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書評:森田一著・服部龍二他編『心の一燈 回想の大平正芳 その人と外交』(第一法規、2010年)   

    西川伸一『プランB』第27号(2010年6月)60頁。

              

 いまとなっては、政権交代も鳩山内閣もすっかり色あせてしまった。だが、私は政権交代がむだだったとは考えない。その理由の一つが、いわゆる外交密約の検証である。歴代自民党政権が一貫してシラを切り、国民をだまし続けてきた事実が白日の下にさらされた。私にとって、政権交代を実感し、また政権交代の必要性を実感した一件であった。

 時の為政者たちを指弾するのはたやすい。その一方で、見落としてならないのは、彼らの中でもこの国民への背信行為に苦悩し、打開策を懸命に模索した政治家がいたことである。大平正芳は池田政権の外相時代に核の持ち込み(イントロダクション)の秘密合意があることを知らされ、その後念仏のように「イントロダクション」とつぶやいていた。「一回目の外相から総理になるまで言っていました。」(261頁)

 そして、1980年に首相として非業の死を遂げる2か月前でさえ、側近たちに「君らもこの問題を考えてくれよ」と「遺言」している。本書は大平の最側近であり娘婿の森田一元運輸相が述懐する、大平の心象風景の軌跡である。良質な保守政治家の鑑をみる思いで一読した。

 「イントロダクション」の例が示すように、大平の政治家としての真骨頂はその見上げた責任感に尽きる。もちろん、政治は結果責任と喝破したのはウェーバーである。大平は、自分が当事者だったわけでもない密約に結果責任を感じ続けていた。そして、核搭載艦の寄港は認める「非核2・5原則」で国民を説得しようと執念を燃やしたが、結局果たされずに終わる。

 田中内閣で大平は二度目の外相に就く。日中国交正常化は田中内閣の最大の業績だが、このとき実は角栄より大平の方がよほど肝がすわっていた。「決断の田中」どころか、角栄は失敗を恐れて訪中を渋ったのである。大平が「私がちゃんとやりますから」と角栄の尻を叩いたという。

 その中国・河北省の張家口に、戦前大平は興亜院の役人として勤務している。そこで関東軍の居丈高な振る舞いを目の当たりにして、大平は軍部が大嫌いになる。それゆえ大平には戦前への郷愁も軍事的なものへの思い入れもなかった。この復古アレルギーは、大平が首相となって打ち出した「環太平洋連帯構想」や「総合安全保障戦略」にも顔をのぞかせる。

 大平を離れても本書が明かす日本政治の実相は興味深い。国会議員は当選回数がすべてであり、大臣就任も回数が大事で在任の長短には関心がない、など。

 ところで、44日(日)の午前中、次女を連れて花見がてら肌寒い多磨霊園を歩いた。私は府中市に住んでいて、多磨霊園までは自宅から電車で一駅である。そこでまったくの偶然に大平正芳・志げ子の墓をみつけた(写真参照)。隣には、「大平の生涯で最大の痛恨事」と本書で森田が記している、26歳で夭逝した長男・正樹の墓もあった。ちょうど本書を読み進んでいた最中だったので、黄泉の国から大平がよんだのだろうかと天を仰いだ。



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