書評:ティム・ワイナー『CIA秘録』上・下(文藝春秋、2008年)

西川伸一『プランB』第20号(2009年4月)58頁。

 相手の出方がわからない中で決断を迫られる場面に、私たちはしばしば遭遇する。囲碁や将棋で次の一手を指す際には、もちろん相手の手の内はわからない。恋愛もまた、意中の人の心を読んで次の行動をとらなければ成就しないだろう。こうした状況をゲーム的状況という。
 個人の意思決定のみならず、国家の対外政策の決定もまたゲーム的状況で行われる。囲碁や将棋で悪手を犯しても、その人の棋力であるからやむをえまい。失恋の痛手は本人にとっては耐え難いが、異性はほかにいくらでもいる。しかし、国家が対外政策を誤ると、国民に不可逆かつ甚大な被害を与えかねない。従って、国家はゲーム的状況における不確実性を極小化しようと努める。言い換えれば、相手の出方を事前にできるだけ正確につかもうとする。諜報活動はその大きな手段である。
 CIAといえば世界最強の諜報機関として知られている。本書はその設立から今日に至るまでを、事実のみに即して描ききった大作である。本書の約3分の1は「著者によるソースノート」に充てられ、記述の典拠が詳細に示されている。本書で明かされるCIAの実像からは、なんと的はずれな諜報活動を60年にもわたって繰り返してきたか、という印象を禁じえない。そのために、世界中の無辜の人々が数多く犠牲となった。莫大な資金がどぶに捨てられた。
 「パールハーバーをもう一度繰り返したくはない」というのが、CIA設立の目的であった。ところがCIAはゲーム的状況を読み切れず、その無能さを次々にさらけ出していく。
 設立当初は「ソ連の原爆、朝鮮戦争、中国の介入など、世界の危機をことごとく読み誤ってきた。」近年でも、イラクのクウェート侵攻、ソ連崩壊、インドの核実験を察知できなかった。そして、9.11の大破局を迎えるのである。その頃のCIAは「アメリカ政府の機関として失格寸前の状態」にあった。加えて筆者はこうだめを押す。「彼らにアメリカを攻撃から守ることを期待することなどというのはよく言って、間違った信仰とでも言うべきものだった。」
 CIAのせいで、イラクの大量破壊兵器保有をめぐっても、アメリカは世界の笑いものになった。さしものブッシュも、イラク占領に関するCIAの報告書には、「あてずっぽうを言っているだけだ」とさじを投げたのである。
 CIAの秘密工作は大統領署名を唯一の拠り所としていた。清新なイメージをもたれるケネディも、弟で司法長官のロバートと組んで163もの主要な秘密工作に手を染めた。その最大の目的は、カストロ暗殺であった。逆に暗殺されたのはケネディ自身であったのだが。また、クリントンはビンラディン殺害をCIAに委ねる秘密命令に署名していた。それも手ひどいしっぺ返しを受けることになる。
 一読して、CIAの無法ぶりをいやというほど思い知らされた。電話の盗聴、手紙の開封は朝飯前。拷問はお手のもの。他国の主権侵害など知ったことか。目的が手段を正当化するのだ。しかも、目的が十分に達成されたのはレアケースというから、始末が悪い。分析部門を軽んじて、秘密工作に血道を上げた結果である。
 そして、筆者の次のことばに私は慄然とした。「失敗を成功と言いくるめる能力がCIAの伝統になりつつあった。過ちから学ぼうとしたがらないことが、CIAの文化になった」CIAなんかいらない!


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