メタ超心理学研究室

研究討論会活動


2004年11月27日(土曜)

読書会

(A) 寺沢龍著 『透視も念写も事実である〜福来友吉と千里眼事件』
 草思社、2004年、309頁、本体価格1800円

(B) 森達也著 『職業欄はエスパー』
 角川文庫、2002年、396頁、本体価格781円

提題者:石川幹人


(A)
 福来友吉博士の研究業績や千里眼事件については、さまざまなメディアでたびたび取り上げられるトピックであるが、本書は、それらを現代語でまとめて読める画期的な文献である。博士の生まれや育ちから始まり、透視能力者たちとの出会い、念写の発見、千里眼事件、大学追放、そして晩年の活動に終わる。博士の82年の生涯が、その時代背景とともに、きわめて具体的に綴られている。登場人物が何を考え、どのような信念をもって行動したか、新聞などのメディアとどのようにかかわったか、100年前とは思えないリアルさである。
 本書の新聞報道の引用で、目をひくところをあげてみよう。千里眼事件後に、長尾郁子は、籐の詐欺よばわりの発言に激しく反発し、「いずれか実験に負けたる者はみごと腹を切って果つることにしましょう。実験に際してその約束を契約書で取り交わしましょう。藤さんも男児ならば、この立会実験に来るべきです」(東京朝日新聞)などと言ったようであるが、彼女の気の強さとともに能力者としての自信がかいま見える。また、事件後に福来博士は、「私も今までは世間はもっと単純なものと思っていましたが、千鶴子、郁子の両婦人で千里眼の実験をやって以来、世間の非常に複雑なものであることを知りました」(報知新聞)と述べているが、博士自身、世の中の動きが予測できないまま、騒動の渦にのみ込まれていくさまが見てとれる。
 「あとがき」で著者は、評論家の立花隆氏が書いた千里眼実験に関する論述を批判している。立花氏の論述には、千里眼を詐術として疑う前提が根底にあるが、その根拠となる参考資料は、千里眼実験には参加せずに反対にまわった中村清二博士が代表になって編纂された文献である、という。「この本をおもに典拠とした立花氏の論述はそれなりに理解できなくもないが、『知の巨人』も中村清二の術中に嵌まったかという思いは遺る」のくだりは、考えさせられる。サイ現象の社会的位置づけの問題は、千里眼事件からスプーン曲げ少年騒動をへて、現在にまで解決されずに残されているのだ。実は、立花氏もスプーン曲げ少年騒動に深くかかわっている。その一端は(B)文献および、植谷雄高との対談『無限の相のもとに』平凡社の冒頭に書かれている。

(B)
 著者は、『「A」マスコミが報道しなかったオウムの素顔』(角川文庫)、『放送禁止歌』(光文社知恵の森文庫)で知られる、気鋭のドキュメンタリストである。彼は、社会の隅に息づくマイノリティーの特異な空間に身を寄せながら、その位置から逆に社会を見つめ、隠れた問題性を批判的にあぶり出すという、独特の手法をもっている。いわば、彼の作品に触れていると、おのずから「マジョリティーの特異性」に気づかされるのである。
 そうした著者の主要作品のひとつとも言えるのが本書である。もともとは1998年にオンエアされた同名のテレビドキュメンタリーの収録経過をまとめたものであり、2001年に飛鳥新社から『スプーン〜超能力者の日常と憂鬱』として出版された単行本が、改めて文庫化されたのである。
 本書には、スプーン曲げの清田益章、UFOを呼ぶ秋山真人、ダウジングの堤裕司の3氏に関して、8年間にわたってつかず離れずの微妙な距離を維持しながら取材を続けた記録が、描かれている。ときには不可思議な現象をまのあたりにする著者が、「超能力者」の孤独と苦悩にじかに触れながら、「超能力」という概念化に葛藤する様子がよく見てとれる。
 また、本書を読み進んでいると、著者の感性の鋭さや表現力の巧みさに何度も心を打たれる。ひとつ例示をしよう。「実験科学の旧来からの手法にこの現象がどうしても馴染めない理由のひとつは、再現性がなく追試が不可能だからだと肯定派はよく弁解のように口にする。しかしそれだけじゃない。理由はわからないがほとんどの自称超能力者たちは意識下で、できることなら発現したくないと抑制していると僕は思う。彼らの無意識の領域に、この能力に光を浴びせたくないという衝動が間違いなく存在している。それは断言できる。断言はできるが理由はわからない。根拠の曖昧な確信など矛盾している。その自覚はあるが仕方がない。この矛盾が、8年間にわたる彼らとの付き合いで、今の僕が確信できた唯一の実感だ」(298頁)とある。これはまさにバチェルダーが提唱した「保有抵抗」と「目撃抑制」の理論(詳しくは超心理学講座5-1を参照されたい)と合致する、核心をついた指摘である。著者にはフィールドワーク研究者としての力量もかなりあるのでは、と思わせる。
 次の段落ではさらに、「…折れたスプーンを僕は家に持ち帰った。家族に撮影の様子などを説明しながら、ふと思いだしてもう一度折れ口を近づけてみると、テーブルの上の2つの破片は、また弱々しく引き合った。…(中略)…『ホンモノのエスパーだ』と最初はテーブルの周りで大騒ぎだった子供たちは、微かに引き合うだけの折れたスプーンに興味が持続するはずもなく、いつのまにかテレビゲームを始めていた」とある。このくだりには、超常現象がきわめて個人的な体験であると同時に、我々の日常生活からはかなり乖離しているという事実にまつわる、虚しさや寂しさがにじみ出ている。
 また本書の楽しみ方のひとつとして、登場する人物について「味わう」のもお勧めである。否定派のシンボル的存在の大槻義彦教授や、肯定派の漫画家つのだじろう、その他多くの芸能人のテレビ画面に現れない側面を知るのもおもしろい。他にも自称能力者や研究者も次々に登場するので、この分野に明るい人であれば、さらに「あぁ、あの人ね」という発見もあるだろう。
 最後に、もっとも共感すべき点をあげておこう。それは、あとがきの最後で千里眼事件について触れ、今日までおよそ1世紀にわたって混迷した状況が続く実情を憂う部分である。「大学というアカデミズムにおける迷宮、マッチポンプの役割しか果たさないマスメディア、この構造は今もまったく変っていない」と喝破する著者は、早川一氏の「我々はとてつもない迷宮の森で、未だに出口が見つからない状況にあるのかもしれない」という言葉(『オカルトがなぜ悪い!』新人物往来社236-247頁に所収の論文の末尾)を引き継いで、それでもわずかに期待するとすればと、次のように結ぶのである。
 「小さいものや弱いものや薄いものを見つめることが大切なのだ。目を凝らせばきっと出口は見えてくる。他者の営みを想う心をとりもどすだけでよい。」


メタ超心理学研究室トップへ戻る