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小特集 日中古典ブーム
トリップ感覚で生かす漢文古典の知恵
本稿は
東方書店
の求めに応じて書いたものです。
掲載誌 『東方』2月号(2008年1月25日発売)pp.6-9
近年、日本でも中国でも、漢文が静かなブームである。
漢文を学び直したいという中高年層だけでなく、若い人も、それなりに漢文の古典には興味をもっているようだ。
町の書店に行けば、漢詩・漢文の入門書や名文集、漢字の字源の解説書などの新刊書が、本棚に並んでいる。インターネットでも、漢詩の作り方を解説したサイトや、自分の作った漢詩や漢文を発表するサイトがある。
テレビでも、俳優の平幹二朗氏が扮する「カンゴロンゴ」という孔子そっくりのキャラクターが、漢文の「お言葉」で現代日本を斬る、というシュールな番組がNHKで制作された。カンゴロンゴの弟子役にお笑いタレントが起用されるなど、二十代の若年層も意識した番組となっている(NHK「番組たまご」という実験放送枠で、単発番組としてすでに二回ぶんを放送。詳しくはネットで「カンゴロンゴ」と検索してください)。
私見によれば、一般の漢文愛好者のレベルは、次の四段階に分けることができる。
第一段階 故事成語や四字熟語を覚えて楽しむ。
第二段階 漢詩漢文の朗読(詩吟を含む)・素読・暗誦を楽しむ。
第三段階 漢詩漢文を筆写して楽しむ。
第四段階 自分で漢詩漢文を創作して楽しむ。
日本でも中国でも、第四段階まで進む人は少ない。書店に並ぶ漢文関係の一般書は、第一および第二段階の初心者向けのものが多い。ただ、初心者向けの本でも、内容が深く読みごたえがあるものもある。
本稿では、第一段階の漢文を中心に述べることにする。
一、典故=リンクすること
漢文古典の面白さの一つは、リンク感覚にある。
インターネットのウェブ・ページでは、ある語句をクリックすると、瞬時にパソコンの画面が替わり、関連する別の場所に飛ぶ。またページの末尾の「リンク集」から、パッと他のページに飛ぶこともできる。
漢詩や漢文の「典故」という発想は、2007年に出版された四字熟語や成語に関する書籍の一部ウェブ・ページのリンクと近い。
例えば漢詩を詠んだり、漢文を書くとき、何の典故も使わずに、すなおに自分の言葉で目の前の状況を書いてもよい。しかし多くの場合、歴史的な挿話や故事成語をふまえて、含蓄に富んだ表現をする。
漢詩や漢文を書かないまでも、目の前の現在を故事成語を使って表現することは、初歩的な「典故」であり、一種のリンク行為と言える。
例えば、こんな会話。
「顔色がさえないね。つらいことでもあったのかい」
「実は、就職が内定してた会社が、つぶれちゃったんです」
「うわ、それはつらいね」
「でもまあ、人間万事塞翁が馬、とも言いますから。別の道を探しますよ」
今の災難が将来の幸福の原因になりうるかどうかは、神のみぞ知るである。しかし「塞翁が馬」という、二千年以上も前の外国の故事と今の自分の生活をリンクさせることで、ちょっとだけ高い見地から、今の自分を見つめ直すことができる。
漢文の故事成語には、そのようなトリップ感覚、リンク感覚がある。それは、駒田信二の言いかたを借りれば「一瞬の救い」でもある。
二、ケータイにもピッタリ?
漢文古典のもう一つの面白さは、簡潔さにある。
例えば──故郷の同窓会で、三十年ぶりに昔の友達に会った。東京で起業して出世したやつもいれば、実家をついで豊かな暮らしてるやつもいる。俺は好きな道に進んだ。後悔はしていない。「天日無私、花枝有序」とも言うし。──
右の「天日に私無し、花枝に序有り」という漢文は、禅語である。
天の太陽は、平等に地上を照らす。しかし地上の植物には、枝の高下や開花の早晩の序列が、自然にできる。もし、木の花や枝が全て、日当たりのよい南側にばかりに競って伸びたら、木はバランスを失って倒れてしまう。もし全ての花が一斉に暖かい春に咲いたら、自然の生態系はメチャクチャになる。日陰に生える草とか、寒風の季節の遅咲きの花があるからこそ、自然は豊かで美しい。 人間の社会も同じ。それITだ、それ株だ、と生き馬の目をぬくような人間ばかりでは、社会は成り立たない。自分の趣味に走る人、好んで「構造不況」「時代遅れ」「浮世離れ」の職種につく人もいるからこそ、世の中は豊かで面白い。あせる必要はない。お天道様は公平だ。……という含蓄に富んだ内容を、漢文なら「天日無私、花枝有序」のたった八文字で表現できる。
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三、過去.現在.未来をシフトする
漢文の面白さはいろいろあるが、最大の魅力は「発見」であろう。
古いのに新しい。あるいは、古いからこそ新しい。歴史と対話することで現在や未来を考えるヒントを得る、という対話的思考こそ、漢文古典の真骨頂である。
例えば『呂氏春秋』に載せる「荊人遺弓」──荊人弓を遺(おと)す、という故事は、現代人に、いろいろなことを考えさせる。
荊州のある人が、弓をなくした。しかし彼は、弓を探さなかった。いわく「荊人遺弓、荊人得之。又何索焉?」(荊の国の人間が、弓をなくしても、荊の国の誰かが拾って使うだろう。探す必要なんかないさ)
この話を聞いた孔子は、こうコメントした。「去其荊而可矣」(「荊」の一字を取れたら良いのに)。
さらにこれを聞いた老子は、こう述べた。「去其人而可矣」(「人」の一字を取れたら良いのに)──
含蓄に富んだ説話である。
道で百円玉を落としても大損をした気持ちになる筆者から見れば、弓をなくした荊人の考えかたは、じゅうぶん尊敬に値する。
しかし博愛主義者の孔子は、さらに大局的見地に立つ。「惜しい。どうして『荊』という国名にこだわるのか。自国人でも外国人でも、人間ならみな同じじゃないか」
無為自然をたっとぶ老子は、孔子よりもさらに高い視点に立つ。「惜しい。どうして『人間』にこだわるのか。弓が腐って土にもどる。大自然の生命のサイクルからはみ出さなければ、それでいいじゃないか」
この説話に登場する弓は「財貨」を、荊人は「愛国心」を、孔子は「博愛主義」を、老子は「地球環境」を象徴する。もちろん、実在した孔子や老子がこのようなコメントを残した、というわけではない。この説話では、彼らのキャラクターを借りて、立場が違うコメントを仮託しているのである。
紀元前三世紀『呂氏春秋』ができた時代も、二十一世紀の現代も、人類の本質は変わっていない。愛国心、博愛主義、自然環境との調和。今も昔も、さまざまな主義主張の人がいる。
ただ、時代の思考の枠組みは、確実にシフトしつつある。「自国が豊かになるための経済活動」から「人類が豊かになるための経済活動」へ、さらに「地球環境にやさしい経済活動」へ。
二千数百年前の「荊人遺弓」が提起した問題は、現代では、ますます重要さを増している。
漢文の故事や説話には、現代人が読んでもハッとさせられるものが少なくない。たった一言で、人間の変わらぬ本質をつくような成語が多い。
日本や西洋の古典でも、含蓄に富んだ名言はある。が、漢文の古典はひときわ簡潔で、しかも多彩であり、独特の味わいがある。
ご興味のあるかたは、東方書店で売っている漢文関連の書籍、例えば拙著『怪力乱神』(中央公論新社)や『漢文力』(中公文庫)もどうぞ──と最後に自己宣伝をしてしまうところは、われながら漢文古典の達観の境地からほど遠く、ちょっと悲しい。
(かとう・とおる 明治大学 )
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