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The Tale of Genji 源氏物語

Last updated 2022年6月10日  Since 2019-3-20


★源氏物語と、他国の長編小説
源氏物語(げんじものがたり)紫式部(1000年前後)日本
九雲夢(구운몽)金万重(1637-1692)朝鮮
紅楼夢(Hónglóumèng)曹雪芹(1715?-1763/1764)中国

cf.「源氏物語 ゲーム」「红楼梦 游戏」「구운몽 게임」で検索してみよう。
cf.ゲーム「源氏恋絵巻」や「源氏物語〜男女逆転恋唄〜」は、『源氏物語』の登場人物の男女の性別を逆転させている。男女逆転のパロディは、江戸時代の『傾城三国志(けいせいさんごくし)』以来の日本人のお家芸である。
 『傾城三国志』については、明治大学の神田正行先生の論文 https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/18086/1/kyouyoronshu_504_%281%29.pdf や、箱崎みどり氏の記事「
張飛が艶っぽい遊女に? 江戸の人々が遊び倒した「三国志」のパロディ」(2019.02.28)をご覧ください。


★本居宣長(もとおりのりなが 1730-1801)が、日本のヒーローの心が弱々しい理由を語る。
本居宣長『紫文要領』(岩波文庫、2010)p.154−p.155より引用
 問ひて云はく、源氏の君をはじめとして、其の外のよき人とても、みな其の心ばへ女童(おんなわらわ)のごとくにて、 何事にも心弱く未練にして、男らしくきつとしたる事はなく、たゞ物はかなくしどけなく愚かなる事多し。いかでかそれをよしとはするや。
 答へて云はく、おほかた人の実(まこと)の情(こころ)といふ物は女童のごとく未練に愚かなる物也。男らしくきつとして賢きは、実の情にはあらず。それはうはべをつくろひ飾りたる物也。実の心の底をさぐりて見れば、いかほど賢き人もみな女童に変はる事なし。それを恥ぢてつゝむとつゝまぬとの違ひめばかり也。もろこしの書籍(ふみ)は、そのうはべのつくろひ飾りて努めたる所をもはら書きて、実の情を書ける事はいとおろそか也。故にうち見るには賢く聞こゆれども、それはみなうはべのつくろひにて実の事にあらず。其のうはべのつくろひたる所ばかり書ける書(ふみ)をのみ見なれて、其の眼(まなこ)をもて見る故にさように思はるゝ也。

○訳
 質問「主人公の光源氏をはじめとして、そのほかの良い登場人物たちも、みなその心ばえは女子どもみたいで、なにごとにつけても心が弱く未練たらしく、男らしくキッとしたところがなく、 ただ、ものはかなく、しどこけなく、愚かなところが多い。なんで、そんなのがよいとするのか」。
 回答「おおかた、人の本当の心というものは、女子どものように、未練たらしく、愚かなものなのだ。男らしくて、キッとして賢いのは、本当の心ではないのだ。それは、うわべをとりつろって、飾りたてているものなのだ。真実の心の底をさぐってみると、どんな賢い人でも、みな女子どもとおんなじなのだ。それを恥ずかしいと思って、包み隠すか、それとも包み隠さずにさらけだすか、その違いがあるだけなのだ。中国の本は、人がうわべをとりつくろって、飾りたてて無理して頑張っているところだけを書いていて、人間の真実の心理を描くという点ではとても雑なのである。だから、中国のヒーローは、ちょっと見ると賢く見えるけれども、それはみな、うわべを取りつくろっているだけで、真実ではないのだ。中国の、うわべだけ取りつくろったところだけを書いた物語ばかり見慣れた目で、わが国のヒーローをみるから、そのように思われるのである」。

 以下は、限りなく誤訳に近い超・意訳です。あてにしないでください(^_^;

○ある人が、私・本居宣長に向かってこう言った。
「本居さん。日本文学研究の大家であるあんたを前にしてこんなことを言っちゃあ何ですが、日本の創作物に出てくるキャラって、どうしてみんな軟弱なんですかねぇ。 日本文学の最高峰と言われる『源氏物語』だって、フニャフニャでしょ。主人公の光源氏はマザコンだし、 その他のセレブのキャラたちも、みんな女子供みたいにメソメソ、ナヨナヨして、全然、男らしくない。 中国の『三国志』の熱き漢(おとこ)たちみたいな、チートで強くてシャキっとしたキャラは、どうして日本文学にいないんですかねぇ。 『源氏物語』の光源氏も『エヴァンゲリオン』の碇シンジも、どうしてあんなに女々しい残念キャラなんですかねぇ」。
 私は答えた。
「女子供のめめしい心が、そんなに悪いかね? そもそも人間のリアルな心は、大の男だって、誰だって、本質は女子供と同じさ。いつも、後ろを向いてため息をつき、自分のふがいなさがなさけない。そんな弱い心こそが、人間らしいリアルな本音だとは、思わないか? 『三国志』とか『史記』に出てくるマッチョなチート・キャラなんて、リアリティがゼロのウソで固めたキャラさ。人間の、ありのままの心の奥底を探ってみれば、どんなに優秀に見える人だって、人には言えない悩みを抱えていて、誰もいないところでウワーンと泣きたい、とか、誰かにすがりつきたい、とか、女々しさがあるものさ。だって、人間だもの。中国人が書くものは、よく言えば理想ばっかり、悪く言えばウソばっかりだ。中国人は人間のリアルを恥じ、キャラの弱さは書かない。だから中国の本には、ファクトは書いてあっても、リアリティがない。でも日本人は、少なくとも『源氏物語』の良さがわかる私のような日本人は、人間のリアルな心、弱くて女々しい心を、恥ずかしいとは思わない。むしろ逆だよ。フィクションの特権とは、登場人物のリアルな弱い心の揺れ動きを事細かく活写できる点だと、私は思っている。まあ、君は、外国のウソで固めたスーパーマン的なキャラに慣れ親しみすぎたので、弱くて女々しくて人間味あふれる日本的なキャラの良さが、わからなくなってしまったのだろうね」

★紫式部(むらさきしきぶ 生没年不明 西暦1000年の前後に活躍)のメタフィクション:自作の小説の中で、登場人物たちに「小説の本質とは何か」を語らせる。
 「ものがたり(物語)」は、近現代の小説に相当する。作者も読者も「これは創作であり虚構である」と承知のうえで、人間の真実を楽しむ、という娯楽性に富む芸術である。
 cf.“It is not a fact, but a truth.“
 仏教、特に平安貴族が好んだ『法華経』の「方便(ほうべん)」や「乃至童子戯(ないしどうじげ)」の思想が、日本の平安貴族の物語好きに一定の影響を与えた。
 中国人は、儒教の開祖である孔子や、「歴史の父」司馬遷の影響で、「ノンフィクション」は「フィクション」よりすぐれている、と考える傾向がある。
司馬遷『史記』巻130「太史公自序第七十」
【原文】 子曰「我欲載之空言,不如見之於行事之深切著明也。」
【訓読】 子曰く「我、之を空言に載せんと欲するも、之を行事に見(しめ)すの深切著明に如かざるなり」。
【大意】 歴史家でもあった孔子は言われた。「私は、空想的な言葉によって本質を語るよりも、人物の具体的な言行や事跡を書くことで本質を浮き彫りにするほうが、ずっと奥深くハッキリと本質を叙述できる」
 『源氏物語』は、孔子や司馬遷から見たら「空言」であるかもしれない。しかし、『源氏物語』の作者・紫式部は、光源氏をはじめとする架空の人物たちの「行事」を描くことで、人間の心理のリアルな動きや、遠藤周作がいう「
人間のなかのX」を描き出すことに成功した。『源氏物語』の中の「蛍」の巻は、フィクションの優位性を、登場人物を通じて作者が語った「メタフィクション」として有名である。

参考リンク 内容の説明や、原文、現代語訳を読むことができます。 『源氏物語』の「蛍」の第三章の第一段から第三段にかけては、主人公の光源氏が「物語」(近現代の小説に相当)論を語る場面として有名である。
以下、http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/roman25.htmlより引用。
HOTARU
Tale of Hikaru-Genji's Daijo-Daijin era, rainy days in May at the age of 36
(略)
3 Tale of Hikaru-Genji On monogatari by Hikaru-Genji
3.1 Tamakazura and the other women in Rokujoin are crazy about reading monogatari---Nagaame rei no tosi yori mo itaku si te
3.2 Genji estimates the value of monogatari to Tamakazura---"Sono hito no uhe tote, ari no mama ni
3.3 Genji advises to Murasaki on reading monogatari---Murasaki-no-Uhe mo, Hime-Gimi no ohom-aturahe ni koto-tuke te
引用終了
紫式部『源氏物語』第二十五帖「蛍」第三章より
玉鬘(たまかずら)と光源氏が「物語」(小説)の本質を語る
参考 http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined25.3.html
章.段.節原文意訳
3.1.9「このころ、幼き人の女房などに時々読まするを立ち聞けば、ものよく言ふものの世にあるべきかな。 虚言をよくしなれたる口つきよりぞ言ひ出だすらむとおぼゆれど、さしもあらじや」 光源氏「最近、幼い姫君が、女房などに時々(小説を)音読させています。それを横から立ち聞きすると、 『言葉たくみなストーリーテラーが、世の中にはいるものだなあ。見てきたようなウソを並べるのに熟練した口から、こんな物語が生まれ出るのだろうなあ』 と思われます。(あなたも)そう思いませんか」
※加藤注:小説=「物語」は「語り」 katari であり、「語り」は「騙り」でもある。
3.1.10とのたまへば、 とおっしゃると、
3.1.11「げに、偽り馴れたる人や、さまざまにさも汲みはべらむ。ただいと真のこととこそ思うたまへられけれ」 玉鬘「そのとおりですわ。(光源氏さま、あなたのように女に対して)ウソをつくのに慣れた人は、(小説について)あれこれと、そのように想像するのでしょうね。ただ、(あなたのウソと違って、小説のウソは)本当に真実であると(私には)思われるのですよ」
3.1.12とて、硯をおしやりたまへば、 と(玉鬘は)言って、すずりを押しやりなさるので、(一本取られた光源氏は)
3.1.13「こちなくも聞こえ落としてけるかな。神代より世にあることを、記しおきけるななり。『日本紀』などは、ただかたそばぞかし。これらにこそ道々しく詳しきことはあらめ」光源氏「(ごめんなさいね、私は)無風流にも(あなたが夢中になっている小説というものの)悪口を言ってしまいましたね。(小説のファンによると、小説とは)神話の時代の昔から世の中にあったこと、特に男女の仲を書き残したものだそうだ。(政府が国家事業として編纂した正式の歴史書で、漢文で書かれた)『日本書紀』などには(史実は書いてあっても、人間の奥底の微妙な心理は描かれていないので)単なる一面的な記述しかありませんよね。(人間の真実については)、これら(小説の作品)の中にこそ、道理にかなった詳細なことが書いてあるのでしょうね」
加藤徹注:「恋は神代の昔から」(歌手:畠山みどり、作詞:星野哲郎、作曲:市川昭介)。古語「よ(世・代)」には「男女の仲」という意味もあった。
3.1.14とて、笑ひたまふ。(以下、中略) と、笑いなさる。(以下、中略)
3.2.3 「仏の、いとうるはしき心にて説きおきたまへる御法も、方便といふことありて、悟りなきものは、ここかしこ違ふ疑ひを置きつべくなむ。『方等経』の中に多かれど、言ひもてゆけば、ひとつ旨にありて、菩提と煩悩との隔たりなむ、この、人の善き悪しきばかりのことは変はりける。 光源氏「ブッダが、まことにすばらしいお心でお説きになった仏法にも『方便』というパワーワードがありますよね。仏教のさとりにまだ目覚めていない者は、あちこちで(ブッダの真意から)はずれた疑いをもつことでしょう。(方便という言葉は)大乗仏典の中にたくさん出てきますが、結局のところは(方便の)主旨は一つです。覚り(を得たブッダ)と煩悩(に悩む俗人)のへだたりは、この(小説の中に登場する)善人と悪人の差異と、そんなに違うでしょうか。
※加藤徹注:小説の本質は、仏教の「煩悩即菩提、生死即涅槃」に通じる、という考え方が説かれている。俳句「渋柿の渋がそのまま甘味かな」と同じ境地。
3.2.4よく言へば、すべて何ごとも空しからずなりぬや」 よく言うと(覚りを得た人も煩悩にまみれた俗人も、史実も小説も、世の中にある)全ての物事には、みな存在意義があるのだ、ということになる」
3.2.5と、物語をいとわざとのことにのたまひなしつ。 と(光源氏は、小説、すなわち)物語のことを、とても有意義なものとして、おっしゃったのである。

『源氏物語』のメタフィクション的場面の、超・意訳。
 玉鬘(たまかずら。若い女性)が「物語」すなわち平安時代のライトノベルに夢中になっている様を見て、主人公の光源氏が皮肉を言った。
「まったく、きみたち女性は困ったものだ。小説って、しょせんは作り話だろ。ウソだろ。フィクションだろ。こんな絵空事に夢中になるなんて。きみら女性って、よっぽど、だまされるのが好きなんだねえ。・・・・・・まあ、たしかに、これはウソのフィクションだとわかってはいても、主人公の女の子の心の揺れ動きのリアルで繊細な描写にのめりこんじゃうきみの気持ちは、わからないでもないけれど」
 玉鬘はニヤリと笑い、皮肉っぽい口調で光源氏に言った。
「あらあら。いかにも、あなたみたいなプレイボーイさんがおっしゃりそうなお言葉ね。うふふ。あなたはいつも、女の子と話すとき、ウソがお上手ですからねえ。 でも、私みたいにウソがつけない正直な女の子は、あなたみたいに、すれてませんから。小説で描かれるリアルな心の揺れ動きは、とてもウソとは思えません」
 光源氏は言った。
「あははは、こりゃ、一本取られたね。恋は神代の昔から、と言うけれど、きみの言うとおり、小説の中にこそ、人間のリアルな心が描かれているのかもしれないね。 小説は事実じゃないけど、真実なのかも。フィクションだからこそ描けるリアリティというものは、たしかに存在するのかも。 うん、きっとそうだ。 『日本書紀』など国が作った公式の歴史書より、きみが夢中になっている小説のほうが、いわゆる『人間のなかのエックス』を きちんと書いている。そんな気が、ぼくもしてきたよ」


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