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[朝日カルチャーセンター 新宿教室] 歴史 > 世界の歴史

華麗なる宮廷の文化・中国編

最初の公開2017/10/9 最新の更新2017/12/23 工事中


2017/10/23 中国の後宮ー歴史は夜作られた
講座内容(朝日カルチャーセンター・新宿の当該の頁)
 昔の中国の後宮は、小都市なみの規模をもつ特異な空間だった。俗に「三宮六院七十二妃」「後宮佳麗三千人(後宮の佳人と麗人、美女の数は三千人)」と言われるように、多数の后妃と、彼女らに仕える宮女や宦官がひしめいていた。例えば、西晋の初代皇帝(司馬炎)は1万人の宮女が住む広大な後宮を夜ごと羊の車でまわったが、女性たちは自分の宿舎の前で皇帝の車が止まるよう羊の好物である塩を盛った。これが日本の「盛り塩」の起源と言われる。
 歴代の皇帝の大半は後宮で生まれ、後宮で死んだ。後宮の紛争を国政に持ち込んだ皇帝や、夜の営みのために命を縮めた皇帝も少なくなかった。
 中国の後宮の歴史と特異性を、日本の平安朝の後宮「七殿五舎」や江戸城の「大奥」と比較しつつ、写真や図版なども使いながらわかりやすく解説する。(講師記)
日時・期間 第4週 月曜 13:30-15:00 10/23 1回
[資料]

2017/11/27 紫禁城ー中華帝国の世界首都
講座内容(朝日カルチャーセンター・新宿の当該の頁)
 ヒトラーが構想した「世界首都ゲルマニア」は、計画のみで実現しなかったが、今も残る模型や図面を見ると、戦慄すべきものを感じる。一方、中国人は儒教イデオロギーに基づく「世界首都」を地上に実現した。明清帝国の首都・北京と、その中心に位置する紫禁城(現在の「故宮」)は、儒教の経典『周礼』冬官考工記の「世界首都」構想を発展的に具現化している。紫禁城は、宇宙の支配者たる天帝の住まい「紫微垣」(北極星のすぐ横の、天頂の中心)をモデルとする。北京の都市計画のコンセプトは、「天子」たる中華皇帝が天に代わって世界を支配するための巨大な「魔法陣」だった。
 紫禁城は過去の遺産だが、中華帝国の世界首都構想は、21世紀の今日も脈々と受け継がれている。中国文明を理解する鍵である北京と紫禁城の歴史について、日本の東京と江戸城と比較しながら、写真や図版を使ってわかりやすく解説する。(講師記)
日時・期間 第4週 月曜 13:30-15:00 11/27 1回
2017/12/25 中国宮廷文化の栄光と悲惨
講座内容(朝日カルチャーセンター・新宿の当該の頁)
 中国の歴代の皇帝は、想像を絶する富を使い、贅沢を満喫してきた。中国・トルコ・フランスの「世界三大料理」は、いずれも贅沢をつくした宮廷料理に由来する。中国の伝統医学(日本の漢方にあたる)の発展も、皇帝のための回春の秘方と関連している。中国の書画骨董や陶芸、演劇などの芸術も、皇帝の贅沢と結びついてきた。
 上古から数千年続いた中国の宮廷文化は、1924年に北京の紫禁城から溥儀が追放されたことで終焉を迎えた。1949年に建国した中華人民共和国は、共産主義の立場から宮廷文化を全否定した。しかし21世紀の今日、急発展したものの世界に誇れるブランドがまだ少ない中国では、かつて否定した宮廷文化を利用する動きが著しい。
過去と近未来の中国を理解するうえで鍵となる中国の宮廷文化の遺産について、日本の事例と比較しながら、写真や図版を使ってわかりやすく解説する。(講師記)
日時・期間 月曜 13:30-15:00 12/25 1回


2017/10/23 中国の後宮ー歴史は夜作られた 資料


用語 辞書の説明
★大辞林 第三版の解説
ないてい【内廷】 宮廷の内部。君主が私的生活をする所。←→外廷

★大辞林 第三版の解説
ハレム【harem】 〔ハーレムとも。出入り禁断の場所の意〕@イスラム社会で、婦人専用の居間。血族以外の男の出入りを厳禁した。閨房けいぼう。Aオスマン帝国の王室の後宮。B転じて、一人の男性が愛欲の対象として多くの女性を侍らせたところをいう。

★大辞林 第三版の解説
 おおおく【大奥】江戸城の、将軍の夫人・側室・女中たちの居所。将軍以外は男子禁制であった。

★日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
後宮 こうきゅう
 天子の宮中の奥深い部分の意味で、江戸の大奥、イスラム世界のハレムに類似する。中国天子の宮城は外朝と内廷とに判然と区別され、外朝は天子が主権者として群臣を引見し政治を議し、儀式を行う場所であり、内廷は一家の主人として皇后以下の婦女と未成年の子供、および宦官(かんがん)とともに個人的な家庭生活を送る場である。この内廷がすなわち後宮であり、その構成人員は婦人が多数を占めるので、宮中の婦人をも後宮と称する。清(しん)朝の北京(ペキン)宮城では乾清(けんせい)門が内廷と外朝との境界をなし、宦官がこれより外に出ること、一般官僚がこれより内に入ることを禁じられた。中国は古来一夫多妻制で、妻妾(さいしょう)の数は身分の高い者ほど多いことが儒教でも公認されている。周公が制定したといわれる『周礼(しゅらい)』によれば、1人の后のほかに、3夫人、9嬪(ひん)、27世婦、81女御(じょぎょ)と、合計121人の妻妾が規定される。しかし後世の天子の場合はこれにとどまらず、白楽天(はくらくてん)が唐の玄宗(げんそう)について『長恨歌(ちょうごんか)』のなかで「後宮の佳麗三千人」と歌ったほど多くの婦女が宮中に存在した。妻妾を多くするのは継嗣を得るのを名目とするが、実際には天子が女色におぼれて健康を損ない政治を乱し、一王朝の末期には天子が後継者を得ずして早死にするような逆効果を招くことがおこった。また天子の暗愚なときには、後宮より朝廷の人事に対する干渉容喙(ようかい)、いわゆる女謁(じょえつ)が盛んとなり、もっとも甚だしいときには、漢の高祖劉邦(りゅうほう)の死後、その皇后呂(りょ)氏が権力を握りその一族を重用して皇室を危殆(きたい)に陥れ、また唐の高宗の皇后武氏が一女官より身をおこして唐を簒奪(さんだつ)し、周王朝を建てたごとき例があり、歴代その弊害がやまず、清朝でも西太后(せいたいこう)の専権によって滅亡に近づいた。さらに後宮の奉仕者として宦官が不可欠の存在となり、あるいは後宮を背景として外戚(がいせき)が勢力を伸ばした。
 なお、日本でも、内裏(だいり)のなかで、皇后、妃(ひ)、夫人、嬪の住む殿舎、また、ここに居住する皇后、妃、夫人、嬪およびこれに奉仕する女官(にょかん)をさして後宮といった。[宮崎市定]

★デジタル大辞泉の解説
かん‐がん〔クワングワン〕【×宦官】 東洋諸国で宮廷や貴族の後宮に仕えた、去勢された男子。中国・オスマン帝国・ムガル帝国などに多かった。王や後宮に近接しているため勢力を得やすく、政治に種々の影響を及ぼした。宦者(かんじゃ)。
漢文古典
★古代の儒教は「修身斉家治国平天下」の思想のもと、「内廷」の家政と「外廷」の国政を同系上のものとして重視した。
儒教の経典『礼記』昏義より
「古者天子後立
六宮、三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻
以聴天下之内治、以明章婦順、故天下内和而家理。天子立
六官、三公、九卿、二十七大夫、八十一元士
以聴天下之外治、以明章天下之男教、故外和而国治。
故曰、
天子聴男教、後聴女順、
天子理陽道、後治陰徳、
天子聴外治、後聴内職。
教順成俗、外内和順、国家理治、此之謂盛徳。」
 古代の周王朝の理念的制度では、
内廷:女性の妃嬪六宮三夫人九嬪二十七世婦八十一御妻 内治、婦順、内和而家理、陰徳、内職
外朝:男性の臣下六官三公九卿二十七大夫八十一元士 外治、男教、外和而国治、陽道、外治
 がセットになっていた。「国」(外治)と「家」(内治)の双方がおさまって、はじめて「国家」は安泰になる、というのが儒教的な国家観であった。
 後世の東洋の王朝では、「古典古代」たる周王朝の理念的な制度を参考にしつつ、国情や実情にあわせて制度をアレンジした。例えば、唐の時代の一時期は下記の通り。
1、皇后(皇帝の正妻であり、官位を超越した別格の存在)
2、四夫人貴妃、淑妃、徳妃、賢妃(正一品)
3、九嬪昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛(正二品)
4、二十七世婦婕、九人(正三品)
美人九人(正四品)
才人九人(正五品)
5、八十一御妻宝林二十七人(正六品)
御女二十七人(正七品)
采女二十七人(正八品)
 以前、朝日カルチャーセンターの講座でも取り上げた則天武后(武則天。武照)を例に取ると、十四歳で唐の太宗の後宮に入り「武才人」(正五品)となった。太宗の死後、高宗が皇帝となったが、高宗の皇后(王氏)と蕭淑妃(正一品)が高宗の寵愛をめぐって争い、王皇后は高宗の寵愛を蕭淑妃からそらすため、武照の入内を勧めた。「武昭儀」(正二品)となった武照はたちまち高宗の寵愛を独占した。高宗は、武照のために「宸妃(しんひ)」という位を新設しようとしたが、臣下の反対にあって取りやめた。結局、武照は、王皇后と蕭淑妃を宮中から追放して庶民に落とし、みずから高宗の皇后(武后)にのぼりつめた。高宗の死後は皇太后として国政を壟断し、ついにはみずからが皇帝に即位した。
 また、以前取り上げた楊貴妃を例にとると、彼女は皇后ではなく「貴妃」止まりであったが、それでも、楊国忠はじめ実家の楊家の一族が唐の国政に乗り込んできた。

★「后」の字源についての藤堂明保の説…「人」の字の変形の下に「口」を添えた会意文字で、人体のうしろにある尻の穴を指す。「後」と同系。転じて、後宮に住む「きさき」。また「厚」(重く大きい意も含む)に当て、重々しい大王を指すのにも用いる。
 →古代の「后」は、「后王」(りっぱな君主)や「皇天后土(おおいなる天、おもおもしき大地、の意)」のように、「きさき」以外の意味で使われることも多かった。

★「妃」は天子の正妻で、通常は一人。「妃」は正妻に次ぐハイクラスの側室で、字源は女へんに「配偶者」の「配」の右半分を組み合わせたもの。「嬪」は「妃」に次ぐ側室で、字源は女へんに「来賓」の「賓」を組み合わせたもの。

★最初の「皇后」
 最初の皇帝は秦の始皇帝だが、始皇帝が「皇后」という位を設置した形跡は確認できていない。史上最初の確実な「皇后」は、前漢の初代皇帝・劉邦の正妻だった呂后である。なお、天子の母親は皇太后(こうたいごう)、祖母は太皇太后である。

★三宮六院七十二妃
 現代の中国語で皇帝の后妃の多さを述べるときの成語。実際には、過去の後宮の規模は、七十二妃どころではなかった。


始皇帝の時代の後宮
 秦の始皇帝(嬴政)の時代の後宮の制度は、後世にくらべるとかなりいいかげんだったようである。具体的には、
・秦の始皇帝の実の父親は、秦の荘襄王ではなく、大商人の呂不韋だったという説がある(『史記』「呂不韋列伝」その他)。後世の后妃制度では、生まれた子供の血筋に関して厳密な管理が徹底しているため、このような説が生まれる余地はそもそもありえない。
・嬴政の実母である「太后」は、嬴政が王となったあと、嫪毐(ろうあい 紀元前258年 - 前238年)という偽物の宦官と関係をもち、息子までもうけたが、その醜聞が発覚するまで相当な月日がかかったとされる(『史記』「呂不韋列伝」その他)。後世の後宮ではいろいろチェックが厳しく、偽物の宦官が後宮に入りこんで后妃と関係をもつことは考えられなかった。
・始皇帝に仕えていた宦官の趙高は、始皇帝の死後、宦官でありながら秦の国政を壟断し、秦の滅亡に拍車をかけた。

〇【参考】『平家物語』の冒頭
 祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響あり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす。おごれる人も久しからず。唯春の夜の夢のごとし。 たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱异、唐の禄山、是等は皆、旧主先皇の政にもしたがはず、楽みをきはめ、諫をもおもひいれず、天下のみだれむ事をさとらずして、民間の愁る所をしらざしかば、 久しからずして、亡じにし者ども也。
→趙高は後宮に出入りする宦官、王莽は外戚(皇后の実家の一族)、安禄山も後宮に出入りして楊貴妃や玄宗皇帝と乱痴気騒ぎをした。文官政治家の朱异(『平家物語』での表記は本によって「周異」「周伊」「朱異」などと誤記されている)を除き、後宮と関係のある人物が、平清盛と同様の「奸臣」として列挙されている点に注意。


漢の時代の後宮 後世の反面教師
★「性交死」の疑惑がある成帝
 医学用語の「性交死」は、俗に「腹上死」と言うが、実際には性交の最中に死亡することはまれで、むしろ性行為を終えたあと、その直後から数時間内に死亡することが多い。死因の大半は性行為が引き金となって起こる心拍異常や血圧異常、脳出血などである。
 「性交死」の疑惑がある皇帝は、前漢の成帝、明の泰昌帝(光宗)その他がいる。

★前漢の成帝と趙姉妹
 前漢の第11代皇帝・成帝(前51年〜前7年)と、皇后・趙飛燕、その妹・趙昭儀(後世「趙合徳」の名前で呼ばれる)の関係は、正史『漢書』や稗史(はいし)『趙飛燕外伝』によって、後世に大きな影響を与えた。
〇夏目漱石『文学論』序「余は少時好んで漢籍を学びたり。之を学ぶ事短かきにも関らず、文学は斯くの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左国史漢より得たり。」
 ※「左国史漢」=漢文の歴史書『春秋左氏伝』『国語』『史記』『漢書』のこと。
〇趙飛燕の肖像画……残念ながら彼女の同時代の肖像画は残っていない。趙飛燕のイメージ写真ではないが、鳥のように軽やかな舞姫、というイメージの現代中国の写真作品の例に『雀舞』(
こちら)がある。

★『漢書』卷九十七下 外戚傳第六十七下より
(要約)漢の成帝の皇后となった趙飛燕の出自は、いやしかった。彼女は宮中の雑役の夫婦の子だった。生まれたとき、両親は育てるつもりがなく、放置した。三日間放置しても生きていたので、育てられた。その後、皇族の陽阿主の家で、歌手兼ダンサーとして仕込まれ、「飛ぶツバメ」という芸名を名乗った。
 漢の成帝は、おしのびで出かけて遊ぶことを好んだ。成帝は、趙飛燕を気に入り、後宮に入れた。のちに飛燕の妹(後世の伝承では「趙合徳」と呼ばれる)も後に後宮に入れた。この美人姉妹は、成帝の寵愛を独占した。
 成帝にはもともと許皇后がいたが、廃されていた。成帝は周囲の反対意見をおしきり、出自がいやしい趙飛燕を皇后とし、その妹を昭儀とした。やがて妹は、姉よりも皇帝に愛されるようになった。ただ、姉妹は十年余りも成帝の寵愛を得たものの、結局、成帝の子を産めなかった。
 成帝は健康だったが、綏和2年3月18日(西暦に換算すると前7年4月17日)の朝、起床後にものが言えなくなり、その日のうちに亡くなった。民間では、趙昭儀のせいだ、という噂が広まった。成帝の生母である孝元皇太后(王政君)は、一族の王莽(後に皇帝の位を簒奪する)らに命じて真相を調査させようとした。趙昭儀は真相を語らぬまま自殺した。
 成帝には実子がいなかった(隠し子説、あり)。成帝の次には、趙飛燕の後押しもあって、哀帝が即位した。哀帝は、寵臣・董賢との「断袖」の故事で有名である。前7年に哀帝が25歳の若さで崩御すると、趙飛燕は王莽との政争に負けて失脚し、追い込まれて自殺した。
〇加藤徹が思うに、成帝には成帝の言いぶんがあったろう。外戚の横暴に悩んでいたので、わざと出自がいやしい趙飛燕を皇后にしたのだ、とか。……
(出典)孝成趙皇后、本長安宮人。初生時、父母不舉、三日不死、乃收養之。及壯、屬陽阿主家、學歌舞、號曰飛燕。成帝嘗微行出。過陽阿主、作樂、上見飛燕而説之、召入宮、大幸。有女弟復召入、倶為婕、、貴傾後宮。
 許后之廢也、上欲立趙婕、。皇太后嫌其所出微甚、難之。太后姉子淳于長為侍中、數往來傳語、得太后指、上立封趙婕、父臨為成陽侯。後月餘、乃立婕、為皇后。追以長前白罷昌陵功、封為定陵侯。
 皇后既立、後ェ少衰、而弟絶幸、為昭儀。居昭陽舎、其中庭彤硃、而殿上髹漆、切皆銅沓黄金塗、白玉階、壁帶往往為黄金ス、函藍田璧、明珠、翠羽飾之、自後宮未嘗有焉。姉弟顓寵十餘年、卒皆無子。
 末年、定陶王來朝、王祖母傅太后私賂遺趙皇后、昭儀、定陶王竟為太子。
 明年春、成帝崩。帝素強、無疾病。是時、楚思王衍、梁王立來朝、明旦當辭去、上宿供張白虎殿。又欲拜左將軍孔光為丞相、已刻侯印書贊。昏夜平善、郷晨、傅褲襪欲起、因失衣、不能言、晝漏上十刻而崩。民間歸罪趙昭儀、皇太后詔大司馬莽、丞相大司空曰:「皇帝暴崩、群衆言雚嘩怪之。掖庭令輔等在後庭左右、侍燕迫近、雜與御史、丞相、廷尉治問皇帝起居發病状。」趙昭儀自殺
(以下略)

★『趙飛燕外伝』より
 趙昭儀(皇后・趙飛燕の妹)がある夜、酔って、ふだんの7倍の量の媚薬を成帝に飲ませた。その夜は大いに盛り上がったが、翌朝、成帝は死んだ。官憲は調査しようとした。趙昭儀は「ベッドの中のことを官憲にさらけだすことなぞ、どうしてできましょう」と言い、胸をたたいて「陛下はどうして逝かれたのですか」と叫び、血を吐いて死んだ。
(出典)昭儀輒進帝、一丸一幸。一夕、昭儀酔進七丸、帝昏夜擁昭儀居九成帳、笑吃吃不絶。抵明、帝起御衣、陰精流輸不禁、有頃、絶倒。挹衣視帝、余精出湧、沾汚被内。須臾帝崩。宮人以白太后。太后使理昭儀、昭儀曰「吾持人主如嬰児、寵傾天下、安能斂手掖庭令争帷帳之事乎」。乃拊膺呼曰「帝何往乎」。遂欧血而死。

★ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
趙飛燕 ちょうひえん Zhao Fei-yan; Chao Fea-yen
 中国,前漢の成帝 (在位前 33〜7) の皇后。庶民の出身。歌舞に巧みで,成帝の目に止り,女官となり,のち皇后となった。妹昭儀も召され,姉妹で成帝の寵を争ったという。平帝のとき,王莽の上奏で庶人に落され,自殺した。この姉妹を描いた『趙飛燕外伝』は六朝時代の小説で,日本の平安時代の宮廷女流文学者に広く読まれた。

★日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
趙飛燕 ちょうひえん(?―前1)
 中国、前漢末期の皇帝である成帝(在位前32〜前7)の皇后。卑賤(ひせん)の生まれから身をおこして陽阿主(ようあしゅ)に仕え、そこで歌舞を習得し、偶然陽阿主の家を訪れた成帝の目に留まって妹とともに後宮入りし、ついには皇后となった。しかし前漢王朝きっての放恣(ほうし)な皇帝が、ある夜突然死去したために、成帝とその夜をともにした妹に嫌疑がかかり妹は自殺に追い込まれてしまう。やがて宮廷内で王莽(おうもう)の勢力が伸張すると、飛燕もただの庶人に格下げされて、妹の後を追う。このように卑賤の身から一転して後宮の栄華をほしいままにし、最後には凋落(ちょうらく)の道をたどる趙飛燕姉妹の波瀾(はらん)の生涯は、やがて文学作品『趙飛燕外伝』となった。この作品は、彼女の血縁者から直接聞き取りの形で書き上げられたと伝えられるが、実際には後世の偽作とされる。[桐本東太]

★大辞林 第三版の解説
はんしょうよ【班婕、】
〔「漢書外戚伝」より。「婕、」は女官の名〕 中国、漢の女官。成帝の寵愛を得たが、のちに帝が趙飛燕姉妹を寵愛するようになったため、身をひいて太后に仕えた。その時自ら悲しんで「怨歌行」を作った。後世、寵愛を失った女性を歌った詩に登場することが多い。班女。生没年未詳。
〇世阿弥の能『班女』(はんじょ)は班婕、の故事をふまえた謡曲。

★『趙飛燕外伝』より
 妹に成帝の寵愛を奪われた姉の皇后は、悲しみにくれ、馮無方(ふう・むほう)という臣下と不倫関係に走った。ある日、太液池(たいえきち)で、宴会が開かれた。広大な庭園の中の人工の池に、千人乗りの巨船を浮かべた豪華な遊びだった。皇后は、昔取ったきねづかで、船の上で踊った。成帝が壷を叩き、馮無方は笙を吹いて伴奏した。皇后は「いっそ仙人になって飛んでゆきたい」という旨の歌を歌いつつ袖をひるがえして軽やかに舞い、風に乗って飛んでゆきそうに見えた。成帝はあわてて「無方よ、皇后が飛んでゆかないようにおさえてくれ」と命じた。風がおさまると、皇后は「私は仙女になって飛び去りたいのに、陛下はお許しくださらないのですね」と泣いた。成帝は皇后をいっそういとおしく思い、無方に千金を与え、皇后の寝室に出入りさせた。後日、成帝のお手つきになった宮女たちの中には、スカートのひだをたたんでひも状にしたファッションを作るものがあり、それを「仙女になるのを引きとどめられたスカート」と名付けた。
〇『趙飛燕外伝』の全訳は、明治書院の『中国古典小説選1』(2007)で読めます。
(出典)歌酣、風大起、后順風揚音、無方長吸細嫋与、相属后裙髀曰「顧我、顧我」。后揚袖曰「仙乎、仙乎、去故而就新、寧忘懐乎」。帝曰「無方為我持后」。無方舎吹持后履。久之、風霽、后泣曰「帝恩我、使我仙去不待」。悵然曼嘯、泣数行下。帝益愧愛后、賜無方千万、入後房闥。他日、宮姝幸者、或襞裙為縐、号曰「留仙裙」。

〇あまつかぜ雲のかよひぢ吹きとぢよ 乙女のすがたしばしとどめむ 僧正遍昭
〇李白:七言絶句「清平調」三首 其の二
一枝濃艷露凝香。
雲雨巫山枉断腸。
借問漢宮誰得似?
可憐飛燕倚新粧!
イッシのノウエン、つゆ、かおりをこらす。
ウンウフザン、むなしくダンチョウ。
シャモンすカンキュウ、たれかにるをえたる?
カレンのヒエン、シンショウによる。
 唐の詩人・李白は、玄宗皇帝と楊貴妃の前に召されたとき、楊貴妃の美しさを漢の趙飛燕に喩え、それが一因となって宮廷を逐われた。この漢詩については「中国の四大美女」および「「唐詩五七絶譜」清傅士然伝」参照。


漢より後の後宮
★【概観】前漢は、皇帝の淫乱と、外戚の専横によって滅亡した。
 後漢はその反省から、後宮の制度を簡素に再編した。それでも、後漢の末期には、『三国志』の物語の冒頭に見られるように、外戚や宦官が国政を乱す事態が見られた。
 皇帝が子孫を着実に残して国政を安定させるためには、後宮の充実が不可欠である。さりとて、後宮の后妃や外戚、宦官の発言力が強くなりすぎても、国政は乱れやすい。両者のバランスを取るのは難しい。歴代の王朝は、前漢を反面教師として後宮の制度を改革し続けたが、結局、明の時代まで成功しなかった。
 最後の清朝は、この点では歴代王朝の経験を集大成してかなりの成功を収めた。清朝の時代は、後宮の制度を改革し、「選秀女」という優れた后妃選定制度を採用したおかげで、宦官や外戚が国政を壟断する事態は一度も起きずに済んだ。が、その反作用で、清末には皇帝が子孫を残さずに死ぬという異常事態や、西太后という特大級の権力者が後宮から現れる結果となった。
 中国史は、後宮(内廷)と外廷のせめぎあいの歴史でもあったのである。

★【盛り塩の起源】
 蜀の諸葛孔明のライバルだった魏の司馬仲達(司馬懿)の孫、司馬炎(236-290)は、西晋の初代皇帝となり(武帝)、「三国志」の時代を終わらせて天下を統一した。それなりに優秀な人物だったが、無類の女好きでもあり、欠点も多かった。
〇273年には、詔勅を出して女性の結婚をしばらくのあいだ禁止し、自分の後宮に入れるため5千人の女子を選んだ。
〇281年、呉(三国志の魏・呉・蜀のうちの一つ)を滅ぼしたあと、呉の皇帝・孫皓の後宮の女性5千人を自らの後宮に入れた。そのため、武帝の後宮の宮女の数は1万人にふくれあがった。後宮の規模が大きくなりすぎたため、武帝は毎夜、羊に引かせた車に乗って後宮の中を回った。羊が歩みを止めると武帝は車をおり、その建物の女性と一夜をともにした。宮女たちは、車を引く羊が自分の部屋の前で足を止めるように、竹の葉を挿し、塩を盛った。羊は、竹の葉と塩を好んで食べるからである。これが、今の日本にも伝わる「盛り塩」の風習の起源という説がある。

★【子貴母死制】
 北魏(386-534)は別名「元魏」で、「三国志」の時代の「曹魏」とは別の、鮮卑系の王朝である。北魏では、外戚の専横を避けるため、皇太子を立てると、皇太子の生みの母に死を賜う(自殺を強要する)という「旧法」があった。この「旧法」を、後世の史家は「子貴母死制」とか「立子殺母」と呼ぶ。この残酷な制度の起源は不明だが、一説に、漢の武帝が外戚の専横を防ぐため太子(のちの昭帝)を生んだ鉤弋夫人(こうよくふじん。趙婕、=ちょうしょうよ)を処刑した故事に学んだものともいう。
 北魏の第7代皇帝の宣武帝は、この非人道的な制度を英断をもって廃止した。皮肉なことに、その後の北魏では皇太子の母が国政を壟断する事態に悩まされるようになった。

★【楊貴妃】
 詩人の白居易が漢詩『長恨歌』の中で「後宮の佳麗三千人、三千の寵愛、一身に在り」と詠んだ句は有名。玄宗と楊貴妃のロマンスは文芸の好個の題材となったが、政治的な論説文では批判の対象となることが多かった。

★【魚呂の乱】
 中国の後宮でのスキャンダルや事件は、皇帝の面子をつぶすものである。史書に書き残されたものもあるが、闇から闇に葬られたものもある。
 明の第3代皇帝・永楽帝(朱棣=しゅてい。廟号は太宗/成祖)の後宮で起きた「魚呂の乱」は、数千人が死んだ大事件だったが、中国の記録からは完全に抹殺され、なかったことにされた。たまたま犠牲者の中に朝鮮から献上された「朝鮮貢女」とその関係者がいたため、朝鮮半島の『李朝実録』(世宗、26卷)永楽二十二年十月十七日の条に記録され、後世に知られるようになった。
 このように、中国の後宮で起きた血なまぐさい事件で、表沙汰にならず闇に葬られた話は、かなりあったと思われる。

★【壬寅宮変】
 明の第12代皇帝・嘉靖帝(かせいてい 在位1521-1567年)の時代に後宮で起きた、皇帝殺害未遂事件。
 嘉靖21年(1542)旧暦10月21日未明、後宮において、宮女十数名が共謀し、熟睡中の嘉靖帝の首に紐をかけ、絞殺しようとした。が、宮女の一人(楊金英)は紐の結び目を「こま結び」にしてしまったため、嘉靖帝の首をうまく締めきれなかった。そうこうしているうちに、宮女の一人(張金蓮)が皇后(方氏)のもとにかけつけ、事態を報告した。皇后があわててかけつけると、宮女の一人は皇后を殴った。さらにすったもんだの末、ようやく警備員がかけつけ、宮女らを逮捕した。
 首を絞められた嘉靖帝は酸欠で危篤状態だったが、御医の懸命な応急処置で蘇生した。
 犯人らの動機については諸説あるが、真相は不明である。厳しい取り調べが行われた結果、黒幕は寧嬪(王氏)とされた。また端妃(曹氏)は内情を知りながら皇帝に知らせなかった、とされた。宮女たちと妃嬪は凌遅刑となり、また多くの関係者が連座して斬首刑に処されたり、奴隷に降格された。
 今も真相が不明な部分が多い事件である。

★この他にも、中国の後宮には不可解な話は多いが、これまでとする。
 以前、朝日カルチャーセンターで取り上げた「中国の三大「悪女」」の三人とも後宮の女性であった。

東京の皇居と北京の故宮
東京と北京の比較,皇居と紫禁城の比較
近代以前の有名な都の例
ウル(中東)、バビロン(中東)、咸陽(秦の始皇帝)、長安(前漢、唐、他)、ローマ(ローマ市)、北京(薊、燕、幽州、南京、中都、元の大都、明の北平府・北京、清の順天府北京・・・)、江戸(現在の東京の前身)、・・・
伝承・計画のみ アトランティスの都(プラトン『ティマイオス』『クリティアス』)、世界首都ゲルマニア(ナチスドイツ)、…

参考 江戸について、荻生徂徠、金仁謙(朝鮮通信使の随員)、ハインリッヒ・シュリーマンの認識→ こちらを参照。

中国の都城制
 古来、漢民族は「天円地方」という宇宙観を持っていた。大地は方形(四角形)であり、「囲」「国」などの漢字も方形であり、都城も家屋も麻雀卓も東西南北の四角四面に作るのを好んだ。
「内城外郭」「城郭都市」「条坊制」・・・

儒教の経典『周礼』(しゅらい)「冬官考工記」
「匠人営国、方九里、旁三門。国中九経九緯、経涂九軌。左祖右社。面朝後市、市朝一夫。」
匠人が「国」(都城)を造営するにあたっては、1辺の長さを9里として、それぞれの1辺に城門を3箇所ずつ作る。都城の中には、南北方向に9本、東西方向にも各9本の街路を作る。街路の幅は、馬車の軌道の9倍とする。左に祖先を祀る祖廟を、右に土地神を祀る社稷を建てる。前方に朝廷、後方に市場の区域を設けるが、市場も朝廷も面積は1夫とする。
※「9」が多いことに注意。『易』の陰陽思想の影響もある。
※古代中国の長さの単位 6尺=1歩(現代人の感覚では2歩。約 1.35 m) 300歩=1里
※古代中国の面積の単位 1歩=1歩(6尺)4方 1畝(ほ、ムー)=100歩 1夫=100畝(距離の百歩四方=1万歩)  1里(面積の単位としての里。井田)=300歩(長さとしての歩)4方=9万歩
※度量衡は時代による差が大きいので注意。ちなみに現代中国の「市制」の1畝は約6.67アールであるが、それを百倍した約6.67ヘクタールが古代中国の1夫だったわけではない。
『周礼』は、西周初期の理想的かつ理念的な文物制度を述べているとされる書物で、儒教の経典の一つだが、その中の「冬官考工記」は内容から見て戦国時代に成立したらしい。中国の歴代王朝の都城の設計思想は、「冬官考工記」をベースとしているが、規模やデザインを完璧に実現した都城はなく、現実にそってアレンジしている。
cf.日本史上、条坊制による初めての都である藤原京が短命に終わった理由は「日本人の祖先が『冬官考工記』のコンセプトを鵜呑みにして騙されたから」という説がある。

「風水」と都城
伝・郭璞(かくはく)『葬書』「気乗風則散、界水則止。古人聚之使不散、行之使有止。故謂之風水」(気は、風に乗れば則ち散り、水に界せられば則ち止る。古人は之を聚めて散らしめず、之を行かせて止るを有らしむ。故に之を『風水』と謂ふ」
 良い「気」が集まるような場所が、都城を作るのにふさわしい。
「背山面水」・・・北側が山、南側が川などが良い。
「蔵風聚水」・・・良い気を散らしてしまう風を防ぎ、良い気をとめるのに役立つ水があるような場所。
「四神相応(しじんそうおう)」・・・東に流水(青竜)、西に大道(白虎)、南にくぼ地(朱雀)、北に丘陵(玄武)が備わる土地(異説もある)。

中国人の宇宙観「天地人」「天文地文人文」「天人感応」・・・
 古代中国のアステリズム「星官」←→西洋の「星座」と根本的な発想の違い。
 古代中国人は、「地」は地上の天子が支配する王国(帝国)、「天」は天上の天帝が支配する帝国であると考えていた。古典小説や京劇の「孫悟空 天宮で大暴れ」の話を見ると、天上の星々はそれぞれ天帝に仕える官僚組織になっている。
 星々のまとまり「三垣」、木星とかかわりの深い「十二次」、天の赤道をもとにした「二十八宿」・・・
 三垣は「紫微垣」「太微垣」「天市垣」の3つがある。北京の「紫禁城」は、理念的には天上の「紫微垣」をモデルとしている。

北京の歴史
春秋戦国時代の燕国の首都「薊(けい)」「燕」
秦漢時代の「北平」(北の国境を守る要衝)
隋唐時代の「幽州」
征服王朝・遼の「南京」
征服王朝・金の「中都」
征服王朝・元の「大都」
明の「北平府」「順天府」「北京」
清の「順天府」「北京」
中華民国の「北平」
中華人民共和国の「北京」
※上記以外にも北京の呼称の細かい変遷があったが、省略。

遼の「南京」(現在の南京市とは違う)時代以降、北京は、非漢民族系の王朝の都市であった時期が長く続く。
中華帝国の世界首都としての北京は、元の時代に始まる。
明の初期や中華民国時代には、首都でなくなった時期もあった。
現在の故宮(紫禁城)は、明の永楽帝(在位1402-1424)が建築したもの

北京・紫禁城関連の画像 紫禁城 北京の地図 長安街 北京


★料理について
 中国・トルコ・フランスの「世界三大料理」はいずれも君主に供された宮廷料理と関連。
【品数】清末の場合:西太后の時代は、紫禁城内の「御膳坊」で作られた100品前後の料理が宦官の行列によって西太后のもとに運ばれて供された。実際に西太后が箸をつけるのはそのうちの一部だけだった。料理の水は、北京の西郊の玉泉山の湧き水(乾隆帝が「天下第一泉」と称賛した水。頤和園の昆明湖の水源)が使われた。なお、末代皇帝である溥儀の料理は30品前後だった。
【毒見】中国語では毒見を「試毒」ないし「嘗毒」と言う。皇帝が毒殺されることを未然に防ぐため、宦官が毒見をするのが普通だった。また、ヒ素の毒による毒殺を未然に防ぐため、銀の食器を愛用した。銀は、昔の毒薬としてよく使われたヒ素化合物に触れると黒く変色するからである。ただし、ヒ素の純度によっては変色しないこともあるので、万能ではない。
★薬について
【治療を拒否した漢の高祖】劉邦は皇帝になったあと古傷が悪化した。呂后は天下の名医を招いた。名医は「治せますよ」と言ったが、劉邦は「俺が庶民の身で三尺の剣をひっさげて天下を取ったのは、天命に他ならない。生きるも死ぬも天任せだ。名医だろうと、運命はどうにもできない」と言い、治療を断り、手厚い報酬を与えて去らせた。
 司馬遷『史記』高祖本紀に「高祖撃布時、為流矢所中、行道病。病甚。呂后迎良医。医入見。高祖問医。医曰、病可治。於是高祖嫚罵之曰、吾以布衣提三尺剣取天下、此非天命乎、命乃在天、雖扁鵲何益」。遂不使治病、賜金五十斤罷之」とある。
【治療を断った馬皇后】明の太祖・朱元璋(洪武帝)の糟糠の妻であった馬皇后(1332年−1382年)は、晩年、病気になった。夫の気性をよく知っていた馬皇后は「死ぬも生きるも運命です。祈ったところで、どうにもなりません。もし死ぬ運命なら、医者も人を生かせません。もし薬を飲んで効果が無かったら、わたしを治せなかった罪を医者がかぶることになりかねません」と言い、医者の診察も薬も断り、そのまま亡くなった。朱元璋は非常に哀しみ、その後、皇后を立てることはなかった。
【光緒帝の死因】清末の光緒帝は毒殺されたという噂があった。1980年の光緒帝の陵墓発掘調査では病死と結論づけられたが、21世紀の再調査では、2008年に光緒帝はヒ素により毒殺されたと結論付けた。
【強精と回春】『孟子』に「不孝に三有り、後無きを大と為す」という言葉があるとおり、子孫を残すことは儒教では大切な義務とされた。皇帝の場合は特に世継ぎを確保するため、後宮の制度や、強精や回春に効果があると信じられた薬や食材などに、さまざまな工夫が凝らされた。中には、有害なものもあった。
【紅丸案】明の末の泰昌帝(在位1620年8月28日−9月26日)は、万暦48年(1620年)に即位したあと、わずか1ヶ月で薬害により死亡した。下痢を催した泰昌帝に、鴻臚寺丞だった李可灼が「紅鉛丸」という丸薬を勧めたところ症状が良くなった、もう一丸服用した翌日に急死した。
 「紅鉛丸」は別名「紅丸」「紅鉛金丹」「三元丹」とも言う。原料は「先天紅鉛」つまり処女の初潮の血で、これに夜の最初の露と、烏梅などの薬物を加え、七回ほど煮詰めてどろどろにした上で、紅鉛、秋石、人乳、辰砂、松脂などを加えて焙じて作る強精剤である。
★書画骨董について
【王羲之の書】王羲之(303-361)は書聖と呼ばれる。
 唐の太宗皇帝(李世民)も王羲之の書を非常に好み、収集した。太宗は、王羲之の『蘭亭序』を自らの陵墓に副葬させた。残念ながら、王羲之の真筆は全て失われたと考えられ、現在残っているのは模本ばかりである。王羲之の『快雪時晴帖』は唯一の真筆と考えられていた時代があり、清の乾隆帝もこれを愛蔵したが、今では精巧な模本と考えられている。
【三希堂】清の乾隆帝は書画骨董が大好きだった。王羲之の『快雪時晴帖』、王献之の『中秋帖』、王cの『伯遠帖』を入手した乾隆帝は、この三作品を「三希」(三つの希少なもの)と称し、紫禁城の中の「三希堂」に大切に保管した。
【徽宗】北宋の末の皇帝・徽宗は、政治家としては凡庸な「風流天子」だったが、文人・画人としては天才的だった。書では、あらたに痩金体(「痩金」は徽宗の号)という書体をデザインし、絵画では写実的な院体画を大成した。徽宗が描いた『桃鳩図』は日本の国宝に指定されている。また、数寄を凝らした庭園造営にも熱中し、大きな岩や珍しい木を遠く南方から運河を使って運ばせた(花石綱)。徽宗は芸術的な奢侈のために民へ重い税金を課した。徽宗の政治的無能は、後世の小説『水滸伝』で描かれるような社会の腐敗と混乱を招き、さらには靖康の変(1126年)という亡国の事態を招いた。
【洗衣院】靖康の変により、徽宗以下の皇族や宮女たちが多数、北方の「金」に連行された。皇族を含む宋の宮廷の女性たちは「洗衣院」と呼ばれる官設の売春施設に強制収容され、過酷な運命をたどった。
★宮廷の音楽・演劇
【優倡侏儒】司馬遷の『史記』孔子世家によると、魯国と斉国の首脳会談「夾谷の会」のとき、懇親のため斉は「宮中の楽」を披露した。斉の「優倡侏儒」が「戯」をなしながら進んでくるのを見た孔子は、君主に「君主を惑わせる者は死刑にすべきです」奏上し、有司に命じて「優倡侏儒」の手足を切断させた。
 古代中国では、宮廷の芸人の地位はきわめて低かった。
【滑稽列伝】司馬遷の『史記』にある。斉の威王に仕えた淳于髠(じゅんうこん)、楚の荘王に仕えた優孟(ゆうもう)、秦の始皇帝に仕えた優旃(ゆうせん)ら、古代中国の宮廷の「軽口師」の伝記。
【餓死した楽人たち】光武帝が天下を取る直前の戦乱で、宮廷内では多数の餓死者が発生した。
『後漢書』劉玄劉盆子列伝に「時掖庭中宮女猶有数百千人。自更始敗後、幽閉殿内、掘庭中蘆菔根、捕池魚而食之、死者因相埋於宮中。有故祠甘泉楽、尚共撃鼓歌舞、衣服鮮明、見盆子叩頭言飢。盆子使中黄門稟之米、人数斗。後盆子去、皆餓死不出。」
【梨園】唐の玄宗皇帝は歌舞音曲が大好きだった。彼は、長安の西北にあった「梨園」という梨の林の庭園の中に、歌舞音曲の芸人を養成する施設を作った。玄宗はみずから自分が好む音曲を教えた。日本や中国で、後世、演劇界を「梨園」と呼ぶのはこの故事に基づく。
【雷海青】安禄山の乱で長安が陥落した後、数百人いた「梨園の弟子」たちは、安禄山がこもる洛陽に連行され、演奏を強要された。楽人の雷海青は、反乱を起こした安禄山のための演奏を拒否し、楽器を地面に投げつけ、長安の方角である西を向いて慟哭した。安禄山は怒り、雷海青を八つ裂きにして殺した。道教の芝居の神である「田公元帥」(田都元帥)は、雷海青を神格化したものとされる(異説もある)。 【日本の雅楽】日本の雅楽の中の「唐楽」は、唐の時代の宮廷の娯楽音楽である「燕楽」がベースとなっている。中国の「雅楽」は厳かな儀礼音楽であり、「燕楽」とは系統が違う。

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