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中国の皇帝たち

日本人と中国人を知るための教養講座
早稲田大学エクステンションセンター・中野校
 講師・加藤徹
最新の更新2020-1-30  最初の公開 2020-1-10

https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/47513/
目標
・歴史の真実を知る面白さを学ぶ。
・現代と近未来の問題を歴史をヒントに考える。
・今も昔も変わらぬ中国社会の特徴を理解することで、日本社会への教訓を得る。
講義概要
 現在の中国はなぜ、西洋とも日本とも違う、あのような国になったのか。GDPが増えても、海外の情報が伝わっても、なぜ中国は変わらないのか。その理由は過去四千年の歴史にあります。この講座では中国史に明暗両面で教訓を残した個性的な皇帝をとりあげ、映像資料も使いつつ、中国史の予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。
  1. 2020/01/10 劉邦 農民から漢の初代皇帝へ
  2. 2020/01/17 劉秀 最も完璧に近かった英雄
  3. 2020/01/24 李世民 史上まれな名君の虚と実
  4. 2020/01/31 趙匡胤 目がさめたら皇帝になっていた

1 01/10 劉邦 農民から漢の初代皇帝へ
〇秦の始皇帝の死後、農民出身の劉邦(りゅう・ほう)は、項羽との戦いに勝ち、前漢の初代皇帝・高祖(在位 紀元前206年-95年)となりました。無名の庶民が天子になった先例は、劉邦に始まります。親分肌で無学な劉邦は、なぜ皇帝になれたのか。彼のような人物が皇帝となったことで、その後の中国史はどう変わったのか。わかりやすく解説します。

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〇劉邦
 前256/247年―前195年。漢王としての在位は前206年以降。皇帝としての在位は前202年−前195年。
 前漢の初代皇帝で廟号(びょうごう)は高祖。字(あざな)は季(き)。江蘇省沛(はい)県の農民の出身。
 劉邦の伝記は司馬遷の『史記』に詳しい。
 それによると、高祖劉邦は沛県豊邑中陽里の人である。姓は劉氏、字(あざな)は季。 父は太公、母は劉媼といった。出生について、こんな伝説が伝わっている。劉媼が水辺で休息していたとき、急に雷が鳴り、あたりは真っ暗になった。太公が行って見ると、蛟竜が劉媼の上にいた。ほどなく劉媼は妊娠し、劉邦を生んだ。
 成長した劉邦の容貌は、鼻筋が高く龍のようで、ひげは美しく、左の股に七十二個のほくろがあった。思いやり深く、人を愛し、施しを喜び、からりとした性格で、大きな度量を持っていた。が、生家の農業を嫌い、三十歳で秦帝国の下級役人として用いられ、泗水の亭長となった。
 劉邦が、秦の都・咸陽で労働に駆り出されたとき、始皇帝の姿を見る機会があった。劉邦は始皇帝の姿を眺めて
「嗟乎(ああ)、大丈夫、当に此くの如くなるべし」
 と嘆息した――と『史記』は伝える。
 富豪の娘である呂雉(りょち)をめとる。後の呂后(りょこう)である。
 劉邦が、始皇帝陵の造営のため囚徒を護送する任務についた時、逃亡者が多く出た。劉邦は残りの囚徒を解放し、自分も逃げ出して盗賊兼反乱者のリーダーとなり、地元の仲間も彼に合流した。
 秦の末、陳勝・呉広の乱が起き、天下は乱れた。劉邦も前209年、周囲から推されて反乱軍として挙兵した。沛の子弟三千人が加わった。劉邦は「沛公」と称した。
 前208年、劉邦は、楚の名族である項梁(こうりょう)と項羽(こうう)の軍に合流した。
 軍事力も才能も、項羽のほうが劉邦より優れていた。しかし、劉邦のほうが強運に恵まれていた。また、後に「漢の三傑」と呼ばれる蕭何・張良・韓信をはじめ、優れた人材も集まった。
 項羽が秦軍の主力と戦っているあいだに、劉邦軍は項羽よりも先に秦の首都・咸陽(かんよう)に入り、秦の三世皇帝こと秦王嬰(えい)を降伏させた。秦の厳しすぎる法律を廃止し、人を殺した者、傷つけた者、盗みをした者を処罰するという「法は三章のみ」を約束して人心を収めた。
 その後、項羽は遅れて咸陽に到着した。劉邦とのあいだに緊迫関係が生じたが、両者は「鴻門(こうもん)の会」で和解した。
 項羽は秦を滅ぼしたあと、西楚覇王(せいそはおう)と称した。劉邦は、前206年に漢中の地に封ぜられ、漢王と称した。これが「漢」の名称の始まりである。
 項羽は、反秦連合軍の名目上の共同の君主として立てていた義帝が用済みとなったので、これを殺害した。劉邦はこれを名目に項羽に反旗を翻し、以後、4年間にわたる楚漢戦争が始まる。
 前202年、劉邦は項羽を追い詰め、「垓下(がいか)の戦い」で勝利する。項羽が「四面楚歌」の包囲なかで「力山を抜き、気、世を蓋う」云々の漢詩を吟詠し、虞美人が唱和する場面は、『史記』の中でも名場面の一つである。
 項羽は敗死し、劉邦は天下を統一する。同前202年、劉邦は推戴されて漢王から漢の皇帝の位につき、首都を長安に定め、前漢王朝を創始した。
 秦は「法家思想」に基づく極端に中央集権的な郡県制を採用し、地方の反感を招き、反乱によって滅亡した。
 劉邦の漢帝国は、秦の郡県制を踏襲するとともに、「儒家思想」的な封建制も復活させ、功臣や劉氏の一族を各地に封建した。漢の郡国の制である。
 天下を取ったあとの劉邦は、功臣の粛清を行った。
 韓信は謀反の疑いをかけられ、兵権を奪われ謹慎生活を送った。ある日、劉邦は韓信と将器について会話し、たずねた。「俺は何人くらいの兵を率いることができるか」。韓信は「陛下はせいぜい十万の兵の将軍です」と答えた。劉邦が「そなたは?」と問うと、韓信は「多々益々便ず、でございます」と答えた。「ではなぜ、そなたは今、私の下にいるのだ」ときくと、「陛下は兵に将たることは不得手ですが、将に将たる器でいらっしゃいます」と答えた。

〇暴力装置と権威装置
 軍人は暴力装置。知識人・御用学者は権威装置。

〇叔孫通(しゅくそんつう)
 劉邦に仕えた儒者。農民出身の劉邦を真の意味での皇帝に変えた人物。
 漢の朝廷は、農民出身の皇帝・劉邦をはじめ、大臣たちの多くは田舎出身の荒くれ者だった。朝廷での宴会の際、大臣たちはそれぞれ自分の戦功を自慢し、酔って寄声をあげたり、刀で宮殿の柱に切りつけるなど、乱れるのが常だった。
 叔孫通は、いにしえの「礼」と秦の「礼」をもとに、田舎者出身の皇帝や大臣でも守れる漢王朝の礼儀作法をアレンジした。高祖7年(紀元前200年)、長楽宮が完成。祝賀会は、叔孫通ら儒者グループが作った儀礼にのっとって、厳かに行われた。高祖は感激し、
「俺は初めて、皇帝の尊さがわかったぞ」
 と喜び、叔孫通ら儒者グループに莫大な褒美を与えた。

〇商山四皓(しょうざんしこう)
 東洋の画題の一つ。四人の白髪の隠者で、乱世を避け商山に隠れた高潔な知識人を指す。
 高祖12年(紀元前195年)、劉邦は皇太子(呂后が生んだ息子。後の恵帝)を、趙王劉如意に換えようとした。叔孫通は歴史の教訓を挙げて反対した。皇太子は、張良の策により四皓を連れて来た。高祖は、自分が招聘に失敗した四人の高名な学者が皇太子に仕えているのを見て驚き、廃嫡を止めた。


2 01/17 劉秀 最も完璧に近かった英雄
〇日本史の教科書でもおなじみの「漢委奴国王印」(かんのわのなのこくおういん)は、後漢の初代皇帝・光武帝(在位 25年-57年)が、日本からの使者に与えた金印です。若いころ学生だった光武帝は「隴を得て蜀を望む」「柔よく剛を制す」などの名言でも有名です。いったん滅亡した漢王朝を復興し、後漢の開祖・光武帝となった劉秀(りゅう・しゅう)の成功の秘訣と、日本との関係を解説します。

〇宗族(そうぞく)
 父系同族集団のこと。前漢の時代から近代まで、中国社会の「インフラ」であった。

〇景帝(前188年-前141年)
 前漢の第6代皇帝。ある夜、寵愛していた程姫を召し出した。程姫は月のさわりがあったため、こっそり自分の侍女(唐氏)を身代わりにして、景帝の寝室に送り込んだ。酒好きの景帝はその夜も酔っており、相手が唐氏と気付かなかった。唐氏は妊娠し、皇子を産んだ。あとから発覚した皇子なので、「発」と名付けられた。
 「三国志」の曹操の時代の反骨の知識人・孔融(孔子の子孫)をはじめ、もし景帝が酒に酔っていなかったら後漢の王朝はなかった、と皮肉る意見もある。

〇劉秀
 前6年−後57年。後漢(25年−220年)の初代皇帝・光武帝 (在位 25年−57年) 。姓は劉、名は秀、字(あざな)は文叔。
 前漢の高祖・劉邦の9世の孫であり、前漢の景帝の子で長沙王となった劉発の子孫でもある。父は、南陽郡 (湖北省) 蔡陽県に土着していた豪族で、母の樊氏も南陽の豪族出身。子供のころは物静かな性格で、若いころは「仕官するなら執金吾、妻を娶らば陰麗華」(仕官当作執金吾、娶妻当得陰麗華)というのが夢だった。陰麗華は南陽郡新野県出身の豪族陰氏の美女である。
 劉秀が少年だったころ、前漢(前206年−後8年)は、外戚の王莽(おうもう、前45年 - 23年)によって簒奪されて滅亡した。王莽は、中国史上初の強制的禅譲(ぜんじょう)によって「新」(8年-23年)という王朝の皇帝となったが、いにしえの周王朝を理想とする現実離れした儒教的政策を行った。国政は混乱し、赤眉の乱や緑林の乱をはじめ、各地で群雄が蜂起し、乱世となった。
 劉秀は青年時代、最高学府「太学」で儒教の古典『尚書』を学んだ知識人であった。
 22年、劉秀は、豪胆な性格の兄・劉演(りゅうえん ?年−23年)とともに挙兵し、南陽の諸勢力と連合して反乱を起こした。連合軍のなかでは、豪胆な性格で能力が高い劉演と、遠縁の同族の劉玄のどちらを皇帝として立てるかで論議になったが、結局、劉演が譲った。
 23年(更始元年)、劉玄が漢の皇帝を名乗り(更始帝) 、漢王朝の復興を宣言した(「玄漢」)。同年、劉秀は王莽の大軍を昆陽の地で打ち破り、長安に攻め入った。王莽は混乱の中で殺された。更始帝は都を長安に定めた。劉秀は蕭王に封じられ、引続き河北を平定した。なおこの年、劉秀はあこがれの陰麗華をめとっている。
 天下を取った更始帝は、劉演を誅殺した。
 25年(更始3年=建武元年)、長安は、赤眉の反乱軍に攻め込まれた。更始帝は逃げたが、結局、赤眉軍に投降し、皇帝の璽綬を赤眉軍が擁立していた皇帝・劉盆子(11年−?)に譲り渡した。皇帝の位を返上した劉玄は、まもなく赤眉軍の部将によって殺された。長安を占領した赤眉軍は、統治能力に欠けており、食糧も尽きたので故郷の山東へ戻ろうとした。
 長安が混乱していたあいだ、劉秀は各地の反乱軍を降して自らの軍門に加え、数十万の大軍にふくれあがっていた。実力者となった劉秀は部下から皇帝に即位するよう請願され、2度まで固辞、3度目には考慮する態度を見せ、4度目に即位を受諾して皇帝となり(光武帝)、元号を建武とし、都を洛陽に定めた(「東漢」)。
 27年、赤眉軍は兵糧が尽きて劉秀に投降した。
 30年、東を平定。33年には隴西を攻略。光武帝は「人、みずから足れりとせざるを苦しむ。既に隴を得て復た蜀を望む(隴を得て蜀を望む)」という名言を吐き、引き続き天下統一を進め、36年(建武12年)に蜀の公孫述を滅ぼし、中国の再統一と漢王朝の復興を達成した。
 光武帝は、洛陽への遷都や田租の軽減、後宮の縮小などを行い、豪族連合政権による「小さな政府」を作る一方、儒教の学問を奨励し、内政の充実を図った。同時に、王莽の儒教的中華思想丸出しの外交政策が匈奴や高句麗など周辺民族の反発を招いたことへの反省から、異民族の鎮撫にも留意した。倭の奴国の使者が洛陽を訪れ「漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)」を下賜されたのは、その一例である。

〇柔よく剛を制す
 中国古代の兵法書『黄石公三略(三略)』の言葉。原文は、
「軍讖曰『柔能制剛、弱能制強』。柔者徳也。剛者賊也。弱者人之所助。強者怨之所攻。柔有所設、剛有所施、弱有所用、強有所加。兼此四者而制其宜」。
 光武帝が「柔能制剛」をモットーとしたことで、有名となった。

〇有志竟成(ゆうしきょうせい)
 光武帝が、不可能と思われた斉攻略をなしとげた部下を賞賛して「有志者事竟成」(志ある者は事ついに成る)と述べた言葉を、四字熟語化したもの。

〇糟糠の妻(そうこうのつま)
 貧しい生活と苦労を分かちあって生きてきた妻を指す言葉。「糟」は酒粕(さけかす)、「糠」は糠(ぬか)。
 『後漢書』宋弘伝の故事。光武帝の姉・湖陽公主は、未亡人だった。彼女は、大尉の宋弘(そうこう)と再婚したいと願い、弟である光武帝に取りなしを頼んだ。光武帝は姉の姿を屏風の後ろに隠したうえで、宋弘を呼び出して言った。「世間のことわざでは、出世すれば友達をかえ、金持ちになれば妻をかえる、と言う。それが人情かな(諺言貴易交、富易妻、人情乎)」。宋弘は「私めは、貧賤(ひんせん)の交わりは忘るべからず、糟糠の妻は堂を下さず、と聞いております(臣聞貧賤之知不可忘、糟糠之妻不下堂)」と答えた。光武帝は姉にむかって「だめそうです(事不諧矣)」と述べた。

〇客星、御座を犯す(かくせいござをおかす)
 『後漢書』厳光伝の故事。
 厳光(げんこう、生没年不詳)は、現在の浙江省余姚市出身の知識人。学生時代の光武帝(劉秀)の学友だった。劉秀が皇帝になると、厳光は姓名を変えて隠者となった。後に、羊の毛ごろもを着て釣りをしているところを発見された。
 光武帝は、厳光を宮中に招いて、夜は同じベッドで眠った。厳光は足を光武帝の腹部のうえに載せて眠った。翌日、宮中の天文官が「昨夜、星空に異変がありました。突然あらわれた星が、帝座を犯すことはなはだ急でございました」と報告した。光武帝は笑って「朕が友だちと一緒に寝たからだよ」と言った。
 建武17年(41年)、光武帝は再び厳光を宮中に招いたが、今度は来なかった。厳光が数え80歳で亡くなったとき、光武帝はとても悲しみ、手厚く葬った(史書には80歳とあるが、これだと厳光の年齢は光武帝より20歳以上も年上ということになる。史書の間違いか、あるいは忘年の交わりであったのか)。
cf.毛沢東(1893年-1976年)と梁漱溟(りょう・そうめい 1893年-1988年)


3 01/24 李世民 史上まれな名君の虚と実
〇唐王朝を父や兄弟とともに建国した李世民(り・せいみん)は、第二代皇帝・太宗(在位 626年-649年)になりました。彼は、史上まれな偉大な名君とされています。『西遊記』の物語では、太宗は三蔵法師と義兄弟のちぎりを結ぶなど、庶民的な物語の世界でも人気があります。が、彼には、兄弟殺しなど黒い経歴もあります。名君の虚実を、わかりやすく解説します。

〇功と徳
 日本語では「功徳」とひとまとめにするが、中国では「功」と「徳」は別物である。
 「功」は「工」や「攻」と同系の言葉で、土木工事や戦功、功績などを指す。
 「徳」は「得」や「直」と同系の言葉で、人が生まれつきもっている恵みぶかいまっすぐな子心を意味する。
 中国では、大功を建てた有能な君主であっても、徳が薄いと、君主としての正統性を疑われる。
 生涯に汚点をもつ政治家、中国の李世民や日本の徳川家康が、学者を使って「徳」の演出に腐心した理由は、ここにある。

〇皇帝の呼び方
 古代は諡号(しごう)。廟号で呼ぶのは一部の卓越した皇帝のみ。
 唐代から、普通の歴代皇帝も廟号で呼ぶようになった。
 「祖宗」(そそう)は「建国の祖である初代の君主と、中興の祖である特に優秀な君主を指す。また、初代から先代までの代々の君主全部を指す場合もある。
 日本語「皇祖皇宗」は、天皇家の祖先である天照大神から始まり 今上陛下 (きんじょうへいか)に至る歴代の天皇および天皇の祖先を指す。
 王朝を建てた初代皇帝の廟号は通常「太祖」「高祖」。
 それ以外の皇帝には「漢字一字+宗」の廟号を贈るのが普通。
 「太宗」は、第二代の天子に贈られる廟号。唐の太宗こと李世民以外にも、有名なところでは、
北宋の太宗・広孝皇帝(趙Q、在位:976年 - 997年)
明の太宗・文皇帝(朱棣、在位:1402年 - 1424年)。
 日本では「永楽帝」と呼ばれる。嘉靖帝の時に成祖と改称。
清(後金)の太宗・文皇帝(ホンタイジ、在位:1626年 - 1643年)
 などがいる。

〇李世民(り・せいみん。598年/600年―649年。在位626年−649年)
 唐朝の第2代皇帝で、太宗は廟号。中国史上有数の名君として名を残すが、その実像については今もいろいろと論議がある。
 日本では、『西遊記』の物語の始めのほうで、三蔵法師こと玄奘と義兄弟の契りを結んだ話などが知られている。1978年のテレビドラマ『西遊記』では、堺正章氏が孫悟空を、俳優の中村敦夫氏が太宗を演じた。
 仏教の「観世音菩薩」が「観音菩薩」と改称されたのは、李世民の「世」の避諱(ひき)のためである。なお、史実の玄奘は「観自在菩薩」と訳した。
 李世民の家系は「大野(だいや)氏」という胡姓をもつ漢民族とされるが、実際の民族系統は謎で、鮮卑系という説が有力である。建前上は、五胡(ごこ)十六国時代の西涼(せいりょう)の武昭王の子孫で、隴西李氏(ろうせいりし)である。
 李氏は、南北朝時代の北魏(ほくぎ)時代には、内モンゴルにある武川鎮(ぶせんちん)に勤務する武人の家柄だった。李世民の曾祖父の代から国軍の最高司令官である武人貴族として、代々や北周や隋(ずい)などの王朝に仕えた。
 李世民の父は、唐王朝の初代皇帝・高祖(在位618年-626年)となった李淵(りえん)で、李淵は隋の第二代皇帝・煬帝(ようだい)の母方のいとこである。
 李世民は子供のころから頭がよく、武にもたけ、心も強かったので、少年時代から人望を得た。隋の煬帝が雁門の地で突厥(とっけつ)の軍に包囲されて苦境に陥ったとき、16歳の李世民は従軍して煬帝の救出に尽力した。また父・李淵が魏刀児(歴山飛)に包囲されたときも軽騎兵を率いて救うなど、若いころから活躍した。
 617年、李世民は腐敗した隋王朝の打倒を志して、太原(たいげん)の軍司令官であった父・李淵を説得して挙兵した。その後、長安を占領して唐朝を樹立し、李淵が唐王朝の初代皇帝となった。20歳そこそこの李世民の働きにより、唐は各地に割拠した群雄を平定し、天下を統一した。
 621年、李淵は、息子・李世民の史上空前の功績を考慮し、功績の高さから前代よりの官位では足りないとし、王公の位のうえに新たに「天策上将」の称号を作り、李世民に与えた。
 李淵の皇太子は、李世民の同母兄である李建成(589年-626年)であった。李建成は、李世民の名声に嫉妬して脅威を感じ、同母弟の李元吉とともにクーデターを画策した。李世民は事前にその動きを察知した。626年6月、李世民は、長安の北門である玄武門で、宮廷に参内する途中の李建成と李元吉を急襲し、みずから弓矢で射殺した (玄武門の変)。李世民は、自分の甥にあたる李建成の5人の男子を処刑した。その反面、李建成の側近であった魏徴(ぎちょう。580年-643年)を諫言(かんげん)役の諫議大夫に取り立てるなど、寛大で太っ腹な面も見せた。
 626年8月、李淵は李世民に譲位した。
 皇帝となった李世民(以下、太宗)は、皇后に、鮮卑系の重臣である長孫無忌(ちょうそんむき)の妹を迎えた。また、突厥をはじめ周辺の異民族を制圧して、諸部族の首長(しゅちょう)たちから「天可汗」(てんかかん)という君主号を贈られた。太宗は、中華帝国の皇帝号と、万里の長城の向こう側の「塞外(さいがい)」の天可汗号を一身に兼ね備えた。唐は「蕃漢(ばんかん)」の両社会を包容する人的同君連合的な世界帝国となった。
 当時の中国の貴族社会において、太宗の李氏の家柄の格付けは最上ではなかった。太宗は貴族の家格のランキングを改定して『貞観氏族志』を作らせ、唐王朝の官爵の高下によって格づけをしなおさせた。
 太宗は、実の兄弟を殺して父から皇帝の位を奪う(形のうえでは譲位)、という、隋の煬帝と同じようなことをした。太宗は、自分は煬帝とは違う有徳の君主である、という姿勢をアピールする必要があった。太宗は、魏徴らの意見に耳を傾け、民を第一に思う名君という姿勢を見せた。名宰相とうたわれた房玄齢(ぼうげんれい)や杜如晦(とじょかい)、名将として名高い李靖(りせい)、李勣(りせき)なども太宗のもとで協力した。
 太宗の治世は「貞観の治(じょうがんのち)」(貞観はその年号)とたたえられ、後世の帝王の模範とされた。太宗と群臣との問答は、のちに『貞観政要』という書名で編集され、日本でも政治家の必読の書とされてきた。
 太宗は学問や文化にも理解を示し、史書や儒教の典籍の編纂を命じた。太宗は能書家でもあり、書聖とたたえられた王羲之(おうぎし)の熱烈なファンでもあった。太宗は、正史『晋書』王羲之伝に自ら注を書いた。また、王羲之の子孫にあたる僧侶・智永が持っていた王羲之の『蘭亭序(らんていじょ)』の真筆を詐欺まがいのやりかたで入手し、自分の墓に納めるよう遺言した。
 記録では、太宗は史上まれに見る名君とされるが、その一部は、太宗に仕えた学者政治家の許敬宗(きょけいそう、592年−672年)の舞文曲筆である可能性がある。許敬宗は、リテラシー能力は高かったが人格は卑しい人物で、賄賂をもらって事実を曲げて記録したり、自分の都合で国史を改竄(かいざん)するなど、曲学阿世(きょくがくあせい)の人物だった。
 太宗の晩年は不幸だった。後継者に恵まれず、太宗の長男で太子の李承乾は奇行に走って破滅した。太宗は、最もかわいがった四男の李泰を皇太子にしたかったが、李泰が皇帝となったあとライバルの兄弟を皆殺しにすることを恐れた。結局、性格がおとなしい李治を皇太子とした。これが、後に則天武后にいいように操られた第三代皇帝・高宗である。
 若いころは軍事的天才だったが、晩年は不敗神話も色あせた。644年、太宗は10万余の大軍で高句麗(こうくり)に親征したが、激戦の末に敗北し、中国本土に撤退した。隋の煬帝も高句麗征服に失敗してそれが亡国の一因になったが、ここでも、太宗は煬帝の汚点をなぞったことになる。
 649年(貞観23年)に崩御した。

 

4 01/31 趙匡胤 目がさめたら皇帝になっていた
〇酔っ払って寝込み、目がさめたら皇帝になっていた、というのは、世界史でも趙匡胤(ちょう・きょういん)くらいでしょう。職業軍人から身を起こした趙匡胤は、乱世を統一し、北宋の初代皇帝・太祖(在位 960年-976年)となりました。中国史では、王朝の開祖は天下を取ったあと残酷な粛清を行うのが常ですが、彼は例外でした。中国人が今もなつかしく思う趙匡胤と北宋の時代を、わかりやすく解説します。

〇ポイント
・10世紀はアジア史の節目。「文」と「武」、「中華世界」と「周辺世界」のパワーバランスが激変した。
・日本と中国の歴史の分岐点となったのは10世紀。遣唐使は894年に廃止。
・日本は平安時代までは律令国家、鎌倉時代から武家政権。
・中国も唐代後半から五代十国時代まで武人政権が台頭。
・10世紀はアジアの激動の時代。中国は唐が滅亡(907年)。東北アジアでは契丹(遼。916年-1125年)の台頭と渤海国の滅亡(926年)。朝鮮半島では高麗の建国(918年)と新羅の滅亡(935年)。日本は承平天慶の乱(935年から941年)。
・中国は北宋(960年-1127年)の建国により「文」に戻り、文化が栄えたが、文弱な国となり「北族」の圧迫を受けるようになった。
・趙匡胤は「功」と「徳」を兼ね備えた数少ない皇帝だった。また、暴力装置、権威装置の暴走を防ぐ安全装置の充実にも成功した。皮肉にも、そのことが宋王朝を対外的には弱い王朝にしてしまった。



趙匡胤(ちょう・きょういん。927年―976年)
 宋(そう)の初代皇帝(在位960年−976年)。廟号は太祖なので「宋の太祖」とも呼ばれる。中国史上「宋」という名の政権や王朝は複数ある。趙匡胤が建国した宋は「趙宋」とか「北宋」と呼ばれる。

 五代の一つ、後唐(こうとう。923年-936年)の禁軍の武将であった趙弘殷(こういん)の次男として洛陽(らくよう)で生まれた。後漢(こうかん。947年-950年。光武帝・劉秀が建国した後漢=「ごかん」とは別の王朝)の時代に、有力武将の郭威(かくい。904年-954年)の軍に身を投じ、武人として頭角を現した。
 後漢の第二代皇帝・隠帝(劉承祐=りゅう・しょうゆう。在位948年-951年)は、郭威を脅威に思って排除しようとし、郭威は劉承祐に反逆した。隠帝は、郭威の息子と一族を皆殺しにしたが、自分も乱の中で殺された。
 郭威は、後周(951年-960年)の初代皇帝・太祖となった(951年-954年)。息子が殺されていたため、亡妻の甥の柴栄(さい・えい。921年-959年)を養子にした。郭威の死後、柴栄は第二代皇帝となった(世宗。せいそう。在位954年-959年)。世宗は、五代十国時代で随一の名君と評価されている。

 趙匡胤は、後周の禁軍の将校として武功をたて、総司令官である殿前都点検になった。世宗は天下統一を順調に進めたが、幽州(現在の北京一帯の地)に入って病気になり、都の開封に引き返し、数え39歳で病没した。
 世宗の死後、息子の柴宗訓(さい・そうくん)がわずか7歳で即位した(恭帝=きょうてい。在位959年-960年)。960年の正月、遼と北漢の連合軍が後周に攻め寄せた。幼帝の母親である皇太后は趙匡胤に迎撃を命じた。
 趙匡胤は軍隊を率いて出撃した。首都開封の東北にあった陳橋駅で、趙匡胤はいつものように深酒をして眠った。幼帝を奉戴することに不安を抱いた軍人たちは、趙匡胤の弟・趙匡義(ちょう・きょうぎ。北宋の第二代皇帝・太宗)とぐるになって、趙匡胤に皇帝の衣装である黄袍(こうほう)を着せ、彼を皇帝とした(陳橋の変)。趙匡胤は軍とともに開封に引き返し、恭帝から禅譲(ぜんじょう)を受けて、宋王朝を建てた。
 宋の太祖こと趙匡胤は、世宗の天下統一事業を推し進め、唐末五代の分裂状態をほぼ収束した。

 太祖は、地方の勢力をそいで中央の皇帝に集中する「強幹弱枝策」と、「文」をもって「武」をコントロールする文治主義を採用した。
 五代十国時代に短命な王朝が頻繁に交代した一因は、よく禁軍がクーデターを起こしたことであった。その教訓にかんがみ、太祖は、みずからつとめたことがある殿前都点検の職を廃止し、三軍を皇帝直属とした。また、唐の安禄山の反乱いらい、藩鎮(はんちん)すなわち地方軍閥が強大となり中央の皇帝の権力を弱めていたことを反省し、藩鎮が握っていた権限を中央に回収し、中央から派遣する文官に地方の行政を監視させた。
 財政では、税収を中央に集中した。また地方の廂軍(しょうぐん)を骨抜きにして、中央の禁軍を優先的に充実させた。また、宰相の権限を分散し、特定の臣下に権力が集中するのを防いだ。
 太祖は、文官の登用試験である科挙も改革し、最終試験は出題も面接も皇帝みずからが行うことにした(殿試。でんし)。宋の殿試は、井上靖の小説『敦煌(とんこう)』でも描かれている。宋では、科挙の合格者である高級官僚は、皇帝と擬似的な「師弟関係」となった。唐までの貴族出身官僚は姿を消し、宋では科挙官僚が政治の実務を担うようになった。

 太祖は、自分の死後、歴代皇帝が守るべき三箇条の秘密の遺訓を「太祖碑誓」(たいそひせい)として残した(石刻遺訓とも呼ぶ)。宮中の奥深くにある秘密の碑文は、歴代の皇帝だけが読むことができた。後に、北宋が金によって滅ぼされたとき、初めてその秘密の碑文の内容が明らかになった。その内容は、
「一、保全柴氏子孫。二、不殺士大夫。三、不加農田之賦」
 だったとも、
「一為柴氏子孫有罪不得加刑、縦犯謀逆、止于獄中賜尽、不得市曹行戮、亦不得連坐支属。一為不得殺士大夫、及上書言事人。一為子孫有渝此誓者、天必殛之」
 だったとも言われる。趣旨は「前王朝の皇帝だった柴氏の子孫を大切にしなさい。知識人や言論人を殺してはならない」、三番目の趣旨は「この二つを守りなさい」あるいは「農民の税金は安くしなさい」である。

 中国の歴代王朝の最初の皇帝は、前王朝の皇帝の一族を殺したり、建国の功臣を殺したりした。宋の太祖は例外で、前王朝の元皇帝を優遇し、また功臣の粛清も一切行わず、彼らを平和的に引退させた(中国では「杯酒釈兵権」杯酒もて兵権をとく、と言う)。
 太祖は、天下統一の完成を目前にした976年、50歳で急死した。深酒のための脳溢血説や、弟(太宗)により殺害されたという「千載不決の議」の噂もあるが、死因は今も不明である。


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