《コ メント》法の学際的研究を期待する

太 田 勝 造

 

 

 法学者には大別して,専ら「法教義学」ないし「法解釈学」の枠内で研究を している「伝統派(貞節派?)」と,心理学・社会学・経済学等の社会科学の 隣接諸分野の成果や方法を採り入れようと努力している「学際派(浮気派?)」 とがあると言える.もちろん,これらのどちらに属すかは程度の問題である. 法の規整対象が社会である以上,「世間知らず」で善き法律学者たりうるはず はなかろうし,逆に,心理学・社会学・経済学等を研究したからといって必 ずしも世の中が見えて来る訳でもなかろう.

 コメンテイタ自身は,自己認識としてはどちらかと言えば学際派の 法学者に属するであろうと考えるものである.しかも,良く言えば実利派,悪 く言えば日和見主義者で,法律学の直面する難問に対する「特効薬」を隣接社 会科学に期待するタイプであると思っている(ないし,思われているであろう と思っている).このような観点からこの第U部を見たとき,心理学からのア プロ−チである第4章の山岸論文と第5章の萩原論文,経済学的アプロ−チ (より厳密には社会選択論ないし政策科学からのアプロ−チ)である第6章の 足立論文から受ける印象は,社会科学に法律学の根本問題への「切り札」を求 めることは,やはり,「青い鳥」を山のあなたに追い求めるようなもののよう だということである.しかし,これは決してネガティヴな評価を意味していな い.むしろ,ともすると印象論のぶつけ合いの形で「神々の争い」を演じてい る法解釈学に対し,その「不毛性」を間接的にせよ白日の下に晒しているとい う意味では,極めて重要なものであると思う.

 学問の諸分野の間には一種のペッキング・オ−ダ−が存在しており, 社会科学は自然科学に憧れ,経済学は物理学に憧れ,法律学や政治学は経済学 に憧れると言ったように「片思い」の連鎖が見受けられる(これは,「コンプ レックスの連鎖」でもある).「思われる側」から見たとき「思う側」は得て して「遅れた学問」に映る.そして,困ったことに法律学は最近では「最も遅 れた学問」に位置付けられているようである.しかも,これが全く的外れだと は言えない面があるのでなお困る.社会科学の諸分野の研究者が法律学との隣 接分野を研究する必要から法律学をかじると,そこには,検証も反証も不能な 命題,スペキュレイション(見込み判断)だけに基づく安易な価値判断や感情 論,論理の飛躍と論理の矛盾,さらには,「捏ち上げ」などが満ち満ちている ことに驚かされるという.もちろん,スペキュレイションは「発見の母」であ り,捏ち上げは「理論の父」である.神々の争いの背後には社会に対する深い 洞察が隠されていることも多い.法解釈学の「不毛性」も,見方を変えればイ マジネイションの豊さということになろう.

 法は社会を規整するものであるとともに,法は価値や思想を具現す るものでもある.従って,法律学には,前者に対応するところの,実践的ある いは技術的な研究と,後者に対応するところの哲学的ないし原理的な研究のふ たつがある.もちろん,この区別も程度の問題であり,哲学なき実践は危険で あり,実践への考慮なき法の哲学は空虚であろう.しかし,これらのどちらを 重視するかで,法に対する理解の仕方も微妙に異なってくる.価値の具現とし ての法という側面を重視する場合には,法の世界を閉じたもの,独自なミクロ・ コスモスであると考える傾向が出てくる.他方,社会規整の道具として法を捉 える場合には,ソウシャル・エンジニアリングの枠組みで法の正当性や機能を 考える傾向が強くなる.

 第4章と第5章は,主としてミクロ・コスモスとしての法律学にお いて論じられてきた問題,すなわち,道徳と法,および,責任概念の問題につ いて,心理学からアプロ−チしたものである.進化論的パラダイムの法律学へ の利用を考えているコメンテイタから見ると,第4章で紹介されるコ−ルバ− グ理論の前提,すなわち,道徳性は構成化の仕方の問題であり,構成化は有機 体と外界との相互作用の中で変化して行くとする考え方は,脳の発達における 進化論的理論とパラレルに理解でき,大変に素直な前提であるように思われる. と同時に,発達の方向は論理的に説明可能な分化,統合あるいは均衡化に向っ ている,とする仮説は,人間の進化の上でのいかなる環境・状況に対する適応 なのであろうかとの興味もひかれる.なぜなら,道徳性発達段階の普遍性は社 会的環境の普遍性に基づいており,社会的環境の普遍性は人類進化における環 境の普遍性に起因していると期待されるからである.

 コ−ルバ−グによれば,自己(前慣習的水準)から,他者や社会 (慣習的水準)を経て,普遍的倫理原則(原則的水準)へと役割取得の対象が 拡大する過程として道徳性の発達を考える.そして,これに対応して,法と道 徳の関係についても,「法に従う道徳性」から,「法を維持する道徳性」を経 て,「法を創る道徳性」へ至るという法的社会化の段階的発達を考える.この 理論は,法の「本質」が,「強制」にあるのか,内面化された「規範・道徳」 にあるのか,それとも,「原理」にあるのかといった法律学の旧くからの議論 を直接に解決するものではないが,重要な示唆を与えるものである.また,道 徳性発達を促進する要素としての「認知的葛藤の経験」と「道徳的環境」の理 論は,訴訟等の法的紛争経験が法意識を高める機能を有することや,手続保障, 意思決定への参加,および,法の公正性の認知が法的発達を促進することなど を示唆していると思われる.このような理論を基にして,現実の訴訟手続,と りわけ,口頭弁論やいわゆる和解兼弁論(弁論兼和解)などが,人々の法的社 会化の発達を促すものとなりえているかを評価して行くことが,法律学の今後 の課題であると言えよう.

 筆者山岸自身による日本人の道徳判断の発達の調査によると,普遍 的価値にコミットするより,状況や対人関係における価値を重視して解決を求 める傾向が強いとされる点は,日本人の法意識や法文化を考える上で多大の示 唆を与えてくれるように思われる.

 第5章は,刑法の基礎理論として,あるいは,損害賠償の根拠の理 論として法律学において議論されてきた「責任論」についての心理学的アプロ −チである.法律学における責任論は,刑罰にせよ損害賠償にせよ,社会の名 において不利益を強制するという社会的決定の根拠をめぐる議論である.従っ て少なくとも,なぜその者に責任を課すのか,なぜ社会の名において責任を課 すのか,および,なぜそのような不利益(賠償や量刑)を責任として課すのか, という3つの問題に答えることができなければならないものである.

 これに対し,ここで紹介される社会心理学(帰属理論)のアプロ− チは,筆者萩原が指摘するように,具体的ケイスへの所与の帰責ルール適用に おける判断の歪み(バイアス)をもたらす要因の研究や,責任判断をもたらす 要因の研究が中心であり,責任判断の基準や過程の研究はまだ初期の段階であ る.従って,これらの研究は,法律学における責任論自体についての示唆より も,適正な訴訟手続を構築する上での有益な示唆の方をより多く与えてくれる ものであると言える.

 第6章は,政策実現手段としての法を評価する場合の手続的ならび に実体的基準について,経済学的なアプロ−チをしている.政策実現手段とし て見ることは,ソウシャル・エンジニアリングの枠組みで法を考えることであ り,日本の法律学にとっては比較的新しい見地であるといえる.プラグマティ ズムの国アメリカ合衆国などの法律学では,リ−ガル・インスツルメンタリズ ムとしてむしろ主流の考え方である.法が社会的決定である以上,その社会的 正当性が実体面と手続面で検討されなければならない.

 筆者足立は,それぞれの政治社会に,程度の差こそあれ一般に広く 共有された政策原理があり,それを基にすれば政策評価という社会的価値判断 も合理的に議論できることを出発点にする.そして,日本を含む先進資本主義 国で広く承認されている原理を分配的原理,総計的原理,および,技術的原理 に3分類して12項目ほど掲げている.これらの原理は暫定的,差し当たりの ものであるから,絶対的正当性を主張することはできないが,他方,当該社会 では一般的に承認されているので,これらに反する主張をする側に正当化の責 任が課されるとする.また,これらの原理は相互に矛盾抵触し得るが,その葛 藤の「解決」としては,原則として,相互にトレイド・オフの関係として捉え, 総合判断をするべきであるとする.

 社会選択論の法律学への応用を考えているコメンテイタから見ると, この章の考え方は極めて素直で説得的なものに思われる.と同時に,若干の 「ないものねだり」もしてみたくなる.手続法の研究者として見ると,「広く 承認された政策原理」の分類の中に,手続的正義の原理が(それがどのような ものであるかも問題であるが)独立して論じられていないのが残念である.ま た,トレイド・オフは,異なる原理各々の相対的ウェイト(交換比率)を確定 し,原理間の葛藤に対処する方法であるが,「交換比率」の形だとしてもそれ は測定可能なのであろうか.たとえ個人についてそれが測定可能であるとして も,社会的決定の際には個人間比較の問題が生じうるはずであり,はたして 「市場価格」の場合のようにうまく行くのであろうか.あるいは,「囚人のディ レンマ」のような状況は生じないのであろうか.さらに,ある問題について, 一元論を採るべきか,レキシカル・オ−ダ−を採るべきか,トレイド・オフを 採用すべきかの点で争われるという「メタ・葛藤」が生じた場合,どのように 対処するのであろうか.

 より基本的な問題として,「広く承認された政策諸原理」を基礎に しているが,投票のパラドックス,アロ−の一般可能性定理,センの自由主義 のパラドックス,ギッバ−ド・サタ−スウェイトの定理などの,社会的決定手 続の根本問題を想起するとき,これら政策諸原理が社会で広く承認されている というだけで議論の出発点にして十分なのであろうか,それとも,他に実質的 な理由があるのであろうか,という疑問がわく.さらに,これら政策諸原理の 相互関係に原理的・論理的矛盾が存在しないという保証,社会的決定としての 政策評価においてパラドックスが生じないという保証等についての検討も必要 であると思われる.結局,本章の提案は,社会的正当性をもって政策決定権限 を付与された者が,合理的に政策を策定・評価するための理論として位置付け ると「特効薬」になり得るものであるように思われる.

 以上では,数多くの「ないものねだり」をコメントとして書いてき たが,それは心理学・経済学・社会学等と法律学との学際的研究への絶大な期 待の裏返しであることはいうまでもない.これらの分野の専門家が今後益々法 律学との学際研究に携わってくれるようになり,この学際研究分野が益々発展 することを期待してコメントを締めくくることにする.

《木下冨雄・棚瀬孝雄(編)『応用心理学 講座5: 法の行動科学』123-128頁(福村出版,1991年)》


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