ぼくの子育て歳時記(7)春奈ちゃん殺害事件に思う

   西川伸一  * 投書で闘う人々の会『語るシス』第13号(1999年12月)掲載

 とんでもない事件が起きたものだ。いうまでもなく、先月末に東京・文京区で起きた春奈ちゃん(2歳)殺害事件である。

 当初、容疑者は「(春奈ちゃんの母との)つきあいの中で心のぶつかり合いがあった」と供述したと伝えられ、「お受験」をめぐる両者の明暗が犯行の動機として推測された。

 しかしその後、容疑者は「受験は事件と関係ない」として、「心のぶつかり合い」の中身については「周辺の人に『二人は仲良しだ』と見られなくてはいけないという義務感の積み重ねが原因だ」などと述べたとされる。

 この事件の直前にわが娘も2歳になったばかりで、他人事ではなかった。新聞の家庭欄には、容疑者の行為は同情の余地がないにしても、自分も同じ心理状態になった覚えがあるという専業主婦の告白がいくつか載っている。

 幼い子どもをもつ専業主婦の一日とは、どのようなものなのだろうか。これはわたしの想像である。

 朝、夫より早く起きて朝食の準備。夫を起こして朝食をとらせ、そそくさと送り出す。やがて子どもも起きてきて朝食。その片づけや掃除のあと、子どもを公園に連れだして遊ばせる。

 午前中の公園は、近所のお母さんと幼い子どもたちのたまり場だ。「公園デビューにふさわしい着こなし」とかいう特集が若いお母さん向けの雑誌で組まれるように、公園でのお母さんたちどうしのつき合い方には、相当気をつかうようだ。当然、グループができあがり、その中で形成される微妙な力関係に従わなければならない。

 お昼前に帰宅して昼食を子どもと食べる。やがて子どもはお昼寝。この時間が唯一彼女たちがほっとできるひとときかもしれない。2時間ほどで子どもが起きてくる。おやつを与え、今度は夕飯の買い出しに。このころにスーパーにいくと、だだをこねている子どもにお母さんが手を焼いている光景によく出くわす。

 4時からはNHKの教育テレビで「母と子のテレビタイム」がはじまる。これを子どもに見させて、夕飯の準備。6時にこの番組が終われば、今度は子どもと夕食。入浴させ、子どもの相手をしながら洗濯物をたたんだり。10時ころようやく子どもが寝入る。夫が帰宅するのはそれから、、。

 以前にも書いたが、育児に日曜も祭日もない。このような毎日が、子どもが4歳の幼稚園入園まで続く(もっとも、幼稚園は降園が早く、11時半には帰りの園バスが回ってくる)。自分の時間がもてない、そのほとんどが子どものために費やされるのである。自己実現とはおよそ縁遠い生活。

 自分におきかえれば、日曜日の朝起きるとわたしはいつも、きょう何時間自分の時間がもてるか考えてしまう。たいてい、夜に子どもが寝入ったあとの1、2時間くらいしかない。

 これが毎日続くかと思うと気が狂いそうになる。もちろん、自分の子どもがかわいくないわけはない。とはいえ、「時間泥棒」によって「時間貧乏」にさせられるストレスはときに爆発する。

 専業主婦たちは真綿で首を絞めるような抑圧と日々たたかっているのであろう。やがてこのストレスを自己実現の手段と考え直したとしても、なんら不思議はない。「子どもの影法師」であることに生き甲斐を見出す。

 かつてなら伝統的な地域社会がバックアップしたり(それはそれで息苦しいものであったろうが)、良妻賢母を目指すことが当然という価値観がストレスを緩和していたのかもしれない。しかし、都市化が進み、多様な価値観のなかで育った彼女たちが、孤立し自己確認を求めて、子育てに没入してしまうことは起こりうることであろう。

 1日のうちに数時間でも子どもと離れる時間を確保できる環境を整備すること、夫も育児にかかわれるように勤務形態を考え直すこと、そして、夫婦そろって兼業主婦・夫となれるような社会にすること、などが思いつく。

 「母と子のテレビタイム」が「親と子のテレビタイム」に変わる日はまだ先なのだろうか。


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