巻頭言・映画がはじまる

西川伸一『Beyond the State』第10号(2009年3月)6-11頁

 映画をみることがわりあい好きである。
 結婚前、妻との(前のカノジョとも?)デートは映画と決まっていた。当たり前だが、上映中は話さなくていい。はねたあとは夕食とあいなるが、ここでも映画の話題でなんとか時間を稼げる。話題に乏しく、ようやくデートにこぎつけた意中の女性を目の前にして、喫茶店で水ばかり飲んで、何度失敗したことか。
 そういえば、『男はつらいよ 花も嵐も寅次郎』(第30作・1982年)には、マドンナ役の田中裕子が、沢田研二扮する内気な青年とのデートについて、寅さんにくどくシーンがある。「だまって下向いて、お水ばっかり飲んでいられると、いたたまれなくなる。」
 沢田研二でさえそうなんだ、と映画と現実をごっちゃにして妙に安心した覚えがある。この共演をきっかけに、両者がほんとうにゴールインするのは周知のとおり。
 いずれにせよ、朴念仁として人後に落ちないわたしには、映画は男女交際における便利な「ツール」だった。
 とはいえ、ペアで映画館にいく僥倖はめったにめぐってこなかった。いまでも、わたしはたいていひとりで出かける。
 映画がはじまる前の静寂がとりわけ至福のひとときだ。気に入ったシートに腰をおろして、薄明かりのなか銀幕をみつめる。これからはじまる作品に思いをはせる。場内の照明が明るいときは、軽い読み物の頁をめくりながら、上映を知らせる案内を待つのもいい。
 歴史学者の阿部謹也は、山の単独行で「一人であることの爽快さ」を堪能したという(『阿部謹也自伝』98頁)。わたしはそれを映画館で味わう。

 ところで、裁判官には宅調日といって、週に1回裁判所に出向かずに、自「宅」で「調」査して判決書きに専念できる日がある。裁判官室の勤務環境が劣悪で、裁判官全員が登庁するとパンクしてしまう時代の名残だ。もちろん、実際にその日になにをしていようと「監視」の目は届かない。佐賀地・家裁所長などを務めた倉田卓次は、往時の宅調日をこう追想している。

「昭和24、25年映画が娯楽のトップだったと言える時代で、評判の封切なら、満員で肩を擦り合わせながら3時間立ち通しなどということも珍しくなかった頃である。それが、宅調の日なら朝から時間が使える、第1ラウンドを初めから見られるというわけだ。「青い山脈」「野良犬」「帰郷」「羅生門」……その頃の名作をいくつかそうして見た。」倉田卓次〔1987〕『裁判官の戦後史』筑摩書房、229頁。
 ある裁判官は宅調日にゴルフにいって、それを今風にいえば「フォーカス」されて大問題になった。1976年12月8日の出来事である。この「宅調日ゴルフ問題」を奇貨として、最高裁は裁判官の休暇制度を締め上げたのである。現在では、宅調日をとる裁判官は減っている。「うちで遊んでいる」と人事評価されるかもしれないという不安が頭をよぎるからだ。
 裁判官が宅調日に映画をみようが、ゴルフをしようがかまわないと、わたし自身は考える。土日返上で起案に追われる裁判官は数知れない。その代休とみなせばよい。気分をリフレッシュさせて、仕事に取り組むためにも宅調日をおおいに活用してほしい。

 さて、わたしはゴルフはしないが、授業や会議のないウィークデーの午前中、たまに映画館に足を運ぶ。今年度は水・木がわたしのいわば宅調日だった。もちろん、朝の第1回目はすいている。倉田が述懐している気分に浸ることができる。
 ただ、困るのはおばさんたちだ。彼女たちはひとりでは来ない。何人かで連れ立って来場し、開演前の静寂の時間もおしゃべりに余念がない。よくまあ話題が尽きないものだ。真冬に『母べえ』(2007年)をTOHOシネマズ府中にみにいったとき、彼女たちは上映前のわたしの宝の時間をしたたかに葬ってくれた。
 おやじの傍若無人な態度にも閉口させられる。飲食禁止にもかかわらず、スナック菓子をぼりぼり食べながら鑑賞する輩。首をしめたくなる衝動を必死でこらえるが、その分映画に集中できず、鑑賞が台無しになる。春先に『ぜんぶフィデルのせい』(2006年)というフランス映画を恵比寿ガーデンプレイスでみたとき、この被害にあった。ぜんぶこのおやじのせいだ!

 昨年は、チャップリンに久しぶりにスクリーンで再会できたことがなによりうれしかった。チャップリンの長編作品はほぼすべてビデオでもっているが、やはり映画館でみる魅力は比較にならない。チャップリンを満喫した。なかでも『街の灯』(1931年)を角川シネマ新宿でみたあと、涙が止まらずに往生した。
「映画はやはりフィルムです。ビデオとはまったく質感がちがう。暗がりで見るスクリーンの美男美女に惹きこまれる。それにお客さんが大勢入ると、見知らぬ同士が一緒に泣いたり笑ったりして、映画は2倍も3倍も面白くなるんです。」阿奈井文彦〔2006〕『名画座時代』岩波書店、149-150頁。
 年末には、下北沢のTOLLYWOODという小さな映画館で『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』(2007年)をみた。若松孝二監督渾身の190分の大作である。同志に集団で殴る蹴るの狼藉を加えることが、その同志が革命戦士に成長するためになるとして、正当化される。これを「総括」とよんだ。論理のもつ狂気に打ちのめされた。
 今年も映画館ですばらしい映画に出会いたい。願わくは、開演前の至福の時間を邪魔されずに、「宅調日」を召し上げられないことを。万一、映画館でわたしを見つけても、写メールで撮らないようにね。

2009年1月14日の「宅調日」に。

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