「東京6大学を間違えた私-異端行研生の自己批判に代えて」

   西川伸一(第24期)『行政研究所50周年記念─「行政研の想い出」集─』(明治大学行政研究所、2007年)24-25頁

 私が行研に在籍していたのは1981年の秋から1984年3月の卒業までである。当時は2年生の秋に入室試験が行われていた。和泉での説明会で刺激を受け、1週間のにわか勉強でだめもとで受けた。それなのになぜか筆記試験はパス、駿河台での面接試問を受けることになった。いまはなき記念館の4階に行研室があり、そこですでに来春から公務員として活躍されるであろう4年生2名による面接試問が行われた。

 なにをどう答えたのかまったく覚えていない。ひととおりの試問を終えて、最後に冗談交じりに先輩が尋ねた。「君、東京6大学をいってごらん」。私には思い当たる節があった。事前に提出した面接資料の例題に、東京6大学を答える問題があり、私はわざと間違えたのだった。そのころ、私はけっこうとんがっていた。公務員試験とは無縁ななんとくだらない例題を出すものかと少しムカッときたのである。

 面接者に問われれば、応じざるを得ない。私は明治大学から順番にスラスラと(当たり前だ)大学名を答えた。すると、くだんの先輩は「わかっている問題を間違えるなんてことは絶対やってはいけない」と諭してくれた。

 ここで「はいはい」と引き下がっていればかわいいのだが、私はムキになって反論した。「大学を野球のリーグで格付けするのは間違っていると思います!」なんと青臭く生意気な。いまだにこうしたクセがまだ抜けきれずに、人様に不快な思いをさせている。それでも先輩方は私を通してくれた。感謝の一言に尽きる。ただ、筆記は通った同じクラスのO君は面接で落とされた。いっしょに合格発表をみにいったので、いたたまれなかった。

 その頃は記念館4階の行研室のほかに、分室といって、あるビルのワンフロアを行研が使用していた。お茶の水駅の聖橋口から神田川にそって秋葉原に通じる坂をだらだら下りたところにあった。そこに2年生の合格者が集められ、相談役の沖田先生、事務局長の中邨先生のお話をうかがった。私ははじめて両先生にお目にかかった。行研生は3年になるとここに自分専用の机といすが持てた。

 もはや信じられないだろうが、当時行研生には一人年間3万円の図書費がつき、試験勉強に必要な本を購入できた。四半世紀前の貧乏学生にとって3万円は実に大きい。いまでも私は「明治大学行政研究所57.11.-2購入」とスタンプが押された国語辞典を愛用している。昭和57年、すなわち1982年であるから、私が大学3年の秋である。

 さて、私の同期生にはキラ星のごとく優秀な学生がいた。机の前にビスマルクの鉄血演説のドイツ語文を張りつけ、大学3年時点ですでに国家中級(現U種)試験に合格したK君などその筆頭であろう。そして、みなよく勉強していた。親しくなったS君は毎日の勉強スケジュール表(何曜日の何時から何時までは憲法2時間というように)を机上に置いていた。公務員になりたいという真摯な雰囲気に満ちていた。

 一方、私は公務員への強いモチベーションもなく、3万円で買う本も政治学の入門書ばかりだった。結局、公務員への道は選ばず、大学院を受験するという罰当たりな行動をとった。キャンパスで同期の行研生に会うと、肩身が狭かった。卒業式でも行研室のドアはたたけなかった。

 とはいえ、私が行研に籍を置いていたメリットは、もちろん「3万円×2」以上のものがあった。行研の政治学の講義で中邨先生から名前を覚えていただき、その後、大学院進学から今日に至るまでたいへんお世話になっている。学部を超えて勉学に真剣な学生たちにめぐりあえたのも大きな財産である。

 学生時代の後ろめたさもあり、本学に奉職してからも行研からは遠ざかってきた。ゼミに行研生が入ってくると、必死に「過去」を隠した。ところが、運命の女神は私に今年度から行研事務局長を命じた。因果はめぐるというか、ブーメランが戻ってきたというか。私は再び行研と向き合うことになった。

 せめて、3万円×2の6万円分は恩返ししなければと思っている。

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