《切抜きファイル2(1999.4-2000.3)から》

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やってみせ,言ってきかせて,させてみせ,ほめてやらねば,人は動かじ」 (山本五十六)

「経営者はラッキーな男でなければならない」(石坂泰三)

「個人は質素に,社会は豊かに」(土光敏夫の母)

[「個人は質素に,会社は豊かに」(三本の矢)
 「個人は豊かに,会社は質素に」(草の根)
 「個人は豊かに,而して社会豊かに」(21世紀)]

「20世紀・日本の経済人(64)」
『土光 敏夫』
『日本経済新聞』,2000年3月27日朝刊


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A new study indicates cabbies are working their brains so hard they become enlarged in the zone associated with navigation -- the rear hippocampus.
It seemed that the drivers' brains adapted to help them store a detailed mental map of the city, shrinking in one area to allow growth in another, according to the study, published Tuesday in the journal Proceedings of the National Academy of Sciences.
...
It seemed the expansion came at the expense of the front of the hippocampus, which was smaller than normal. Scientists do not know exactly what that part of the brain does.
"This is very interesting because we now see there can be structural changes in healthy human brains," said the study's lead author, Dr. Eleanor Maguire, a neurologist at University College. ...

By The Associated Press
"Study Indicates London Taxi Drivers' Brains Are Larger in One Part"
New York Times, March 15, 2000


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The general notion that much of what humans do today evolved in the Pleistocene has seeped into popular culture, and some findings have achieved the status of sound bites: "Men are polygamous, women monogamous," for example, or "Women rank wealth and status higher in selecting a mate; men put a higher priority on reproductive potential."
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The scientists whose work is reflected in such statements, albeit in oversimplified form, are not just trying to attract public attention. They are trying to reshape psychology, placing at its center the question of how the mind was "designed" by evolution millions of years ago to solve specific problems faced by human ancestors in an environment very different from the modern world.
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For example, the researchers dispute the view that the human mind is a "general purpose computer" that is programmed by parents, schools and other cultural influences only after birth. They see the mind as preprogrammed, made up of specialized mechanisms -- "modules" or "organs"-- that predispose all human beings to think and act in certain ways, especially when it comes to basic endeavors like selecting a mate, fighting off sexual competitors, or deciding what is safe to eat.
The genes for these complex mental mechanisms, the argument goes, were passed on through the generations because they adaptive, enhancing survival or reproductive success, and eventually, they spread widely and became standard equipment.
But in the year 2000, such mechanisms may or may not be adaptive, and may or may not represent aspects of behavior that society wants to encourage.
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Erica GOODE
"Human Nature: Born or Made?"
New York Times, March 14, 2000


「おおよそ,君子と君子とは,道を同じゅうするをもって朋を為し,小人と小 人とは,利を同じゅうするをもって朋を為す.これ自然の利なり. (p.184)」(欧陽脩『朋党論』)

「[朱子よ,そなたは]よく書物を読んでいるようだし,道理も一応は心得てい るようだ.しかし,真の道はそのようなものではあるまい.学問とは,日用の 間,面前の事について工夫をこらせば足りるもので,玄妙な理窟をもてあそぶ のは無用のことだ.(p.244)」(李とう)

人生,古より誰か死なからん
 丹心を留取して,汗青を照らさん
(p.292)」(文天祥「零丁洋を過ぐるの詩」)

後藤基巳・駒田信二・常石茂・他
『新十八史略:人の巻』
河出書房新社,1973年



約五十人の協力を得て,コンピューターグラフィックス(CG)で作成した目と 口の動きが微妙に違う様々な笑い顔を見せたところ,大半が,口元が真っ先に 緩む動作を示す表情について自然にこぼれてくる「快い笑い」と受け止めた. 口よりも先に目元の動きがあった場合,「バカにしたような不快な笑い」と感 じ,目と口がほぼ同時に動く笑い顔を「社交的なもの」と回答した.相手の笑 いの意味を識別するカギは,目と口を動かすタイミングにあった
一方,笑いの種類によって腹部の筋肉の動きに違いがあることも分かった. 「快い笑い」だと,顔の筋肉から約〇・二秒遅れで腹部の筋肉が動くが,「つ くり笑い」では約〇・七秒かかる.意識的な笑いかどうかが,反応時間の差に つながっているらしい

「科学の目で心の機微うがつ」(『私たち』第161話)
(NTTコミュニケーション科学基礎研究所主席研究員・小山謙二氏の 研究成果)
『日本経済新聞』2000年3月15日夕刊


この日本の不法行為法学の主流は,一方において,法学を社会に無関心な閉鎖 空間に閉じこめて難解なものにし,他方において,明治期に穂積・富井・梅が 達成していた法のグローバルな開国状態を,再び鎖国状態に戻したものといえ よう.(181頁)


法学では,漢字を数語つらねた難解そうな法学専門の用語が尊重される.そう いう語句を数多く知っていて,教室であてられれば手短に即答できるのが,優 秀な学生とされる.実際の社会で法律問題と取り組むのに役に立つのは,即答 可能な知識ばかりではないのに,そういうことが高く評価されるのである. (185頁)


難解語の技法は,全体的な知識をバラバラにして,その個々を丸暗記に適した 適当な長さの定型的知識に仕立て上げ,漢字羅列の名称をつける.「違法性阻 却事由」,「開発危険の抗弁」などがそれであろう.難解語の技法は,それを 尊重する人々にはいくつかの貴重な効用がある.
一番目に,一般市民に,法律・法学は難しいものだとの印象を刻み,法律家 (法学者を含む)の権威を確立するのに役立つ
二番目に,法学の営みは,定型的知識を与える者と与えられる者との関係にな り,与える側が絶対的権威をもち,与えられる側は忠実に暗唱することによっ て地位の保障が得られる
三番目に,「違法性阻却事由」というふうに争点の定型が定められ,法学はそ ういう限られた数の争点だけを対象にしていればよいというコンセンサスが成 立する.新規の争点を開拓する努力は大変だが,既成の争点の範囲内での耕作 なら,少ない労力で多くの論文を生産でき,それだけ法学は活況を呈するので, 学者には特に有用である
四番目に,学習成績を評価する試験の出題を,既成の争点から容易に選ぶこと ができる.争点ごとに通説,多数説,少数説などが明瞭になっているので,試 験のマニュアル化が実現し,評価する側の出題と採点にも,評価される側の学 習と解答にも都合がよい.
こうしてみると優れた効用ばかりのようだが,そうするうちに,全体と個々の 定型的知識との関連が見失われ,閉鎖空間の中で既成の争点について精緻な解 釈を追求するのが法学,ということになる.(186-187頁)


自然科学は,自然現象を観察し,そうして得られた知識の体系的な説明づけを する,ということなのだろう.それなら,法学は,社会において人間が意思を もって行動している現象の法的側面を観察し,そうして得た知識の体系的な説 明づけをするものでないのだろうか.現象に関心を持たず,全体の体系など考 えず,バラバラのまま個々の条文ごとに解釈し,そういう「解釈者の価値判断 の正当化」が法解釈における「理論」だとしたら,糸の切れた凧のように,人 間不在の収拾のつかない展開をすることになる法学は一体,誰のためのもの なのか,もっぱら法学者のためのものだろうか,と私は推量したのである. (188頁)

杉本泰治
『日本のPL法を考える:市民と科学技術の目で見た製造物責任法』 地人書館, 2000


マーシャル・サーリンズは,互酬性にはつぎの三種類があるとした.「非特定 的互酬性」とは,長いつきあいの間には,貸借はゼロになるだろうという暗黙 の(あるいは,無意識の)期待・了解のもとに,いつお返しされるか,どんな 品を返すかについて考慮せずに,物のやり取りが行われることである.これは, 近親者間で行われる.「均衡的互酬性」とは,お返しの時期,返される物(対 価)について,明確な取り決め,あるいは了解をもって,物のやり取りが行わ れることで,遠い親戚や近くの他人の間で行われる.第三の「負の互酬性」は, 騙し[あっ]たり,強奪し[あっ]たりして,他人[と]物を取[りあう]ことである.(75頁)


アフリカの農耕民は,森林に住む狩猟採集民ピグミーから肉や蜂蜜をもらった り,畑の労働奉仕を受けるかわりに,キャッサバ,バナナなどの栽培食物を与 える.寺嶋秀明によると,農耕民とピグミーの間では,交換相手のグループは 決まっており,この特定のパートナーシップは世襲されている.このことが欺 瞞を防いでいるのだろう.コリン・ターンブルによると,農耕民は自分たちの 方が一方的に利益を得ていると思い込んでおり,一方ピグミー側もまた自分た ちが得をしていると思って相手を小馬鹿にする.これは,お互いに自己にとっ て過剰な資源を放出し,不足している資源を得ているからである.(100-101 頁)


さてこれまで述べたのはインセストの個体レベルの回避であった.どうして, 回避が多くの社会で「社会的な禁止」であるタブーになったのであろうか?
もともと,あまり起こりそうにないことを起こってはいけないことに変えたの はなぜか? それは,人類家族が姻族との連合を発達させる必要に迫られたか らであろう.(120頁)


DNAの塩基配列を調べた最新の人類史の再構成によると,ホモ・サピエンス は,十万年前,アフリカを出て,アジア−ヨーロッパのプレ・サピエンスを皆 殺しにしたことになっている.つまり,われわれは,皆殺しに従事した集団の 子孫である.(162頁)


ラットは味と病気,あるいは光・音とショックは連合させる(学習する)が, 光+音と病気,味とショックとは連合させることはできない.自然環境では, 光+音は病気と関連することはないし,味とショックが関連することもないか らである.つまり,学習は適応的意義のないときには,起こらないようになっ ていたわけである.(170頁)


動物が情報を獲得する手段は三つある.一つは,「遺伝的伝達」である.…第 二に,「個別的学習」がある.…第三に文化的伝達がある.
…すばやい反応が必要なときには,遺伝情報の利用が適当である.…遺伝的伝 達は,長期的に変わらない環境条件に対応したシステムである
これと逆に,個別的学習は,短期的に変化するような環境条件に対応できる
文化的伝達は,これら両極端の間,つまり中期的に変化するような環境条件に 対応する.少なくとも何世代にもわたって変化しないような環境条件に関する 情報は,社会の知識として蓄えられ,社会の他のメンバーから別のメンバーに 与えられれば都合がよい.
ハンス・クマーによれば,こういった情報の伝達法にはつぎのような利点があ る.
(1) どの個体も発明・発見の才があるとは限らない.また,メンバーはそれぞ れ異なったタイプの学習に才能を示すかもしれない.文化的伝達は,個体の達 成を血縁集団の中でプールすることができる
(2)毒草や毒蛇など,環境に対し直接実験するのが危険な場合がある.そんな とき,文化的伝達は情報獲得の安全な手段である.「代理経験」といってもよ い.
(3)集団のどのメンバーもが直接経験することは必ずしも可能ではない,たい へんまれだが重要な事件がある.(172-174頁)


ダッサーは,[母子関係と]同様な実験で,カニクイザルが兄弟姉妹関係も理解 していることを示した.言語がなければ概念もないと考える常識は,完全に覆 されたわけである.(256頁)


ニコラス・ハンフリーは,脳の中に構築される像が,限りなく実在に近く洗練 されていくことを,脳の進歩だと考えた.彼は,意識の機能を明確にした最初 の人である.彼は意識を「内なる目」(イナー・アイ)と呼んだ.それは,自 らの脳の状態を,心の意識的状態として理解できるようにする.意識は,感情, 感覚,願望を検査し,記憶データを取り出し,意志決定に参画する.意識とは, 私たちが自らをどのようなものとして思い描いているか,そのうちなる像,つ まり自己認識のことである.(260頁)


狩猟採集という生活様式さえも,必ずしも持続可能ではないことは,ポリネシ アの多くの島々で環境破壊の結果人々の生活が消えていったことからもわかる. マレーシアの熱帯林の狩猟採集民セマンは,資源を取り尽くさず一部を残して 次の収穫のために備えるといった環境保全の思想を持っていないし,規模は小 さいとはいえ,環境に悪影響を与えつつあるという.(297頁)

西田 利貞
『人間性はどこから来たか:サル学からのアプローチ』
京都大学学術出版会, 1999年


理想の条件の到来を待っていたらバルザックは一篇の傑作も書くことができな かっただろう.ドイツの哲学者ニーチェの言うように,人は足に鎖をつけて踊 るのである

木原武一
『名作はなぜ生まれたか』


Everybody knows what a good mother is.
She is a lot like apple pie: reassuringly firm on the outside, but soft, sweet, warm and bland within.

American Saying
Cited in Natalie ANGIER, "Scientist at Work: Sarah Blaffer Hrdy, Primate Expert Explores Motherhood's Brutal Side"
New York Times, February 8, 2000


社会生物学」を批判する人々は,淘汰思考による行動の説明は,不適切な 「決定論」であると論じてきた.このような批判は,哲学的にナイーブである. 「決定論」的であることを本当に非難するのならば,その攻撃は,行動に関す るすべての科学的探究に向けられねばならない.生物学者も社会学者も,研究 対象としている現象には原因があり,その原因を知ることができると確信して いる.…われわれの科学が進むにつれて,それの持つ深い意味合いが気になっ てくる.たとえば,われわれの知識がすすみ,その予測力が増してきても,そ れでもわれわれは自由意志や個人の責任というものを信じつづけられるだろう か? …進化生物学者を決定論者だと非難する人々は,普通,行動の原因を社 会的,経済的要因に帰する.皮肉なことに,これらの要因は,まさに進化生物 学者が至近要因としてもっともよく取り上げるものなのだ.残念なことに,批 判者たちは,彼ら自身が好む理論が,因果関係を説明しながらなぜ決定論を免 れることができるのかについて,何も説明していない.(pp.29-30)

意見の違いのもっとも重要なものは,発達における「氏か育ちか」の相対的な 重要性にあるのではない(これは,学問の進歩をとてつもなく妨げた,無意味 な問題設定である.ヒトの生存にとって,ヘモグロビンと空気とどっちがより 重要かと言っているようなものだ).(p.31)

われわれの生理や心理は,明らかに目的をもっているように見えるが,その究 極的目標は,長寿でも,快楽でも,自己実現でも,健康でも,富でも,心の平 安でもない.それは,適応度である.われわれが食欲や野心や知能や嫌悪感を 持っているのは,それらが歴史的に適応度に貢献してきたからである.われわ れが自己の利益を認識するのは,適応度の増減の期待値の大まかな指標として である.(p.33)

第二章:血縁者に対する殺人

たとえば,最近の論文の中で,シカゴ大学法学部犯罪学研究所所長のフランク リン・ジムリングは,次のように述べている(…).

午前三時のセントラルパークの方が,自分の家の寝室よりも安全だというのは, 犯罪学で言い古されたことだ.この陳腐な話は,膨大な研究データによって支 持されている(…). ジムリングらがここで言及していないのは,この「陳腐な話」が,頻度を率と 混同した全くのナンセンスだということだ.午前三時に二億人のアメリカ人は 自分の家の寝室におり,セントラルパークにいる人などほんの一握りだ.セン トラルパークで一世紀に一回の殺人があったところで,寝室の方がずっと安全 な場所である.(p.51)


その結論とは,殺人に至るような争いでは,血縁者は共通の利益を見出す傾向 があるので,平均すると,加害者と被害者との関係よりも,共犯者どうしの方 が血縁度が高い,というものである.(p.71)

第三章:嬰児殺し

実際,当てはめられている理由付けや思想は場所によって大いに異なるものの, 多くの社会が奇形児や病弱な赤ん坊を,「迷信的に」殺してしまう.これから 見ていくように,どういうわけか,健康な赤ん坊を「迷信的に」殺してしまう ような社会はないし,そうするときには,自分自身の赤ん坊ではなくて,他人 の赤ん坊を殺す.(p.95)


そこで,一般的にいうと,子殺しが起こって認知されている状況は,子殺しを することによって行為者の適応度が上昇する可能性の高い状況と,驚くほどよ く一致している.(p.108)

第4章:親による現代の子殺し

社会科学者たちはこのシナリオを逆立ちさせてしまった.義理の関係がむずか しいのは,彼らがそうだと認める限りにおいて,「義理の両親は残酷だという 神話」,および子どもが持つ恐怖感がそうさせているというのである.しかし, 残酷な義理の親というのが神話であるのならば,なぜ,義理の親は,これほど 多くの文化において,とくにそのような中傷を受けるのかと問わねばならない だろう.残酷な義理の親というのが神話に過ぎないと考える人々の多くは,こ の疑問をまったく無視するか,中傷する側が何を「守ろうとしている」のかに 訴えることによって,精神医学的に説明しようとする.この,まったく奇妙で 直感に反する解釈が,なぜ広く認められるところとなっているのかは,別の大 きな書物で扱うべき話題である.ここでは,その答えは,証拠よりもイデオロ ギーにあると指摘するだけで十分だろう.(p.146)

第5章:親殺し

親と子の対立の論理
…いま,あなたと兄弟とが,まったく平等な子育てをする母親に育てられ,二 人はまったく同一の「適応価」(将来の繁殖の期待値)を持っているとしよう. さらに,母親が二つの食物を家にもって帰り,あなたは(兄弟も同様だが) それを食べることによって,自分の現在の適応価を上昇させることができると しよう.さて,ここで大事な仮定を置こう.あなたが親の資源を消費すること によって得るものは,だんだんに頭打ちになる(…).そこで,一つ目の食物 を食べることによって,あなたの現在の適応価は4単位上昇するが,二つ目を 食べても,さらに三単位しか上昇しないとしよう.あなたの兄弟も,食物を利 用することでは同様な能力を備えている.では,誰がそれらを食べるべきだろ うか?
もしも母親がそれを決めるならば,食物は同等に分けられるだろう.あなたと 兄弟とが一つずつそれを食べるとすると,母親にとって子どもたちの適応価は 八単位上昇するが,どちらか一方が独り占めしてしまえば,七単位しか上昇し ないからだ.しかし,あなた自身の観点は,少し違ったものに進化しているは ずだ.あなたの兄弟もあなたの遺伝子の複製者ではあるが,あなた自身ほどに 効率のよい者ではない.あなた自身の適応度は,自分では,あなたの兄弟の適 応度の二倍に評価するはずだ.母親が平等に食物を分けたときのあなた自身の 包括適応度は六単位でしかないが,自分が全部食べてしまえば,それは七単位 になる.(p.159-160)


同様に,フロイトは,いとも簡単に「王」を「父親」の隠喩として使っている. 権力者は,自分に対する尊敬,服従,愛情を呼び起こさせるために家族関係の 隠喩を使うのだと気づかず,フロイトは,家臣は自分自身の心理的必要性(罪 の意識)を満たすために象徴的な父親を造り上げるのだと考えた.(p.187)

親の隠喩は一般的に上から押し付けられたもので,それを強制される側からは 抵抗を受けたというのが正しいのだと考えている.(p.188)


フロイトは,親に対する子ども自身の近親相姦願望をことさらに強調したが, 少なくとも父/娘の関係においては,逆の近親相姦願望が存在してもおかしく はない.親子間の近親相姦のほとんどすべてが,父親・娘間のものであること は注目に値する(…).さらに,そのような場合,行動を先に起こしたのが父親 であることは明らかで,娘は強制されている(…).(p.193)


世代間の対立こそが実際の争点なのだと考えると,エディプスやその他の民話 は,まったく違った重要性を持つようになる.それらは操作の手段なのだ.神 話や民話は,心理的に重要なテーマを反映したり象徴化したりするために存続 しているばかりではない.それらは使われているのだ.自己利益を追求する個 人が口承伝説の媒体である.物語が記憶され,繰り返し語られるのであれば, それは,その社会の目的に訴えるところがあるはずである.民話が操作的に使 われていることは,親の利益のために使えることを「美徳」としてすすめてい るようなときには,とくに明らかだ.(p.196)

第六章:殺しの動機は口論と名誉

しかしながら,人々,特に暴力によって失うものがもっとも大きいような支配 階級に属する人々は,人類の歴史始まって以来つねに,彼らが住んでいる社会 における実際の暴力のレベルとは無関係に,このようなくらいイメージを抱い てきたようだ.たとえば,イングランドでは,少なくともこの七〇〇年間にわ たって殺人はほとんど連続的に減少してきており(…),現代のイギリス人が 殺人にあう確率は,十三世紀のイギリス人に比べて二十分の一にまで減ったに もかかわらず,この何世紀にもわたって人々は暴力が増えつづけているとさわ いでいる(…).


なぜ,男の心はこのように動くのだろうか? 地位,顔,名誉などという実態 のない社会的資源にこれほどの大きな価値を置き,それを追[求]するためには死 んでもかまわないなどと思う生き物が,なぜ存在するのだろうか? もしも, このような人間の性向が淘汰によって形成されたのであれば,答えは,以下の ようなものになるだろう.そのような社会的資源は,適応度という目的達成の ための手段なのである(または,過去においてそうであった)と.

ホモ・サピエンスは,明らかに,社会的地位の違いがつねに繁殖成功度に結び ついてきた生き物である.(pp.215-216)

第7章:殺しはなぜ男で女ではないのか?

マーガレット・ミードとニューギニア
よくみられるような暴力における性差も,文化が違えば反対になるという神話 は,有名な人類学者で,一般によく知られた著述家であるマーガレット・ミー ドに端を発する.…男と女の性質の差異などはまったく任意のものであり,い つでもひっくり返すことのできる文化的人工物であるということを,文字通り, 何百万という大学生に示したのだ.(p.245)

しかし,ミードの博士論文であり,彼女を有名にした著作において,彼女がサ モアの文化を自分の幻想によって誤解していたことが,デレク・フリーマン(…) の細かで鋭い分析によって白日の下にさらされ,ミードが一般に広めようと思っ ていたイデオロギーのために,彼女の民俗学的研究は深刻にゆがめられていた ことが明らかとなった.(p.246)

第8章:男どうしの対立の論理

アメリカ人の嫉妬に関するこれらの社会心理学的研究の中で,嫉妬の進化的分 析としてもっとも興味深いのは,コネチカット大学の博士論文として提出され た,マーク・ティーズマン(1975)の研究である.…男性は,自分のパートナー がライバルの男性と性的接触を持っている夢想に悩まされたが,女性は,おも に,自分のボーイフレンドがライバルの女性に振り向けている時間や金銭や注 意に心配が集中していたのである.このことは,もちろん,まさに進化論から 予測されるものであるが,この結果が他の集団でも当てはまるかどうか知りた いところである.(pp.292-293)

第9章:夫婦間の殺し

社会科学で優勢を占めているイデオロギーが,対立は悪で調和が善という前提 ──それは,倫理的態度としてはよいだろうが,社会を研究する基礎として適 切であるかどうかは疑わしい──と,良いものは自然で,悪いものは人工的と いう,一種の自然主義の誤謬とを結びつけたのだ.その結果,対立は,何らか の現代の人工的な悪(資本主義,家父長制など)の産物として説明し,高貴な 野蛮人というロマンチックな理想を維持せねばならず,その高貴さは,性的な 所有の観念も含めて,すべての対立的動機が存在しない状態ということになっ てしまったのだろう.(p.326)

第10章:殺しへの仕返しと復習

すべての社会において,殺すのはほとんど男性であるので,血讐と一族間の戦 争は,男性の血縁集団の結束がアイデンティティを決め,なわばりを統一する 基礎であるような社会で,とくにさかんにみられる.このような兄弟による利 益集団の発達と,血讐の制度化とは,その社会がどのような生計活動を行って いるかによって,ある程度予測することができる狩猟採集民は,しばしば, 出自を父系母系の両方からたどり,どちらに住むかのパターンも場合によるの で,なわばりを持った父系一族は発達しない.父系の親族の力を行使すること は容易でなく,一族間の戦争もまれである.父系親族は,焼き畑農耕民での方 が強く,牧畜民の間ではさらに強く,普遍的にみられるようだ.同じことは, 血讐についてもいえるだろう.もっと定住が進み,土地の所有が富の基礎とな り,封建的家臣の関係が血族関係にとって替わるようになると,中央集権が発 生し,一族で行っていた復讐の機能をもとって替わるようになるので,血讐は 再び減衰する.(p.364)


アメリカでもカナダでも,犯罪者を「甘やかしている」という主張や,死刑が 妥当かどうかなどの議論が新聞その他でつねにさかんに行われているにもかか わらず,逮捕された殺人者に対して実際にどのような刑が執行されているのか の統計を,だれも知らないというのは驚くべきことである.(p.398)

ウィルバンクス(1984)の,1980年のマイアミの殺人に関する研究によれば, 解決した殺人の大部分はまったく懲役刑にはなっておらず,ギルバートが受け たような刑[仮釈放の可能性のない長期刑]は,全体のたった八分の一ほどに過 ぎない.(pp.399-400)

第11章:殺人者の責任を問う

もしも,両親と感情移入の能力とが自己利益の追求に反するものであったなら ば,われわれは,倫理など何も持っていない反社会的存在に進化していただろ う.われわれに倫理感情があることは,自己利益を否定する態度を表している と見るのではなく,われわれが進化してきた過程での社会環境において,適応 度を高める役に立ったのだと考えてはじめて,われわれの倫理感情を理解でき るようになるだろう(…).(p.407)

たとえば,正直であるという評判は長期的な利益につながり,そう言う評判が あれば,好ましい社会的交換の相手と思われるかもしれない.良心とは,おそ らく,そのような自己利益の抑制を可能にさせるメカニズムとして進化してき たのだろう公共の利益に訴えることは,しばしばこのような自己利益の抑制 を標榜しており,そのためには道徳的な言葉が使われる.そのような訴えかけ の中には,誠実なものもあるが(…),欺瞞的なものもある(…).そこで有 効な手段の一つは,欺瞞的な訴えをあたかも誠実なものであるかのように見せ かけることだ.なんらかの公共の利益を自己利益よりも高くおいているように みせかけ,そのような道徳的な高みから,他人も同じようにするべきだと要求 するやり方である.…
社会契約を正しく行っていくには道徳が必要だということを考えると,人々が, 競争状況において自分に有利にことを運ぶために,道徳それ自体を武器として 使うことを発明したとしても不思議はない.われわれは,対立状況で他人を味 方につけるために道徳的な攻撃を行い,つねに,自分がやりたいことは「社会 の利益」であるというように描写する.さらには,神様の思し召しだというこ とさえある.…人々がこの手の操作にどれほどのりやすいかは,驚くべきこと であるが,押し付けられたイデオロギーを受け入れることは,必ずしもまった くおろかなこととはいえない.権力者の世界観をおうむ返しにすることには, 利益があるのだ.…
贖罪やら懺悔やら神の正義やらに関するおびただしい量のまわりくどくややこ しい議論は,本当は世俗的で実際的な事柄を,世俗から分離された,高度な権 威に帰属させようとする議論である.(pp.408-410)

罪を贖わせようとすることの究極の機能が抑止にあるのならば,誘惑の強い犯 罪に対するほど,非難をし罰しようとする欲求は強くなると考えられるかもし れない.親族どうしは利益を共有しているのが自然であり,普通は,親族を殺 そうとは思わないものだ.潜在的な殺人者は,自分と利益がまったく重ならな い相手を殺すことに対して,もっとも少なくしか良心の呵責を感じないだろう. そうだとすると,被害者と加害者との間の一連の関係の中で,両者の間で共通 する利益が減るほどに,罰しようとする度合いは増えると予測される.そして 実際,カナダにおいて刑を要求するときの心理は,まさにこのモデルに則して いるようである.ある男が,単独で誰かを殺した事件だけを取り上げ,どれほ ど厳しく罰せられるかの指標として,求刑が行われたすべての事件のうちで犯 人が懲役10年以上の求刑を受けた事件の割合を計算してみよう.われわれが 見いだしたのは,この割合は,両者の血縁関係が遠くなり,両者の間に共通す る利益が少なくなると考えられるほど高くなるということである. (pp.434-435)

まとめと結論

「社会的」対「生物的」という誤った二分法ほど誤解を招くものはない.社会 性は,生物的な世界の外では意味のないことなのだ.「決定論」という誤解は, さらに,人という動物に関する進化的視点は必然的に悲観的であるという,ま た別のよくある誤解を生んでいる.(それは,まるで,われわれの自然淘汰の 歴史に無知であれば,われわれがなぜか自由になれるとでもいうかのごとくで ある!)(p.472)

訳者あとがき

男性どうしの面子の張り合いや性的嫉妬は,日本においても最も大きな殺人動 機であった.一方,日本に固有の現象としては,二十歳代前半の男性の示す鋭 い殺人率のピーク(…)が,過去四十年の日本社会では潮が引くように消えて いってしまった.1950年代には若者による殺人率が高水準にあったものの, 1990年代の日本の殺人を特徴づけるのは,「きれる若者」ではなく むしろ「中 高年殺人」であることがはっきりとした.また日本の殺人は,先進国中例外的 に低水準であるにもかかわらず,嬰児殺しだけは格段に高いことも明らかになっ た.(p.510)

マーティン・デイリー&マーゴ・ウィルソン
『人が人を殺すとき:進化でその謎をとく』
長谷川眞理子・長谷川寿一(訳),新思索社,1999年



[A conversation between Alexander the Great and a pirate he had seized]
When the king asked him what he meant by infesting the sea, the pirate defiantly replied:
The same as you do when you infest the whole world;
but because I do it with a little ship I am called a robber,
and because you do it with a great fleet, you are an emperor
.

AUGUSTINE
City of God (Book Four)


Today, one of [Dr. Weinberg's] major battles is with postmodernist thinkers and philosophers of science who maintain that scientific theories reflect not objective reality but social negotiations among scientists. In its rawest form, this philosophy would say that the theories of the most persuasive or politically powerful scientists become accepted fact.
Dr. Weinberg wrote of one such book on the subject, "Constructing Quarks," by Dr. Andrew Pickering, that social negotiations in research are similar to the planning that mountain climbers might undertake together before tackling Mount Everest. But no one would think of writing a book called "Constructing Everest," Dr. Weinberg said; once they had seen the mountain peak, most people would accept that it, like the elementary particles that leave their traces in particle detectors, had been shown to exist and had not been "constructed" by social agreement.
In general, Dr. Weinberg said, he believes that "half-baked philosophy has sometimes gotten in the way of doing science."
And then there are his pronouncements on religion and deism, including his much-quoted aphorism, "The more the universe seems comprehensible, the more it also seems pointless."
But in the seldom-cited passages that follow, Dr. Weinberg professes belief in his own kind of conviction, the idea that the scientific effort to uncover a complete theory of the universe is one of the things that can in itself add dignity and meaning to human existence.
As for conventional religion, though, his views are uncompromising: it is not only silly but damaging to human civilization.
"The whole history of the last thousands of years has been a history of religious persecutions and wars, pogroms, jihads, crusades," he said. "I find it all very regrettable, to say the least."
Actually, Dr. Weinberg does occasionally entertain the possibility that there might be a God. While sitting in his study, with its striking view of Lake Austin, he imagined himself in the role of the biblical Abraham, whose faith God tested by commanding that he sacrifice his own son.
"Even if there is a God," Dr. Weinberg said, "how do you know that his moral judgments are the correct ones? Seems to me Abraham should have said, 'God, that's just not right.' "

James GLANZ
"(Scientist at Work) Steven WEINBERG: Physicist Ponders God, Truth and 'a Final Theory'"
New York Times, January 25, 2000



...It is well said that success has many fathers but failure is an orphan.

Antony WILLIS
"Report on the Experience of the United Kingdom in the Field of Alternative Means of Dispute Resolution"
(paper presented at the Council of Europe Seminar on ADR in Strasbourg in winter 1999)

…私は時々宿題を出す.すると,ときおり,学生がお互いに相談しあって,答 えを合わせあうことがある.…
そのようなとき,私は「君たちはクローニー・キャピタリズム CRONY CAPITALISM を実践しているのか」と叱る.クローニーとは,ギリシャ語の時を 意味する『chron』から派生した,長い間の仲間という意味である.クローニー・ キャピタリズムはしたがって仲良し資本主義,幼なじみ資本主義あるいは徒党 資本主義とでも訳すのであろうか.自分がたまたまある集団,派閥に属するが ゆえに,無原則にその集団,派閥のやり方に従う行動様式に立つ経済というこ とができよう.
クローニー・キャピタリズムのもう一つの特徴としてあげられるのは,ルール による意志決定メカニズムの代わりに,結果を見て,グループ(実力者)の意 向で意志決定が行われるという特徴である.したがって,特に他の市場参加者 にとっても,それを実践する本人たちにとっても,徒党資本主義における不透 明性が,合理的な経済計算を困難にする.

アジア通貨危機と関連して,クローニー・キャピタリズムが論議されるのは, 経済活動の成果が,血縁,縁故,学閥,地域閥など,その経済活動とは基本的 に無関係な関わり,グループに依拠して経済活動を行うことが,経済のインセ ンティヴ・メカニズムを損なってしまうことによる.

浜田宏一
「クローニー・キャピタリズム」
『学士会会報』No.826(2000-I)68-69頁



もし私の仕事に,何らかの時代的な意味が与えられるとするならば,それは 時 代に逆行した,反時代的な性格のゆえに,かえってその時代のもつ倒錯の姿を, 反映させたという点にあるのかも知れない

白川 静
「私の履歴書」
『日本経済新聞』1999年12月28日32頁


立法やその適用が社会のあり方や経済活動に影響を及ぼし,また社会のあり方 や経済合理性が法や制度にどう反映されているかを実証的にみる「法社会学」 や「法と経済学」が日本でもっと研究され,もっと教えられてよい.(pp.35-36)


…,現今の経済政策上の論議において,経済的論理をないがしろにして法律的 論理が横行しすぎているのではないか…(p.36)


…大蔵省は,消費税が所得分配への効果から望ましくないとする学者たちを無 視して,消費税に賛成してくれる学者グループを育成しようとしたように思わ れる.米国の有名大学で政治学の博士号を取得した新進学者が大蔵省にあいさ つに帰ったら,中堅幹部が出てきて「これから消費税のキャンペンをやります のでよろしく.」といわれたという.ある政策を行うとどういう効果があるか を事実の論理で明らかにするのではなく,本省の方針がそうなのだから,それ を正当化するための論理を駆使する学者を集めて応援団とする形である
同様に,郵貯と銀行とのなわ張りをどうするっかという郵貯論争でも,学者も 郵貯派と銀行派とに分かれるという具合である.今行われている為替介入を不 胎化すべきか否かという論争でも新たに日銀派,国金局派などという色わけが 生ずるのであろうか.
各省が自らの主張を正当化するのは当然としても,学者はその応援団となって 綱引きを行う以前に,自らの論理枠組みから事実の論理をつきつめた上で,あ る政策がどういう経済効果を及ぼすかをつきつめて見ることが必要である. (pp.36-37)

浜田宏一
「法的思考と経済的思考」
『書斎の窓』1999年12月号34-37頁


「市民があって弁護士がいる.その逆ではない.弁護士の自治や法律事務独占 は当然の権利ではなく,それが必要かどうかは,国民にとってメリットがある かないかによってのみ判断される.なのに,自治や独占を金科玉条にして,市 民の期待にこたえようとしない人が多過ぎます」
「在野法曹というが,市民に選ばれたわけじゃない.司法試験を通っただけで, 基本的人権を擁護し,社会正義を実現する存在になれますかね


弁護士は今,裁判所の前に店を構えて客を待つ,そんな職業観の中で生きて いる.市民から遠ざかり,裁判所の方を向いている」


「それでは食べていけない」と,よく反論される.
「そう言う人は弁護士にならなくていい.もうけたいとか公的な仕事はいやだ というなら『去れ』と言いたい.弁護士の生活レベルを維持するために市民が 犠牲になる必要はないのです

中坊公平
「市民の『家族医』たれ:中坊さん,改革へ熱い思い」
『讀賣新聞』1999年12月6日朝刊(弁護士64)


どんな工場にいっても「安全第一」の標語が掲げられていないところはない. しかし安全第一の言葉は,マンネリの代名詞のようなもので,どれだけ実効を 上げているか疑問である.というのも,第二がないからである

安全月間になるともちろん”安全第一”の号令が下る.製品のクレームが来る と,品質第一で頑張れと命令が下る.とにかく何でも”第一”の命令が好きな 社長は多い.
だが,”第二”がなく,”第一”ばかりあるということは,本当の第一がない, ということを表してはいないだろうか
何でも”第一”の社長は,「戦術レベル」の社長である.うちの会社の原状で は何が第一で,何が第二,とはっきり指示できる社長は,「戦略レベル」の社 長である.(p.145-146)


そこで昭和五十六年(一九八一)年十一月に,仙台─青森間の路線免許延長の 申請を提出した.しかし,青森県の同業者が反対運動をしたために,申請書類 は棚ざらしになってしまった.
道路運送法では,免許は輸送力の需給を考慮して付与する建前になっていた. だが運輸省には輸送力の需給をつかむ資料は一つもなかったから,担当者の恣 意的な判断に任されていたのが実態であった.一般的には,既存業者が反対す れば需要に比べ供給が多く,反対がなければ需要が多い,というおかしな考え 方で免許を与えたり,与えなかったりした.だから運輸省の役人は,「既存業 者が反対を取り下げればいつでも免許をおろしてやる」と,公言するありさま だった.
この発言は許せなかった.これでは運輸省など何のためにあるのかわからないで はないか
申請後四年経過した昭和六十(一九八五)年の十二月に,行政不服審査法に基 づき運輸大神に不作為の異議申し立てをした.なぜ四年も待ったかというと, 運輸省の場合,どんな申請事案でも三年くらいかかるのは当たり前だったから である.
運輸省のやっていることを運輸大臣に異議申し立てしたところでどんな答えが 出るか,結果は初めからわかっていた.もちろん違法ではないというのである. しかしこの手続を取らなければ訴訟が起こせないから,順序を踏んでやっただ けであった.

運輸省の資料によると,昭和六十(一九八五)年度の路線トラックの免許申請 件数は,百四十四件であった.それに対する措置は,免許件数九十,却下〇, 取り下げ七十八である.これは何を意味するか.運輸省には客観的に判断の結 果を説明するだけの資料がないから,却下は〇であり,取り下げが七十八なの である.免許件数と取り下げ件数の総和が申請件数と合わないのは,数年間放っ て置かれた申請が複数あるからだ.五年も六年も放っておいて,結局申請者に 取り下げさせるという無責任行政には,怒りを覚えずに入られない. (pp.161-162)


改めて昭和五十八(一九八三)年三月,宅急便の運賃を三サイズに分けて改定 する,新運賃表の認可を申請した.実施時期については六月一日としたが,こ れも異例のことだった.

そんな背景のもとに,昭和五十八(一九八三)年五月十七日の一般紙の朝刊に 一頁三段の大きな広告を出した.それは,これまでより二百円安いPサイズの 発売と,その実施時期を六月一日にするというものである
運輸省はヤマト運輸の申請を無視し,審査しようとはしなかった.そこで,五 月三十一日の朝刊に,同じ一頁三段の広告を出した.今度は,Pサイズの発売 は,運輸省がいまだに認可しないため,六月一日の開始予定を延期せざるを得 なくなりました,というものであった
これを見て運輸次官が激怒したと聞いている.…結局,運輸省は七月六日に認 可したのである.
運輸省に限らず一般に役人は,新聞紙上に活字となって載ることを極度に怖が る習性がある.だから新聞やラジオ,テレビを通じて行政の非を追求するのが, 極めて有効である.それには自分の主張をマスコミに正しく理解してもらう必 要がある.新聞広告を使ったのはそのためである.
世間では,とかくお上の言うことを,間違っていても無理だと思っていても仕 方がないと受け入れる傾向がある.民間のそういう態度が役人を間違った態度 に導いてしまうのである.民間も反省しなければいけないと私は思う.(pp.167-168)


日本で労働者の管理を基本的に規定しているのは,労働基準法である.これま で経営者として働いてきて疑問に思うのは,労働基準法は労働の長さのみを問 題にしていて,労働の質とか密度を問題にしていないということである. (p.175)


ところで組織が大きくなると,社員のやる気を阻害する者が社内にいることが 多い.注意しなければならない点である.それは往々にして直属の上司である ことが多い.とくに社歴の長いものが要注意である
こうした社員は,自分の経験をもとに仕事のやり方を部下に細かく指示したが る傾向がある一方で,会社の方針とか計画をなぜそうなのか説明することが苦 手だったりする.しかしそうなると,社内のコミュニケーションがそこで途切 れてしまうことが多い.(pp.190-191)


[人事考課の制度]
私の結論は,上司の目は頼りにならないということであった.ただ,社員にとっ てみれば,仕事をやってもやらなくても評価が同じでは納得しない.一生懸命 やった人とやらなかった人に差をつけなければ,公正さが疑われ,社内秩序が 維持できなくなるおそれもあるわけである.
そこで考えたのは,「下からの評価」と,「横からの評価」.下からの評価は 部下による評価,横からの評価とは同僚による評価である.そして評価項目は 実績ではない.”人柄”だ.…もちろん単独ではなく,他の制度と併用するの であるが,私は,人柄のよい社員はお客様に喜ばれるよい社員になると信じて いる.(p.270)


東京─北海道間の航空事業は,長らく既存の大手三社で輸送を分担していた. 旅客は多く,ドル箱路線といわれていた.三社は安定した高い運賃を享受して いたが,ある日,新規の競争相手が現れ,運賃が半値になる騒動が起こった.
しかし問題は,新規参入者が現れる前から起こっていたのだ.ただ単に,既存 三社が気がつかなかっただけなのである.どういうことかというと,実は,旅 行者は以前から運賃の高い北海道を敬遠して,安いグアム,韓国,香港などに 逃げていたのである.競争相手は同業三社同士ではなく,外国の航空会社であ り旅行社であったのだ.だからもっと早くから護送船団的な運賃設定を止めて, 適正な運賃競争をしていれば,旅客数もはるかに増えて経営も安定していたと 思う.(pp.277-278)


成功している有名な経営者は,「ねあか」の人が多い.(p.285)


あえて言わせてもらうと,金融機関のリストラについては,釈然としないもの がある.バブル時代の残滓を整理するために,何千億円という特別損失を計上 できたということは,本来,非常に儲かっていたということだと思う.預金に はゼロに等しい金利しか払わず,弱い企業への貸付金を強引に引き上げ,最終 的には公的資金を受け入れて存続を図った責任は重いものがある.利用者の不 満もはかりしれないであろう.
金融機関の経営者は,リストラをする前に自らの責任を明らかにすべきではな いだろうか.(p.293)

小倉昌男
『経営学』
日経BP出版,1999年


一九五六年の春,毛沢東が「百家争鳴・百家斉放」運動というのを呼びかけ, 学者や芸術家たちに自由な発想による,活発な活動を奨励した.

これは後で分かったことだが,「百家争鳴・百家斉放」運動は,実に巧妙に仕 掛けられた政治的な罠だった.人びとに,「百家争鳴・百家斉放」させること によって,中国共産党のイデオロギーや政策に批判的なのは誰か,民族主義者 は誰かをあぶり出そうというものだったのである.人々はこれを陰で「引蛇出 洞」,つまり,巣穴から蛇を引っ張り出すと言っていた.(p.131-132)


いよいよゾガーライを出発するとき,ダシさんが,
「モンゴルには助けてくれる親戚もいない.財布の底に入れておいて,困った ときに使いなさい」
と言って,帝政ロシア時代の細長い金貨をくれた.また親戚の一人は,
「モンゴルに行っても,ベッドに寝られないかもしれない.せめてイミナはベッ ドで寝かせてあげなさい」
と言って,折りたたみ式の簡易ベッドをくれた.モンゴルで売ればいい値にな るからといって,モーター付きの自転車や羽毛の毛布などをくれる親類もいた. 親類でもない知り合ったばかりの人まで,身に付ける飾り物や衣類などをプレ ゼントしてくれた.とにかく皆,親切だった.行きずりの人でも,困っている 人がいれば助けるというのはモンゴル人の伝統だが,それにしても,皆の親切 に涙がこぼれた.(pp.143-144)


モンゴルに来てから失望したことの一つに,突然,「チンギス汗」を称えては いけないということになってしまったことがある.一九六二年にチンギス汗生 誕八百年祭という催しがあり,最初,国をあげて祝う計画だったのが,突然, ソ連からの政治的圧力が加わって中止させられたのである.そしてそれを推進 しようとした政治指導者や著名な学者たちが,民族主義を鼓舞したとして批判 の矢面に立たされ,次つぎと公職から追放されたのである.
結局,多民族国家であるソ連にとっては,国を維持するために民族主義はタブー だった.それを許せば,ソ連国家自身が分裂してしまうという危惧を抱いてい た.モンゴルはソ連の庇護の下にあって,ソ連に抵抗できない立場にあったた めに,チンギス汗称賛は民族主義以外の何ものでもないという,ソ連の圧力に 屈したわけだが,それを聞いて民族の英雄であり,国の礎を築いたチンギス汗 誕生さえも記念することができないとは,なんと政治とは理不尽なものかと怒 りがこみあげてきた. …
チンギス汗の故郷でチンギス汗の功績さえ自由に語れない,政治とかイデオロ ギーとかいうものには,ほとほと愛想が尽きる思いだった.(p.176)

B.ツェベクマ
『星の草原に帰らん』
鯉渕信一(構成・翻訳),NHK出版,1999年



──[司法制度]改革に消極的な人たちは,訴訟社会になったら不幸だ,といい ます.
「訴訟社会が幸せでないというのはそうだが,訴訟もできない社会はもっと不 幸せだ.社会に存在する問題の数は同じで,訴訟の数が少ないことが問題が少 ないという意味ではない.弁護士を増やして訴訟が増えるのなら,今まで(司 法制度で)救っていない問題が多かったということだ.紛争をきっちり訴訟で 解決する社会の方がいい」
「司法は国民に対するサービス機能だという意識が全然ない.もっとユーザー である国民の利便を考えるべきだ.どこに行けばいいのか,いくらかかるのか, いつ終わるか,この三点がはっきりしないサービス業など存在しない.定員が 極端に少なくて業務独占し,しかも料金は公定で競争がない.これでは良いサー ビスなど期待できない.」

──法曹人口を増やすと質が低下するという議論もあります.
「完全に間違っている.人が増えて競争状態になれば必ず質は上がる

「司法:経済は問う(識者インタヴュー)」
オリックス社長 宮内 義彦氏
『日本経済新聞』1999年10月27日朝刊


しかしながら,人間の意識,精神,そして言語的に定式化された理論が創発す るにともない,生存闘争の類のことは根本的に変化しました.われわれは役に 立たない理論の除去を理論間の競争に委ねることができます.以前の時代にあっ ては,理論の担い手が除去されていました.いまやわれわれは,われわれの代 わりに,われわれの理論を死なせることができるのです.自然淘汰という生物 学的観点からしますと,精神と世界3の主要な機能は,意識的批判の適用を可 能にするとともに,理論の担い手を殺害することなく,理論の選択を可能にす るという点にあります.担い手を殺害することなく,合理的批判の方法を適用 することは,生物学的発展によって,つまりわれわれがわれわれの言語を案出 し,またそれによって世界3を案出したことによって可能となったのです.こ のようにして,自然淘汰は,そのもともとの暴力的な性格を克服し,超越しま した.(第一章:知識と実在の形成,p.58)

もっともよくテストされ,またもっともよく確証された自然科学の理論でも, 推測,成功した仮説にすぎないのであり,そしてそれらはいつでも推測あるい は仮説にとどまるべく定められているのです

科学とは真理の追求です.そしてわれわれの理論のいくつかは,実際に,真で あるかもしれません.しかし,それらが真であるとしても,われわれはそうで あるということを決して確実に知ることはできないでしょう.(第二章:知と 無知について,p.74)

ここからして,独断的思考に対する闘争が義務となります.またかぎりなく知 的に謙虚であることも義務となります.とりわけ,平明で,もったいぶること のない言葉を育てることが,義務,とくにあらゆる知識人の義務となります. (第二章:知と無知について,p.78)

科学崇拝という非難──したがって,独断主義,権威信仰,知の思い上がった 尊大さに対する非難──,実に多くの場合,この非難の犠牲者となっている 偉大な自然科学者よりも,[非難をしている]知識社会学や科学社会学の信奉者 の方にこそあてはまるという推測です.事実,自らを科学崇拝の批判者と見な している多くの人びとが,自然科学については残念なことにほとんど何も知っ てはいないのに,自然科学に対する独断的な,実際にはイデオロギー的な,そ して権威主義的な敵対者なのです.(第二章:知と無知について,pp.79-80)

あらゆる知識人には,まったく特殊な責任があります.知識人には,学問をす る特権と機会が与えられているのですから,仲間に対して(あるいは社会に対 して)自分の研究成果を,もっとも簡潔でもっとも明瞭に,かつ最も謙虚な形 で説明する責任があります.最も悪いこと──大罪──は,知識人が自分の仲 間に対して,大預言者気取りで立ちまわり,彼らを御神託の哲学で感化しよう とすることです.単純,かつ明瞭に述べられないのであれば,そのような者は, 沈黙して,言いたいことがわかりやすくなるまで仕事を重ねるべきです.(第 六章:大言壮語に抗して,p.144)

さきに(第一の点で)大罪と呼んだこと──半可通よりは少しは教養があると 思っている者の思い上がり──とは,美辞麗句を並べ立てることであり,われ われのもっていない知恵をもっていると僭称することです.その料理法は,逆 説的な響きのする無意味な表現で味付けした同語反復や些末事を述べ立てよ, というものなのです.ほかの料理法は,ほとんど理解できない誇張された表現 を書き,時おり些末なことを付けくわえよ,というものです.これは,たいへ ん読者の気に入るもので,読者はくすぐられて,かくも「深遠な」書物のなか に,すでに自分で考えていたことを発見するというわけなのです.(こんにち でも見られるように──王様の新しい衣服が流行をつくりだすのです!)(第 六章:大言壮語に抗して,p.149)


ハーバーマス氏の論文からの引用
わたくし[ポパー]の翻訳
社会的総体性は,それによって総括されているもの──この諸要素から社会的 総体性そのものが成り立っているのですが──を離れて,その上部に固有の生 を営んでいるものではありません. 社会は,社会的な諸関係から成立している.
社会的総体性はその個々の契機を通じて,みずからを生産し再生産しています. さまざまな関係は,なんらかの仕方で,社会を生み出す.
あの生活の全体がその諸要素の協働や敵対から分離されえないのと同様に, これらの諸関係のもとでは,協働と敵対が生じる.そして(すでに述べたよう に)社会はこれらの諸関係から成り立つので,社会はそれらから分離できない.
個別者自身の運動の中に本質をもっている全体についての洞察なしには,いか なる要素も──その機能化されたものでさえも──理解されえません. しかし,その逆も成立する.つまり,いかなる関係も,ほかの関係なしには理 解されない.
体系と個別性は相互連関的であり,ただ両者の相互連関性においてのみ認識さ れるのであります. (まえの繰り返し)
アドルノは,ヘーゲルの論理学から由来していることの否めないカテゴリーで, 社会を概念的に把握する. アドルノは,ヘーゲルを思い起こさせるような表現法を使っている.
全体はその部分の総和以上のものである,という命題に従って全体を有機体論 的に把握することは,非弁証法的であるとして禁ずる,厳密に弁証法的な意味 での総体性として,彼は社会を概念的に把握する. 彼は,それゆえ,全体は部分の総和以上のものであるとは言わない.
しかしまた総体性は,そのもとに包摂されたあらゆる要素の総計によって外延 論理学的に規定される,一つのクラスであるのでもない. 同様に全体は,要素のクラスではない.
社会的な生活連関の総体性… われわれはなんらかの仕方で互いに関係を保っている…
理論は文章論的に拘束されている枠内で,われわれが任意に構成する整序図式 である. 理論は,文法を無視して組み立てられてはならない.これさえ守れば,君は言 いたいことがいえる.
理論は,それに実在の多様性が適合するとき,特殊な対象領域に対して使用可 能であることが証明される. 理論は,ある特定の領域に適用可能ならば,そこに適用できる.

単純なことを複雑に,些末なことを重々しく表現するというこのひどい遊びは, 残念ながら伝統的に多くの社会学者や哲学者などによって,自分たちの正当な 仕事であると見なされています.そのように彼らは学び,そしてそのように彼 らは教えているのです.もうどうすることもできません.ファウストさえ,こ れを変えることはできませんでした.耳がすでに歪められてしまっていますか ら,彼はただ,大言壮語しか聞くことができないのです. 言葉を聞いただけで,ふつう人は信じる.
だが,やはりそこでは何かが考えられていなければならない.
ですからゲーテは,この魔術的科学に隠された大きな力について述べています. なにも考えない者,
その者にかの力は与えられ,
彼は何のうれいもなしに,それを所有する.
(第六章:大言壮語に抗して,pp.161-165)

一般大衆は,智者,とりわけ哲学者とか歴史哲学者は,未来を予言できると期 待しています.これはたいへん不幸なことです.なぜなら,需要はあまりにも 容易に供給を生むからです.つまり,予言者への需要は,結果として,ありあ まる供給を生み出しました.こんにちでは自分の名声に気を使う知識人は誰で も,歴史的な卜占術をためす義務があると感じているのだと言ってもよいでしょ う.「歩きながらなぜ遠くを見てはいけないのか」とそうした知識人は言うわ けです.そして彼の洞察と先見の深遠さは,ほとんどいつでも彼の抱くペシミ ズムの深遠さで測られるのです.(第10章:知による自己解放,p.225)

(プラトン以来,誇大妄想は哲学者のあいだにもっとも蔓延した職業病である.) (第13章:わたくしは哲学をどのように見ているか,p.275)

ドイツ語圏では,残念ながら,話は別です.ここでは,知識人は誰であれ,究 極の秘密に通じたものであろうとしています.ここでは,哲学者のみならず, 経済学者,医者そして特に心理学者[と法解釈学者]が宗教の創始者になっています .(第15章:西側は何を信じているか,p.326)

…国家理論の根本的な問いは,明らかに,プラトンが思い込んでいたものとは 全く別もの[…]です.それは,「誰が支配すべきか」とか「誰が権力をもつべ きか」といったことではなく,「政府にはどのくらいの権力が容認されるべき か」とか,おそらくもう少し正確に言うならば,次のような問い[…]です. 「無能で不誠実な権力者でさえあまりに大きな害をひきおこすことができない ようにするために,われわれはわれわれの政治的諸制度をどのように作り上げ ることができるであろうか.」(第15章:西側は何を信じているか,p.351)

「誰が統治すべきか.誰が権力を持つべきか」というプラトンの問いは,です から,誤って立てられたものです.われわれは民主主義を信じていますが,そ れは,民主主義においては民衆が支配しているからではありません.あなたが 支配するのでもわたくしが支配するのでもなく,反対にあなたもわたくしも, つまりわれわれが支配されるのであり,しかもしばしばわれわれが好む以上に 支配されるのです.われわれは,民主主義こそ,政治的に反対することと,つ まり政治的自由と両立する唯一の統治形態であると信じています.(第15章: 西側は何を信じているか,pp.352-353)

カール・R・ポパー」
『よりよき世界を求めて』
小河原誠・蔭山泰之(訳)未来社,1995年



少額事件への対応は,弁護士の歴史的な課題だ.訴訟事務などを独占している 弁護士には,どんな事件でも引き受けることが期待されているが,「ペイしな い事件」を嫌がる人も多い

東京・飯田橋の「さつき法律事務所」は,高額報酬とは無縁の,外国人の在留 許可事件などを大量に扱っている.
大貫憲介弁護士(四〇)ら三人の弁護士で,平均的弁護士の数倍,常時約三五〇 の事件を動かす.それを可能にしているのが,語学の得意な八人の専門スタッ フだ.訴状や陳述書は,スタッフが原稿を書いて弁護士が手を入れる
以前にいた事務所で,利幅の薄い外国人の事件を嫌がる上司と対立した.独立 したはいいが,外国人事件で食べて行くには,大量にこなすしかなかった.そ のために,頼れるスタッフが必要だった
「法律サービスの低下につながる」と問題視する声もある.だが,大貫弁護士 は,「それは私たちの仕事を見てから言ってほしい」と反論する.「スタッフ は試験で採用して,勉強会も徹底してやる.弁護士に隠れて仕事をしようとし た者には辞めてもらった」

「弁護士 56」
「少額事件」
『讀賣新聞』1999年10月14日朝刊



裁判官の人生にとって,「仕事だけの人生にほんとうに生き甲斐があるのか」 という問題はかなり深刻である.早く裁判官が大幅に増員され,「地獄」の生 活から這いだして,裁判官になったことを喜びとし,人間らしい,余裕のある 生活ができる日が来ることを心から希望したい.今の状態は,裁判官にとって も悲劇であるが,早くこの任地を去る日が来るのを指折り数えて日を送ってい るような裁判官に裁判を受けるのは,国民にとってはもっと悲劇であろう
いかなる司法改革も,裁判官の大幅増員がなければ絵に書いた餅に過ぎない.
現状では事件のことが頭から離れる時間もないし,また丁寧に仕事をしている と無能裁判官となってしまう
最高裁はすべての裁判官はスーパーマンであるべしとするかのようである.し かし,少数精鋭主義やスーパーマン路線は既に破綻していることは明らかであ る.(宮本敦「矢鴫裁判官の嘆きと怒り」(p.109))

裁判が終わった段階で,原告が,「訴えを提起してよかった」と考え,被告が, 「裁判に持ち込まれてよかった」と言えるような判決,和解,さらに言えば, 「次に紛争が起きた場合にもまた裁判所を利用しよう」と当事者が思うような 判決,和解をめざす必要があるのではないか.民間企業のセールスの世界でも, やみくもに数を売ればよいという時代は終わって,顧客満足度を重視し,顧客 のロイヤルティ(企業に対する忠実度.その会社の商品を再び購入してもらう こと)を追い求める時代になった.(仲戸川隆人「陪審を見て知る普通の人の 偉さ」(pp.148-149)

いまでも裁判所も検察庁もそして弁護士会もそれぞれが村社会です.そして濃 淡は別としてタテ社会でもあります.任官する前にもそれは感じていたことで すが,初めははっきりと見えなかったことが任官後,だんだん見えてくるよう になります.村社会では,結局は自分の属している社会のことを優先して考え, その中で無難に過ごせば一生安泰ですし,自分自身も同化され呑み込まれてい きます.私はよその村から来た新参者の任官者であるだけに,またその己自身 の姿も見えてくるのです.(原田豊「キャリア出身でないから見える職場の実 情」(pp.167-168))

岸和田支部で実際に「同席調停」を試みてみると,当事者のものの言い方がガ ラリと変わった.お互いに悪口をあまり言わなくなった.面と向かって悪口だ けを言っていては,相手がこちらのニーズを少しでも受け入れてやろうちう気 持ちになってくれるはずがないから,これは当然のことである.なるべく相手 の悪口を言わないで,どう話せばこちらのニーズを理解してもらえるか,お互 いに考えたり,友達相手に練習したりして調停の席に望む.(井垣康弘「法曹 一元制度でまったく変わる任用制度」(p.195))

裁判官の多くは,「遅いのは当事者がしつこく筋悪く争うケースだ.高いとい うが,安くしたら不当訴訟を起こされてかえって困るだろう.判決がまずいと いうのは負けた当事者のひがみである」という程度に軽く受け止めていたと思 う.たとえば,当事者双方ともがびっくりするような判決が出て,負けたほう の弁護士と依頼者が手を取り合って悔し泣きしたとしても,弁護士はその裁判 官を決して名指しで批判はしない.「あの弁護士はうるさい」とのうわさを裁 判官仲間に流されてはたまらないからである.利用者の不満は,これまで弁護 士限りで遮断されてきた.(井垣「法曹一元制度でまったく変わる任用制 度」(p.219))

キャリアシステムは,判事補が先輩裁判官から実務を習いながら育てられる制 度である.実務は習う対象であり,批判する対象ではない.つまりシステムそ のものが現状維持型であって改革志向型でない.(井垣「法曹一元制度でまっ たく変わる任用制度」(p.220))

少なくとも次のことはいえます.裁判官も生身の人間ですから,その価値観の 一つとして,一定の政治的好み,場合によっては信条を持っています.政治問 題化されている重要法案であれば,裁判官とて,それに対して賛成あるいは反 対の意見を内心に持つことはあるのです.ましてや,たとえば少年法といった 自らが担当する裁判分野と関係の深い立法であれば,見識を持つべき裁判官が, 賛否の意見をもたないというほうがかえって不思議であり,国民からは不信感 さえ抱かれます.(伊東武是「寺西裁判官問題をめぐり『政治的中立』を 考える」(p.232))

次に,司法は,刑事,民事,行政事件等の手続のうち基本的なものをすべて公 開の法廷で行う.もちろん,家事,少年事件等非公開の分野もあるが,市民の 権利義務や,国家の刑罰権の各存否については,あくまで公開の場で行う.こ のことは,傍聴券が配られる大事件の報道で常識になっていると思われがちだ が案外そうでもない.私なども,「え,裁判は自由に見ることができるものな のですか」と聞かれることがたびたびある.(浅見宣義「司法における規制緩 和とは」(p.260))

「自己責任社会」「法化社会」を担う機関や人間が,「護送船団的」であっ ては本末転倒である)(浅見「司法における規制緩和とは」(p.263))

経済界で司法に最初に関心を持ったと思われる経済同友会の関係者の方がこん なことを言っているのを直接聞いたことがある.「調査や聞き取りのために訪 問すると,最高裁や法務省は,他の行政官庁とはかなり雰囲気が異なる.いち ばんの違いは,他の行政官庁には,『仕事を取ってやろう,予算を取ってやろ う,そして権限を大きくしてやろう』という雰囲気があって,何かぎらぎらし たものを感じるのに対し,最高裁や法務省にはそれが全くないことである.何 か質問すると,最高裁や法務省の関係者は『いえ,うまくやっています』『問 題はありません』という定型的な対応が多く,突っ込まれないように,批判さ れないようにということがまず先立つのか,縮こまっている印象がある」(浅 見「司法における規制緩和とは」(p.265) )

たとえば,積極的・開放的司法を実現するために,夜間や休日の法廷・受付相 談の開催,行政機関等での出張受付,利用者向けの手続きビデオの作成・交付, 市民に対する広報誌の発行,ホームページによる裁判所のPR等を地方裁判所 や簡易裁判所が独自に計画しても,実現はほとんど困難である.「他庁に例が ない」「一つの庁だけ飛びぬけると,他庁へも要求が来る」「関係部署・団体 だけでなく,全国的な調整が必要である」などが理由にされる
現場が一丸となり,所長も熱心で,自庁予算の範囲内で可能なことでも,当該 裁判所だけでは決められないことが実に多い.それを当該裁判所だけで実行す れば大騒ぎになる.現場から新しい試みを実現するのは茨の道である.ただ, 同じ内容を最高裁がいうと全国一律に直ちに実現する.また,最高裁だけで, または最高裁の肝いりでやるのはいいが,現場だけではご法度というのも多す ぎる(利用者向けの手続ビデオの作成・交付はその例である).これでは,現 場に活力はなかなか生まれない.(浅見「司法における規制緩和とは」 (pp.270-271))

日本裁判官ネットワーク
『裁判官は訴える!:私たちの大疑問』
講談社, 1999年



Too often in the profession scholarship that is difficult to understand is called "brilliant" or "ground-breaking," when the better response would be that it is "turgid" or "pretentious."

...

Law schools should not simply be professional schools, he[Kahn] maintains. They should be places where scholars can endeavor to discover "what it is that the law makes us" (p.6) (His [Kahn's] recurring analogy -- and it's an excellent one -- is to religious studies departments, where the aim is not the reform of religious beliefs and proselytization, but religion's significance to human life)

...

In Chapter One, "The State of the Discipline," Kahn juxtaposes his project against the sort of if-I-was-a-judge-this-is-how-I-would-have-decided-the-case orientation of traditional legal scholarship. And although Kahn recognizes that most lawyers and judges think that contemporary legal scholarship is too theoretical, he maintains that "the problem is exactly the opposite" (p.7). To make the point another way, Kahn states in one of the best lines I have read in a long time, "Legal scholars are not studying law, they are doing it" (p.20).

Scott D. GERBER
"Bookreview: Paul W. KAHN, The Cultural Study of Law: Reconstructing Legal Scholarship, U-Chicago Press, 1999"
Law & Politics Book Review(http://www.polsci.wvu.edu/lpbr/)


難病と闘いつつ優れた作品を残した,あなたの国の作家フラナリー・オコナー が,子供の苦しみへの大人の反応について,こう書いたことがある.優しさが, あふれる悲しみにおぼれて,優しさのみなもとになる人間的な力から離れてし まえば,そのむかう所は恐怖だ.強制労働キャンプやガス室の煙に行きついて 終わる

つまり,苦しんでいる子供をリアルに見つめて,かれらの役に立つことをしよ うとするのが,人間的な力と結んだ優しさなのだ.それなしでただ悲しみ,恐 ろしいと思ったりする───あれはヒドイ! という者らもいる───,そこ でむごたらしい子供たちを人目につかぬ所に隔離したり,「安楽死」を考えた りもする.

その極限に,ナチスのやったことがある.それはファシズムだ,まず出発点 には人びとに共有されるセンチメンタリズムがあったのだ.電話をきってから 私の思いが移ったのは,いま日本人一般に,センチメンタリズムへの見境のな い寛大さがあるようだ,ということでした.

江藤淳さんの死自体については,私のいうことはないのですが,最後まで影響 力のある批評家だと自負していたかれの,公開を意図して書かれた遺書には, 疑問がありました.

脳梗塞を患った後の「江藤淳は形骸に過ぎず」として,それを始末すると書き のこすことは,ヒロイックでこそあれ,現に脳梗塞を乗り越えてリハビリテー ションに励む人たちに無礼じゃないでしょうか

過去の自分を絶対化して,現在の窮境を受容しないことは,リハビリテーショ ンの医学において,リアルな生の態度でなく,センチメンタリズムな甘えとみ なされるものではないでしょうか?

そして,一般には,人間の表現は実にしばしばウソを含むものです.自分のウ ソをおおい隠す表現は多く,善意からか社会常識上の配慮からか,あるいは政 治的なものか,他人のウソを見てみぬふりをす表現も,ふんだんにあります. この種のウソの隠れミノによく使われるのが,「美しい」という言葉なのです. それだけに,人間関係について「美しい」という言葉が強調される時,たいて いの第三者は───事情につうじている者も,そうでない者も───アレアレ と思います.

大江健三郎
「センチメンタリズム」
『讀賣新聞』1999年10月4日夕刊


…適切な行動の体得が儀式や神話によってなされ,明示された指針によってで はない理由がどうもよくわからない.単純明快な戒律「汝殺すなかれ」の 代わりに,あるいはそれと一緒に,なぜマクベス,そして聖書のカインとアベ ルの物語があるのか.儀式は,ただ単に一連の信念を受容させるのではな く,それへの感情的な傾倒を作りあげるには効果的だ,ということはたやすい. しかしこれはただ状況を述べているだけであり,それを説明しているわけでは ない.

…ボイドとリチャードソンは,集団を一つに纏めるうえでとりわけ有効な儀式 が集団間の選択[淘汰]によって有利なものとされてきたと考えた(Boyd & Richardson, 1985, Culture and the Evolutionary Process, Univ. of Chicago Press).彼らは,神話や儀式の内容が遺伝によって特定されると 示唆しているわけではない.そうではなく,文化によって伝えられる特徴 もまた選択[淘汰]されうるのだということが,彼らの論点である.ある人 類集団がその儀式制度のゆえに成功するならば,このことは二つの効果をもた らす.一つは文化的進化によって,特定の一連の信念を普及させる. また一つは遺伝的な選択[淘汰]によって,これらの信念から(またおそらく儀 式として強要される他の信念から)強く影響を受ける個人を有利とする.すな わち,集団の成功に有利な,文化によって伝えられる信念体系には集団間 の選択があり,そして儀式から影響を受けやすいという遺伝によって伝えられ る能力に対しては個体の選択[淘汰]がはたらく.(p.379)

J.メイナード=スミス & E.サトマーリ
『進化する階層:生命の発生から言語の誕生まで』
長野敬(訳),シュプリンガー・フェアラーク東京,1997年


ザザムシは日本全国のたいていの川にいるが,その種構成は当然その川によっ て異なるとともに,また時代によっても変わってくる.…
種が同じでも産する川によって味が違い,天竜川のものが美味として知られて いる.またその天竜川でも,どこでも良いというわけではなく,伊那市の特定 の場所にいるものが,最高といわれている.したがって多くの人がザザム シを採るために天竜川に集中した結果,天竜川のザザムシが激減するという事 態になり,天竜川のザザムシ採集は一時禁止され,許可証がないと採れないこ とになった.この許可証は「虫踏み許可証」と呼ばれ,これを取 得するためには,まず地元漁業組合の組合員であることが必要で,組合は申請 書を取りまとめて建設省に提出し,建設省が許可証を公布[交付]する.建設省 がザザムシ採りの免許を発行するのは筋違いのように思われるが,これは天竜 川が一級河川であるので,国が管理しており,「虫踏み」によって川底が荒ら されるのを防止するためということである.(p.60)

三橋淳(編著)
『虫を食べる人びと』
平凡社,1997年



急展開する研究,マスメディアにおける宣伝とその一般大衆の受け取り方によっ て,人工生命というキーワードが本来研究者が指向したものとは違ったものと なり,言葉の一人歩きが始まった.困ったことには,科学行政の意思決定や助 言に携わる人々が,そういうメディアを通じて得られた情報に強く影響され, それによって研究費の配分や重点的な研究の体制が変化することである.この ような研究者と研究体制の関係,個人と世相の関係は典型的な創発現象 である.

真面目な研究とキャンペーンによって,多くの雑誌記事,書籍,シンポジウム が開かれ,げてもの的な受け取り方は減ったが,体制的な科学者や行政からは, まだ認知されていないといって良いだろう.(p.95)

週末の秋葉原は,流行のエレクトロニック・グッズを冷やかす若い人たちで溢 れかえっている.彼らは来るべきバーチャル社会の主役だと騒がれている.店 頭に並んでいるグッズとそれを手にとっている彼らを冷静に眺めると,いまは 可哀相なほど自由のない選択を強いられていることがわかる.つまり,目の前 のものをそのまま買うか,買わないか,という二者択一しかないのだ.どうし て,自分好みにカスタマイズしたグッズが買えないのだろう.(p.108)

ゲームやエンターティンメント・グッズに飽きるのは,最初から複雑さが足 らないからではないのか? 狭い選択肢,限られた展開,退屈な繰返し,どれ もこれもコンピュータの能力が不足しているのか,それとも作者の発想不足な のか.(p.109)

このロイヤル・ストレート・フラッシュ仮説を検証した実験への人々の反応は, いくつかに分かれます.まず,もっともがっかりするのは「それは当たり前で すね.前からわかっていることです」というものです.いろいろな進化の学説 が巷ではびこる理由は,人間の思考があまり論理的とはいえないからです.人 間はとかく都合のいいように考えてしまうので,思考実験はとかく甘くなり, 検証能力は貧弱です.これに比べれば,まだコンピュータの中でやる実験のほ うが信用できます.なぜならコンピュータは論理的でないものを拒否するので, 矛盾した理論やあやふやなモデルは最初から計算できないからです. (p.113)

警句:計算しないで,進化を語るな

アニメ,コミック,ビデオゲーム,カラオケ,たまごっち,プリクラ,ポケモ ン,……,これらは体制的な学者・評論家・官僚・大企業の経営者たちが予想 したものだったのでしょうか? このような匈奴グッズは,偉い方々を集めた トップダウン的な「創造なんとか予算」「未来なんとか会議」からは滅多に 生まれないものでしょう.大学の研究室も概して不毛です.(p.117)

星野 力
『進化論は計算しないとわからない:人工生命白書』
共立出版, 1998年



忘れるというのは,脳のもっとも重要な機能の一つだとされている

脳は入力された情報を,好き・嫌い,快・不快などのフィルターで素早く選別 して取捨選択する.「将来に必要になるか」などという論理的な値踏みより, 感性による仕分けが優先する.すべからくその好みに任せれば,大事なことは すぐ忘れ,くだらないことばかり覚えているという仕儀になりかねない.

そこで,人は教育という仕組みを編み出した.本来は不快な情報である論理的 な思考や,面倒な知識,文化や技術の伝承などを,いかにも快い情報であるか のように入力する仕組みでもある.不快でも,忘れる前に繰り返し入力するこ とで,知識や論理として固定する.…

忘れるという過程すら踏むことなく,最初から入力されない知識や文化を,子 供たちはどこで手に入れるのだろうか.「自分で考える力を養う」という名目 で入力を制限される彼らは,忘れる自由を奪われているとはいえないだろうか

塩谷喜雄
「生物進化に見る負の効用」
『讀賣新聞』1999年9月25日(朝刊)



People seem to have a strong preference for centralization in almost everything they think and do. People tend to look for the cause, the reason, the driving force, the deciding factor. When people observe patterns and structures in the world (for example, the flocking patterns of birds or the foraging patterns of ants), they often assume centralized causes where none exist. And when people try to create patterns and structures in the world (for example, new organizations or new machines), they often impose centralized control where none is needed(p.120).

...

The centralized mindset has undoubtedly affected many theories and trends in the history of science. Just as children assimilate new information by fitting it into their preexisting models and conceptions of the world, so do scientists. As Keller puts it, "In our zealous desire for familiar models of explanation, we risk not noticing the discrepancies inherent in natural phenomena. In short we risk imposing on nature the very stories we like to hear." In particular, we risk imposing centralized models on a decentralized world (p.122).

...

... Poeple continue to construct centralized theories to explain the patterns they see in the world. In trying to understand the origin of the species, for example, many people still resist the idea of evolution by natural selection. More than a century after Darwin, many people continue to believe that only a centralized Designer of Life could have created the wonderful diversity and complexity of the living world (p.123).

...

In Science of the Artificial (1969), Herbert Simon describes a scene in which an ant is walking on a beach. Simon notes that the ant's path might be quite complex. But the complexity of the path, says Simon, is not necessarily a reflection of the complexity of the ant. Rather, it might reflect the complexity of the beach.

Simon's point: don't underestimate the role of the environment in influencing and constraining behavior. People often seem to think of the environment as something to be acted upon, not something to be interacted with. People tend to focus on the behaviors of individual objects, ignoring the environment that surrounds (and interacts with) the objects. (p.142)

Mitchel RESNICK
Turtles, Termites, and Traffic Jams: Explorations in Massively Parallel Microworlds
MIT Press, 1997



To the roster of favorite oxymorons that includes "jumbo shrimp," "military intelligence" and "healthy tan," a new report proposes a tart addition: "artistic freedom."

By the reckoning of three Israeli researchers, nothing imprisons the mind more thoroughly, nothing stifles inventiveness and artistry more brutally, than too much freedom, too much wiggle room for the imagination.

Instead, they argue, the real source of productive creativity may lie in art's supposed bugaboos: rules, structure, even the occasional editor or two.
...

********************
Battle of the Brains
In an experiment to investigate theories of the creative process, scientists programmed a computer with a few simple rules gleaned from studying existing advertisements and asked it for ideas for new ads. They compared the answers to those composed by humans (who were not advertising professionals) and concluded the computer's ideas were more creative.

COMPUTER IDEA
An Apple computer offers flowers (for advertising Apple Computers' friendliness).
HUMAN IDEA
An Apple computer placed next to a PC with the claim: "This is the friendliest computer."

COMPUTER IDEA
Two Jeeps communicating in sign language (for advertising a silent car engine).
HUMAN IDEA
A car driving alone in the country.

COMPUTER IDEA
A domed mosque with tennis ball texture (for World Cup Tennis tournament in Jerusalem).
HUMAN IDEA
A picture of ancient walls of Jerusalem with a tennis poster on them.

COMPUTER IDEA
A cuckoo in the shape of a jumbo jet popping out of a cuckoo clock (for advertising on-time performance of an airline).
HUMAN IDEA
A family running to an airplane while one of the parents screams, "Let's run, I know this airline's planes are always right on time."
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Creativity, by this measure, is not some mystical, inchoate process, beyond analysis and delineation, but rather is composed of a series of distinct subroutines, which can be rallied repeatedly to churn out ideas that seem the opposite of routine.

The notion of creative thinking as amenable to parsing and replication is both cheering and disheartening: cheering because it means that just about anybody can learn to do it at least passably well, and disheartening for showing, once again, that even genius is so much meat in motion.
...

In their report, they describe experiments in which they deconstructed renowned advertisements and found that they often followed specific formulas, which they term templates.
One of the commonest templates they found is the so-called replacement template.

For example, they considered a Nike ad, in which a group of firemen are standing around in a rescue pose, looking up as though someone was about to jump from a burning building into their net. In lieu of a net is a giant Nike sneaker, with copy boasting of how the new Nike walking shoes are "very safe places to land." In this advertisement, the sneaker replaces an object whose most salient characteristic is "cushioning." Indeed, the life net cushions a person from death itself.

Similarly, a series for Bally shoes shows various objects that symbolize freedom -- a beach, clouds in the sky -- in the shape of a foot, the implication being that the wearing of Bally shoes frees the wearer from cares, the rat race, bunions.
...

Dr. Goldenberg and Dr. Mazursky, who are in the school of business, and Dr. Solomon, of the physics department, designed the program to counter a hoary principle in creativity theory that the most original ideas are born of utter freedom, a shifting of paradigms, a circling of the square, a streaming of consciousness, a squelching of the internal editor.

Instead, they argue, their work on templates indicates that constraining options and focusing thought in a specific, rigorous and discerning direction may yield comparatively fresher results.
"To suspend criticism and think any idea is possible or good may ultimately be destructive to creativity," said Dr. Goldenberg.
...

"Humans can criticize themselves, and computers can't," said Dr. Mazursky.
"As Oscar Wilde said, imagination is imitative -- the real innovation lies in criticism.

"Limits can be powerful motivator," said Roger von Oech, a creativity consultant for businesses and author of a classic in the field, "A Whack on the Side of the Head," published in its third edition last year by Warner Books.

"If you're given a really tight deadline and a small budget, you'll probably be more resourceful than if you have a ton of time and a limitless budget.
Skyscrapers weren't invented by people with a lot of land, but by those who had to figure out how to build more offices on tight and incredibly expensive real estate."
...

Von Oech says that in his corporate seminars and training sessions, he gives his clients very specific tasks.
Most of them are centered on humor, his belief being that, as he puts, "there's a close relationship between the ha-ha of humor and the ah-ha of discovery." For example, he asks people to come up with offbeat mottoes for themselves or their companies, and he has stimulated some beauties.
From the Bank of America group: "Bank of America: Where you're never alone until you need a loan."
From Microsoft: "We're arrogant, and we should be."

Natalie ANGIER
"Route to Creativity: Following Bliss or Dots?"
The New York Times, September 7, 1999



Anyone who has been to the racetrack knows that picking a horse is part art and part science: a gambler can pick the horse with the best odds, pick a horse that won its last race, pick the horse that has the best winning streak or choose on the basis of a hunch. It was intuition, after all, not statistics, that rewarded those who picked Charismatic to win the Kentucky Derby in May at 32-to-1 odds.

Now, a small group of researchers say that such intuition can, at least in part, be duplicated by computers. Rules of thumb that are only partially accurate can be combined into precise prediction tools using an artificial intelligence technique called boosting.

Boosting has two qualities that distinguish it from existing computer prediction methods. While highly accurate, it is simpler to execute than many other programs. And it is able to make predictions even when the programmer provides very general -- or even conflicting -- guidelines. In other words, it simulates, albeit in a more sophisticated and accurate manner, human intuition.

"Philosophically it's an interesting result," said Robert Schapire, who has done seminal work on boosting with fellow AT&T researchers Yoav Freund and Yoram Singer. "You can take a set of prediction rules that is better than random guessing and combine them into something that is very accurate. It's kind of counterintuitive."

Jennifer LEE
"A Computer Program That Plays a Hunch"
The New York Times, August 17, 1999



[Campbell's Rule]

We should think of it like this --- evolutionary theory describes how design is created by the competition between replicators. Genes are one example of a replicator and memes another. The general thoery of evolution must apply to both of them, but the specific details of how each replicaor works may be quite different.
This relationship was clearly seen by the American psychologst Donal Campbell long before the idea of memes was invented. He argued that organic evolution, creative thought and cultural evolution resemble each other and they do so because all are evolving systems where there is blind variation among the replicated units and selective retention of some variants at the expense of others. Most importantly, he explained that the analogy with cultural accumulations is not from organic evolution per se; but rather from a general model of evolutionary change for which organic evolution is but one instance. Durham calls this principle 'Campbell's Rule'.(p.17)

* * *
[Meme-Gene Coevolution]

I am going to propose an entirely new theory based on memetics. In summary it is this. The turning point in our evolutionary history was when we began to imitate each other. From this point on a second replicator, the meme, came into play. Memes changed the environment in which genes were selected, and the direction of change was determined by the outcome of memetic selection. So the selection pressures which produced the massive increase in brain size were initiated and driven by memes. (pp.74-75)

* * *
[Feelings as Logic Executers]

Genes are invisile. A monkey that is going to share some food cannot be sure whether the other monkey is really her sister or not, and certainly cannot look inside and find out just which genes the two of them have in common. However, this does not matter for the principle to work. Monkeys that, in general, share resources with kin more than with non-kin will get more of their genes into the next generation. How they achieve this may vary, and probably involves various simple heuristics such as 'share with another monkey you were brought up with' or 'share with other monkeys that look, smell, or feel like your mother' or share most with monkeys you spend most time with'. Depending on the lifestyle of the animals concerned, different heuritsics will work better than others. They work not by making the monkeys calculate sums, but by giving them feelings that make them act appopriately. The same applies to us. In other words, people 'execute evolutionary logic not via coonscious calculation, but by following their feelings, which were designed as logic executers'.(p.149)

* * *
[Religious Memes]

Dawkins was he first to give memetic answers, although his ideas on religion have frequently been criticised. He took Roman Catholicism as an example. The memes of Catholicism include the idea of an omnipotent and omniscient God, the belief that Jesus Christ was the son of God, born of the virgin Mary, risen from the dead after his crucifixion and now (and fore ever) able to hear our prayers. In addition, Catholics believe that their priests can absolve them from sins after confession, the Pope literally speaks the word of God, and when priests administer the mass, the bread and wine literally change into the flesh and blood of Christ.
To anyone uninfected with any Cristian memes these ideas must seem bizarre in the extreme.
How can an invisible God be both omnipotent and omniscient?
Why should we believe a two-thousand-year-old story that a virgin gave birth?
What could it possibly mean to say that the wine 'literally' becomes the blood of Christ?
How could someone have died for our sins when we were not even born?
How could he rise from the dead, and where is he now?
How could a prayer, said silently to yourself, really work? (p.187)

There are many claims for the efficacy of prayer in healing the sick, and even a little experimental evidence, but few of the experiments have controlled adequately for placebo effects, expectation, and spontaneous recovery, and some have shown that people with the strongest religious faith were less likely to recover from acute illness. Against the claims are hundreds of years of people praying for the health of their royal famlies or heads of state with no apparent effect, and the inability of modern-day religious healers to make any obvious differnece in hospitals. Then there are all those countless wars in which both sides routinly pray for God to help their side and kill the enemy. Yet millions of people all over the world profess themselves Catholics and pray to Jesus, his mother Mary, and God the Father. They spend vast amounts of their valuable time and money supporting and spreading the faith to others, and the Catholic Church is among the richest institutions in the world. Dawkins explains how religious memes, even if they are not true, can be successful. (p.188)

* * *
[Hypocrisy]

Much of the money donated to churches, temples, or synagogues is not used for the poor or needy, but to perpetuate the religion's memes by erecting beautiful buildings or paying for clergy. (pp.189-190)

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[Inner Self as Illusion]

Another series of experiments by Libet adds an interesting twist to the argument. Consicious sensory impressions can be induced by stimulating the brain, but only when it is continuously stimulated for about half a second. It is as though consciousness takes some time to build up. This would lead to the odd idea that our conscious appreciation of the world lags behind the events, but because of a process Libet calls 'subjective antedating' we never realise it is lagging behind. The story we tell ourselves puts events in order. Further experiments showed that with short stimuli (too short to induce conscious sensation) people could nevertheless guess correctly whether they were being stimulated or not. In other words they could make correct responses without awareness. Again the implication is that consciousness does not direct the action. Conscious awareness comes all right, but not in time. ...
...
In this, and many other ways, we seem to have an enormous desire to describe ouselves (falsely) as a self in control of 'our' lives. The British psychologist Guy Claxton suggests that what we take for self control is just a more or less successful attempt at prediction. ...
Claxton concludes that consiousness is 'a mechanism for constructing dubious stories whose purpose is to defend a superfluous and inaccurate sense of self'. Our error is to think of the self as separete, persistent, and autonomous. Like Dennett, Claxton thinks that the self is really only a story about a self. The inner self who does things is an illusion. (pp.226-228)

Susan BLACKMORE
The Meme Machine
Oxford UP, 1999



点字表示は,身障者や高齢者に配慮した建物が税制面などで優遇される「ハートビル法」が1994年に施行されたり,自治体が「福祉のまちづくり条例」で設置を義務づたりして,急速に普及している.

『讀賣新聞』1999年8月6日(朝刊)


「人間は明日食うコメと雨露をしのぐ家があり,家庭が円満ならそれで幸せ. 後は欲です.」

「次女が学校でいじめられたときは,女の子だからっていじめられて泣いてい るんじゃない,やっつけろと言いました.そしたらモップで頭を殴ったらしく, 相手は三針縫うけがをした.家内は謝りに行きましたが,私はよくやったと. 子供でも大人でも,たまには強いところを見せないといじめられる.」

「子供たちには中学生になったときに,うちはこれだけしかお金がないと教え, 何かことを起こせばお父さんの名前が出ることを覚えておくようにと言いまし た.」

「妻は卵巣腫瘍の手術を受けたが夫は大病なし.以前,眉間に痛みを感じて 『死ぬ恐怖』に襲われたが,結局,乱視だった.そのとき妻に,『あなたが死 んでも子供はちゃんと育つから心配ないと言われ,気持ちが楽になった.」

「寿命があと何年なんて考えてはいけません.八十の老人が柿の木を接いでい るのを見て,実がなるまで生きられないのにと笑った人がいたけど,私は逆に その人を笑った.老人は自分が実を食べられるかなんて考えない.年だからっ て明日死ぬとは限らないし,幼児が突然死ぬこともある.だからただ今日のこ とを楽しんで一生懸命やればいいんです.」

「夫婦になったら,それは縁なんだから添い遂げるしかない.結婚したらあき らめることです.あんな女と思うなら,結婚前にそれを見抜けなかった自分が ばかなんだから.相手のアラ探しを始めたら,とてもやっていけません.人間 はアラの中で生きているんですから.」

「夫婦の階段:春風亭柳昇・秋本孝子夫妻」
『週刊朝日』1999年7月23日号


白黒テレビとカラーテレビの価格が自由化された過程を振り返ってみると,い ずれの場合も政府が積極的に自由化したのではなく,供給過剰になってメーカー が勝手に値下げするのを政府がやむなく追認したというのが実情である.また テレビ生産の自由化も,供給過剰のなかで,政府のブラウン菅配分計画が無視 されるようになったため配分を中止したから実現したにすぎない.つまり,テ レビ産業においてみるかぎり,政府が企業間の自由な競争を促進するという積 極的な意図をもって規制を自由にしたことはいまだかつてないのだ.政府は市 場経済という目標に向けて改革を進めてきたというよりも,いつも目前の問題 の解決に追われてきただけであり,とられた政策の多くは市場経済化に逆行す るようなものであった.

もっとも,中国政府がいつも目前の問題解決をめざす「現実主義」的な姿勢を とりつづけてきたおかげで,ロシア・東欧のように現実から遊離した観念的な 市場経済のビジョンを追い求めて大失敗を演じることは避けられた.中国政府 が現実主義的であったために市場経済の機能を支える公式・非公式の制度を形 成する時間を稼ぐことができたのである.(pp.46-47)

テレビにおける価格や生産の自由化の過程を振り返ればわかるように,供給不 足の状態から供給過剰になると,政府がいくら統制を維持しようとしても自由 化が進む.不足から過剰に転換すると,後は玉が坂を転がり落ちるように市場 経済に向かっていくのだ

計画経済体制の特徴を,ハンガリーの経済学者コルナイは「不足経済」と描写 した.計画経済における生産や流通の効率の悪さ,国営企業の飽くなき投資渇 望,低く抑えられた価格,そして物があるうちに買いだめしておこうという企 業や家計の行動様式により,計画経済は慢性的なモノ不足の状態におかれてい る.物が不足しているので,それを平等に分けるために計画経済が必要となる. つまり,計画経済と物不足とは互いに原因となり結果となる関係にあるのだ.(pp.47-48)

過剰経済になったときに自由化が進む.そしてそれと同時にインフォーマルな 制度が形成されてきた.…まず,テレビの流通ルート.…さらに,企業の内部 組織,経営者の発想法や行動様式など企業内の制度も大きく変革される必要が ある.…そして,テレビメーカーと卸売企業・小売店,テレビメーカーとブラ ウン管メーカーといった企業間の関係も新たに構築しなおさねばならない.(pp.51-52)

丸川知雄
『市場発生のダイナミクス:移行期の中国経済』
(アジア経済研究所,1999年)


旧慣打破

憤激性なき国民は亡ぶ」(武藤山治)

「20世紀日本の経済人・武藤山治」
『日本経済新聞』1999年7月5日朝刊


建設産業再生プログラム」(建設省)


建設行政については,従来の「護送船団方式」から「公正な競争による淘汰」 を容認する新たな方向性を打ち出し,民間主導による再編を促している.

JV(共同企業体)だけが参加可能な一部の入札に,単独企業にも参加資格を 与え,競争を高める

「建設省が再生プログラム」
『讀賣新聞』1999年7月2日朝刊


人事院は25日,98年度の年次報告書(国家公務員白書)を内閣と国会 に提出した.相次ぐ幹部公務員の不祥事を受け,白書として初めて一章を割い てこの問題を取り上げ,背景や対策を分析したのが特徴.
誤った特権意識と閉鎖的な人事管理システムが幹部公務員の倫理観欠如の原因 になったとしたうえで,昨年議員立法で国会に提出された国家公務員倫理法案 を基本とした倫理保持の仕組みの整備が必要と指摘した.

…最近の不祥事の背景として公務員への接待が頻繁に行われていることを重視 し,@政策決定などについて公務員に広範な裁量権があること,A行政の各種 規制が民間の様々な分野に及んでいること,B行政運営の不透明性 ── など が,民間企業が接待で公務員に近づき決定を有利に運ぼうとする「誘因」と分 析している.

法律の制定や重要な政策決定の過程で,本来は政治が果たす役割のかなりの部 分を公務員が担ってきたため,「自らが国を先導しているというおごり,特権 意識を持たせ,接待を受けても恥じない体質を生んだ一面がある」とした.

「国家公務員白書:不祥事続発を分析・誤った特権意識と閉鎖人事原因」
『讀賣新聞』1999年6月26日朝刊


卒業できる学生は三分の一
厳選した「頭脳」をインテルやAT&Tなどの有力企業に送り込む.…ケラー は「大学に競争原理を持ち込むことで教育の質も向上する」と強調する.

日本は最も習得の遅い学生を高い熟練度に到達させる教育が成功した.だが, 米国は才能に恵まれた学生を創造的な人材に育てる教育に優れている.」

知力を磨く高等教育と,知力に報いる企業の人事制度.日本の競争力回復も, 「知的資本」を回転させる仕組みをつくれるかどうかにかかっている.

「21世紀勝者の条件:第6部・再生への号砲・大学に競争原理」
『日本経済新聞』1999年6月22日朝刊


要するに銀行の経営は全ての行員を定年の60歳まで雇用する責任を最初から 放棄している人事システムを採っている.(p.43)

再就職斡旋については少しでも転職マーケットの原理を導入すべきところを, 経営の恣意性で片付けてしまっている.そこに不公平の元がある.銀行に勤務 した人間の何割かは,最後になって,銀行に裏切られたという思いになり,今 まで抱いていた愛行心が未だ残っているとすれば,その対象を,銀行という職 場で得た友人や,今でも付き合っている取引顧客などの狭い範囲に限定してゆ くことになる.(p.44)

長年にわたり,[会社]が会計・税務指導を受けている[…]会計事務所もこの粉飾 に気づいていなかった
[会社]は会社規模からいって外部監査を受けなくて済む.[会社]についての[…] 会計事務所の主な仕事は税務申告に関することで,監査とは関係ない.[「粉 飾決算が露見するのは会社が倒産したときだけである.毎期の決算に際して, 会計士には粉飾を見つける時間も能力もない」(某公認会計士談)]

[粉飾決算をした者の]行為をグローバルな人間社会の行動規範の観点からどう 理解すべきであるかを考えてみることである.そして,[粉飾決算者の]行為は
「あの場合やむを得ないことであった」
「会社のためにやった」
「損を取り返そうとして深みにはまった」
などの責任回避論や同情論で,[その]犯した不正行為の本質を曖昧にして,忘 却の彼方に葬ることを許してはならない,….[会社の]多数の債権者,従業員, 株主その他に,これほどの大きな犠牲を強いる不正行為の本質をあやふやな態 度で見過ごすことはできない….(pp.250-251)

組織が株式会社という法律に基づく公器である以上,リーダーは組織のため に存在するのであり,その逆ではない
ところが,一部組織,とりわけオーナー型企業においては,リーダー(オーナー 経営者)のために組織が存在するといった,本末転倒の現象が見られることが よくある.

このような組織の中の人間関係は,人の上に人をつくり,人の下に人をつくる という前時代的なものとなってくる.そのような人間関係の基盤からは,会社 組織内の各経営者間の心の信頼関係は決して生まれてこない.(p.268)

…言ってみれば,「囲い込みと排除」による人心操縦だった.
気に入った者は自分のサークルに囲い込む.囲い込んだ者にはアメを与える. 他方気にくわない者は遠ざける以上に排除してゆく.排除するということは見 捨てることであり,徐々に,さもなくば急激に退社の淵まで追い込んでゆく.

「いま囲い込まれている者は誰と誰なのか」
「次に囲い込まれる者は誰なのか」
「誰が排除されたか,あるいはされるのか」
そんなことで社員全員が疑心暗鬼だった.それをオーナーは楽しんでいた.疑 心暗鬼をけしかけていた嫌いがある.…
そんなところに信認関係など生まれるはずがない.(pp.273-274)

菊田良治
『粉飾決算:取締役スケープゴート氏の悲しい体験』
(日経BP社,1999年)


日本企業が破たんする度に,必ずと言えるほど粉飾決算の疑いがでる.決算書 は信じられるのか,決算書をチェックしていた会計士は機能していたのか.不 信が国内外に渦巻く.

日本公認会計士協会の中地宏会長は「監査の品質を向上することで信頼を回復 する」と言う.しかし,監査上問題が発生したケースに対する自らのアカウン タビリティー(説明責任)には,ほおかぶりしたままだ.経営破たんや粉飾決 算などの問題が起きると,協会は調査に乗り出すが,どの案件を調査している かなどは一切非公開.96年に破たんした住宅金融専門会社の会計士の責任問 題すら明らかになっていない.
企業の決算書が信用できなければ市場経済は正しく機能しない.決算書の信用 を保証するのが欧米流の監査制度といえる.日本ではそのお墨付きを「官」が 与えてきたといって過言ではない

「変われるか会計監査(下)」
『日本経済新聞』 1999年6月16日朝刊)


社会的な動物は絶えず,二つの力の間で平衡を保っている.一つは求心力で, 捕食者への恐怖がこれをかき立てており,仲間を求めさせるつきあいの感情を 我々の中に生み出してきた.もう一つは遠心力で,過密状態がこれを引き起こ し,我々を穏やかな一人暮らしに走らせている.捕食者があたりまえになると…, 友人たちのすぐ近くにいることを切望して,どのような過密状態でも我慢する. 捕食者がまれな場合,密集することのストレスに負けて,分散する.群れの規 模は,このつりあいがなせるわざである.

霊長類はこの問題に対して,特徴的な反応を進化させた.しっかり結束した大 きな群れは,捕食者の危険に対する彼らの解決策なのだ.しかし,群れの規模 を増大することができるようになるには,まず,群れの仲間をあまり邪魔にな らないですむ距離に離しながら,それでいてまるきり遠くへ離れさせないよう にするためのメカニズムを発達させる必要がある.ちょうどよいバランスは, 少数の動物間での連携によってもたらされる.母親とその娘,あるいは姉と妹 が,他の全員に対抗して相互援助する同盟を結ぶ.これは「助けてくれるなら, 助けてやろう」という協定であるが,高等な霊長類に独特なものらしい.(p.32)

我々はできごとの部外者となって,後知恵で狡猾な計画を話の展開に読みとる ことはできる.しかし,我々自身がその行動に巻き込まれているとき,それに ついて完璧にこのような客観的な見地で考えることはまれである.(p.40)

ラマルクの見解は,アリストテレス哲学の「自然の階梯」,ときに<存在の巨 大な鎖>として知られるものを前提としている.…ラマルクとその同時代の人々 はこの考え方を彼らの進化論に組み入れて,それぞれの種は,はしごの最下段 からはじまり,何か内部の力の自然な発達に応じて,長い時間をかけて生命の 階層を登りながらしだいに進歩していくのだと考えた.
ダーウィンは,進化のはしごを登る自然な進歩はないのだと主張して,これら すべてを覆した.実をいえば,どんな種も−−人間でさえ−−他のどんな種よ り優れている,あるいは劣っているとみなすことはできない.種を判断できる 生物学的な基準はただ一つ,自身の複製に成功することである.我々はみな, 細菌も人類も同じように,それぞれ個々の環境にしっかり適応して成長し生殖 しているのだから,等しく「優れている」のだ.(pp.45-46)

毛づくろい派閥の平均規模−−頻度の高い毛づくろいによってまとまっている 部分集合を形成する個体数−−を求めた後,それを新皮質の大きさおよび群れ 全体の規模と比較するグラフにした.まさしく予測していたとおりに,毛づ くろい派閥の平均規模は,この二つの測定値とはっきり相関関係があったのだ. (p.99)

霊長類の新皮質の大きさと群れの規模の間にこのような関係があるとすれば, 人類についてはどうだろうか.我々も霊長類であることには,まったく変わり がない.…
それでは,人類についてどの程度の群れの規模が予測されるのか.人類は新皮 質比が四対一である.この値を…グラフに当てはめると,群れの予想規模が読 みとれる.答えは,およそ一五〇人になることがわかる.(p.100)

我々自身が属する種として認めうる者たち,つまりホモ・サピエンスが初めて 現れたのは,四〇万年も前だった.このように長期にわたる間,わずか一万年 前に農業が生まれるそのときまで,我々は小さなバンドをなして,獲物を探し ながら森林地をさまよう,狩猟採集生活をしていた.…

このような社会はみな,しだいに大位の集合を含みこんでいく階層状の組織と いう特徴を持っている.最下層には,あわせて五〜六家族で三〇〜三五人の一 時的に野営をともにする野営地がある.…最上層は,最大の集団である部族で, 一般的な例では約一五〇〇〜二〇〇〇人に達する.…
この二つの段階の間にはときおり,通常「メガバンド」と呼ばれる,約五〇〇 人の集団が見られる.ときどきその下には,しばしば氏族(クラン)とよばれ る,より小さな集団が認められる.これは平均するとまさにほぼ一五〇人であ ることや,前述のどんな種類の集団よりも規模の変動幅の小さいことがわかっ ている.(p.101-102)

さらに,一五〇という数は,いっそう興味深い特性であることが分かった.た とえばこれは,狩猟採集生活民や農民の社会で従来認められるような出生率で 考えると,おおむね一組の始祖夫婦が四世代経た後に持つと予想される現生の 子孫数なのだ.この点に関して興味深いのは,五世代さかのぼった血統すなわ ち家系は,祖母の祖母の代になるわけで,その群れの現存者の誰もが個人的な 出来事として記憶にとどめうる最も遠い過去なのである.(p.102)

確かに,社会学では,社会集団の規模が一五〇〜二〇〇人を超えるとだんだん 身分構造がはっきりするという原理が確立している.小規模の社会集団には, いかなる種類の構造もないことが多く,かわりに社交の潤滑油として個人的な 接触に依存している.しかし,統合する人数が増えると,階層的な構造が必要 になってくる.指揮する長や,社会規則の遵守を確保するための警察力がなけ ればならない.そしてこのことは,現代の事業組織においても不文律であるこ とがわかった.一五〇〜二〇〇人より人数の少ない事業では,組織全体が非形 式的な系統で成り立っており,従業員間の正確な情報交換を確保するために個 人的な連絡に依存することができる.しかし,規模の大きい事業では,連絡に 方向性をつけて,各従業員が自分の義務や報告すべき人物を確実に理解できる ようにするために,形式の整った管理構造が必要となる.(p.104)

軍隊も,人間の集団の規模に関してとりわけ有益な情報源であることがわかっ た.…軍隊の編成単位が興味深いのは,それがまさに,強烈な選択圧にさらさ れているからだ.…
独立しうる最小の軍隊単位は,中隊(カンパニー)である.
第二次世界大戦では,中隊はおよそ一七〇人の規模に(最小は英国の一三〇 人から,最大はアメリカ合衆国の二二三人まで幅がある)ほぼ固定されていた. (p.107)

…いわゆる共鳴集団(シンパシー・グループ)の規模である.これは,深く感 情移入できる関係を同時に持ちうる人数だ.その人が明日死んだら非常につら いと思う全員の名前をあげてもらう調査では,一貫して総数一一〜一二という 結果が出ている.…

…また,顔と名前が一致する人数と同一でないことも,明らかである.この人 数の上限はだいたい一五〇〇〜二〇〇〇人であることを示す証拠がある….
以上の結果を考え合わせると,人間の社会には,一五〇人という自然の集団が 隠されているようだ.(p.109)

…我々の祖先は,ひどいジレンマに直面したにちがいない.一方では,群れの 規模を増大させるような容赦ない生態上の圧力があり,他方では,時間配分が, 維持できる群れの規模に厳しい上限を課している.彼らはなんとか,この不可 能に思えることをなしとげたらしい
その明らかな方法は,もちろん,言語を利用することである.確かに我々は, 関係を確立し,それに奉仕するために,言語を利用しているらしい.…
言語は確かに,この機能を果たしうる,二つの主要な特徴を有している.一つ は我々が同時に複数の人間と話せることで,これによって彼らと交流する度合 いを増やすことができる.会話が毛づくろいと同じ機能を果たすなら,原生人 類は同時に複数の他人と,ともかく「毛づくろい」することができるのだ.二 つ目は,言語によって,猿や類人猿よりも広い個人的な連絡網で,情報交換で きることである.

人間の思考は,他人が情報伝達を試みていると見なすように作られているら しい.我々は他人の身振り言語,合図,言葉をそのままの意味で解釈すること はさほど多くなく,その裏にあると思われるものに置き換えて解釈している.… 言いかえれば,我々はすべての他人がはっきり目的を意識して行動しているも のと思いこんで,かなりの時間をかけてその思考をたどり,他人の意図を見極 めようとする.我々は世界をこのように見ることに染まりきっているため,す ぐに他の動物や,ときには生命のない世界にまで,その見方を持ちこんでしま う.(p.118)

この一〇年間の議論から,中心となる問題は,現在心理学者たちがあれやこれ やをひとまとめにして「心の理論」(TOM)と呼んでいる何かであることが わかってきた.心の理論を持つということは,他人の考えを理解しうること, 他人が信念,願望,恐れ,希望を持っているのを認めることができるというこ と,他人が本当にこれらの感情を心的状態として経験しているのだと信じるこ とができるということだ.我々は一種の自然の階層をもつことができる.…こ れらは現在,ふつうは「志向意識水準」の次元と呼ばれている.
コンピュータのような機械は,志向意識水準の次元がゼロである.彼らは自分 自身の心的状態を意識していない.たぶん,我々も昏睡状態にあるときには, ゼロ次の志向意識水準であるし,昆虫の大半やその他の無脊椎動物も,おそら くゼロ次の志向意識水準の生物だろう.…我々は一次の志向意識水準の状態 (私は何かがこうであると思う)について認識している.それ以後,無限の回 帰のはじまりに突入する.私は,あなたが何かを思っていると思う(二次の志 向意識水準),私は,私が何かを思っているとあなたが思っていると思う(三 次の志向意識水準),私は,あなたが何かを思っていると私が思っているとあ なたが思っていると思う(四次の志向意識水準),という具合である. (pp.120-121)

チンバンジーは,せいぜい三次の志向意識水準が限界であるらしい(「私は, 餌箱が閉まっていると私に考えて欲しいとあなたが思っていると思う」).人 間はほとんど難なく四次の志向意識水準を含む主張をたどれるらしい. (p.145)

我々は,社会的な毛づくろいに一日の二〇パーセント以上を費やす霊長類はい ないことを知っている.原生の猿がきちんとこの量に対処していることは明ら かなのであるから,言語の進化を引き起こした境界線は,この量を超えたどこ かにあるはずだ.それと同時に.我々の方程式によって予測された原生人類の 群れの社会的な時間である四〇パーセントを,かなり下回るに違いないと思っ ていた.この間のどこか,おそらく社交の時間が大体三〇パーセントになるあ たりに,言語を突然引き起こした大境界線があるのだ

…霊長類における新皮質比率−−脳のうち新皮質が占める割合−−は,脳全体 の大きさと直接的な関係があることに気付いた.…(p.159)

…我々の種の最初の仲間はおよそ五〇万年前に現れたが,方程式から,その群 れの規模は一一五〜一二〇,毛づくろいの時間はおよそ三〇〜三三パーセント であると予測された.結論は必然であるように思える.我々自身の種,ホモ・ サピエンスの出現は,言語の出現によって規定されているのだ
言語が,より大きな群れの結束を促進するために進化したのであれば,我々は, 言語にそれを達成するような基本構造を示す特徴があることを証明できるはず だ.一つには,会話集団が,普通の霊長類の毛づくろい派閥よりも比例的に大 きいはずであり,もう一つは,会話をしている時間が,社交的な情報の交換に 著しく費やされているはずである.(p.170)

最初にわかったのは,会話集団の大きさが無限ではないということだ.事実, 一つの会話に関わりうる人数には,およそ四人という,厳然たる上限があるよ うだ.…集団が五人に達すると,事態がうまくいかなくなりはじめる.(p.171)

会話時間の約三分の二が,社交的な話題に費やされていたのである.それら には,個人的な人間関係,個人的な好き嫌い,個人的な経験,他人の行為とい うような話題の会話が含まれる.個別的な話題として,全会話時間の一〇パー セントを越えたものは他にはなく,大半がわずか二〜三パーセントの割合だっ た.(p.173)

ハミルトンの法則[包括適応度による利他主義の進化論的説明]が人類にあては まることを調べるために,…簡単な実験を行った.被験者は,スキーの静止し て負荷をかける運動(アイソメトリック)の一つを行うよう求められる.支え が何もない状態で壁に背をつけ,腰掛ける姿勢をとるのだ.…ほとんどの人は わずか二分くらいしか姿勢を保てずに,床に倒れこむ.
我々は,被験者がこの姿勢を二〇秒間保てるごとに七五ペンス提供することに した.問題は,ほとんどの場合,彼らの稼いだ金がそのまま他の誰かに与えら れるのだ.…
実験の結果は驚くべきものだった.被験者は近い血縁者(親,兄弟)と自分自 身のためにはとても懸命に努力したが,遠い血縁者や寄付する場合には,懸命 さが劣っていたのである
…利他性−−他の誰かのために,代価を払うこと−−の真の本質は確実にとら えているし,おそらく,我々が日常で接しているような小さな利他的行為の多 く,たとえば他人を助けるために少額の金銭を貸したり時間を割いたりするこ とに対応しているだろう.(pp.229-230)

…明らかに提唱できるのは,方言はただ乗り行為者(フリーライダー)の問題 に対処するための一つの適応形態だということだ.群れは新しい話し方,まっ たく同じことがらに関する新しい言い方を絶えず開発することによって,その 一員を確実にたやすく見分けられるようにしている.しかも,人生がはじまる ときに習得する必要があるために欺きにくいという印を利用している.

そうすると,方言は,人間本来の協力性を利用しようとする者の略奪行為を抑 制する試みとして,発生したらしい.我々は相手が口を開いたとたん,それが 自分たちの一員かそうでないかをたちまち知るのだ.(pp.234-235)

我々の調査での思いがけない発見の一つは,男性と女性の間で,話している話 題に関する差異がほとんどなかったことだ.…ところが,著しい違いが一つあっ た.男性が男女混合グループに入った場合,仕事や学術的問題あるいは宗教や 倫理に関して話す時間の割合が,めざましく増えたのだ.…男性はこの点に関 し,女性に比して著しい変化を示したのである.

…我々は,男女間で,社交上の話題に費やす時間の長さに違いを見いだせなかっ た.…ところが,両者にはっきり違いのある点が一つあった.誰の社交上の経 験について話すのが最も多いかという点である.少なくとも比較的若い被験者 のグループでは,女性は,社交上の話題のおよそ三分の二の時間を他人の社交 上の経験や行為に関して費やす(そして,およそ三分の一の時間を自分自身に 関して費やす)傾向があるのに対して,男性は三分の二の時間を自分自身に関 して費やしている(そして,わずか三分の一の時間だけしか,他人に関して話 していない).(pp.246-247)

ロビン・ダンバー
『ことばの起源:猿の毛づくろい,人のゴシップ』
(松浦俊輔・服部清美訳,青土社1998年)


According to evolutionary psychology, evolution by natural selection has fashioned specific psychological inclinations in response to adaptive problems repeatedly encountered over thousands of generations. Because mating lies at the center of so much of life, it is a particularly important area of study for evolutionary psychologists.

Sociologically, mating affects the distribution of wealth, and can create patterns of inequality. Psychologically, it influences everything from depression to social success. Mate preferences -- how we pick partners, attract them, conflict with them, keep them, lose them, and then start all over again -- determine who is selected and shunned, altering our species' evolution.

And men and women differ more in mating than in any other area of life. A man can produce a child in as little as a few minutes of sex, but women tie up their bodies for nine months in pregnancy. Furthermore, women have always been 100 percent certain that they are mothers of their children. Men can never be sure.

As the saying goes, "Mama's baby, papa's maybe."

Evolutionary psychologists believe it would be extraordinarily unlikely for such spectacular differences in reproductive biology, recurring over millions of years of evolutionary history, to result in a sexual psychology identical in men and women.

Men and women all want mates who are kind, understanding, dependable, intelligent and healthy. But men and women differ in three clusters of preferences. Women place a greater premium on a mate's financial capacity, as well as the qualities that lead to resources, such as ambition, industriousness and social status; these likely aided the survival and reproduction of ancestral women and their children. Men, in contrast, place a greater premium on cues to fertility, such as a woman's youth and physical appearance, as well as desiring a greater variety of sex partners.

The idea that people's love lives are influenced by human evolution is shocking. When I first presented my findings on mate preferences in 37 cultures at a professional meeting, for example, a woman approached me and suggested that I suppress the work.

Her sentiment reminded me of Lady Ashley, a contemporary of Darwin, who said upon hearing his theory: "Let's hope that it's not true; but if it is true, let's hope that it doesn't become widely known." But the theories of evolutionary psychology did become widely known and a robust reaction set in. Some argued that God, not evolution, created the human mind. Others fretted that anything forged in the furnace of evolution would be unchangeable. And mainstream social scientists argued that society molded the mind.

But for me, theories that people are blank slates on which culture writes the script could neither predict nor explain sex differences that research tells us are universal.

David M. BUSS
"ESSAY: Evolutionary Science Ponders: Where is Fancy Bred?"
New York Times, June 1, 1999



Scientists have known for decades that poverty translates into higher rates of illness and mortality. But an explosion of research is demonstrating that social class -- as measured not just by income but also by education and other markers of relative status -- is one of the most powerful predictors of health, more powerful than genetics, exposure to carcinogens, even smoking.

What matters is not simply whether a person is rich or poor, college educated or not. Rather, risk for a wide variety of illnesses, including cardiovascular disease, diabetes, arthritis, infant mortality, many infectious diseases and some types of cancer, varies with relative wealth or poverty: the higher the rung on the socioeconomic ladder, the lower the risk. And this relationship holds even at the upper reaches of society, where it might seem that an abundance of resources would even things out.

Social class is an uncomfortable subject for many Americans. "I think there has been a resistance to thinking about social stratification in our society," said Dr. Nancy Adler, professor of medical psychology at the University of California at San Francisco and director of the John T. and Catherine D. MacArthur Foundation Research Network on Socioeconomic Status and Health. Instead, researchers traditionally have focused on health differences between rich and poor, or blacks and whites (unaware, in many cases, that race often served as a proxy for socioeconomic status, since blacks are disproportionately represented in lower income brackets).

But the notion that a mid-level executive with a three-bedroom, split-level in Scarsdale might somehow be more vulnerable to illness than his boss in the five-bedroom colonial a few blocks away seems to have finally captured scientists' attention.

In the past five years, 193 papers addressing aspects of socioeconomic status and health have appeared in scientific journals -- twice the number in the previous five-year period. The National Institutes of Health last year declared research on disparities in health related to social class or minority status one of its highest priorities, said Dr. Norman Anderson, associate director of the N.I.H. And a recent conference in Bethesda, Md., on the topic, sponsored by the New York Academy of Sciences and the MacArthur Foundation network, drew more than 250 participants from a wide variety of disciplines.

...

Life expectancy for blacks and whites also varies. At age 45, a white man can expect to live five years longer than an African-American man, and white women can expect to live 3.7 years longer than their black counterparts.

If socioeconomic status is taken into account, health differences between blacks and whites decrease substantially: Black men in the highest income brackets, for example, have a life expectancy 7.4 years longer than black men in the lowest brackets, Dr. Williams said. White men at top income levels live 6.6 years longer than their lowest-income counterparts.

Erica GOODE
"For Good Health, It Helps to Be Rich and Important"
New York Times, June 1, 1999



藤原銀次郎「工場は大学の実験室であり,大学は工場の実験室である,この思想で進みた い.」

「20世紀日本の経済人 22:挑戦編」
藤原銀次郎
『日本経済新聞』 1999年5月31日朝刊)



日本では,公平さや正義は状況によって変化していく.そして,この二つの価 値は個人より集団,弱者より強者を尊重する社会的ルールを通して実現される ものなのだ.…[指針といえるものがないので]一つの合意に至る前に,多くの ことを考え,多くの人の意見を聞かなくてはならないからだ.(33頁)


強固な個人的関係を確立した人から,スキャンダルに巻き込まれそうな話をも ちかけられてしまった時,日本人に何ができるのか.

日本人が対立関係を解消し,協調しようとする時,マスコミに醜聞が取り上げ られるようになった状況を,感情とのバランスをとるための重りとして利用で きるかもしれない.総意の可能性を探るプロセスの中で,感情的判断と合理的 判断を組み合わせるための効果的なテクニックの一つは,次のように質問をし てみることかもしれない.
──「もし必要とされるなら,この総意の経過と結果を,自分の組織に属する すべての人間やマスコミにすんなり説明できるだろうか?」──
日本経済新聞や朝日新聞に,あなたの名前や,あなたの最近のビジネス活動に ついての記事が載った場合のことを想像してみると特に有効だ.(112頁)

ラリー・クランプ
『日本人のためのハーバード流交渉術』
(小森理生・住友進訳,日本能率協会マネジメントセンター,1998年)


The 10 men on the videotape look earnest enough. Each appears for two minutes, stating his opinions on an important social issue -- capital punishment, for example, or anti-smoking laws -- then explaining to an "interrogator" why he thinks as he does and how long he has held his views.

The task of the person watching the video is to tell which of the men are lying and which are telling the truth.

Sound easy? Most people think it does. They are confident of their ability to detect falsehood. Living in a society where lies of every stripe are commonplace -- in one study, people confessed to telling at least one lie per day; college students admitted to two -- opportunities to observe liars in action abound, be it at the breakfast table, at the corner bar or in the nation's capital.

Yet as it turns out, the exercise presented by the videotape is not so easily disposed of. In study after study, Dr. Paul Ekman, a professor of psychology in the School of Medicine at the University of California at San Francisco, and his colleagues have demonstrated that most people perform miserably on the test, scoring at chance levels or only slightly higher, although for each liar on the tape a variety of clues were present that might have revealed the lies.

Even groups one might expect to possess particular lie-catching abilities -- police officers, trial court judges, F.B.I. and C.I.A. agents, trial lawyers, forensic psychiatrists -- score poorly, Dr. Ekman has found, demonstrating little more skill at picking out prevaricators than a pipe fitter or bus driver pulled from the street.

...

But in some cases, it is equally important to detect the truth, and lie catchers can sometimes err on the side of distrust, overestimating the frequency of lying and missing instances when the truth is told. In their new study, Dr. Ekman and his colleagues found that the groups who did best in detecting lies were less effective in identifying truth tellers, scoring not much better than chance, and not significantly better than other groups. "That worries me," Dr. Ekman said, "because in law enforcement, if you guessed that everybody was lying, you'd be right 80 percent of the time. The real issue is how can I teach people not to make mistakes on those truthful people, who are accused incorrectly -- those are the critical ones you don't want to make a mistake on."

Erica GOODE
"To Tell the Truth, It's Hard to Spot a Liar"
New York Times, May 11, 1999



”洗脳本”を眉間に皺よせて読む人も,”企業本”をむさぼるように読む人 も,たぶん同じ類の人たちだと思う.軽くかけひきをしているような感覚や, 心の弾む感じを忘れてしまった人たちである.敵を見つけて殲滅することにば かり熱心で,自分の欺瞞には気づかない人たちである.そういう人たちこそが, 洗脳されてもその自覚がなく(つまり洗脳されやすく),他人を無自覚な善意 で洗脳してまわる.マジメな人が一番こわいんだ.」(6頁)


「”奇跡"とはいつも,そのようにして,見えない因果の糸をたどって,心の 内で捏造されるものなのだから.」(34頁)

人間は,最初は母親や父親を「模倣」することで人間としての振るまいを身に つけ,しだいに身近な他人やメディア上の人物へと「模倣」の幅を広げること で「社会化」していく.ぼくたちは,自分が思っているより遥かに多くのこと を,”ひとマネ”に頼って生きているのである.(46-47頁)

洗脳のテクニックとして面白いのは,面談者がしばしば「わたしたち似ていま すね」と語りかける点だ.(70頁)

洗脳の技術は社会のいたるところに散りばめられている.国家は国民を洗脳し なければならないし,企業は社員を洗脳しなければならない.帝国列強は植民 地国を,先進国は途上国を,広告代理店は消費者を洗脳する.教団は信者を, 教師は生徒を,上司は部下を,親は子を洗脳する.人が人間になるために不可 避である,”社会化”という過程そのものが洗脳だ.洗脳の技術とは,裏を返 せば,人と人をたばねる技術,社会を可能にする技術なのである.(88頁)

権威者をよそおった洗脳者たちが,信頼できる人物を演出しようとするとき, 「自分の利益に反したことを言う」ことが多い.「当社にとっては本当は不利 なことなんですが」とか「本来ならば料金を頂くところなんですが」と枕詞を 並べて,個人的な誠実さをアピールする.”権威をかさにきていない”ことを 示すことで,彼のまとった権威に,いっそうの真実味をつけ加えるのである. (115頁)

…カルトの思想コントロールにおいて,独特な言語体系の習得が大きな鍵となっ ている…(131頁)
特殊用語を補強するものとして,さまざまな思考停止のテクニックがある.集 中的な祈り,瞑想,大声あるいは小声の唱えごと,歌やハミングなどである. (133頁)

食物を採らなければ,肉体が栄養失調になってしまうのと同じく,「象徴や神 話」を採らなければ,ぼくたちの思考は栄養失調になってしまう.そのときの 「象徴や神話」は,新鮮であるほど,食指をそそる.(217頁)

藤井康宏
『洗脳ごっこ:洗脳する人される人』
(毎日新聞社,1999年)


The ability to do mathematics -- everything from simple arithmetic to thinking up equations that explain an expanding universe -- may stem from the interaction of two brain circuits that handle numbers differently, two scientists have found.

In a series of experiments involving bilingual college students, the researchers discovered that one circuit gives names to numbers and carries out exact calculations. A second circuit operates intuitively and is used for estimating quantities and other numerical relationships. During human evolution, they suggest, these two brain areas combined forces and gave rise to the remarkable human capacity for manipulating numbers arithmetically. Their interaction may also underlie many kinds of advanced mathematics.

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Studies show that rhesus monkeys have a number sense and that chimps can use symbols for numbers. Birds and rats can count. Human infants can detect changes in the number of objects in an array, suggesting they have a number sense. At the opposite end of the scale, stroke patients can lose aspects of their ability to do arithmetic, Dr. Dehaene said. For example, some cannot decide what number falls between 2 and 4 or whether 9 is closer to 10 or 5, yet they can easily rattle off multiplication tables. Others cannot decide if 2 plus 2 equals 3 or 4 but if asked which number they prefer as an answer -- 3 or 9 -- they choose 3.

From these clues, Dr. Dehaene postulated that within elementary arithmetic, there are at least two circuits for representing a number. One is language based. It stores tables of exact arithmetic knowledge, like the multiplication tables. The second is independent of language. It represents number magnitudes and has been called a mental "number line" used to approximate and manipulate quantities.

To test this idea, Dr. Spelke asked volunteers who were fluent in Russian and English to solve a series of arithmetic problems. One group was schooled in Russian, the other in English. One set of the math problems involved exact calculations: does 53 plus 68 equal 121 or 127? Another set of problems involved approximating answers: is 53 plus 68 closer to 120 or 150?

When approximating answers, both groups performed the same whether they were tested in English or Russian, Dr. Dehaene said. But a different pattern emerged for exact calculations. When those taught in Russian were tested in English or vice versa, he said, the volunteers needed up to a full second or more to solve the problem.

The researchers concluded that knowledge about exact problems is stored in a language area because subjects had to translate internally to solve the problem. But in approximating answers, no translation time is required, suggesting that this ability is stored independently from language.

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It looks like humans are "born with a start-up kit for numbers," Dr. Butterworth said, and must practice, just as musicians do. "We can recognize or identify the number of things in an array," he said. "If we see cows in a field, we see the threeness of cows without counting, just like seeing the brownness of cows without consciously thinking about color. We are also born with the ability to select the larger of two numbers. What's unique about humans is that we have developed a range of cultural tools which upgrade or add to this start-up kit. We've invented words for numbers and notations like decimals. And that gave rise to mathematical ability."

Sandra BLAKESLEE
"Brain's Math Machine Traced to 2 Circuits"
New York Times, May 11, 1999



"Some cases a lawyer can't lose," Facher often told his Harvard students. "Some, maybe, he can't win. You play the hand you're dealt." (p.154)

"If life was black and white and a sign came out and said, 'Okay, hero time,' then everybody would do the right thing. But there's never a sign. You never know when you're being a hero or a fool."(p.440)

"Rich and famous and doing good," mused Schlichtmann. "Rich isn't so difficult. Famous isn't so difficult. Rich and famous together aren't so difficult. Rich, famous, and doing good --- now, that's very difficult.(p.440)"

Jonathan HARR
A Civil Action
Vintage Book, 1995



In the old, cold-war days, when university scientists gathered together, they would turn to complaining about how secrecy strictures sometimes kept them from sharing their work, they usually meant pesky national security restrictions.

These days, they tend to mention nondisclosure agreements, worldwide patent rights, royalty streams, intellectual property fights -- in a word, money. And they talk about all the commercial hindrances to open science carried by the powerful wave of private capital that has been washing into the country's research universities in recent years.

Carey GOLDBERG
"Urging a Freer Flow of Scientific Ideas"
New York Times, April 6, 1999



渡り来し うき世の橋のあとみれば
       命にかけて あやふかりけり

商売は双方の利益をはかるようでなければ,幾久しく円満な取引は継続しない

「大倉 喜八郎」
『日本経済新聞』1999年4月12日朝刊


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