法律家の逸話

太 田 勝 造

 

 

 国連決議によるイラクのクウェ−トからの撤兵期限と 重なっていたので、今年の成人式はそれと気付かない間に過ぎ去ってしまった 感じすらするが、成人式を迎えた当の本人たちはやはり様々な感慨と決意を新 たにしたことであろう。私の成人式の場合、単に選挙権を獲得した日というだ けでなく、理科系から法学部へ転部しようとしていた最中であり、物理学や数 学と言った「宇宙的な真実探求」から法律学や政治学と言った「人間社会の真 実探求」へと人生の方向転換が行われた時期でもあった。その際の決意として、 後になって自己の認識関心の変遷を追跡できるように、新聞や雑誌等の興味を 惹かれた記事の切抜きをファイルして行くことにした。これは、当時友人たち との読書会で読んで感銘を受けた色川大吉氏の『ある昭和史:自分史の試み』 (中央公論社一九七五)に示唆を受けたものであった。日記や評論を書き続け る忍耐力がないことは分かっていたが、読んで面白いと思った記事のファイル くらいは継続できるだろうと考えたからである。法律・政治関係はもちろん、 思想・社会・文化・自然科学から逸話・ジョ−クまで、何等かの意味で関心を 持ったものはファイルして行った。現在ではファイル・ブックが一〇〇冊を超 えている。確かに今読み返してみると、自分の認識関心の変遷が手に取るよう に分かる。その中から、法律家の面白い逸話をピック・アップして見ようと思 う。

 ハ−ヴァ−ド大学教授時代に名著『コモン・ロ−』を 著し、マサチュ−セッツ州最高裁判所判事を経て、一九〇二年から一九三二年 まで合衆国連邦最高裁判所判事を勤めたオリヴァ−・ウェンデル・ホ−ムズ・ ジュニア(Oliver Wendell Holmes, Jr.(1841-1935))の名前を知らない者は、 およそ真面目に法律学を学んだ者の中にはいないであろう。彼の祖父の名字は ジャクソンといい、やはり有名な裁判官であった。ホ−ムズ判事は、自分の判 決意見の中で祖父ジャクソン判事の書いた判例を引用する時、とても誇らしげ であったと言う。彼の父も名前をオリヴァ・ウェンデル・ホ−ムズ・シニア (Oliver Wendell Holmes, Sr.(1809-1894))といい、ハ−ヴァ−ド大学の有名 な医学部教授であったが、それ以上に詩人兼随筆家として高名な人物であった。 ちなみに、ホ−ムズ・シニアの弟、すなわちホ−ムズ判事の叔父であるジョン・ ホ−ムズ(1812-1899)も法律家であったが、兄の高名の影に隠れて目立たない 人生を送ったという。兄の催した有名人だらけのあるパ−ティで、子供からサ インを求められたとき、

「有名な兄の弟ジョン(John Holmes, frere de mon frere)」

と書き付けたという逸話が残っている。

 ホ−ムズ判事は若い頃南北戦争に出征し、三度も負傷 している。それらの傷が癒えたとき、若きホ−ムズはロー・スクールへ行って 法律家になろうと考えた。その決心を伝えに父の書斎へ行くと、ホ−ムズ・シ ニアは仕事中であった。何の前置きもせずに、

「ロー・スクールへ行くことにしました。」 と言うと、ホ−ムズ・シニアは仕事から顔を上げて言った。

「ロー・スクールがいったい何の役に立つんだね。法律 なんかやっていては立派な人間にはなれないよ。」

この逸話はホ−ムズ判事が九〇才の時に自ら語ったもの である。この父の言葉に反発して、ホ−ムズ判事は法律をやって立派な人間に なろうと命懸けで勉強し続けたという。その結果は言うまでもないであろう。

 フランシス・ベ−コン(Francis Bacon (1561-1626))は 経験論哲学の創始者として有名であるが、もともとは大法官にまでなったイギ リスの法律家である。哲学者兼裁判官にしては俗物的なところもあったようで、 一六二一年に汚職の罪で公権を剥奪されている。ベ−コンが大法官として、あ る刑事上告事件を審理したときのことである。被告人の名前はホッグ(Hogg)で あった。ホッグはベ−コンと親戚関係にあると主張し、だから助けて下さいと 懇願した。ベ−コンがハテという顔をすると、

「だってダンナ、豚(hog)からベ−コンを作るじゃないス か。」

と申し立てた。間髪を入れずベ−コンが応えた。

「ベ−コンを作るためにはまずホッグ[豚]を処刑しなければ ならない。」

 イギリスの法律家の逸話にはこのような辛辣なものが 多いようである。ベ−コンを引用したものとして、やはり大法官になったフレ デリック・エドウィン・スミス(Frederick Edwin Smith (1872-1930))の次の 逸話が残されている。F.E.スミスが弁護士 をしていた若い頃、訴訟指揮をめぐって担当裁判官と喧嘩になった。

「スミス弁護士、ベ−コンのこんな言葉を聞いたことが あるかね。あの偉大な哲学者ベ−コンいわく、若さには思慮分別が伴わないも のである。君のような若造にピッタリの言葉じゃないかい。」

「もちろん聞いたことがございます。では裁判官殿は、 同じくベ−コンのこんな言葉をお聞きになったことがおありでしょうか。あの 偉大な哲学者ベ−コンいわく、おしゃべりな裁判官のうるささは音 程のずれたシンバルよりもひどい。…」

 辛辣な逸話としては次のようなものもある。F.E. スミスは、極度に肥満していた最高裁判所長官ゴ−ドン・ヒュ−ワ−トのビヤ 樽のような腹をからかって、

「長官のお腹の子は男でしょうか女でしょうか。」

と聞いた。ヒュ−ワ−ト長官がすかさず応酬した。

「男だったらジョンと名付け、女だったらメアリ−と名 付けるよ。しかし、もし腹の中にあるのがタダのガスだったら、くそったれの F.E.スミスと名付けるが、たぶんそうなると思うよ。」

 最後に、アメリカの法律家の逸話に戻ろう。パトリッ ク・ヘンリ−、エイブ・リンカ−ンと並んで合衆国最大の演説の名手のひとり に数えられる政治家ダニエル・ウェブスタ−(Daniel Webster (1782-1852))も、 若い頃は弁護士として辣腕を振っていた。 あるとき、若きウェブスタ−は後に妻となるグレ−スの家を訪れることが許さ れた。彼は、居間で彼女が毛糸の玉をほぐすのを手伝ってあげていた。彼は突 然それを止めて彼女に言った。

「グレ−スさん、私たちは今まで毛糸の結び目をほぐし ていました。今度は一生かけても解けないような結び目を作れるかどうか試し てみましょう。」

ウェブスタ−は紐を持ち出して複雑な結び目を途中まで 作り、グレ−スに渡して最後まで仕上げてもらった。そして、ふたりはこれを 婚約の印にしたという。ウェブスタ−の死後、「貴重品」と書かれた小さな箱 が遺品の中に見つかった。その箱の中には、結ばれたままのこの紐が入ってい た。



《名古屋大学法学部法律相談所雑誌『離軽舞人』22号(1991)》


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