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中野区本町六丁目15番 青梅街道と中野通りが交差する十字路の近くにあります。道路のランドマークとして、ドライバーには「杉山公園」はよく知られた地名です。 公園の面積は1,294.91平方メートルあり、中野区の公園としてはそれなりに広く、いつも子供たちの元気な声でにぎわっています。 左は、公園で遊ぶ子供たちを優しく見守る親子三体の「杉山地蔵尊」の写真です。 <杉山公園の立て看板の説明書き> 杉山公園の由来 杉山公園は、明治の実業家杉山裁吉(すぎやまさいきち)氏が令嬢みさをさんの病気療養のため、自然環境ゆたかな田園風景をもとめて居をかまえた所です。 この地に移られてからの杉山氏は多年の事業から隠退し、みさをさんの療養につくされました。しかし、そのかいもなく、みさをさんは明治四十一年、二十五歳の若さで世を去りました。両親の悲しみは非常に深いものでしたが、みさをさんの冥福を祈ると共に多くの子供達が健康ですこやかに育つように祈願されました。 大正十四年に夫人が逝去されたのを機に邸宅、土地を当時の中野町に寄付し、親子三体の地蔵尊を彫った石碑を建立されました。昭和六年に杉山裁吉氏が逝去された後、昭和九年三月、東京市より杉山公園として開園されました。 現在は中野区に移管され、日毎(ひごと)に増す交通事故から子供達を守り、またよき遊び場として地域のみなさんから親しまれる公園となっております。 中野区 <親子地蔵の横にある石碑の文章> 杉山一家嗣なく血統絶ゆるも 代々の精霊は永くここに 鎮りて中野町の繁栄と 其の住民の幸福を 祈らむ |
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哲学堂公園の建築群![]() 鬼神窟(一階に接神室、二階に霊明閣) ![]() 庭園 ![]() |
中野区松が丘1-34 仏教哲学者で「お化け博士」としても有名な井上円了(1858−1919)が、私財を投じて作った公園です。 哲学をテーマにした公園は、全国的に見ても珍しいそうです。 それほど広くない敷地のなかに、哲学にちなんだ独特の建物が建ち並んでいます。 井上は、迷信を打破する立場から妖怪やオカルトの研究を行った合理主義者でした。 しかしこの庭園には、真昼でも、あやしい雰囲気がムンムンと立ちこめています。 敷地のなかにある「幽霊梅」は、実際、明治時代に幽霊が出たと騒がれた梅を、ここに移植したものだそうです。 ただし、当時の梅の木は、いまはもうなく、その跡地があるだけです。 公園のなかの建物や施設は、それぞれ小規模ですが、独特の名称と「役割」をわりふられています。 例えば「鬼神窟きしんくつ」という建物は、外見は普通の民家です。 しかし、その名称と役割には、おどろおどろしいものがあります。 「鬼神窟」の説明板にいわく── 「髑髏庵どくろあんから復活廊ふっかつろうを通り、この屋に至れば精神は俗界を離れて霊化するとして、この名が与えられ、その内室を接神室せっしんしつ、楼上を霊明閣れいめいかくと呼ぶ」 公園の出入口に立っている「七十七場名称案内」看板によれば、園内の施設名は、以下のとおりです。 1哲学関、2真理界、3鑽仰軒、4哲理門、5一元牆、 6常識門、7髑髏庵、8復活廊、9鬼神窟、10接神室、 11霊明閣、12百科叢、13時空岡、14四聖堂、15唱念塔、 16六賢台、17天狗松、18筆塚、19懐疑巷、20経験坂、 21感覚巒、22万有林、23三字壇・哲史塀、24三祖碑、25唯物園・哲史蹊、 26物字壇、27客観廬、28進化溝、29理化潭、30博物隄、 31数理江、32観象梁、33神秘洞、34狸燈、35後天沼、 36原子橋、37自然井、38造化澗、39二元衢、40学界津、 41独断峡、42唯心庭、43心字池、44倫理淵、45理性島、 46心理崖、47鬼燈、48概念橋、49先天泉、50主観亭、 51認識路、52直覚径、53論理域、54演繹観、55帰納場、 56意識駅、57絶対城、58聖哲碑、59観念脚、60観察境、 61紀念碑、62相対渓、63理想橋、64理外門、65幽霊梅、 66宇宙館、67皇国殿、68三学亭、69硯塚、70無尽蔵、71万象庫、72向上楼、73望遠橋、74星界洲、75半月台(76と77は、文献記録が欠けており不明) 十五分もあれば、ざっと全部回れてしまいます。 しかし、それぞれの施設にこめられた寓意を体得して、哲学的にめざめるためには、一生かけて散策しても足りないのかもしれません。 |
桃園川緑道![]() |
←西はJR阿佐ヶ谷駅(杉並区)の近くから、東は中野区の東端である神田川まで、住宅地のあいだを延々と4.3キロメートルにわたって続く緑ゆたかな遊歩道です(杉並区の部分が2km、中野区の部分が2.3km)。自転車も通れます。 道の下には、暗渠化された旧・桃園川が流れています。 この写真は、杉並区側(写真の手前)から、道路をはさんで、中野区側(写真の奥)にむかって撮影したものです。 →東端は、神田川(写真)に合流して終わります。 写真のむかって左側(東岸)は、新宿区北新宿2丁目。右側(西岸)は、中野区中央1丁目。遠くに新宿の高層ビル群が見えます。春は桜が美しいです。 |
神田川。中野区と新宿区の境界。![]() |
![]() 大詔奉戴記念碑 正面の文字「国威宣揚 (改行) 陸軍大将 男爵 本庄繁謹書」 むかって左の側面「昭和十八年十二月八日大詔奉戴記念」 右側面「桃園子寶會建之」 東京の住宅密集地を歩いていると、ときどき路地裏で思いがけない古い遺物を発見し、しばし歴史の断章に思いをめぐらせることがあります。 例えば、この路地裏の石碑もそうです。これは、戦争中の昭和18年(1943)12月8日に、当時の「桃園子宝会(ももぞのこだからかい)」が建立した「大詔奉戴(たいしょうほうたい)記念」の石碑です。 「大詔奉戴」という言葉の意味は、「天皇陛下が発せられた「おおみことのり」を、大日本帝国の臣民がありがたくおしいただく」という意味です。 昭和16年(1941)12月8日、日本軍がアメリカやイギリスと戦争を始めたその日に、昭和天皇の「宣戦の詔勅」が公布されました。以後、昭和20年に戦争が終わるまで、毎月8日は「大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)」とされ、日本国民は愛国心を具体的に態度で示すことを求められました。例えば学校では、毎月8日は、児童・生徒は御真影を奉拝し、「日の丸弁当」を食べることになっていました。 この石碑の「国威宣揚」の題字を書いたのは、昭和史上、有名な軍人である本庄繁(ほんじょう・しげる。1876〜1945)です。本庄繁のやしきは、当時の地名表記では「上の原町8番地」(現在の中野区東中野2丁目)にありました。 なお、この石碑が建っている場所の近くには、異色の革命思想家・北一輝(きたいっき)が逮捕・処刑されるまで住んでいた屋敷もありました。 |
願かけ地蔵尊![]() この「上鷺宮の願かけ地蔵」の脇に立つ中野区教育委員会の立て看板と、中野区のホームページの解説文によると…… この2体のお地蔵様のうち、左側の大きい地蔵尊は、正徳5年(1715)に建立され、「奉供養仏講中 上鷺宮村願主 篠氏敬白」と刻まれている(念仏講とは、村の人が寄り合って念仏を唱えた信仰集団で、加入している信者を講中と呼んだ)。 右側の小さい地蔵尊には、「多摩郡上鷺宮村 篠丈右衛門」の文とともに、現世だけでなく来世での幸せをも祈願した「二世安楽」の文字が刻まれている。 地蔵尊は中野区内での石仏の中でも最も多く、人びとはいろいろな願いごとを託してきた。 その願いのかけかたはユニークで、次のような話が伝えられている。 ──この地蔵に祈願する人は、白装束で真夜中に祈りながら右側の小さい地蔵を倒す。すると大きい地蔵は、倒された地蔵を起こしてほしいために、願いごとを聞き届けてくれる……といわれ、願いがかなったら自分の手で小さい地蔵を起こしにいく──というもの。 このような祈願のしかたは、昭和30年頃まで続いていたという。 それにしても、昔の中野の住民は、お地蔵様を倒して、バチが当たるのが怖くなかったのだろうか? いまだったら、文化財保護法違反とか、器物破損で捕まることだろう(^^;; |