法社会学に対する期待と抱負

 

 

1997517(土曜日)
日 本法社会学会創立50周年記念式典
太 田 
勝 造(OTA Shozo)

 

 

 東大の太田でございます.若手として法社 会学に対する期待と抱負を語るよう仰せつかったのですが,期待を喪失して隠 遁するには若すぎる反面,「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と抱負を高く掲 げるには歳を取り過ぎている気がして戸惑っています(笑い).と申しますの も,先日大学の理科一類時代のクラス会があったのですが,それに欠席した数 学の異常に良くできた友人についてそこでは「彼は若くして教授になり,大数 学者になると期待されたが,結局普通の数学者の域を出なかった」と過去形で 語られていたからです. 40歳前のクラスメー トが既に過去の人になっていたわけでして,社会科学へと「転向」した私とし ては,法社会学をやって長生きできてうれしいと思うと同時に(笑い),この 歳で抱負を語るのは面映ゆいという気持ちでもあります.

 今年1997年は,日本法社 会学会創立50周年という記念すべき年であると共に,法社会学という 比較的若い学際的研究分野にとっても記念すべき年ではないかとひそかに考え ています.それは,合衆国のホームズ判事が「法の合理的研究に適しているの は訓古学の人であると現在では考えられているかもしれないが,将来において は統計学や社会学,経済学を修得した人でなくてはならない.」と宣言したの が今からちょうど100年前だからです.そしてホームズ判事のい う「法の合理的研究」こそ私が法社会学に期待するところのものだからです.

 法社会学のますますの発展の方向は,やは り学際的研究としての原点に立ち帰ることで展望できるだろうと思います.そ の原点とは,若干バタ臭い表現をすれば「知的クロスオーバー」だろうと考え ます.知的クロスオーバーには,天地人の三つの位相が区別できるでしょう. ここで私の言う「天」とは方法論を意味します.社会科学の諸分野は 20世紀を通じて熱帯雨林の生態系のようにその高度の多様性と相互依 存性を進化させてきています.このジャングルのような複雑系の中では,「ジャ ンル」という言葉は生彩を欠いたものとなってきています.例えば,法社会学 とは何たるべきか,というジャンル的発想の問題設定自体が社会科学のクロス オーバーの中で意義を失いつつあります.社会学の方法であれ,心理学の方法 であれ,経済学の方法であれ,統計学の方法であれ,法をめぐる社会現象の解 明に役立つものなら何でも使って構わないし,使うべきだと思います.なぜ使 うか(ホワイ)を考えるより,どうして使わないのか(ホワイ・ノット)とい う積極性が必要でしょう.

 知的クロスオーバーの第二の位相が「地」 ですが,これは地理的交流,すなわち国際化を意味します.昨年,国際法社会 学会(RCSL96)が日本で開催され日本の法社会学を海外に知らしめる起 爆剤となったことは記憶に新しいところです.この大会については私にも,忙 しい緊張の日々を送った個人的記憶があります.法律学の分野でも,日本法に 対する実務的関心はもとより学問的関心が海外でも昂揚しつつあります.社会 について語ることなく法を語ることは不可能であることから分かりますように, 日本の学者が日本法を説明したり,外国人が日本法を研究したりする上で,日 本の法社会学の方法と成果への理解は必須です.私もこの秋から半年ほど合衆 国で日本の法と社会について講義をする予定ですが,その準備の中でも法社会 学の知的遺産に自分がいかに負うているかを痛感しています.20世 紀の日本の学問は全般的に,海外の研究を吸収するが発信はしないという意味 で「知的ブラックホール」と揶揄されたりしました.しかし,21世 紀の日本の学問,とりわけ法社会学は,海外へ発信をする「知的ホワイトホー ル」となるものと期待しています.

 知的クロスオーバーの第三の位相が「人」 ですが,これは言うまでもなく人的交流,すなわち多様な共同研究です.日本 社会の法化の進展も急激ですし,日本の法律学の発展も急速です.私たち法社 会学者のほとんどは法学部出身者ですが,それでも,最近の法の進化をフォロー しきれるものではありません.したがって,21世紀の法社会学研 究のほとんどは,社会科学をマスターするとともに法律学の基礎的素養も身に つけている者としての法社会学者と,高度の法律学の専門的知識を有する法学 者との共同研究によって進められるようになるでしょう.また,先に述べまし たように,社会科学の多様化と高度化も顕著です.一人の法社会学者がすべて の社会科学諸領域の方法と成果をマスターできるものではありません.分野を 超えた共同研究もますます盛んになるでしょうし,そうならなければならない と思います.何々学部の所属だから,とか,何々学の研究者だから,などといっ た理由で共同研究相手を選り好みするような「霞ヶ関的発想」を決してしては ならないと思います.さらに,国際的共同研究もますます盛んになるでしょう. なぜなら,社会科学というある程度ユニバーサルな方法論と,法というローカ ルな対象との組合せは,国際比較研究に適しているからです.

 以上の法社会学への期待に対して,私がど れほどの貢献をなしうるかは心もとない限りです.しかし,非力ながらできる 限りの努力はしたいと思います.そして,21世紀の中葉,人生 の最終段階になったとき,自分の曾孫たちに向かってバートランド・ラッセル の次の言葉を私も自信を持って語れるようになりたいというのが私の抱負です.

“... This has been my life. I have found it worth living, and would gladly live it again if the chance were offered me.”



《『法社会学』50号 (1998) 241頁》

 



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