HOME > いままで書いた本 > このページ

『西太后』 中公新書、2005年9月25日刊
新書判 296ページ 定価840円(本体800円) ISBN4-12-101812-5 C1222

本書の紹介文など  本書より  トリビア(「母乳」「生きダルマ」「周恩来」他)  ミニ・リンク


本書の紹介文など
参考サイト「ブック・レビュー・ガイドb
2006 以下、2005
↓中央公論新社「中公新書のページ」「9月の新刊」紹介文より。
一般に「悪女」の代表のように言われる清末の烈女・西太后。しかし、彼女の行なったさまざまな政治判断により、清国が領土の大半を保持し、それを現代中国に伝えることに成功したかということは、あまり知られていません。『西太后』は、気鋭の中国文化研究者が描く、異色の人物伝です。

↓中央公論新社の紹介文(本の見返しおよび帯に印刷)
 内憂外患にあえぐ落日の清朝にあって、ひときわ強い輝きを放った一代の女傑、西太后。わが子同治帝、甥の光緒帝の「帝母」として国政を左右し、死に際してなお、幼い溥儀を皇太子に指名した。その治世は半世紀もの長きにわたる。中級官僚の家に生まれ、十八歳で後宮に入った娘は、いかにしてカリスマ的支配を確立するに至ったか。男性権力者とは異なる、彼女の野望の本質とは何か。「稀代の悪女」のイメージを覆す力作評伝。
新書判 296ページ 定価840円(本体800円) ISBN4-12-101812-5 C1222



本書より はじめに

 世界史上にかつて存在した強力な帝国は、少数の例外を除き、どれも強烈な個性をもつ支配者を戴いていたいた。そして一つの時代は、しばしばたった数人の「顔」によって象徴された。

 二十世紀の中国も、孫文、蒋介石、毛沢東など、わずか数人の顔によって象徴しうる。さらにその前の半世紀の顔は、たった一人。西太后(一八三五ー一九〇八)という希代の女傑のイメージに集約される。

 彼女は清朝の咸豊帝の妃で、世継ぎを生み、咸豊帝の死後に政権を握った。 そしてわが子同治帝と甥の光緒帝の二代にわたり、皇太后として権力を振るい続けた。 中国史上、西太后に匹敵する女性権力者は、他に前漢の呂后、唐の則天武后(武則天)があるのみである。 しかし呂后の専権は十五年にすぎず、則天武后も帝位にあること十五年で失脚した。 一方、西太后は、人口四億の清帝国に四十七年間の長きに渡って君臨し、最後まで失脚しなかった。 男性権力者を含め、これほど長期にわたって実権を維持した例は、世界史上稀である。 しかも彼女の治世は、内憂外患が噴出した激動の時代であった。 彼女が示した中国統治の秘訣については、本文で分析してゆくことにしよう。

西太后の出生地と目される
辟才胡同(北京市・西単)の現在

 西太后の治世は、世界史の転換期と重なる。

 彼女が政権を握った一八六一年の世界情勢を俯瞰すると、 この年、イタリアはヴィットーリオ・エマヌエーレ二世のもとで統一を達成、 プロシアではドイツ統一を達成することになるヴィルヘルム一世が即位(翌六二年にビスマルクが宰相に就任)、 ロシアではアレクサンドル二世が農奴解放令を公布し、 アメリカではリンカーンが大統領に就任して南北戦争が勃発するなど、 列強は先頭を走る英仏を追いかけて国民国家建設へのスタートラインに並んだ。

 同時代の日本は攘夷と勤王の嵐が吹き荒れており、 桜田門外の変(一八六〇)、皇女和宮が徳川家茂に降嫁(一八六一)、 生麦事件(一八六二)など、時代は明治元年に向けて目まぐるしく動いていた。

中国第一歴史档案館
故宮・西華門内
西太后関係の一次史料の宝庫

 それから四十七年後、西太后が死去した一九〇八年の世界情勢は、大きく変わっていた。 新興国であるアメリカやドイツは英仏をしのぐ勢いを見せ、日本も日清・日露の両戦争を勝ち抜き、当時の言葉で言うところの「一等国」になった。 一方、清朝は列強による半植民地化に苦しみ、滅亡に瀕していた。

 明治の日本と比較すると、西太后の治世は失敗であったように見える。 実際、現代中国人の西太后に対する評価は、おおむね低い。 しかし、ムガル帝国やオスマン・トルコ帝国が辿った悲惨な運命と比較すれば、清朝はよく頑張ったと評価することもできる。 あの熾烈な帝国主義と世界分割競争の時代のなかで、インドは完全に植民地化され、オスマン・トルコは分解して消滅したが、 清朝は領土の大半を辛うじて保持し、それを現代中国にまで伝えることに成功した。 西太后が政敵や列強と対抗するために創始した様々な方策は、今日の中国にも明暗両面の大きな影響を残している。 また現代中国の国家戦略を一言で言えば、世界における中国のプレゼンスを清末以前に戻す、ということに尽きる。 さまざまな意味で、西太后の治世は、現代中国の原点なのである。

 本書の目的は、従前の誤った俗説や偏見を排し、彼女の生涯の真実を浮き彫りにすることにある。 その作業の過程で、現代につながる中国社会の深層や、中国人の特質なども、おのずと明らかになるであろう。

 二十一世紀の日本人が、隣国の本質を理解し、より良い関係を築くために、本書がいささかでも役立つことを願う。


トリビア
西太后と母乳
Q:先日、テレビを見ていたら、西太后は何歳になっても若さを保つために、毎日「母乳」を 毎日飲んでいたというエピソードを紹介していました。これは本当なのでしょ うか。?
A:(以下「トリビアの泉」の口調で)ハイ、たしかに。
 西太后は、毎日、三人の「乳母」から母乳をもらって飲んでいました。
 そのことは、西太后に仕えていた宦官や、女官による回顧録にも書いてあります。
 例えば、1903年から2年間、宮廷女官として西太后に仕えた裕徳齢も、回想記のなかで、西太后が美容のために毎朝、母乳を飲んでいた様子を書いています。
 また、清朝の宮廷の文書記録は、いまも北京の「中国第一歴史档案館」(
写真)に大量に保存されています。そうした公式の文書記録によっても、西太后が母乳を飲んでいたことがわかります。
 例えば、彼女が四十七歳から五十歳のあいだの記録を見ると、五人の婦人(原史料にはそれぞれ氏名と年齢もちゃんと記録されている)が西太后に母乳を飲ませるため宮中にあがったことが、わかっています。
 詳しくは、于善浦氏の論文「喝人乳的慈禧」(『明清宮廷趣聞』紫禁城出版社 1995所収)などを御覧ください。
 このように、西太后は、子持ちの乳母を後宮に常時、滞在させていました。赤ん坊の泣き声を遠くで聞いていた宦官や宮女は、西太后は秘密のうちに妊娠し、こっそり赤ちゃんを産んでいた、などという、噂を立てたりしました。しかし、実際には、西太后は未亡人になったあと、妊娠したことも、子供を生んだこともありません。
 念のために言うと、母乳が肌によい、というのは、科学的根拠のない迷信にすぎません。
 ふつうの大人は、母乳を消化する酵素が少ないので、いきなり母乳を大量に飲むと、美容に良いどころか、下痢をしますので、ご注意ください。


麗妃の真実
Q: 子供のとき、中国映画『西太后』を見ました。
 ラストのほうで、手足を切断されて「生きダルマ」にされた麗妃がでてきて、怖かったです。それ以来、わたしの頭のなかでは、西太后は冷酷無比の悪女、というイメージが固定してしまいました。
 でも、貴著『西太后』を読んだら、あれはフィクションだ、と書いてありましたので、頭がクラクラしました。
 どうしてあんな説が生まれたのでしょうか?
A: 司馬遷の『史記』によると、前漢の高祖の妻だった呂后は、夫の死後、夫の寵愛をほしいままにしていた戚夫人の手足を切断させ、目や耳やのどをつぶし、便所内において「人ブタ」と呼ばせた、といいます。
 唐の則天武后も、似たような残酷な仕打ちをライバルにした、と伝えられています。
 西太后は、よく、呂后と則天武后とあわせて「中国の三大悪女」などと言われます。そこで、あの映画でも、あのようなフィクションのシーンを入れたのでしょう。
 しかし史実では、麗妃は、西太后から憎まれるどころか、たいへん優遇されていました。
 まず、麗妃が生んだ皇女は、同治九年(1870)に「栄安固倫公主」に封じられました(封じられた年については、同治五年(1866)だったとする資料もあります)。  清朝の規定では、皇后が生んだ皇女は「固倫公主」に、皇后以外の妃嬪が生んだ皇女は「和碩公主」に封じられるしきたりでした。ところが、麗妃が生んだ皇女は、このしきたりを曲げて、固倫公主に封じられたのです。これは、破格の優遇でした。栄安固倫公主は、同治十二年(1873)八月に降嫁しましたが、翌年の十二月にわずか二十歳で薨去しました。
 麗妃その人もまた、破格の厚遇を受けました。
 彼女は最初「麗貴人」として宮中に入り、咸豊四年(1854)に麗嬪に昇進、その翌年に皇長女を生んで麗妃に昇進しました。
 咸豊帝が亡くなったあと、西太后は、同治帝の名のもとに、「麗妃は長年先帝につかえ、皇長女を生み育てた」という理由で、彼女を「孝皇麗皇貴妃」に昇進させました。清朝の后妃の序列は、上から、皇后−皇貴妃−貴妃−妃−・・・・・・という順番でした。つまり西太后は、栄安固倫公主の生母である麗妃に、異例の「二階級特進」の恩典を与えたわけです。  東太后と西太后は「垂簾聴政」を行いましたが、麗皇貴妃は、永安宮で静かに暮らしました。同治十三年(1874)十一月、麗皇貴妃は「皇貴太妃」に封じられました。ここに至って、彼女は、名実ともに「皇太后」に次ぐ地位に昇ったわけです。
 光緒十六年(1890)十一月、彼女は病気のため亡くなりました。享年五十四。彼女の葬儀は清朝の礼法どおり厳かに行われ、その遺体は、咸豊帝の元妃嬪と同じく、東陵に葬られました。
 このような史実を見るかぎり、西太后が麗妃を憎んだという形跡は、ありません。のみならず、西太后は、自分がすんなり皇太后になれたという心の余裕もあってか、麗妃を自分の仲間として、厚遇したふしがあります。麗妃に気前よく、自分に次ぐ地位を与えてやったことに、西太后の気持があらわれています。
 上記の事実は、別に、新事実でも何でもありません。中国では、劉毅『明清皇室』(1997)とか、徐広源『正説清朝十二后妃』(2005)など、普通の書店で買える本にも書いてあります。
 にもかかわらず、日本では、いまだにあの映画の影響で、「西太后は、麗妃を生きダルマにした」と誤解している人が、おおぜいいます。
 ちょっと残念です。


現代中国における評価
Q:
 現代でも西太后は悪女だと評価されているのですか?
A:
 「公式見解」ではそうです。しかし、非公式見解では、昔から意外と再評価されてます。一例をあげると、周恩来も、 非公式の場では、西太后を高く評価していました。
福永嫮生(ふくなが・こせい)「忘れがたき、あのときの周恩来総理の言葉」(月刊『中央公論』2012年12月号,p131)より引用。(引用開始)
 一同をお招きくださった食事会では、伯父のラストエンペラーに対して、「満州国は認めないけれど、清朝は歴史上存在するものだから、宣統帝としては認める」とまず最初におっしゃいました。そのとき西太后について、「悪政を布(し)いたと言われるけれど、美味しい中華料理のレシピを世界中に広めたことと、頤和園(いわえん)(西太后が巨額の海軍費を流用して再建した)を造営した功績は大きい」と話されたことも思い出します。お金を軍艦に使ったら沈んで終わりだったけれど、庭園に石の船を造ったことで、いま人民が自由に憩うことができる、そういう面で評価している――と。色々な見方があるんでございますね、若かった私はちょっとびっくりいたしました。(引用終了)

ミニ・リンク
アマゾン『西太后』 ネット通販・カスタマーレビュー
bk1『西太后』 ネット通販・書評
セブン・アンド・ワイ・『西太后』(近所のセブンイレブンで受け取り)
楽天広場による「加藤徹」全ブログ検索結果 拙著『西太后』に関する感想もヒット
gooによる「加藤徹」全ブログ検索結果 拙著『西太后』に関する感想もヒット
ライブドアによる「加藤徹」全ブログ検索結果 拙著『西太后』に関する感想もヒット
紀伊國屋書店・『西太后』(全国各店在庫案内ほか)
ジュンク堂書店・池袋本店・『西太后』(在庫冊数など)

HOME > いままで書いた本 > このページ