。

 右側の小さい地蔵尊には、「多摩郡上鷺宮村 篠丈右衛門」の文とともに、現世だけでなく来世での幸せをも祈願した「二世安楽」の文字が刻まれている。

 地蔵尊は中野区内での石仏の中でも最も多く、人びとはいろいろな願いごとを託してきた。
 その願いのかけかたはユニークで、次のような話が伝えられている。

──この地蔵に祈願する人は、白装束で真夜中に祈りながら右側の小さい地蔵を倒す。すると大きい地蔵は、倒された地蔵を起こしてほしいために、願いごとを聞き届けてくれる……といわれ、願いがかなったら自分の手で小さい地蔵を起こしにいく──というもの。

 このような祈願のしかたは、昭和30年頃まで続いていたという。

 それにしても、昔の中野の住民は、お地蔵様を倒して、バチが当たるのが怖くなかったのだろうか?
 いまだったら、文化財保護法違反とか、器物破損で捕まることだろう(^^;;



メモ
memo  Memorigilo


東京都中野区『中野区政史・昭和編一』(昭和46年3月25日)p.60より
 そのほかこのころになると有爵者、高級軍人が中野町に居住するようになり、昭和五年の数字によれば伯爵二、子爵一二、男爵一六、陸海大将七、同中将三二、同少将三四人が住んでいたことがわかる(『中野町誌』三五五ページ)。

同p63より
 中野区には大きな工場はなかったが、荻窪駅の北にある中島飛行機製作所は杉並一帯を中心に広く農家の労働力を吸収して、長男すらも工場勤めをするようになった。

同p.80より
 ところが、大久保町・戸塚町から落合町を淀橋区に編入すべきであるという意見書が東京府へだされた。また東京逓信局長も郵便事務の便宜の点から落合町の淀橋区編入を要請するなど有力な助言もあって、結局、落合は中野区から除かれて淀橋区へ編入することに修正された。

同p.166より
 この西武村山線の敷設作業は、千葉県津田沼の鉄道第一聯隊の演習として行われ、建設費は、いわば、ただ同様の少ない費用ですんだ。しかも、軍隊の演習だから、なによりむ工事のスピードが重視される。そのためであろうか、昭和二年一月に着手して、四月には開通という短期間の工事だった。

同p.171より
 「武蔵野を東西につらぬく甲州街道にそって甲武鉄道が開通すると聞かされた時は、足もとから鳥が飛び立つような驚きだった。『鉄道が開通すれば、宿屋はあがったりになる』『人力車夫は失業だ』『野菜も桑も汽車の煙で育たないだろう』こうした不安が近在の村々にまで広がった。『我々の目の玉の黒い内は、甲州街道にそった鉄道敷設などまっぴらお断り。』ということで、ずっと離れた中野や三鷹方面に汽車は追っぱらわれてしまった。工事は赤羽の工兵隊が実施したのであるが、大久保あたりから高尾までカーブなしの一直線、『気をつけ。』の姿勢はいかにも軍隊の工事らしく、学界では世界的に有名な線路である。

同p.311より
 さらに昭和四年の記念祭で東高のあるクラスは、仮装行列で色気狂と殺人狂という「松沢病院のピクニック」なる行進をした。その際、ある生徒は、父兄の福田大将のベタ金の軍服をもってこさせ、「殺人狂」のプラカードをかかげてグラウンドを一周した。この福田大将は、関東大震災当時の戒厳令司令官で、大杉栄らを殺した仇としてアナーキスト和田久太郎らにつけねらわれ、たまたまピストルが空砲で命びろいした人だった。(『東京高等学校史』)

同p.311-312より
 昭和三年、京都帝国大学の教授の地位を辞した河上肇は、共産党のシンパナイザーとして資金をカンパしたり「ミニテーゼ」のほん訳をしたりしていたが(ペンネームは本田弘蔵)、やがて共産党に入党し地下運動に入っていた。点々と住居を変えるうちに、昭和七年十二月六日中野区住吉町三〇番地、(現在の東中野四−一七)画家椎名剛美方に落着いた。翌八年一月十二日この中野の隠れ家で警視庁特高課警部原田恒太郎らによって検挙された。中野警察署に一六日間留置された後に、豊多摩刑務所に移され、六月二七日ごろ、市ヶ谷刑務所に移された。河上肇『自叙伝』の中野署でのくだりはきわめて印象的である。中でも、女学生親子との中野署での出合いは人の心をうつ場面であろう。

同p.314より
 たまたま中野区地域に住んでいて、治安維持法違反に問われて、検挙され裁判にかけられた人びともかなりいた。それらの人たちの多くは知識人であり、労働者もかなりいた。

同p.318より
 中野や杉並のかいわいには、職業軍人がかなり住んでいた。その原因は、市ヶ谷陸軍省などの機関への通勤上の便宜や、その割合に家賃なども安くすんだということもあったらしい。中野区の地域には、右翼団体の本部がいくつか置かれていた。

同p.449より
 二・二六事件の首魁として昭和一二年八月一九日に銃殺になった北一輝(本名北輝次郎)は、同一〇年一〇月来、中野区桃園町四〇番地(現在の中野三丁目一六番、邸宅のあとは、公務員アパートになっている)に居を構えていた。「千数百坪もあるという敷地に洋館の二階建、庭は一面の芝生、向うに谷あり山ありという豪壮な邸宅」(大橋秀雄『ある警察官の記録 戦時・戦後三〇年』四八ページ)であった。家族も北一輝自身の警視庁での陳述によれば、妻と養子大輝の三人のほかに、女中三人、自動車運転手一人というぜいたくなものだった。

同p.456より
 この大事件は、中野区民にも大きなショックと表現のしようのない恐怖感を与えたようだ。中野区民の一人中島健蔵は日記につぎのように記している。

同p.600より
 永井荷風は、三月一〇日の大空襲に続いて二度目の戦災に、東中野で遭遇している。

東京都中野区『中野区政史・昭和編三』(昭和48年3月25日)p.797より
 「中野もだいぶかわったでしょうね・・・・。若いころ・・・・中野で下宿していたことがあるんですよ」。これは昭和四七年一〇月、日中国交回復条約調印で田中角栄首相が中国へ渡ったとき、周恩来首相が随行の日本人記者とかわした会話の一コマであった。 (中略)東京滞在中に、周恩来は東中野小学校の近くの東中野五丁目一四・五番に下宿していた。周恩来が下宿していた付近は、「華洲園」とよばれ、四季の草花を栽培する花畑として有名なところだった。後「華洲園」は移転し、その跡は宅地化し、第一次大戦で巨額の利潤を得た三井物産系の人や、軍人が邸宅を構えるようになった。ここに若き日の周恩来が下宿していたのだが、誰れの家だったのかはわからない。

『ガイドブック 杉並の戦争と平和』(光陽出版社,2004)p.21より
哲学者・三木清旧居跡 <現在は何も残っていない>
高円寺南5-13-26(高円寺4-539)




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