民主主義の充実へ市民の裁判参加を

西川伸一『もうひとつの世界へ』第8号(2008年4月)26-28頁

 周防正行監督の映画『それでもボクはやっていない』をみた。痴漢の犯人と間違えられて逮捕された主人公が、裁判で身の潔白を証明しようとする。ところが、担当の裁判官(途中で裁判官の交代があり二人目の裁判官)は、主人公の法廷での証言をまるで信用しようとしない。主人公や弁護人が、供述調書は恫喝と威嚇に満ちた、ときには甘言を弄した取り調べの結果だといくら法廷で証言しても、この裁判官は調書の任意性を疑わない。

 裁判官は九九・九%という刑事裁判での有罪率をおかしいと思わないのか。逮捕・勾留ののち自白するまで釈放しない(保釈を認めない)人質司法という捜査手法の現実を知らないのか。「調書裁判」に偏る裁判官の「有罪慣れ」には根深いものがある。

 刑事事件で無罪を言い渡すことは、検察官の顔を潰すことになる。国家権力は信用できないと公言するに等しい。優秀な検察官が作成した調書より、どこの馬の骨かわからない被告人の法廷での証言を採用して心証を形成する裁判官はごく一握りであろう。この映画で、交代前の裁判官はその「一握り」に属しており、それ以前の事件で無罪判決を立て続けに出したために左遷させられてしまう。国家権力に逆らう裁判官は出世できないのだ。

 もちろん、供述調書はどれも嘘ばかりというわけではない。圧倒的多数の供述調書は信用に足るものである。だからこそ、裁判官はベテランになればなるほど、調書は疑いえないものとの意識が刷り込まれ、「有罪」という先入観をもってしまうことになる。

 この「有罪慣れ」は当然のこととして、冤罪の温床となる。免田事件をはじめ、戦後まもない時期の死刑判決確定事件四件が、三〇年以上も経たのち再審無罪となって確定している。だれが彼らの人生をあがなうのか。この言語道断の国家犯罪も自白調書に裁判官が任意性、信用性を認めたことに元凶がある。

 これらは戦後の混乱期のことだからと問題を過小評価してはならない。二〇〇七年一月、富山で冤罪事件が明らかになった。富山県警は二〇〇二年に県内の男性を婦女暴行容疑で逮捕し、この男性は懲役三年の実刑判決を受けた。すでにこの男性は〇五年一月に仮出所している。ところが今頃になって真犯人が逮捕され、この男性の無実が証明された。当時の取り調べでは、「やっていないと言っても信用されるわけがないと思った。言われるままに認めざるを得ない状況だった」という。

 密室での「自白」の強要とそれに基づく調書作成はいまも進行中の事態なのである。取り調べの可視化を強く望みたい。

 それでも、裁判官はこの現実になかなか目を向けようとしない。検察官との「官」としての同族意識がこれを阻んでいる。彼らの自助努力には期待できまい。となれば、裁判官の「有罪慣れ」と「調書裁判」を打ち破るものは、供述調書に慣れ親しんでいない、「有罪慣れ」していない市民の力以外にはなかろう。そして、調書に頼らず法廷での証言中心の審理を行うのである。裁判員制度に私が期待する第一の点はここにある。

 さらに、より広い文脈で、市民の司法参加は国民の主権者意識の向上、ひいては民主主義の充実につながると私は考える。その点でも、裁判員制度は大きな意味をもつのではないか。

 一九世紀フランスの政治思想家トクヴィルはアメリカを視察して、そこで実施されている陪審制を政治制度として注目した。

 「陪審は人々に私事以外のことに専念させるように強いることによって、社会のかびのようなものである個人の自己本位主義と闘う。/陪審は驚くほどに人民の審判力を育成し、その自然的叡智をふやすように役立つのである。これこそは陪審の最大の長所だと、わたくしには思われるのである。陪審は無料の、そして常に公開されている学校のようなものである」(「/」は改行)。

 すなわち、トクヴィルは陪審を、市民の公共心を涵養させる学校だと考え、そこにアメリカの民主政治の基盤を認めたのである。陪審制は、「かび」にたとえられている私民としての市民を公民としての市民に脱皮させるてこになる。トクヴィルは、陪審制を「民主主義の学校」と位置づけた。

 トクヴィルの同時代人であるイギリスの思想家ジョン・スチュアート・ミルも同様の指摘をしている。

 「なおいっそう有益なことは、私人としての市民がまれにであっても公共的職務に参加することによって与えられる教訓の、道徳的な部分である。(中略)かれは、みずから公共の一人と感じるように(中略)される。公共精神のこの学校が存在しないところでは(中略)公共への同一化という非利己的感情がない」。

 「公共精神のこの学校」とは陪審制を指している。その存在は市民に非利己的感情を植えつける、とミルは主張しているのである。トクヴィルの言葉をあてはめれば、「社会のかび」をはぎ取ることに通じる違いない。

 もちろん、陪審制と裁判員制度はまったく別の制度である。しかし、裁判への市民参加という点では同質的といえよう。その意味で、トクヴィルやミルが指摘する政治的意義は裁判員制度にも見いだせるのではないか。言い換えれば、裁判員制度は新しい「公共」をつくる起点になる可能性を秘めていると私はとらえている。

 公的なことがらに関心をもつことは民主主義の基本である。そのきっかけを増やす裁判員制度は、民主主義の血肉化からみて実は深遠な含みを有しているのである。

 とはいえ、司法制度改革審議会がこうした崇高な観点から裁判員制度を提唱したとは考えにくい。高山俊吉『裁判員制度はいらない』で懸念されているように、義務を権利といいくるめ、国民をまた「赤紙」で召集する意図がそこに潜んでいるのかもしれない。確かに、「お上」が進める政策に賛成するのも業腹だが、「庇を借りて母屋を取る」戦略で裁判員制度を生かしていく価値は十分にある。

 日々の生活に忙しい市民にとって、裁判員制度は新たな負担を課すことになる。しかし、肉親が亡くなればみな「忌引」で仕事を休む。これは突発的な「欠勤」だが、だれもそれをとがめない。同様に、裁判員をつとめることは「社会的忌引」だという社会的合意を形成することが、裁判員制度定着の鍵となろう。

 〈参考文献〉

安原浩「裁判員制度導入の意義について考える」本林徹・大出良知・石塚章夫編『市民の司法をめざして─宮本康昭先生古稀記念論文集』日本評論社、二〇〇六年。

拙著『日本司法の逆説 最高裁事務総局の「裁判しない裁判官」たち』五月書房、二〇〇五年。


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