巻頭言・肉食う人びと

   西川伸一『Beyond the State』第9号(2008年3月)5-10頁。

 私は鶏肉が苦手である。コンパでは必ずといっていいほど焼き鳥が出るが、どうも箸が進まない。学生に「食べないんですか」と水を向けられて、「嫌いだ」というのでは芸がないので、「宗教上の理由で」と煙に巻くことにしている。たまに、「どういう宗教ですか」と真顔できかれることがある。これには困ってしまう。
 さて、私たちはありとあらゆるものを食べている。戦争や飢餓による極限状態では共食いすら行われる。作家の辺見庸は、戦後直後にフィリピン・ミンダナオ島に残留していた日本兵が、現地農民を次々に鍋の中に入れてシチューにしてしまった事実を紹介している。スターリンの強引な農業集団化がもたらしたウクライナの大飢饉(一九三二-三三年)は、「自分のこどもを食べるのは野蛮である」という広告をソ連政府に出させた。
 人肉はともかく、動物の肉を食べることに私たちはなんの痛みも感じない。しかし、動物たちが屠殺されて私たちの食卓に上っていることは自明である。私たちが食べるために、動物たちがいかに非「動物的」状況に置かれているかは、あまり考えたことがない。たとえば、あるヤメ検は検事時代に、次のような屠殺業者を取り調べたという。

「相手は、先祖代々牛や豚の屠殺を生業としていた。以前は四畳半くらいの広さの掘っ立て小屋に豚を二〇頭ほど押し込め、ふんどし一つになって豚を処理してきたという猛者である。
 豚の眉間に棍棒をぶち込み、撲殺するという。原始的なやり方だが、彼はそれをずっと続けてきた。豚や牛の眉間から飛び散った血で、身体中血だらけになるらしい。最近では、牛や豚も電気ショックで屠殺するのが一般的だが、それでは牛や豚の体内で血液の流れが瞬間的に止まり、おいしい肉にならない。だから、いまでも棍棒で撲殺しているとのことだった。」田中、二〇〇七、一四六頁。

 マクドナルド発祥の地であるアメリカの食肉処理場の様子は、思わず目をそむけたくなる。

「八時間半というもの、刺し屋と呼ばれる作業員が、ただ黙々と、潮のような血だまりの中、全身から血を滴らせ、ほぼ一〇秒おきに、去勢牛の喉もとを切り裂き、頸動脈を絶つ動作を繰り返す。長いナイフを操って、間違いなく急所を探り、牛をせめて楽に成仏させてやらなければならない。彼は何度となく、同じ急所を刺しつづける。」シュローサー、二〇〇一、二三五頁。

 おなじみの寅さん映画の第三八作『知床慕情』(一九八三年)で、獣医に扮する三船敏郎が寅さんに「牛は経済動物だ」と嘆くシーンがある。経済合理性、言い換えれば、売れる肉、消費者に安くておいしい肉を提供するため、牛は寿命を待たずに殺されていく。吉野家のHPによれば、アメリカでは肉牛用の牛は三〇か月齢以下という「牛の成長のピーク」で屠畜される。理由は「牛はピークを過ぎると脂肪ばかりがついてしまい、牛肉としての価値が低下してしま」うからである。
 オランダの鶏の飼育場では、できる限り効率的に卵や肉を生産するために、何千羽もの鶏が満員電車のようなすし詰め状態で飼育される。そんな中では凶器になるくちばしは、赤外線でカットされる。過密飼育は病気を誘発するので、予防接種が繰り返される。また、養豚場の場合、子豚は生後二日で去勢され、尻尾は麻酔なしで切除される。麻酔代さえケチって、安い肉を供給しなければならない。
 それでも、私たち人間が栄養価の面から肉食が不可欠であるとすれば、肉食はぎりぎりのところで許容されるのかもしれない。しかし、食肉からだけしか摂取できない必須の栄養素はない。タンパク質は豆製品で十分に取ることができる。肉食は嗜好でしかない。文明開化で「薬用だった牛肉をふだんに食べるようにな」ったと、日本史の教科書に書いてある。
 もちろん、現代でもヒンドゥー教徒は牛肉を食べない。牛は聖なる存在なのである。イスラム教では豚は不浄な動物とされ、ムスリムは豚肉どころか、豚肉から抽出された成分が含まれる調味料、さらには豚肉が使われた調理器具や皿も拒否する。かつてのゼミの学生に、知り合いになったイスラム教徒を言いくるめて、とんかつを食べさせた豪傑がいた。罰が当たるぞ!。
 罰当たりといえば、肉の飽食は私たちの健康を脅かす。メタボリック症候群もその一つである。それとつながりの深い心臓病や、脳卒中、がんといった私たちの三大死因は、「非動物」的状況で飼育され虐待死させられた食用動物たちのたたりなのかもしれない。地球環境の観点からみても、今日のような「経済動物」飼育のあり方は、大きなマイナスとなっている。なにしろ、牛一頭で一日二〇キロもの排泄物を出す。これがアメリカでは一億頭以上も飼われているのである。

「人間が動物を食べることを止めれば、人間の胃袋に納まるはずだった数多くの動物の命が救われる。それに引き換え人間が失うものは単なる嗜好でしかない。」田上、二〇〇六、一二五頁。

 ベジタリアンの根源的主張はこのようにまとめられる。確かに、一挙にベジタリアンになるのは現実的ではないとしても、日々の食事を点検してできるだけ肉を食べないですますことはできるのではないか。私が学生たちとよくいく「高級パブ」の定番メニューは、焼肉ライスである。とりあえず、これを注文しないことからはじめてみようか。「宗教上の理由で」と頭をかきながら。

 二〇〇八年一月二八日

【参考文献】
アイケン、二〇〇六「食べる動物と私たち」『DAYS JAPAN』第四巻第一一号(徳久祐子訳)
ヴェルト、二〇〇一『共産主義黒書(ソ連篇)』(外川継男訳)恵雅堂出版
シュローサー、二〇〇一『ファストフードが世界を食いつくす』(楡井浩一訳)草思社
田上孝一、二〇〇六『実践の環境倫理学』時潮社
田上孝一、二〇〇七「牛肉食の神話」『もうひとつの世界へ』第一一号
辺見庸、一九九七『もの食う人びと』角川文庫

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