書評・市民立法機構編『市民立法入門』(ぎょうせい、2001年)

   西川伸一  * 『QUEST』第20号(2002年7月)

 民主主義の赤字ということばが気になって仕方がない。EU(欧州連合)には加盟諸国の市民の直接選挙によって選ばれる欧州議会がある。にもかかわらず、選挙を経ないユーロクラット(欧州官僚)が構成する欧州委員会が、欧州全体の政策や立法の提案・実行に強力な権限をもっている。本来、そうしたパラドクスをさしたものである。

 このことばを、議会の意思とそれを選んだはずの市民の意思が乖離している構図に応用してみたい。むだな公共事業に象徴される「民意を無視した政策」が行われる状況は、民主主義の赤字ではないのか。人々の投票行動を決定づけるのが、人もしくは政党本位(「お任せすべき人」「頼るべき政党」)であって、政策本位(「正しいと信ずる政策」「実現すべき政策」)ではないことが、「赤字」を生み出す大きな原因になっている。

 本書が提唱する市民立法は、この「赤字」解消の有力な手段である。

 提出者に着目して法律をとらえると、政府立法と議員立法に大別することができる。すなわち、法制上は市民の介在する余地はない。しかしそれは立法作業の「結果」であって、そのプロセスに市民が積極的にかかわった法律を本書では「市民立法」とよんでいる。「市民立法とは市民の発案により法を制定しようとするプロセスである」(45頁)。「議員がイニシアティブをとる議員立法と区別し、市民自らがイニシャティブをとっていることをはっきりさせるために、『市民立法』と呼ぶようになった」(177頁)。

 では、市民立法にはいかなる意義があるのか。

 ルソーがその著『社会契約論』のなかで、「イギリス人が自由なのは選挙のときだけである」と述べて間接民主主義を批判し、直接民主主義の小国(小さな共同体)を理想的な社会像と考えたことは広く知られている。市民立法は、直接民主主義の具体的実践例とみなすことができる。要するに、「選挙のときだけ市民としてふるまい、あとは代表に任せきりにするのではなく、日常的にルールづくりに関与することで、初めて人々は本当の意味で主権者になることができるのである」(37頁)。

 国会の立法機能が「国対」と呼ばれる院内段取り作業に矮小化され(243頁)、条例を制定できる地方議会が「議事録の読み合わせに近く、まるで弁論大会」(127頁)である現状を思えば、市民立法に大きな期待がかけられるのは論理的必然とさえいいうる。それを下支えしているのがインターネットの普及である。

 2001年4月から、総務省行政管理局による「法令データ提供システム」(http://law.e-gov.go.jp/cgi-bin/idxsearch.cgi)がインターネット上で公開された。さらには、鹿児島大学法文学部政策学科が「全国条例データベース」(http://joreimaster.leh.kagoshima-u.ac.jp/)を開設している。こうして私たちは、インターネットに接続しさえすれば、法律、政令、省令、さらには条例、規則などの情報をきわめて容易に得ることができる。そして、市民立法づくりの仲間を捜そうと思うなら、全国のNPO法人のデータベース「NPOの広場」(http://www.npo-hiroba.or.jp/)にアクセスすれば容易に見つかるであろう。

 とはいえ、本書は議会を無視せよ、迂回せよと説くものではない。代議制と直接性を相互補完的に尊重することで、「『思慮深い民主主義』の構築を目指す」(23頁)と主張する。重要なのは、市民が観客民主主義から一歩踏み込んで、「立法に参加している」という実感によって当事者意識をもつことである。そこから自己反省も生まれよう。

 加えて、市民立法をはばむ制度的障害についても、本書は様々に目を配っている。たとえば、現行の直接請求制度。地方自治法には条例の制定および改廃請求権が定められている(同法12条1項、74条〜74条の4)。有権者の50分の1の署名で自治体の長に請求できるが、その採否は議会が決するのである。「住民投票によって最後の判定を与える方法が全く開かれていない」(10頁)。これは「住民発議・住民投票制度とは似て非なるものなのである」(109頁)。

 市民立法の実践例がその参加者によって紹介されている各章も興味深い。河川法、NPO 法、情報公開法、フロン回収破壊法など。政府立法、議員立法という「結果」にかかわりなく、そのプロセスへの市民参加はもはや不可欠かつ不可避であることを確信させる。生活者としての市民の現場の声を、立法過程にストレートに届けるチャンネルが整備されなければならない。

 市民側での問題は、市民立法にさく資源(時間やお金)をいかに確保するかであろう。19世紀の議会は「教養と財産」をもつ市民(ブルジョアジー)のサロンであった。くれぐれも21世紀の市民立法が、その資源に恵まれた市民だけのものにならないように。

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