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Last updated 2024年7月12日 Since 2019-9-20

離俗の芸術論
 離俗と、その類義語との微妙なニュアンスの違いに注意。
 新しいものを作りたければ、昔の古典を学べ。現代日本のACG文化のクリエイターは、数百年前、数千年前の「古典」に親しむ必要性を説く(例:富野由悠季監督)。
 江戸時代の日本で俳人(俳句を作る人)のあいだで生まれた「離俗」のコンセプトは、現代日本の通俗作品にも影響を与えている。

俗の対義語


与謝蕪村(よさ・ぶそん/ よさの・ぶそん 1716-1784)の離俗論
俳諧は俗語を用ひて俗を離るるを尚ぶ
(大意:俳句の極意とは、俗語を使うことによって俗な境地から離れることである。「凡俗」の人が雅語を使うと、「俗物」くさくなって、かえって俗な境地から離れられないという逆説を理解しなければならない。)
→蕪村は修業時代、書画、漢詩、俳諧を学んだ。cf. https://kotobank.jp/word/蕪村-124888
蕪村の離俗論は、現代日本のACG文化のコンセプトにも影響。

蕪村は、俳人の召波(しょうは 1727-1771 号は春泥。参考 https://kotobank.jp/word/召波-532920 )に「俳句を作るためには、漢詩を語れ」とアドバイスした。蕪村は、中国の書籍『芥子園画伝』の「去俗論」の「絵を描くためには古典の本を多読し、自分の中で書巻の気を上昇させ、市俗の気を下降させねばならない」という主張を紹介したうえで「絵画と文学は全然別のジャンルなのに、そうなのだ。それにくらべれば俳句と漢詩はまだジャンルとして近い」と述べた。
(世界大百科事典 第2版の解説) りぞく【離俗】
俳諧用語。蕪村は門弟召波の《春泥句集》(1777)に寄せた序文の中で, 〈俳諧は俗語を用ひて俗を離るるを尚ぶ。俗を離れて俗を用ゆ。離俗の法最もかたし〉としるしている。 俳諧に用いられる言葉は,ことさらにあらたまった雅語のようなものではなく,だれもが日常に使う平易な俗語でなければならず, しかも俗から離れなければならないという。これは蕪村の俳諧の基本的な態度,方法をあらわすものである。 俗と離俗と同時におこなおうとすることは,芭蕉の〈高く悟りて俗に帰るべし〉につながるものであろうが,蕪村の場合,俗に〈帰る〉よりも,俗から〈離れる〉ことが強調されている。
『春泥発句選』(しゅんでいほっくせん)
安永丁酉[安永六年]冬十二月七日(1778年1月5日)、蕪村序。[ ]内は加藤徹の注
←原文の画像は、愛知県立大学図書館貴重書コレクションのサイトのhttps://opac.aichi-pu.ac.jp/kicho/kohaisyo/books-outline/027_394_1.htmlで閲覧可能。
柳維駒[召波の子]、父の遺稿を編集して余に序を乞(こふ)。序して曰。
「余曾テ春泥舎召波に洛西の別業(べつげふ)に会す。
波すなはち余に俳諧を問。
答曰。俳諧は俗語を用て俗を離るゝを尚(たつと)ぶ。俗を離れて俗を用ゆ、離俗ノ法最かたし。かの何がしの禅師が、隻手の声を聞ケといふもの[白隠の「隻手音声(せきしゅおんじょう)」の公案]、則俳諧禅にして離俗ノ則也。
波頓悟(とんご)す。却(かへつて)問。叟が示すところの離俗の説、其旨(そのむね)(げん)なりといへども、なを(ほ)是工案をこらして我よりしてもとむるものにあらずや。し(若)かじ彼もしらず、我もしらず、自然に化して俗を離るゝの捷径(せふけい)ありや。
答曰。あり。詩[漢詩]を語るべし。子もとより詩を能(よく)す。他にもとむべからず。
波疑(うたがつて)(あへて)問。夫(それ)詩と俳諧といささか其致を異にす。さるを俳諧をすてて詩を語れと云。迂遠(うゑん)なるにあらずや。
答曰。画家ニ去俗論あり[芥子園画伝・初集]。曰。画、俗ヲ去ルコト無他ノ法。多読書則書巻之気上升、市俗之気下降矣。学者其(それ)慎旃哉(これをつゝしまんや)。それ画の俗を去だも筆を投じて書を読(よま)しむ。況(いはんや)詩と俳諧と何の遠しとする事あらんや。
(以下、略)
与謝蕪村が引用した『芥子園画伝』巻之一「画学浅説」第18則「去俗」は、早稲田大学図書館古典総合データベース
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/
の中の
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_04227/chi04_04227_0001/chi04_04227_0001_p0020.jpg
で読めます。


夏目漱石の小説『草枕』冒頭の芸術論
 芸術の本質は「一瞬の救い」(駒田信二の言説)にあるという主張。
 夏目漱石の小説『草枕』冒頭部の芸術論 小説ではあるが、蕪村の「離俗」のセオリーを述べたものとしても読める。
English translation:
https://dl.ndl.go.jp/en/pid/1680848/1/1 PD
UNHUMAN TOUR (KUSAMAKURA), by SOSEKI NATSUME, translated by KAZUTOMO TAKAHASHI (高橋一知 1862-1931) , ジャパン・タイムス社出版部, 1927
p.1
This human world of ours is the making neither of God nor of the Devil; but of common mortals; your neighbors on your right; your neighbors on your left, and your neighbors across the street.
 [青空文庫版・夏目漱石『草枕』]より引用
 山路やまみちを登りながら、こう考えた。
 に働けばかどが立つ。じょうさおさせば流される。意地をとおせば窮屈きゅうくつだ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさがこうじると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいとさとった時、詩が生れて、が出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りょうどなりにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容くつろげて、つかの命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命がくだる。あらゆる芸術の士は人の世を長閑のどかにし、人の心を豊かにするがゆえたっとい
 住みにくき世から、住みにくきわずらいを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、である。あるは音楽と彫刻である。こまかにえば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌もく。着想を紙に落さぬとも璆鏘きゅうそうおん胸裏きょうりおこる。丹青たんせい画架がかに向って塗抹とまつせんでも五彩ごさい絢爛けんらんおのずから心眼しんがんに映る。ただおのが住む世を、かくかんじ得て、霊台方寸れいだいほうすんのカメラに澆季溷濁ぎょうきこんだくの俗界を清くうららかに収めればる。この故に無声むせいの詩人には一句なく、無色むしょくの画家には尺縑せっけんなきも、かく人世じんせいを観じ得るの点において、かく煩悩ぼんのう解脱げだつするの点において、かく清浄界しょうじょうかい出入しゅつにゅうし得るの点において、またこの不同不二ふどうふじ乾坤けんこん建立こんりゅうし得るの点において、我利私慾がりしよく覊絆きはん掃蕩そうとうするの点において、――千金せんきんの子よりも、万乗ばんじょうの君よりも、あらゆる俗界の寵児ちょうじよりも幸福である。


「離俗」のセオリーを体感できる実写映画作品の例。
 人間のドロドロとした俗な生きざまを、「詩情」ゆたかに描くことで、「離俗」に成功した映画作品をいくつか紹介。

★映画『菊次郎の夏』Kikujiro 1999
https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-kn4dnTEPu34UP0-MX5Cjd7
 1999年6月5日公開の日本映画。第52回カンヌ国際映画祭コンペティション部門正式参加作品。
 監督・主演は北野武(ビートたけし)。音楽監督は久石譲(ひさいし・じょう)。主題曲は「Summer」。
 映画は、「北野武監督」が、子役と「芸人ビートたけし」を使い「住みにくき世」(夏目漱石『草枕』冒頭の言葉)を描いたロードムービーである。本編映像は下品なギャグや暴力も散りばめた「俗」なものである。しかし北野監督は作曲者に「リリカルなピアノものでいきたい」、つまり「雅」の音楽を注文した。 俗のシーンで雅の音楽を流すことで、「おじさん」(菊次郎)や少年の悲しみがにじみ出ることで、「離俗」に成功している。
 監督の北野武氏は、明治大学の校友→higashiajia-meiji.html#takeshi

★映画『ゴッドファーザー』The Godfather 1972
 米国のフランシス・フォード・コッポラ監督作品。マフィアどうしの血の抗争や家族間の愛憎など、人間のドロドロとした「俗」を題材としつつ、名優たちの演技力と、ニーノ・ロータの詩情あふれる音楽によって、西洋の映画ながら「離俗」に成功している。
 続編の『ゴッドファーザー PART II』(1974)も名作でアカデミー作品賞を受賞し、2022年現在、正編と続編でアカデミー作品賞を獲得した唯一の例となった。

★映画『砂の器』Castle of Sand 1974
 松本清張の推理小説を映画化した作品。1974年10月19日公開。
 物語は「殺人事件」「ハンセン病患者に対する差別」など「俗」だが、映像美と交響楽によって「離俗」に成功している。
 制作・脚本の橋本忍氏は、日本の伝統芸能である「人形浄瑠璃」の手法を映画に採用し、成功した。右手の義太夫語りは、警視庁の捜査会議で語る刑事(俳優は丹波哲郎氏)。三味線弾きは、この映画のために作曲されたクラシックの交響楽「宿命」(芥川也寸志氏、菅野光亮氏)。舞台の人形は、親子の旅の映像。昔の日本で厳しい差別を受けたハンセン病の父が、息子を連れて放浪する、という「住みにくき世」の俗の極みと、雅の極みである交響楽を融合させることで「離俗」に成功している。

★映画『戦場のメリークリスマス』Merry Christmas, Mr. Lawrence / Furyo(俘虜) 1983
 大島渚(おおしまなぎさ、1932-2013)監督作品。戦争、ゼノフォビア(xenophobia)、同性愛差別、障害者差別など「俗」のきわみの世界を題材としつつ、 大島の個性的な監督術と、坂本龍一の音楽(主題曲「Merry Christmas, Mr. Lawrence」は有名)によって、「高貴な人間愛」という「聖」を描いた映画。ただし、評価については賛否両論がある。
参考 坂本龍一作曲「Merry Christmas, Mr. Lawrence」 https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-mERQSa4ZmJjg-_ezSX9Pit
 以下は軽いネタバレです。この映画の最初のシーンは「たけし」に始まり、最後は「たけし」で終わる。 たけしが演ずるハラ軍曹は、暴力的な「俗」人であると同時に、熱心な仏教徒でもあり、 昼寝のときも真言宗の本式数珠をかけ、『観音経』(精確には『妙法蓮華経』観世音菩薩普門品第二十五・観音偈)を読誦するときは輪袈裟(わげさ)を着用し、 映画の最後では「僧」と同様に剃髪(ていはつ)する。俘虜(ふりょ)であるロレンス英国陸軍中佐の「聖俗」と、ハラ日本陸軍軍曹の「僧俗」が、対比をなしている。
 人気漫才師だった北野武(きたの・たけし。ビートたけし。明治大学工学部OB)が、映画の世界に進出するきっかけとなった作品でもある。
 ちなみに、坂本のこの名曲にDavid Sylvianが英語の歌詞をつけた「Forbidden Colours」という曲もある(タイトルの由来は、三島由紀夫が「性的マイノリティー」の世界を描いた小説『禁色(きんじき)』)
参考図書 大島渚プロダクション 監修・樋口尚文 編著『大島渚全映画秘蔵資料集成』(国書刊行会、2021)  ISBN 978-4-336-07202-3


ある、コスプレ好きの中国人の独白
中島恵『なぜ中国人は日本のトイレの虜になるのか?』中公新書ラクレ、2015
 その頃、よく布団にくるまって泣きながら一人でこっそり見ていたのは 『Angel Beats!』というアニメでした。 布団がゴソゴソするなと思ったら、 なんとネズミが這い回っているんですよ。 そんなに汚い環境でも、好きなアニメを見ている時間だけはとても幸せで、 ほんの一瞬ですが、辛いことを忘れられました。 日本のアニメは温い日本人の人間性が凝縮されていると思いました。 いつか、好きなアニメを山ほど買って、コスプレもたくさんして、 日本旅行に行きたいと思って、 それで今日まで歯を食いしばってがんばってきたんです。 (中略)
 中国人は誰でも明日のことはわからないんです。 今はとても豊かになって、多少のお金を持てるようになったとはいっても、 みんな心の中では明日のことをとても心配し、 殺伐としているんです。 中国のような国では、どこにどんな落とし穴があって、 これから先も順調に生きていけるかどうかわからない。 誰に足を引っ張られるかも、裏切られるかもわかりません。 口に出さなくても、みな、そんな不安をいつも抱えています。
 でも、日本人は違う。(中略)お金以外に価値を置いて精神的に豊かな暮らしをしている人も多い。 そういう姿は本当にうらやましいんです。 少なくとも、僕の目にはそう映ります。

2015年の本。コロナ後の今、読み返すと感慨深い。若くして成功したコスプレ男性の言葉「中国人は誰でも明日のことはわからないんです。 今はとても豊かになって、多少のお金を持てるようになったとはいっても、 みんな心の中では明日のことをとても心配し、 殺伐としているんです」 pic.twitter.com/HHxTlB3Bxs

— 加藤徹(KATO Toru) (@katotoru1963) May 25, 2022



富野由悠季監督の言葉
国際日本学部:北京大でガンダム講座 富野監督自らがアニメ情熱教室」明治大学広報・第626号(2010年12月1日発行)
富野由悠季(とみの・よしゆき)監督の、日本大学芸術学部所沢キャンパスでの講演での語録。
以下、個人のブログ http://sleepydrag.blog29.fc2.com/blog-entry-242.html(2006-11-08)より引用。2019年10月3日閲覧。
 今日わざわざここに来たのはあなた達以外に留学生がたくさんいるからです。というのも今あなた達の隣に居る留学生(中国や韓国)の技術力はもの凄くレベルが高くなってきています。だから日芸の所沢に来てそれだけで安心しきっているのなら今すぐ辞めてください!そしてこのような言い方をレトリックだとは思って欲しくないのです。
 アニメのことを日本語で言う視覚芸能だと思っている。
 学生時代はせめて歌舞伎の発生・能の発生・猿楽の発生くらいの概論は頭に入れて欲しい
 猿楽の時代から芸能が発生してどのように庶民に受け入れられたのか・楽しまれていったのか、単純な楽しみごとではないんだよね、祭りごとは。実はそれは祈願でもあるし、神に対してのお礼でもある、そのことは踊り・ダンスの発生とすべてリンクしていきます。
 映画=アニメ=動く画を使うから=観客がリアルタイムで時間を拘束される・共有する。
 それは一言で言えば「芝居」
 だから、文芸・演劇・物語を見ないで映画・アニメが作れると思うな!
 日本人なんてのはわいせつ大好き!
 日本人はわいせつなものを舞台で見るような風俗がある。
 自分が9歳までの間で何が好きだったか?
 一番自分が気にしていたことを思い出して欲しい。
 そこから何か生まれるはず。

富野由悠季 氏「もっと歴史の勉強をしておけばよかったと後悔したことがあります」「勉強するのは大学時代ぐらいまでが限度で、それまでにそれなりの勉強をしておかないと、物語の創作においても肉付けすることはできないのではないかと感じています。」
学生に読ませよう??https://t.co/yqIjmh5aFt

— 加藤徹(KATO Toru) (@katotoru1963) July 11, 2024
以下、AERA dot. の記事「富野由悠季「逆襲のシャア」制作での後悔と「ガンダム」を10年作り続けてわかった人類の課題」(河嶌太郎 2024/07/10/ 11:00) より引用。閲覧日2024年7月12日。富野由悠季監督(1941年11月5日生まれ)へのインタビュー記事。引用開始
「逆襲のシャア」を制作していた当時、僕はもう45歳を超えていたのですが、もっと歴史の勉強をしておけばよかったと後悔したことがあります。学力不足の問題は特に「逆襲のシャア」以降の作品を作る上で痛感させられることになります。ただ、40を過ぎてからそういう認識を持ったからといっても、いざ勉強することは僕にはできませんでした。そこから勉強しても追いつかないことに気がつくわけです。勉強するのは大学時代ぐらいまでが限度で、それまでにそれなりの勉強をしておかないと、物語の創作においても肉付けすることはできないのではないかと感じています。
(中略)
――今のこの2024年という現代をどう見ますか。

 僭主政治がはびこっているのではないかという懸念を抱いています。今の世界の政治状況を俯瞰すると、古代ギリシアの僭主政に似ているのではないかと指摘する人がいます。古代ギリシアの循環史観によると、「王政」が堕落して「貴族政」となり、それも腐敗して「民主政」になる。民主政はやがて「衆愚政」に陥り、その後に資格もない人間が指導者を名乗る「僭主政」に至るという考え方があります。中西輝政さんという京都大学の名誉教授が文藝春秋に書いた寄稿なのですが、僕はこの解説を読んで目から鱗でした。

 僕が生きた冷戦時代を振り返ると、東西の指導者達が知恵を絞り合って、世界大戦をなんとか回避しようとしていたようにも思います。1962年のキューバ危機がその典型でしょう。今の政治家を見ていると、冷戦時代よりも今の時代のほうがとても酷いと思いませんか。僕は残り少ない人生ですが、今を生きる若い人たちには頑張ってほしいと思います。
引用終了
以下、東洋経済の記事「富野由悠季が断言「アニメブームは今が頂点」 デジタル化、いい作業環境が作品性を劣化させる」(西澤佑介 2023/12/17 5:20)より引用。閲覧日2024年7月12日。富野監督へのインタビュー記事。引用開始
「ガンダム」シリーズも歴史に残るのではないかって? うぬぼれるつもりはないが、1行ぐらいは記されるかもしれない。

 でも実をいうと、「ガンダム」という作品にぼくが込めた、社会論とか戦争論といった根幹的なメッセージは、ガンダムという巨大ロボットの造形に邪魔をされ、思うように伝わっていないように感じる。子どもは恐竜が好き、巨大ロボットも好き。その嗜好性の延長に「ガンダム」の人気がある。不本意なことに、視野の狭いメカフェチに支えられてきた部分がある。作品単体でみたら『ちびまる子ちゃん』『ワンピース』の人気にはかないませんね。
引用終了
 以下、ITmedia NEWSの記事「「お前らの作品は所詮コピーだ」――富野由悠季さん、プロ論を語る」(岡田有花、2008年10月31日 19時50分 公開)より引用。閲覧日2024年7月12日。富野監督へのインタビュー記事。引用開始
 そこでもう1つ重要なモーメントは、他人のコピーになってしまうかどうかは、その人が本性的にもってる指向性や方向性に合致しているかしていないかです。11、12歳ぐらいまでにあなたが好きだったものにこだわれ、ということです。その延長線上にあるものと今やってる仕事がフィットするとかなりいい所に行くだろうと言えます。

 高校卒業以降の技術論で手に入れた物は時代に振り回されます。時代の技術論に振り回されるところがあって、オリジナルなところに行けない。いいアイデアだと思っても、アイデアを3つ4つ重ねても、あまりうまくいきません。よほどのまぐれあたりとか、人との出会いでもない限り。
(中略)
 これだけ技術が発達したにも関わらず、ライブの演奏会や演劇が絶対にすたれないのは一体どういうことかということも思い出してほしい。デジタルワークの時代にそういうものをどう手に入れるのか、どう表現するかは、技術を手に入れたわれわれの永遠のテーマなんです。
(中略)
 めでたさを自分のために手に入れるにはどうすればいいか。宮崎駿さんがある講演会で言っていた、同じことを言わせてもらいます。「自分が手の届く範囲のことを一生懸命やることが一番の宝だ」というのは本当だと思います。年寄りの忠告になるんですけど、それを信じてやってほしい。
(中略)
 ロケットや宇宙人、ロボットが出てくればいいというだけじゃないという見方が分かってきた時、「SF映画が好きだって言うヤツの映画は絶対見ない」と確定したわけ。だってここ50、60年で作られたSF映画の名作は「2001年宇宙の旅」でしょう。あれはSFマニアの監督が作ったものではないんです。それを悔しいと思え! というわけです。

 単一色で攻めた時はマニアに好かれるものは作れるかもしれないが、ジブリがやっているように、異能の組み合わせが当然大事なこと。ハーフのほうが美人じゃん、と。全部が全部そうじゃないですよ。
引用終了 cf.サンドラ・ヘフェリン『ハーフが美人なんて妄想ですから!!』中公新書ラクレ

参考

参考
坂口安吾の「日本文化私観」 →原文は[青空文庫のこちらの頁]
相田みつを
宮沢賢治「雨ニモ負ケズ」 →[青空文庫]

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