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(以下『続・今村均回顧録』「花枝に序有り」90-92頁より。大正十年=1921年八月、欧州から日本に向かう郵船北野丸での会話。インド洋上にて。引用開始)

 やはり船上での早朝、読経を終えられた大森禅戒師との交話。
「大森先生! 私は東京に着きましたなら早速に上司に対し、どこか田舎の連隊に勤務出来るよう、願いでるつもりでおります。戦後、世界を風靡している民主主義思想は軍隊にも波及し、以前とはちがって、不思議に感ずる事などは遠慮なしに下の者が上の者に質問することが多くなりましょう。これは考えによっては相互の意志の疎通にやくだつだろうと思われます。もし兵の誰かが、
『国民各自の勤労や能力の差異からその収入が別々になり、貧富の差が生ずることは致しかたないとしても、金持の家に生まれた子と裏長屋に生まれた子とでは生まれたその日から大きな貧富の生活がつきまとい、貧乏人の子は食うや食わず、病気しても医者にかかれないなどはいかにも不合理に思われてなりません』
 などの質問をだして来たとします。このような場合、不合理を緩和する社会政策の必要なり戦後各国の福祉施設なりを聞かせ、わが国もやがてそのような政策を実行するであろうし、実行させなければならないことを教えようと思います。が、自然的、不可抗力的に禍福に見舞われたとき、自暴自棄におちいらしめないようにみちびくために適当する、よい訓えが仏典の中に説かれてはおりますまいか」
 先生はしばらく考えておった。
「ある仏典の中に"天日無私。花枝有序"という句があります。太陽は、どの枝のつぼみから先に咲かせよう、などの意向は持たずに一律平等に慈光を照らし恵んでいる。が、南側の枝のものは真っ先に咲き、北側の枝はあとになる。もし全部の枝が『ほかよりおくれて咲くのはいやだ』と言い張り、すべてが南側だけに枝を延ばしたとしたら木は均衡を失って倒れ、幹も枝もすべてが枯れて、どの枝も目的の花を咲かせ得ないでしまう。北側の枝はじっとその位置に安んじていれば、やがて咲き栄える機運がめぐって来る。幸福のめぐってくる順序の遅い早いはあっても、自然はすべてを恵んでいることを教えた言葉です。

[中略。数百の各檀家の盛衰を百年単位で見ると、小・中・大の家運を循環し、結果的に平等になっている、という実例の説明と、その理由の分析を述べた25行ぶんは省略]

 人間ひとりの運命を数年の小局限に見ないで、一生涯の上に考察したり、一代だけでなく、祖父、父、己れ、子、孫の一連がやはり自我の延長と見るならば、"天日は私無くも、花枝に序有り"のように、大自然は平等に人間を待遇していると考えられましょう。勿論人間の運命を自然の環境に委せきりにして置くことは現在の社会通念ではなく、左右協力し、幸を分かちあい、禍を軽減しあい、一代一代の生活を平等ならしめようとすることが宗教、道徳、政治の目標となっていることは人間思想の進歩であり、この思想はいよいよ発展せしめなければなりません。けれども、艱難は人を磨くことにもなり、安楽はややもすれば人を怠惰に導く。ある人に下った困難な運命を如何に考えさすべきやの指導には、この"天日無私。花枝有序"などのおしえは兵隊さんにも理解され、参考になるかもしれません」
 大森禅戒師は、平易な言葉でかような座談をして下さった。

(引用終わり。以上『続・今村均回顧録』、芙蓉書房出版、1993年10月新装版第一刷、90-92頁より)

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