インタヴュー 能と稚児の世界
松岡心平(東京大学助教授・橋の会運営委員)
土屋恵一郎・聞き手

【土屋】今回は松岡さんのこれまでの研究の中で、「稚児」の問題について書かれてこられたことを、わかりやすく話をしていただくというのが趣旨です。『鞍馬天狗』自身も稚児が非常に活躍する能なんですけれども、いわゆる狂女物といわれる能でも、子方が活躍するという意味で、能という演劇は、世界の演劇の中で最も独特な少年劇というジャンルを持っていると思うんです。なぜ少年劇というジャンルが能の中にこれほど確立したのか、その理由を知りたいと思うと、松岡さんがこれまで書かれて来た「稚児と天皇制」といったことが、とても面白い視点を提供してくれています。しかも、この問題を追っていくと、現代の日本の問題にまでつながってくることなので、このインタビューでそこまで是非問題を深めていきたい。そのとっかかりとして、はじめの問題として、どうして少年演劇というものが、しかも、それは児童演劇というジャンルではなくて、きちんとした演劇ジャンルの中になぜこれほど重要なファクターとして登場することになったのか。その辺についての松岡さんのお考えをまずお聞きしましょう。

【松岡】それはやはり歴史的な稚児の問題と絡まってくるという気がします。例えば舞楽にしても、平安時代の舞楽というのは大体大人が舞うわけですけれども、院政期、鎌倉時代ぐらいから童舞が非常に盛んになってきて、『天狗草紙』(十三世紀末)に描かれる、醍醐寺の桜会なんていうのを見ると、童舞がメインになってくる。それは鎌倉時代になって顕著になってくる現象です。ですから、雅楽というものも、むしろ童舞に中心を移しながら芸能としての吸引力をずっと維持し続けているようなところがあるんですね。そういう童が舞台に乗って舞を舞うということがあって、もちろんその背景には少年の美しさを賞翫する観客たちが非常に多かったということがあって、こうした歴史の流れのなかで、南北朝期ぐらいから演劇を形成し始めた能の中にも少年能のジャンルが出てくるのだと思います。能における少年の能というものを支えているのは、こうした歴史のなかで作られた感覚ではないかという気がするんです。

【土屋】鎌倉期から稚児が歴史的に登場する。その理由は何なんですか。

【松岡】その辺も非常に難しい問題で、つまり、日本人のセクシャリティーの変化ということだと思うんですね。はっきりはわかりませんけれども、やっぱり院政期ぐらいから明らかに男色文化というのが公に語られるような段階に入ってくるわけですね。それまでそんなに公には語られないんですが、例えば院政期の藤原頼長という人が『台記』なんて書いて、それはあからさまな男色日記です。それは自分と関係した男色の相手のことを書くわけですね。

【土屋】日記ですか。

【松岡】日記です。女性と交渉しても全然書かないんだけれども、男性と交渉すると書いちゃうんですね。

【土屋】それは公にする性質の日記ですか。

【松岡】公です。自分の子孫に残している。ただ、おもしろいのは、秦公春という自分の随身ですね、ボディーガードと関係を持つんです。これが常に彼の男色相手で、パートナーなんですけれども、その秦公春が亡くなったときに、頼長は数十丁にも及ぶ、物すごい追悼記を書くんですね。その部分は、書かれたということは記録されているんだけれども、そっくりそのまま今の『台記』からなくなっているんですよ。『台記』というのは公の記録ですから、それは藤原氏の嫡流の後の人がちゃんと受け伝えているものですけれども、どういうわけか、公春のところは切られちゃって今はわからなくなっているんです。彼は公務も休んでしまうんですね。そのとき、左大臣か何かで、本当は仕事をしていなきゃいけないんだけれども、自分のボディーガードの男色相手の秦公春が亡くなってから一週間ぐらいは完全に引きこもって休んでいます。そしてそのときの記録だけが『台記』からなくなっちゃっている。

【土屋】それは活字になっているんですか。

【松岡】なっています。非常におもしろいです。

【土屋】今読める本?

【松岡】もちろん漢字だらけで、書き下しにはなっていませんけれども。臨川書店の『史料大成』で読めますよ。それは自分が男になったときと女になったときの両方について書いている。一番いいのは二人が一緒にいくのが一番いいと。

【土屋】それはそうだ。別に男色だけじゃない。

【松岡】そういう日記がとにかく院政期の初めぐらいから出てきて、例えば『源氏物語』なんかでも光源氏と小君との関係というのはそういう関係だろうというふうなことは言われているんですけれども、女性が書いたということもあるかもしれませんが、余り公には言われないんだけれども、院政期ぐらいからあからさまにそういう文化が出てくる。それから、院政期で特徴的なのは『台記』の場合も、それは自分のプライベートな男色関係だけではなくて、五味文彦さんがおっしゃるように明らかに政治的なネットワークなんですね。院政の主人公である白河院、鳥羽院、後白河院みたいな、ああいう人たちは全部バイセクシャルというか、ホモセクシャルで、これは個々の男色関係をもとに政治的なネットワークを構築して、自分の支配を確実なものにしていこうとする。ですから、そういう意味で、藤原頼長の場合も非常に政治的な脈絡の中で、今度はあいつを攻略しようとかという形でやっていく。それを書きとめていくわけですね。

【土屋】それに対する批判はなかったんですか。

【松岡】全然ないですね。それに対して批判して、男性とやるのはけしからんとかというような言説は全く出てこないと思います。

【土屋】それと雅楽のなかに、稚児文化が登場したり、能のなかに稚児が登場することとどう結びついているんでしょうか。

【松岡】男色と稚児というのはある部分もちろん重なっていて、また、違うところもあります。明らかに稚児というのは女性的に育てるというところがポイントで、十二、十三歳ぐらいから十七、十八歳の美しい少年を、要するに女性として育てる。後ろで髪結いをしたり、眉をそっておしろいを塗って、かき眉をして、お歯黒をするわけですよね。口紅ももちろん塗る。そういう形で、女性として美しく、王朝の女房風に育てると言ってもいいんですけれども、寺院の中でそういう王朝の女房風に少年を育てるという制度が、半ば公然と認められて、それがずっと連続してくるという歴史があります。それが公然と認められた文化というのは、仏教文化圏でもかなり珍しいんじゃないかと。

【土屋】中国はないんですか。

【松岡】中国も半ば公然と、ということにはなっていないと思いますね。少なくとも稚児文化という形で何か公に出てくるようなものはない。韓国の場合は新羅の頃に、花郎(ファラン)と呼ばれる美しい少年を中心とする美しい戦士集団があって、そのような文化がひょっとして日本に流れ込んでいるかもしれないんですけれども。でも、やっぱり韓国の寺院の中で、稚児制度というのは聞いたことがない。

【土屋】そこで、能のなかの「稚児」のあり方のことをお聞きしようと思うのです。稚児が出ると言っても、稚児自身は実は主人公ではなくて、常に庇護される存在として出てきますね。『鞍馬天狗』もそうです。あるいは稚児という形ではっきりあらわれなくても、いわゆる狂女物で母子が別れている場合でも、その別れた子供は大体僧侶に育てられて、偉くなっている。今年橋の会が再演する『丹後物狂』にしてもそうです。偉くなって、母と再会する、『丹後物狂』の場合は例外的に父親と再会するわけですが。これほどドラマとして定型化されてしまっていると、なにかオリジナルな物語なり、モデルなりがあったと考えたいのですが。それはどうなんでしょうか。或いは、松岡さんの議論からいうと、「天皇」の問題とかかわるのでしょうか。

【松岡】幼童天皇みたいな存在ですね。ちょうどお稚児さんの時期に天皇となって、実権はお父さんの院、あるいはおじいさんの院が握っていて、空虚な中心になっていて、まぁ一種の傀儡ですけれども、そういう幼童天皇が歴史のなかで機能してきたということはあります。明治維新だってそうです。そのことを稚児の問題としてではてなく、天皇の女性性として語るのはどうもおかしいと思う。

【土屋】天皇の女性性ということは、どんな議論ですか。

【松岡】明治天皇は化粧していますから、女性性としてジェンダー論の立場から語るという語り方も結構あるんですが、少年として、お稚児さんとして化粧しているので。

【土屋】明治天皇が?

【松岡】明治天皇が。明治四、五年まで化粧していますよね。日本側の記録はないんですけれども、アーネスト・サトウとか、外交官がそういう記録を残していまして、明らかにそれは女装して、女性なんですね。それが明治五年ぐらいになって、男性性の方に逆転していくんですけれども。そのことを考えるとある意味では明治維新というのも幼童天皇というか、お稚児さんとしての天皇を薩摩とか長州の戦士集団がいただいた革命であるというふうにも言える。少年が中心であることによって、ある種非常にエロティックな情動みたいなものが働くことによって、政治的な力にそれがなっていくということがあると思うんですね。そこをちゃんと言わないと、日本の天皇制というものを理解するための非常に重要な部分が抜けてしまうと思います。

【土屋】それは何なんですかね。それを日本人の心理や行動の惰性のなかに、そうした、天皇をモデルとして、力なき者を庇護しながら歴史を動かしていくという情念が根強くあったというのは。平安期まではなぜそれがなかったのか。あるいはあったのかどうかですね。古代王朝などは、もっとはっきりリーダーとしての天皇という形があらわれています。なぜ鎌倉期以後、それが庇護される存在になるのか。しかも稚児という問題とからみながらですね。このことは、日本の政治や権力のあり方の問題として、実は現在でも存在するシステムなわけです。フランスの思想家のロラン・バルトがそのことを「空虚な中心」といって、日本の権力構造や天皇の問題を表現したわけです。心理学者の河合隼雄さんは、また「中空構造」といった言い方もした。それを松岡さんは、いわば真ん中がからっぽで、周りがみんな守り立てて、政治をつくっていきましょうみたいな話は、結局、稚児の問題に行き着くということをいって、天皇の問題に歴史的な裏付けをあたえたわけです。稚児とそれを庇護する者たちというこの権力の構図があって、しかもそれが演劇という形にまで洗練されて、それをもとにして、いわば明治維新までつながってくるような中心は弱いもので、周りがみんなでやっていきましょうというような歴史形成の仕方が築かれるわけですね。もちろんそれに逆の場合はあって、信長のような強力なリーダー型の政治家もいた。しかし持続したのは、徳川政権のようなこれまた家康という、今川に人質になっていた子供を家臣がもり立てて政権につかせるという、典型的な庇護型の政治家が作った政権であったわけです。

【松岡】一つモデルケースとして考えられるのは吉野の後南朝の「自天王」の存在です。自天王という人は最後の後南朝の王子ですが、現在まで吉野で行われている儀礼に、朝拝式というものがあります。

【土屋】今もやっているんですか。

【松岡】今もやっています。

【土屋】それは何の儀式ですか。

【松岡】あるとき、自天王をお世話をしている川上村の村民が朝廷でやっているような朝拝式というのを、正式には朝廷の何と重なるのかよくわかりませんが、要するに儀式をやってあげたんですね。そうしたら、非常に自天王が喜ばれたので、それで毎年、自天王の前で朝廷の廷臣があいさつをするという儀式を模擬的にやるようになった。

【土屋】今はどうやっているんですか。

【松岡】自天王が使っていた兜というのがあります。それをご神体にして、自天王に見立てて、その前に人々が無言で入ってくる。つまり、椿の葉っぱをくわえているんですね、口々に。しかも、それは川上村の郷士で、自天王を助けた何人かの郷士というのがいるんですが、その血筋じゃないとその儀式には参加できないんです。その人たちは椿の葉っぱをくわえながら無言でやってきて、それで朝拝の由来記というのが読み上げられた後、椿の葉っぱを一人一人、自天王の前に置いていくという、そういう儀式なんですよ。椿葉は皇位のメタファーでもありますがそれが唾液という身体のぬめりとともに自天王に捧げられるわけです。これは明らかに川上村の空虚の中心として自天王という人がいて、それは固有名詞であっちゃいけないと思うんですね。これは谷崎潤一郎の『吉野葛』にも出てきますけれど、空虚の中心として自天王がいて、それも少年として多分とらえられていて、そういうのが伝説的な川上村の中心となりながら、それに対して椿と唾液に象徴されるような非常にエロティックなかかわりでもって、それを崇めながら川上村の共同体をずっと維持していくというような、そういうお祭りだと思うんですね。

【土屋】その自天王というのは、南朝の後醍醐帝とはまったく対極にある存在ですね。後醍醐はまったく稚児的ではないでしょう。

【松岡】違います。

【土屋】だから、異様なんですね。

【松岡】異様なんです。むしろ逆にいった人だと思います。

【土屋】非定型ですね。

【松岡】後醍醐は稚児化してしまった天皇をもう一度権力として取り戻そうとした。だから、後醍醐は、王権の危機というのを物すごく感じていて、自分たちが実権がなくなってしまう、武の力もなくなってしまうという。そのときに後醍醐はやっぱり密教の力というか、そういうものまでも現役の天皇として動員しつつ、もう一回天皇の力の復権を願ったと思うんですね。

【土屋】今の自天王の問題ともかかわると思うのですが、天台で行われていた稚児灌頂の話をしてくれますか。これは稚児灌頂というものがどういうものであるのかは、長く秘められていて、それを結局、今東光が小説に書いたことがきっかけで一般に知られるようになったわけですね。まだこのことは正式には公開されていませんでしょう。

【松岡】今でも、今東光が小説の『稚児』の中で資料を引用した限りにおいてわかるということで。それは比叡山でも今でも見せてはいけない書になっている。

【土屋】松岡さんも見ていないの。

【松岡】見ていないです。それは今東光が比叡山のお坊さんでかなり偉いお坊さんだった、それから戦時中だということもあって、それで多分見られたと。

【土屋】どういうものですか。

【松岡】要するにお稚児さんになる儀式です。お稚児さんになるということは、観音と同体になることである。お稚児さんは最初上半身裸で部屋に入れられるわけですけれども、最初は師となるお坊さんがお稚児さんにいろいろ説教するんですが、それが今度は稚児が高座という高いところに登壇して、そこでお稚児さんになると、今度は立場が逆転するわけですね。とにかくそこで高いところに上って、お稚児さんの化粧なんかもそこでやられて、完全なお稚児さんになった時点でおまえは観音なんだというふうに言われます。そしてお坊さんの方は、観音としてのお稚児さんと契るんだということになる。つまり、それはお坊さんが単にお稚児さんとセックスするのではなくて、聖なるものとしてのお稚児さん、観音と同体であるお稚児さんと僧は契りを結ぶ、それが修行でもあるんだみたいな論理を天台の方でこしらえるわけですよね。おもしろいのは、そのときに観音と同体となったお稚児さんに与える秘文というものがあって、それが観音経の一節で、「慈眼視衆生 福聚海無量」という、今でもよく額なんかに掲げられている、あの文句なんですよ。これが呪文としてあなたに与える文句なんだと、法華経の一番のエッセンスなんだという形で与えるわけですが、ところがそれは即位灌頂という、中世の天皇が即位する際に天台の側が用意する儀式の中で天皇に与える呪文と全く同じということなんですね。稚児の存在と天皇というのは、そういう意味ではパラレルというか、同じような存在であると考えられる。

【土屋】稚児に与える呪文と天皇に与える呪文とが同じものであるというのは、今東光が言っているわけですか。

【松岡】今東光はそれは知らなかったのでしょう。阿部泰郎さんが早くに気づきましたが、このことをより広い天皇制の問題として論じたのは僕が初めてだと思います。

【土屋】これは非常に象徴的ですよね。天皇制の問題を考える場合に、そこに稚児灌頂というものを間に置いて考えると、やっぱり天皇の立場と稚児の立場が、少なくとも叡山の中では同等のものとして考えられていたことになる。

【松岡】『鞍馬天狗』でも僧正谷で天狗に牛若丸が兵法を授けられる。あの僧正谷というのには、天狗の内裏というのがあるんです。牛若丸が僧正谷に行くと、天狗の宮中というのがあって、そこでいろいろな体験をするということになる。だから、むしろ比叡山だけではなくて、鞍馬の中でもそういう内裏みたいなものが実際の天皇の内裏と対応する形であったわけです。『鞍馬天狗』の物語も、単に天狗が兵法を授けるというだけではなくて、天皇の内裏なんかとも関係してくる話なんですよ。

【土屋】牛若丸自身はいわば稚児の最も象徴的なものであるけれども、今の話とつなげていくと、天皇の姿を引き移すものとして牛若丸というものがあって、それと弁慶とか海尊とかといった武人との関係が浮かび上がってくる。それは、『安宅』とか、歌舞伎の『勧進帳』での女形による義経の姿にもつながっていきますね。

【松岡】歌舞伎などでも天皇を子役がやるとか、牛若丸、義経が子方としてあらわれて、それは庇護されるものとして能の中では出てくるという形は、今話したような様々な天皇と稚児をめぐる問題とつながっていることだと思います。

【土屋】これほどダイナミックに日本の権力の姿が稚児というものを通してぐるっと見渡せるというのは、驚きでもあるし、日本人が、ずっと強力なリーダー型の政治家を選択しなかったこととつながっているのかとも思えます。それが今、反対になんとなく気分として「石原慎太郎かっこいい」みたいな、強力なリーダーシップ願望が出て来ているのは、僕なんかはちょっと危ないという気がする。 そこで『鞍馬天狗』の話に戻すと、今までも触れられているわけですけれども、一つは、義経伝説というか、義経をめぐる能というのが幾つかありますね。『平家物語』の中でも頼朝は主人公にはならない。義経を主人公にした能はいくつかあります。そこでもやはり敗北したものとしての義経の中に、力弱き庇護されるものとして姿が反映されているのかと思うんですね。しかし、他方では『屋島』とかを考えると、非常に戦闘能力のすぐれた義経像というのがあるわけですね。その辺が、牛若丸伝説の中にいる義経と、それから、屋島的なすぐれた武人としての義経とが能の中で二つ存在する。この分裂があるのはどうしてなんでしょう。

【松岡】『屋島』の場合だけだと思うんですが、義経がああいうふうに勝っちゃうのは。それは明らかに『屋島』というのは足利義持の前で世阿弥自身が演じるとか、そういう形でやられていて、源氏の嫡流としての足利氏の先祖である義経の武勇を賞用するような形で『屋島』という能が仕組まれているわけです。一般民衆のメンタリティーに合わせて能をつくる場合とはまた大分違う位相で世阿弥がかなり戦略的にそういう能をつくっていくということはあり得ると思うんですね。

【土屋】ちょっと問題をたくさん出しすぎた感じはしますが、こうした機会に、なにが問題であるのかを少し網羅的に出しておいた方が、このパンフレットを読まれる橋の会の観客のみなさんへの情報提供にもなると思ったので、あえてあまり整理しないで、このまま読んでいただこうと思います。それにしても、稚児の問題というのは、下手をすると、余りにもスキャンダラスに取り上げられがちになるんだけれども、しかし、よくよく考えてみると、単なるスキャンダルというものではなくて、日本人の抜きがたい権力への心理としてあって、逆にそういうものから離脱することによって本当に日本が近代を迎えられるのかなという気はするんです。稚児への情感をモデルにするような政治感覚から離脱しつつある日本の近代というのは一体どういうものになっていくのか、そこがおもしろいなと思うし、逆に、さっきいいましたように、単純な形でのリーダー願望はとても危険でもある。そのバランスをどうとっていくのかによって日本人の成熟度がはかられることにもなる。だから、僕は松岡さんが提起した稚児と天皇制という問題は、いわゆる芸能史的な問題じゃなくて、むしろ日本人の社会心理の問題なんじゃないかと思っている。松岡さんは、今「稚児」についての本を新たに準備されていますが、きっとそれは、日本人の権力への社会心理を考えるための重要な本になると思います。

(2001年4月7日収録)