卒園準備委員会からみえた「残業大国」

   西川伸一 『Beyond the State』第8号(2007年3月)「巻頭言」

 自慢ではないが、私はいま東京・府中市にある押立保育園の卒園準備委員会委員長という要職にある。父母の話し合いで押し付け合いの中、気の弱い私が「No」と言えずに、引き受けざるを得なくなった。次女が年長組で、この三月一七日に卒園式がある。その後の謝恩会とアトラクションを準備し仕切るのが卒園準備委員会の役割である。本番のアトラクションでは、パンダのぬいぐるみを着てシンバルをたたく。

 卒園準備委員は私のほか三名いる。いずれもお母さんたちだ。準備には細々とした決め事がたくさんある。メールのやりとりでこなしているのだが、やはりどうしても四人がひざを突きあわせて相談する必要がある。これまで三回、わが家でその話し合いをもった。私はひそかに「閣議」とよんでいる。

 「閣議」は水曜日の午後六時半にはじまる。水曜日は私は授業を入れていない日で在宅している。午後五時に次女を保育園から連れて帰り、ちょうど学童保育から戻ってくる長女ともども入浴し、夕飯の支度をする。保育園で子どもをお迎えしたお母さんたちが六時半にやってくる。わが家はさながら保育園の延長のような騒ぎになる。そんな中、ノートを片手に、ビールをなめながら打ち合わせを進めるわけである。総勢七人の子どもたちはすぐにものの取り合いやけんかをはじめる。それをなだめながらだから、なかなか話ははかどらない。

 やがて、毎週水曜日は帰りが遅い妻が帰宅する。「閣議」後の「閣僚懇談会」では、女四人の世間話でけっこう盛り上がる。私は黙って相づちを打つほかない。

 そんなこんなで午後九時には散会となる。彼女たちの夫はどうしているかというと、まだ仕事から帰ってきていないのである。お母さんたち三人が三人とも夫は午後九時を過ぎても帰宅していない。これはいつものことのようで、三回の「閣議」の最中に「夫が帰ってくるから」と中座した「閣僚」は一人もいない。おそらく、彼女たちの夫の帰宅は午後一〇時前後なのだろう。それは常態化しているようだ。

 しかし、労働基準法は労働者を保護するため、一日八時間、週四〇時間を超えて労働させてはならないと定めている。だが、この規定は企業が労働組合などと結ぶ労使協定などによって骨抜きにされてきた。その結果、わが国は先進国の中で突出した「残業大国」となっている。そこで、いま開かれている通常国会では、残業時間縮減の具体策を含んだ労基法改正案が提出される予定である。残業時間が長くなるほど残業代の割増率が上がるしくみを導入しようとしている。

 これが実現したとして、ほんとうに「残業大国」は返上できるのか。そのネックとなるのが、サービス残業(不払い残業)の存在である。サービス残業がごくふつうの勤務慣行となっていることは、わがゼミのOB・OGの話を聞くだけですぐわかる。サービス残業がはびこっている限り、いくら残業代を割り増ししても長時間労働の実態は変わらない。それにしてもサービス残業とは「うまい」ネーミングである。はっきりと「搾取残業」と言うべきだろう。

 ところで、昨年一二月に政治経済学部三年女子を対象にした「女子就職支援セミナー」が開かれた。その形ばかりの責任者である私も出席した。プログラムの最初は講演会である。ベンチャー企業の三〇歳そこそこの女性社長が熱弁をふるってくれた。アンケートを見る限り、学生の評判は上々だったようだ。とはいえ、私はある違和感を禁じ得なかった。

 講演者によれば、彼女がいまの会社を興す前に勤務していた情報関連産業の会社では、男性社員は寝袋で会社に寝泊まりし、女性社員も早朝に出勤し深夜に帰宅する毎日だったという。こうした非人間的な労働環境に対して、講演者は「成長産業だから」と意に介したふうもなかった。むしろ長時間労働を誇りにしている感じさえした。  

 こんな社長のいる会社で私は働きたくない。長時間労働は過労死、過労自殺の温床である。死に至らずとも心身を確実に蝕む。男性で妻と幼い子どもがいるとすれば、妻は早朝に夫を送り出したあと、深夜に夫が帰宅するまで、子どもとずっと向かい合っていなければならない。孤独な育児である。これは幼児虐待を誘発する。

 そして、長時間労働といえば金融業界である。ノルマで有名な証券会社に勤務するゼミのOBと先日昼食をともにした。やはり「セブンイレブン」労働(朝七時から夜一一時まで働く)だった。ふとしたきっかけで裁判員制度の話になった。大企業では社員が裁判員になった場合の社員の休ませ方を検討している。トヨタでは有給の「特別休暇制度」を導入する方針だという。「有給休暇を使え、などというとんでもない企業も出てくるかな」と彼に水を向けると、そうすれば有給休暇がとれていいという。毎年、有給休暇がほとんど未消化なのだと教えてくれた。

 最後に、私の飲み友だちから聞いた話。彼は一匹狼で、明大卒業後いくつかの会社に正社員として勤務したあと契約社員に転じ、いろいろな会社の社風を肌で感じ取っている。また、ムダな残業はしないことでは徹底している。その彼によれば、鉄道系の会社は社員の退勤時間が早い、つまり残業は少ないという。理由は、鉄道系であれば労働組合がしっかりしているからだそうだ。確かに、労働組合の弱体化が「搾取残業」を野放しにしている大きな要因だろう。

 就職活動をするにあたっては、労働組合の存在もぜひチェックポイントに入れてほしいと思う。

 二〇〇七年二月八日


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