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巨大墳墓の盗掘譚 − 中国・日本・エジプト 古代世界のあの世とこの世
(「日中陵墓比較盗掘史」改題)

最初の公開2010-10-23 最新の更新2012-11-9
「昔なのに、よくこんな巨大な墓を作れたものだ」「いや、昔だからこそ作れたのだ」
世界三大陵墓:クフ王のピラミッド始皇帝陵大仙陵古墳(伝・仁徳天皇陵)
cf.酆都鬼城

キーワード
「恐怖のミイラ」日本テレビ1961年
cf.米映画「ミイラ再生」1932
White Zombie 「ホワイトゾンビ」1932
香港映画「殭屍先生」(霊幻道士)1985

  途経秦始皇墓  唐・許渾(9世紀、生没年不詳)
竜蟠虎踞樹層層。 竜蟠虎踞 樹 層層。
勢入浮雲亦是崩。 勢い浮雲に入るも 亦た是れ崩る。
一種青山秋草裏、 一種の青山秋草の裏、
路人唯拝漢文陵。 路人 唯 拝す 漢文の陵。
【語注】竜蟠虎踞…「竜(龍)が居座り虎がうずくまっている」 →地形が険しく堅固なので、また、強大な威圧感があって近づきがたい。 一種…同じ種類の。漢文…仁君だった漢の文帝。
【読み】ミチにシンシコウのハカをヨギる トウ・キョコン リュウバンコキョ き ソウソウ。イキオいフウンにイるもマたコれクズる。イッシュのセイザン シュウソウのウチ、ロジン タダ ハイす カンブンのリョウ。


巨大墳墓の時代、厚葬と薄葬の時代交替のサイクル
cf.米映画The Mummy(ミイラ再生)1932
フィクションにおける「墳墓盗掘もの」の例
中国や欧米では「墳墓盗掘もの」の作品が多いが、日本では少ない。その理由は?
cf.Indiana Jonesシリーズ、Tomb Raiderシリーズ、…
TVドラマ「殭屍道長」より
日本軍の亡霊との戦闘シーン
欧米の盗掘ものは「秘境アドベンチャー」。これに対して中国の盗掘ものは「魔性の王権」。
参考文献:植野浩三「盗掘された天皇陵の実態」、『歴史読本 臨時増刊』第32巻第12号(新人物往来社、1987年6月6日発行)pp.76-81
その他
    ハムナプトラ3 予告編
  1. 【中】伍子胥(?〜前485)が楚の平王の死体を掘り出して鞭打つ(『史記』伍子胥伝)
  2. 【中】『水経注』によると、項羽(前232-前202)は30万人を動員して始皇帝陵内の物品を運搬したが30日かけても終わらず、 その後、羊飼いが羊を探して墓に入り、失火して墓を全焼した。但し近年の考古学的調査では、始皇帝陵の本体は未盗掘とされる。
    『水経注』渭水
    「項羽入関発之、以三十万人、三十日運物不能窮。関東盗賊鎖椁取銅、牧人尋羊焼之、火延九十日不能滅。」
  3. 【中】赤眉の乱(18-27)の末、前漢諸帝の陵墓を盗掘し、呂后の遺体を汚した。
    『後漢書』巻11・劉盆子伝
    「発掘諸陵、取其宝貨、遂汙辱呂后屍。凡賊所発、有玉匣殮者率皆如生、故赤眉得多行婬穢。」
  4. 【中】霊帝(在位167〜189)のとき、賊が桓帝(在位146〜167)の馮夫人の墓をあばいた。『列異伝』曰「漢桓帝馮夫人病亡。 霊帝時、有賊盜発冢。七十余年、顏色如故、但小冷。共姦通之、至闘争相殺。竇太后家被誅、欲以馮夫人配食。下邳陳公達議、以『貴人雖是先所幸、尸体穢汚、不宜配至尊』、乃以竇太后配食」(『藝文類聚』巻三十五・人部十九・淫)
  5. 【中】東晋(317-420)の『捜神記』に、三国呉の孫休の時代の盗掘譚や、漢の広川王の盗掘譚を載せる。(cf.岡本綺堂『中国怪奇小説集』 http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1298_11892.html)
    岡本綺堂『中国怪奇小説集』より
     発塚異事はつちょういじ

     三国さんごく孫休そんきゅうのときに、一人の戍将じゅしょう広陵こうりょうを守っていたが、城の修繕をするために付近の古い塚を掘りかえして石の板をあつめた。見あたり次第にたくさんの塚をぶちこわしているうちに、一つの大きい塚をあばくことになった。
     塚のうちには幾重いくちょうかくがあって、そのとびらはみな回転して開閉自在に作られていた。四方には車道が通じていて、その高さは騎馬の人も往来が出来るほどである。ほかに高さ五しゃくほどの銅人どうじんが数十も立っていて、いずれも朱衣、大冠、剣を執って整列し、そのうしろの石壁には殿中将軍とか、侍郎常侍とか彫刻してある。それらの護衛から想像すると、定めて由緒ある公侯の塚であるらしく思われた。
     さらに正面の棺を破ってみると、棺中の人は髪がすでに斑白はんぱくで、衣冠鮮明、その相貌は生けるが如くである。棺のうちには厚さ一尺ほどに雲母きららを敷き、白い玉三十個を死骸の下に置きならべてあった。兵卒らがその死人をき出して、うしろの壁にもたせかけると、冬瓜とうがのような大きい玉がその懐中から転げ出したので、驚いて更に検査すると、死人の耳にも鼻にもなつめの実ほどの黄金が詰め込んであった。
     次も墓あらしの話。
     漢の広川王こうせんおうも墓あらしを好んだ。あるとき欒書らんしょの塚をあばくと、棺も祭具もみな朽ち破れて、何物も余されていなかったが、ただ一匹の白い狐が棲んでいて、人を見ておどろき走ったので、王の左右にある者が追いかけたが、わずかにほこをもってその左足を傷つけただけで、遂にその姿を見失った。
     その夜、王の枕もとに、ひげも眉もことごとく白い一個の丈夫じょうふがあらわれて、お前はなぜおれの左の足を傷つけたかと責めた上に、持ったる杖をあげて王の左足を撃ったかと思うと、夢は醒めた。
     王は撃たれた足に痛みをおぼえて一種の悪瘡あくそうを生じ、いかに治療しても一生を終るまで平癒しなかった。

    cf.http://d.hatena.ne.jp/T_S/20110122/1295622718
    『三国志』巻四十八、孫休伝注引『抱朴子』
    葛洪抱朴子曰呉景帝時、戍將於廣陵掘諸冢、取版以治城、所壞甚多。復發一大冢、内有重閣、戶扇皆樞轉可開閉、四周為徼道通車、其高可以乘馬。又鑄銅為人數十枚、長五尺、皆大冠朱衣、執劍列侍靈座、皆刻銅人背後石壁、言殿中將軍、或言侍郎・常侍。似公主之冢。破其棺、棺中有人、髮已班白、衣冠鮮明,面體如生人。棺中雲母厚尺許、以白玉璧三十枚藉尸。兵人輩共舉出死人、以倚冢壁。有一玉長一尺許、形似冬瓜、從死人懷中透出墮地。兩耳及鼻孔中、皆有黄金如棗許大、此則骸骨有假物而不朽之效也。
    『三国志』巻二十八、諸葛誕伝注引『世語』
    世語曰、黄初末、呉人發長沙王呉芮冢、以其塼於臨湘為孫堅立廟。芮容貌如生、衣服不朽。後豫發者見呉綱曰「君何類長沙王呉芮、但微短耳。」綱瞿然曰「是先祖也、君何由見之?」見者言所由、綱曰「更葬否?」答曰「即更葬矣。」自芮之卒年至冢發、四百餘年。綱、芮之十六世孫矣。
    『三国志』巻三、明帝紀注引『魏略』
    會病亡、遺令戒其子凱曰「吾為將、知將不可為也。吾數發塚、取其木以為攻戰具、又知厚葬無益於死者也。汝必斂以時服。且人生有處所耳、死復何在耶?今去本墓遠、東西南北、在汝而已。」
  6. 【中】860年ごろ成立の『酉陽雑爼』によると「近い頃、幾人の盗賊が蜀の玄徳の墓をあばきにはいると、内には二人の男が燈火の下で碁を 打っていて、ほかに侍衛の軍人が十余人も武器を持って控えていたので、盗賊どももおどろいて謝まり閉口すると、碁にむかっていた一人が見か えって、おまえ達は酒をのむかと言い、めいめいに一杯の酒を飲ませた上に、玉の腰帯ひとすじずつを呉れたので、盗賊どもは喜んで出て来ると 、かれらの口は漆を含んだように閉じられてしまった。帯と思ったのは巨きい蛇であった。」(岡本綺堂『中国怪奇小説集』 http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1299_11895.html)
  7. 【日】1054年、「誑惑の僧」忠禅が、聖徳太子の廟崛に入って不可思議な行動をした。聖徳太子の遺骨の破損の疑いあり。 この61年前にも石室に入った者がいた(植野浩三1987)
  8. 【日】1060年、推古天皇陵が盗掘される(『扶桑略記』、植野浩三1987)
  9. 【日】1063年(康平6年) 、興福寺の僧静範と共犯者16名が成務陵古墳から宝物を盗み出す。後に発覚、宝物は返納、犯人らは流罪 (『扶桑略記』『百練抄』、植野浩三1987)
  10. 【日】1149年、聖武天皇陵の石が取られた(植野浩三1987)
  11. 【日】元久年間(1204-1206)、叡福寺僧浄戒・顕光が「誑惑を構えて」石室に入り、歯を盗み、東大寺の俊乗房重源に進呈(植野浩三1987)
  12. 【日】1235年、天武・持統合葬陵が盗掘される。『阿不幾乃山陵記』に陵墓の内部の詳細な説明あり。『帝王編年記』によると多数の人が 天武天皇の遺骨を見物に訪れた。『明月記』によると、火葬された持統天皇の遺骨は銀の箱に入れてあったので、盗掘犯は中の骨灰を路頭に棄てた。 『百練抄』によると、三年後に犯人が捕えられて大理門の前に引き出された時、見物の車が道を塞ぐほどであった。この事件から58年後、天武陵は再 び盗掘に会い、行広法師なる者が頭骨を盗み出している(『実躬卿記』)。江戸時代の記録では、この陵はかなり破損して石室が開口し、13世紀以降も 盗掘や乱入が繰り返されたことが推測される(植野浩三1987)
  13. 【日】1274年、桓武天皇陵が暴かれた(植野浩三1987)
  14. 【中】1285年、札木場喇勒智(楊璉真珈)が、宋の歴代皇帝后妃の陵墓を盗掘して財宝を奪い、遺骨を野外に棄てた。特に宋の理宗の遺体は保存 状況が良かったため、木の上に三日間吊して水銀を絞り出し、また理宗の頭蓋骨で碗を作った。愛国詩人の林景熙(1242〜1310)は、打ち捨てられた 諸帝の遺骨を秘かに集めて埋葬し、そのしるしに冬青の木を植え、「冬青詩」を書いた。
    『明史』巻二百八十五・列伝第一百七十三
    「先是,至元間,西僧嗣古妙高欲燬宋會稽諸陵。夏人楊輦真珈 為江南總攝,悉掘徽宗以下諸陵,攫取金寶,裒帝后遺骨,瘞於杭之故宮,築浮屠其上,名曰鎮南,以示厭勝,又截理宗顱骨為飲器。」
  15. 【日】1288年、継体天皇陵に盗みに入った犯人を召し捕る(植野浩三1987)
  16. 【日】『園太暦』貞和四年(1348)二月三日の条に、聖徳太子の墓が荒らされ遺骨が破損し、石室内にあった砂金や遺物が全て盗まれた、という 伝聞を載せる(植野浩三1987)
  17. 【日】1604年、朝鮮から来日した「探賊使」惟政(松雲大師)が、 国交回復の条件の一つとして、 朝鮮の王陵を盗掘した犯人の引渡しを日本側に要求。
  18. 【日】郡山藩主・本多政勝の時代(治世1639-1671)に、成務陵古墳で、里人が石を採っていた時に石棺を発見、中を見て剣・鏡などの宝物を確認。 藩主は帝陵と知り、ただちに復旧を命じた(『和泉巡覧記』、植野浩三1987)
  19. 【日】新井白石が「仁徳の鳥野の御陵はあばかれて石棺の蓋の石、堺の政所の庭の踏石となれり云」と記す(植野浩三1987)
  20. 【日】嘉永元年(1848)に里人が盗掘。朱と管玉68を石棺の隙間から取り出した。この4年前にも盗掘し、勾玉50を盗み一分で換金。嘉永五年の 調書によれば、盗掘犯(百姓嘉兵衛外四人)は判決前に三人が死亡。塩詰めにして、生き残った一人とともに七年後、奈良町を引き回して磔に処され た(植野浩三1987)
  21. 【日】1872年、仁徳陵が風水害で破損。堺県令・税所篤(さいしょあつし)による計画的盗掘とする疑惑説も(植野浩三1987)
  22. 【日】1915年、日葉酢姫陵古墳(垂仁天皇の皇后の陵)に八名の曲者が入り御物数十点を奪う。犯人は懲役十三年の刑。
  23. 【中】1928年、東陵事件発生。

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