書評・古野善政『金大中事件の政治決着』(東方出版、2007年)

   西川伸一『もうひとつの世界へ』第12号(2007年12月)23頁。

金大中事件とは、1973年8月8日の白昼、韓国の民主化運動の指導者・金大中が都内のホテルから拉致され、5日後にソウルの自宅付近で解放された事件である。主権侵害は明らかで、日本に対する最大の侮辱であった。

本書はこの事件当時、毎日新聞ソウル特派員を務めていた筆者が、2006年春に韓国が公開した外交文書のうち、金大中関連の「7キログラム」と格闘した渾身の書である。本書を一読しながら、「出来レース」という言葉が常に頭を離れなかった。

 独裁政権であった韓国政府はもちろんのこと、時の日本政府にも、事件を国際法や国際慣例に基づいてきちんと解決させようというハラは、さらさらなかったのである。いわば日韓合作で「政治決着」のシナリオを描き、金大中を闇に葬ろうとした。独裁政権延命とそれに莫大な利権をもつ日本の支配層のために。

 国際常識に沿った正しい解決とは、@原状回復(金大中の再訪日)とA犯人捜査・処罰である。ところが、この事件の第1次政治決着(1973年11月1日)では、@は金大中の「自由意思の回復」にすりかえられた。その自宅軟禁を解除すれば、日本に自由に行くことができるのだから、@を充足すると説明された。

 しかし、ここに「手品のシカケ」があった。韓国の旅券法では、「刑事事件で起訴されている者」には旅券の発給を「拒否することができる」と規定されていたのである。朴正煕大統領が自分の最大の政敵を、みすみす出国させることなどありえない。しかも、この手品のタネの出所は日本の外務省であり、筆者はこの決着方を「日本政府の陰謀」と断言している。

 また、Aについては、実行犯の一人である金東雲駐日大使館一等書記官の指紋が残されていた。それでも韓国政府は「本人が違うと言っている」と否定し、免職したものの、それは「嫌疑を受けるような行動があった」ためだと言い抜けた。

 第1次政治決着のもう一つの目玉は、金鍾泌首相が訪日し、田中角栄首相に遺憾の意を表明する、とした点である。1973年11月2日、この会談が実現した。ここで角栄は、「あの人〔金大中〕がここに来なければいいと思います」と信じられない発言をしている。これが、主権を侵害された一国の首相の言葉だろうか。実は、角栄は朴正煕から事件もみ消しのため3億円をもらったという疑惑がソウルでは「定着」している。

 その後の第2次政治決着(1975年7月22日)では、口上書という形で文書が作られた。それによれば、証拠の王様である指紋が現場で採取されている金東雲について、「容疑事実を立証するにたる確証を見出し得ず不起訴処分となった」。この決着のため訪韓した宮沢喜一外相は、日本政府はこれを受け入れ、金大中については裁判が片付いたあと、「出国を含めて韓国人一般並みの自由が確保されている」とぬけぬけと述べた。

 もちろん、金大中の出国など実際には絶対にありえない。主権を放棄して恬として恥じない当時の日本の為政者に、慄然たる思いがする。

 最後に筆者は、この事件のあとに北朝鮮による拉致事件が続発することから、前者を国際慣例に則って毅然として処理していれば、後者のありようも違ったのではないかと推理する。その意味でも、将来に大きな禍根を残す事件であった。(文中、敬称略)


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