米軍占領下の反戦平和運動
―占領期治安情勢研究序説―
報告者 川 島 高 峰
もく じ
報告主旨2.治安報告書に見る反戦平和運動
資料出展
時代背景
「◎犯罪速報 勅令第三一一号違反者検挙」報告書3.資料に対する分析と見解
全学連の反戦平和運動
在日コリアンの動静
戦争協力について
逆コースの再考について
特高精神の復活、もしくは連続性について
共産党の「武装闘争」の評価
冷戦の責任について
報告主旨
本報告は朝鮮戦争勃発前後という最も治安関係が緊張した時期における反戦平和運動について、GQH参謀二部に提出された日本警察の文書を中心にその一側面を明らかにするものである。従って、分析より、むしろ資料紹介が主となる。また、資料の内容は@勅令三一一号違反関係、A全学連関係、B在日コリアン関係、Cアカハタ発禁・差押関係に大別されるが、本報告では@、Aを中心とする。
占領下の反戦平和運動については、その多くが余りよく知られていない。検閲を通じた言論統制については近年の研究から占領期の反戦平和に関する出版言論はその「反戦」の側面が「反米」と重なる限り、殆ど言論の自由の余地がなかったことが明らかとなっている。しかし、出版メディアによらない運動、集会、各種催しとなると、その代表である原爆反対運動にしても、それが社会一般に広がっていったのは独立講和以降との理解が普通であり、占領下の原爆運動については近年、ようやくその実態が明らかとなりつつある状況である。また、運動した側の記録はあるものの、これを取締った側の公文書というのは殆ど前例がなかった。
今回の報告に用いた資料から、朝鮮戦争前後においては、「反米」、「反戦」文書の撒布・掲示はおろか、それを所持したり、その種の言動を行っただけでも検挙・逮捕されていたことが明らかとなった。米軍占領下、戦争批判は事実上、不可能であり、この抑圧と抵抗の実態にこそ戦後平和運動の原像があったのである。
資料出典
GHQ/SCAP、アメリカ国立公文書館収蔵(国会図書館憲政資料室にて同複写資料の閲覧可)
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Arrests - Imperial Order 311 (Japanese Forms), August 1950 |
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Open Letter to General McArthur, June 1950-October 1950 |
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Disorders & Demonstration, February 1949-July 1950 |
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Akahata Communist Paper, June 1950-January 1951 |
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Anti-Occupation Activities, February 1951-December 1950 |
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Anti-Occupation Activities, January 1950-July 1950 |
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Anti-Occupation Activities (Korea), August 1950-September 1950 |
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Open Letters to General McArthur (Violation of Imperial Ordinance 311), June 1950- |
時代背景
1949年 | |
9月 8日 | 在日朝鮮人連盟(朝連)解散命令
GQH、朝連を暴力革命集団としてその解散を指令。これを受け日本政府は朝連等を強制的に解散させ、資産を没収。 |
10月19日 | 朝鮮学校閉鎖令
文部省は日本のカリキュラムに従わないということを理由に、在日子弟の民族教育の場を否定。 |
1950年 | |
5月 3日 | 共産党非難声明
マッカーサー、憲法記念の日の声明で共産党を侵略の手先として非難。 |
5月30日 | 五・三〇事件(人民大会事件)
皇居前にて人民決起大会デモ隊(民主民族戦線東京準備会主催、公安条例反対闘争一周年記念集会)、米軍人五人(治安関係要員)に暴行。 質問書事件
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6月 ?日 | 全学連書記局、パンフレット「軍事基地化の実態を見よ」加盟校に配布 |
6月 2日 | 警視庁、管内のデモを五日まで禁止。五日には当分禁止とする。 |
6月 6日 | 共産党追放指令
マッカーサー、共産党中央委員24名の公職追放を吉田宛書簡で指令。 |
6月16日 | 集会禁止令
全ての示威運動・行列、またそれを目的とした集会の禁止。二五日、「公共の脅威」、「占領目的違反」を除き緩和 |
6月25日 | 朝鮮戦争勃発 |
6月28日 | 祖国防衛中央委員会発足
共産党民族対策部中央会議(日共朝鮮人部会)の決定で設立。非合法組織として「祖国防衛隊」(祖防隊)を編成し日本革命の武力闘争路線の中核となる他方、合法組織として「在日朝鮮統一民主戦線」(民戦)を組織。 |
7月13日 | 国家地方警察、全学連本部並びに全国各支部約50ヶ所を一斉捜査。 |
7月18日 | アカハタ発禁
マッカーサー、吉田宛書簡にて共産党機関紙並びにその関連各紙の無期限発行停止処分を指令。 |
7月24日 | レッドパージ始まる
報道各機関の経営者に対し、共産党員、並びにその同調者を解雇するよう勧告 |
当時の主たる検挙対象は、全学連、共産党、在日コリアンであった。このうち共産党は非合法化され、在日コリアンも最大の民族団体である在日本朝鮮人連盟が強制解散命令を受けていた。なお、こうした平和運動の主体以外に当時の独立・講和をめぐる言論主体を考慮に入れなければならない。この言論主体が検挙対象とされなかった(既に事前から事後検閲に移行していたとは言え、相当の言論抑圧があったと「憶測」するが....)他方で、これらの共産主義系の諸団体の活動が徹底的に検挙されたが、 その治安行政の相違は以下の理由によると考える。
治安報告書は内容的には検挙対称ごとに分類し得るが、最も件数の多いのが「勅令三一一号違反」との文言を中心に表題とされた(タイトルは微妙に異なり不統一)国家地方警察刑事部捜査課による報告書である。このタイトルの報告書にはあらゆる検挙主体が複数もしくは多数含まれ、同報告書は五・三〇事件後から散見し、朝鮮戦争勃発後、急増し、六月以降八月までの間で約五〇本以上を確認することが出来る。
「勅令第三一一号」 とは「聯合国占領軍の占領目的に有害な行為に対する処罰等に関する勅令」のことであり、反占領軍・反米行為を取り締まるために一九四六年六月二一日公布され、七月一五より施行された。その主たる目的は当初、戦犯逮捕の遂行にあった。
日本国憲法施行後、勅令は「政令」と改称することに決められていた(政令第14号)が、日本政府、占領軍当局の双方の公式文書において、「政令第311号」は依然「勅令」と表記され続けた。これは治安官僚の行政の正統性に対する自負がどこにあったのかを如実にしめすものではないだろうか。
占領期の反戦平和運動は、反占領軍行為として天皇の名の下に取り締まられ、占領軍軍事法廷で裁かれたのである。なお、同勅令は戦争勃発後の10月三一日に占領目的阻害行為処罰令(政令325号)として「改正」され、同政令は翌日、施行された。刑事裁判権について日本側と占領軍側による二重裁判の混乱を避けるため、軍裁にかけられた場合、日本側の裁判は「取り消すことができる」とされたが、その運用の実際は不明である。しかし、判決内容については、一定の統一をはかるため連絡事務局等で調整していた(軍裁判決を基準としたよう)。以下にその事例をいくつか紹介する。
発:神楽坂警察署長、宛:原警備交通部長
事件経緯概要
犯罪事実 六月二十七日午前五時頃鶴見職安前にて「進駐軍労務と云うのは線丸(弾丸?)の積込である此れが何処で使はれるかは知っている通り朝鮮の仲間をやる為だ」のアジ演説を行い又連合国占領政策を誹謗したもの
措置 軍裁の予定
犯罪事実 七月一日午前六時より八時三十分迄中区市電停留所付近にて通行人に対し、*南鮮向武器輸送反対のアジビラを撒布したもの
措置 軍裁
7/14/10:10(緊急逮捕)、「犯罪事実 被疑者は七月十四日午前十時頃西宮市安井町小学校前街路に於いて創立二十八周年記念ポスターを所持していた。概ポスターの筆跡がマ元帥に対する質問書の筆跡と酷似していたもの」
7/24(通常逮捕)、「七月十四日午前八時三十分頃より約三十分間に亘り高松市中新町高松公共職業安定所前に集まつていたアプレ日雇労働者約二〇〇名に対し『国鉄労組が真に我等の味方であるならば東海道線を走る軍用列車を停めるべきだ』云々の反占領軍的宣伝を行った。」→逮捕
7/14(現行犯逮捕)、「七月十四日午后五時頃仙台機関区庫内夫詰所に反米ビラを貼付したものを現行犯逮捕した。尚被疑者は平事件の際仙台駅に於て警察官の応援を妨害し第一審で懲役五年の判決があつたが目下控訴している。尚同人は保釈出所中」→「軍事裁判 七月三十日 重労働十年 罰金五千ドルの判決があった」
7/22(通常逮捕、渋谷暑)、「七月二十二日渋谷区大和町玉川電鉄ガード下に於て『呼訴文』(鮮語)と題する反占領軍的文書を配布したものであるが軍事裁判所のオサルバン少佐の逮捕による」
その他、「吹田市役所裏に於いて市役所は進駐軍の命令で軍籍調査を行つていると題するアジビラを頒布」(7/17)、「町内の電柱に戦争反対原爆中止等のビラを貼付したもの」(7/15)、「東京兵機大隊六一〇部隊に於て人夫約三〇人に対し会談的に反米アジをなしたるもの」(7/14)等々と逮捕の「犯罪」事例は多数であった。
八月二二日付「『犯罪』即報」によると、五・三○事件以来、八十日の間に五四六名に及ぶ検挙者があり、その内訳は、在日コリアン一九五名、共産党員一八〇名、労組員一一二名、自由労働者二八名、学生三一名であった。
「勅令三一一号」は未成年の学生すらをも容赦なく検挙した。ある学生は逃亡を試み、またある女学生は「自首」を余儀なくされた。しかし、全学連がこの時期、最も先鋭に活動した勢力の一つでもある。イールズ大学講演の粉砕運動をはじめ、五・三〇事件に際しては、果敢にもその非を訴え極東委員会事務所にデモを行った(立教大生四名が占領軍憲兵により逮捕)。
さらに一九五〇年六月、全学連書記局は「軍事基地化の実態を見よ!」というパンフレットを作成。全国の下部組織に送付、その掲示・撒布により一般への普及に努めた。同パンフレットはタス通信が伝えた日本の軍事産業の各種工場の生産物、量・そして米軍飛行場、軍港等の各種軍事施設を、簡略な日本地図によりその所在を示して説明したものであった。当時の報道等を見ても、五・三〇事件や「質問書事件」の延長上に全学連一斉捜査が起きたように理解できるが、このビラが米軍の軍事機密を暴露するものとして、治安対策上、最重要視されたものと見られる。なお、パンフレットは送付先の支部で書き写し、印刷した模様でありその内容に統一性はないようである。
大学生の逮捕にはある種の慎重さが求められたようである。資料にもあるように、学生の逮捕者の多くが数日後に釈放されている。逮捕しながらすぐに釈放という事例が多数あるというのは刑事行政上、以上であり、中には緊急逮捕であるにもかかわらず即日釈放されている例もある。労働者と学生では扱いが違うのである。
これについて、“State of investigation after the wholesale investigation of the National Federation of Students Self-Government Association (Zengakuren)(as of July 18, 1950)”、(発信主体不明、おそらく、国家警察)では、勅令三一一号第二条が、言論・出版の自由に関する占領軍の覚書と一致し得ない点を指摘し、同覚書の言論自由の名の下に、単に反アメリカ的な文書を所持しているという事実だけでは三一一号違反と立件することは困難であり、立件のためには、そのような文書の回覧、郵送、配布といった行為が立証されなければならない、との判断から釈放を行ったと述べていた。
在日コリアンの歴史研究は相当の研究史の厚みを持つものの、朝鮮戦争勃発直後一、二週間ということになるとその動静を物語る公文書資料は少ない。ことに朝鮮総連は朝連の時代を批判し、当該期の在日韓・朝鮮人の歴史は今日の民族学校においても事実上タブーとなっている(在日の歴史がいきなり総連結成から始まる)。また、朝連解散命令後の動向を知りうる公文書資料というのは、これまで殆ど公開された例がない。従って、治安報告の個々の事案を位置付けるのは困難であるが、興味深い点をいくつか指摘したい。
まず、在日コリアンの逮捕については年齢に対する考慮は全くなく、一五歳の少年も容赦なく逮捕されていた。つまり、刑事裁判権はあっても日本国憲法による権利の保障は該当しないという扱いであった。また一般に勃発直後、在日コリアンの各種団体の戦争観は以下のようなものであった。
戦争協力について
朝鮮戦争に対する日本の戦争協力の特徴の一つは、日本国内における戦争批判を日本警察が徹底的に抑圧したという点に求められる。これと極めて対称的な事象が、勃発後、まもなく、大日本印刷が韓国軍と韓国民衆の士気を鼓舞するためビラ印刷を行っていたという事実である。この言論抑圧による戦争責任についてこれまでその位置付けが過小であったと思う。
逆コースの再考について
最も狭義には、そして一般的にはレッドパージの開始をもって逆コースの始まりとされている。学説としては一九四六年説に始まり多様である。しかし、少なくとも、本史料を見た限り、朝鮮戦争勃発は抑圧強化の一契機に過ぎない。逆コースの時期設定には以下の観点が必要との観点に至る。?占領政策の「逆コース化」、?「逆コース」への抵抗運動、?抵抗運動に対する取締り強化。つまり、逆コースを行った側、抵抗した側、取締った側の3点から捉えなおすことが必要となる。
逆コースとは、「占領軍並びに日本官憲が民主化・自由化に逆行する政策の実行に際し、民間の強力な抵抗運動を排除してでも、その逆行する政策を推進しようとすること」であり、単に占領政策の中における起源を特定することにより定義し得るものではない。
特高精神の復活、もしくは連続性について
「反戦」、「反米」が取締りの対象とされたが、これはかつて戦中の特高月報で、しばしば見られた「反戦反軍不穏言動取締」といった表記と同様のものである。「反米」、「反戦」文書は撒布や掲示はもちろんのこと、単に所持したり、その種の言動を行っただけで「逮捕」され、朝鮮戦争下の日本では、戦争を批判することは、事実上、不可能であった。反占領軍行為を取締る法的根拠「勅令第三一一号」は、憲法公布後、「政令三一一号」となった(政令14号)。しかし、日本の警察文書には「勅令」として表記され続け、「政令」の表記は極めて稀であった。このことは、治安行政ではたとえ制度が変わってもその正当性は「天皇陛下の官吏」としての自負にあったことを物語っている。
この治安体制は「勅令(政令)」により検挙・逮捕し、占領軍軍事法廷で裁くというきわめて歪んだ構造にあった。さらに軍事裁判で「重労働」と判決された場合、その「労働」の内容が問われる。当時、「沖縄送り」と消された「重労働」がもし、米軍並びにその関連施設等における労働を意味していたとすれば、逮捕者は反戦活動により逮捕され、戦争協力のための重労働を強いられたことになる。このような刑罰は人権の侵害であるばかりでなく、人格の破戒であり、許し難い。
共産党の「武装闘争」の評価
51年2月、共産党は武力闘争方針を決定する。そもそも、当時の共産党において何を執行部とみなすかという問題もあるが、この武力闘争決定以前の段階において、既に状況は日本革命というよりは、抑圧への絶望的な抵抗運動とみた方がより実情に近い。取締りのための官憲抑圧機構は既に完備されており、それへの抵抗を「無謀」とみるか、そのような抑圧機構の方が余ほど「無謀」なのかは、多いに議論の余地がある。また、所謂「民対批判」にしても、治安当局から見ると「民対問題」とは、共産党と在日コリアンの格好の分断工作の対象だったのではないかとの視点も必要である。いずれにせよ治安当局側がどう見ていたのかという視点から再評価することが必要となるだろう。
冷戦の責任について
左右双方の対立の激化と抑圧の強化が、結局は反戦という名の下の国内冷戦を構造化し、ひいては国際冷戦の枠組みに加担することとなってしまった、という点について、冷戦崩壊後、冷戦期の日本の様々な社会関係の拘束から比較的自由な若い世代が、謙虚に検証し考えてゆく必要があるのではないだろうか。
非業の死を遂げられた金英達氏に追悼を捧げる
その死に応え得るものもないことを恥じて
2000.6.24 戦争勃発から五〇年の日を前に