遠藤周作『人間のなかのX』(中公文庫、1981)pp.14-19より引用
我々が死んだあと、この地上に残す自分の存在とはすべて他人の見た自分である。ある人は我我(ママ)をいい奴だと思い、他の人はイヤな男だと思っている。別の者には嘘つきと考えられ、更に正直だったと懐しがってくれる人もいる。そうした他人の眼にうつったすべてのイメージの集積が死後の我々の存在になってしまう。だがそれら他人の眼を通したイメージの集積がつくりあげた自分の姿――、その姿をもし我々が墓のなかで知ったとしたならば、どうだろう。我々はきっとこう叫ぶにちがいない、「自分はそれだけではない。自分にはもっと別のXがあった筈(はず)だ」 もし正宗氏があの祈りを臨終に際して口にしなければ、それ以後の白鳥伝は相変らず氏を厭世家として無神論者としてだけ書かれていただろう。だがその行為を見せなくてもXは白鳥氏の意識の奥に生涯ひそんでいたのである。神だけが見抜くことのできるこの魂のX。それを神ではない伝記作家が見通すのは困難である。しかしこのXを対象の人物とその人生とから見抜けぬような伝記はたんなる史伝にすぎないのだ。 |