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東洋の歴史と文化 日本と中国の名前の謎 講師 加藤 徹

朝日カルチャーセンター・新宿教室  平成三十年 六月二十五日 月曜

加藤徹のホームページ http://www.geocities.jp/cato1963/

 

 今年の大河ドラマの主人公の本当の名前は? 正解は「西郷隆永(たかなが)」です。隆盛は彼の父の諱(いみな)。「西郷どん」は明治維新のとき誤って父の名を届けられ、その後はしかたなく「隆盛」と名乗りました。なぜこんなことになったのか。昔の東洋人は諱、字(あざな)、号など様々な呼称を使い分けました。映画やドラマと違い、諱はめったに使わなかったのです。なぜか。その背後には、西洋とは違う東洋社会独特の事情がありました。

 本講座では、中国や日本の歴史の有名人をとりあげ、姓名の歴史的変遷と、その背後にあった社会的理由について、わかりやすく解説します。(講師記)

 

 現在の日本では「姓名」と「氏名」は同義語。加藤徹は姓名であり氏名でもある。法律上の「氏」(民法750条、790条、他)は、一般には「姓」「名字」「苗字」などとも呼ばれる。

 江戸時代までは違っていた。「加藤」は「加賀藤原氏」を意味する苗字(名字)で、姓は藤原で、源平藤橘の四大姓の一つである。北条時政、徳川家康、加藤徹は、姓と名で言うとそれぞれ、平時政(たいらのときまさ)、源家康(みなもとのいえやす)、藤原徹(ふじわらのとおる)である。

 なお同じミョウジでも、名字と苗字は意味用法が違っていたが、後世は混同された。

 

【問題】大正天皇の個人名()は?

 答えられない日本人もいることに欧米人は驚くらしい。

 中国の天子は諡号(しごう。おくりな)か廟号。西洋の君主は個人名(東洋の諱に相当)

 

 東アジアの漢字文化圏では、日本も中国も、姓に続けて個人名、という組み合わせが普通。

 しかし世界的に見ると、個人名のあとに姓、という国や、そもそも姓がない国もある。アジアでも、ミャンマーやモンゴルなど中国の周辺国、アラブ圏では、そういう傾向が強かった。また中国人でも、近現代の漢民族の同化政策以前は、姓をもたない少数民族も多かった。

 日本人も本来は姓をもたなかったが、遣唐使の時代から漢民族の文物制度を取り入れる過程で、日本社会の最上層と最下層を除き、氏や姓をもつようになった。ただし漢民族の宗族社会と、日本人の社会構造の違いもあり、日本の「うじ」や「かばね」の実態は、中国とはかなり違うものになった。その一方、昔の日本の教養人や知識人は漢文の学問を勉強したため、漢民族の人名に対する理念は、日本人の名前にも大きな影響を与えてきた。

 明治になり、日本は西洋社会に学び「夫婦同姓」や「氏、姓、苗字の一本化」を実施して今日に至る。しかし、日本の歴史を振り返ると、また、日本の近隣諸国の人名の構造を見ると、中国人の名前についての知識がないと、わかりにくいことがある。

 

 漢民族の「姓()、名()、字」という三点セットは戦国時代から確立した。

 中国の「同姓不婚」「儒教」などの歴史は、漢民族の「宗族社会」と結びついている。

 名の他に字をもつ習慣は二十世紀前半まで続いた。

 

【問題】朝青龍氏とアウンサンスーチー氏の姓は何?

 元横綱・朝青龍は、日本名は「朝青龍明徳(あさしょうりゅう あきのり)」だが、本名はドルゴルスレンギーン・ダグワドルジ氏である。ドルジはチベット系の語で「雷」「強い」の意。ドルゴルスレンは父親の個人名で、ドルゴルスレンギーンは「ドルゴルスレンの(息子)」の意。日本では「ドルゴルスレン・ダグワドルジ」と書くことも多い。

 チベット人も姓をもたない。人類で最初にエベレストに登ったテンジン・ノルゲイは、テンジンもノルゲイも個人名である。ダライラマ14世猊下の幼名ラモ・トンドゥプも同様で、個人名である。

 ミャンマーのアウンサンスーチー氏も、「アウンサンスーチー」が個人名であって、姓はない。一部の日本人が「スーチー女史」と呼ぶのは、個人名を勝手に断ち切って使っているわけで、厳密にいうと失礼である。

 人口比はともかく、面積比で見ると、漢民族的な「姓+名」の人名を使っている社会は意外と少ない、と言えるかもしれない。

 

中国人の姓の歴史

 「夏・殷・周」の三代。夏は伝説の時代。中国の有史時代は、殷(中国では「商」と呼ぶ)代後期の「甲骨文」の時代から始まる。「上古・中古・近古」で言えば「上古」の時代。姓と氏には、

  姓 母系の血縁関係(母姓)

  氏 父系の血縁関係(父氏)

という違いがあった。上古の社会に、姫、姜、嬴、姚、姒など「女」へんが多いのは、太古の母系社会の名残である。

 周の文王や武王は姫姓であり、彼らを助けた太公望(呂尚)は姜姓であった。

 

【問題】日本最古の姓は?

 三輪だと主張する人もいるが、学問的な根拠は薄い。いわゆる「魏志倭人伝」に出てくる人名「狗古智卑狗」を、現在の熊本県にいた古代の「菊池彦」と見る説もあり、もしこの説が正しければ、「菊池」が日本最古の姓の一つと言えるかもしれない(それでも3世紀までしか遡れないが)

 

 上古の人名はしばしば、姓名ではなく、名姓の順になる。殷の紂王の「妲己」は「己」が姓、「妲」は字 (あざな)=個人名。西周の幽王の「褒姒」は、「姒」が姓で「褒」は個人名(異説もある)。万里の長城の伝説で有名な「孟姜」(孟姜女)は姜姓の長女の意。

 同姓の一族の子孫が増えて各地に広がると、支族がそれぞれみずからを区別する称号を姓とは別に名乗るようになる。これが氏の起源(日本でいうと、藤原姓から加藤とか遠藤などの苗字が分かれたのと似ている)

 

 西周時代は、子供が生まれて三ヶ月後に父親が「名」()をつけた。男子は二十歳で成人となり冠礼(弱冠、の語源)を行うときに、女子は十五歳で許嫁となり笄礼を行うときに「字」を名乗った。

 中古・近古において、結婚した女性を「某氏」(某は女性の父の姓)と呼ぶのは、上古の父氏の名ごり、という説がある。

 字は近代まで残っていた。毛沢東は、姓は毛、名は沢東、字は潤之。蒋介石は、姓は蒋、名は中正、字は介石である。

 

 春秋時代の孔子は、氏は孔、諱は丘、字は仲尼(ちゅうじ)。孔子は尊称で、子は先生という意味。

 孔子の弟子の顔回は、名は「回」、字は「子淵」である(子は男子の敬称でもあるので、氏や姓のあとにつなげるときは「顔子淵」ないし「顔淵」と呼ぶ)

 春秋時代には、後世にはないような奇妙な人名があった。孔子の弟子の「澹台滅明」もそうである。珍しい姓や氏が消えていったのは、父系同族集団たる宗族を中心とする宗族化が進んだことで、マイナーな姓の生き残りが不利になったためであろう。

 

 戦国時代は本格的な「中国史」の開始である。例えば史書『資治通鑑』の記述も戦国時代から。

 戦国時代までの人名については、謎が多い。

 例えば孟子は、姓は不詳、氏は孟、名()は軻(か)、字は不詳である。魏晋時代以降の書物には、孟子の字として「子輿(しよ)」「子車」「子居」などを載せる。

 戦国時代から、上古の「母姓」の概念が薄まり、「父氏」と混合し始める。人々は旧来の「氏」をもって「姓」とするようになり、また、庶民から天子まで全ての人々が姓をもてるようになった。孟子の姓が不詳である一因も、彼自身が氏を姓の代わりに使ったからである可能性がある。ロシア人やモンゴル人、(旧時の)満洲人が父の名を姓の代わりに使ったのと似た現象であろう。

 ただし、王族や貴族などは古式ゆかしく姓と氏を使い分け続けた。

 戦国時代の末に生まれた秦の始皇帝は、姓は嬴(えい)、氏は趙(ちょう)、諱は政(せい)であった。始皇帝になる前の彼は「秦王政」とも呼ばれる。

 

 前漢  「先秦」時代の古典を「古典」として注釈つきで読むようになった時代。

 秦末から「楚漢戦争」期にかけては、庶民が旧来の王族・貴族と並んで天下取りのレースに参加するという、未曾有の時代。

 前漢の初代皇帝となった劉邦も、彼をささえた部下たちも庶民であり、彼等の名前は現代中国人の名前とそれほど違っていない。

前漢の司馬遷『史記』「高祖本紀」の冒頭は「高祖、沛豊邑中陽里人、姓劉氏、字季。父曰太公,母曰劉媼」。

 高祖は、沛(はい)の豊邑(ほうゆう)の中陽里の人。姓は劉氏、字は季(き)。父は太公と曰ひ、母は劉媼と曰ふ。

 漢の高祖(廟号)は、沛の豊邑の中陽里の人である。姓は劉氏(庶民なので、氏をもって姓としていた)、字は「すえっこ」(昔の日本で言うと「留さん」とか「末吉」「末七」のような感じ)、父親の名は太公(ビッグダディ、の意。高祖は農民の家で、父の名前すら伝わっていなかった)、母親の名は劉媼(劉さんちのおばあちゃん、の意)と言った。

 「劉邦」という名前は『史記』には見えない。「邦」(くに、の意)という立派な諱は、現在文献で確認できる限りでは、後漢の荀悦『漢紀』が初出である。この「邦」についても、本当に劉備の諱だったのか、それとも「幇」(たすけてくれるアニキ)という意味のあだなだったのか、実はよくわからない。

 いずれにせよ、中国史では高祖の時代から「庶民の顔」が見えるようになる。

 

避諱

 諱は「忌み名」であった。親の諱の字を子は一生使ってはならず、天子の諱の字を臣下が日常生活で使うことは禁じられた(今上だけでなく今上の先祖にあたる歴代の天子の諱も使用禁止)

 前漢では、高祖の諱が「邦」だったので、「邦」の字を使えなくなり、旧来の「邦」と書くべきところは「国」という字に書き換えられた。総理大臣にあたる「相邦」は「相国」と改称され、『論語』微子篇の「何ぞ必ずしも父母の邦を去らんや」は漢の時代は「父母の国」云々に書き換えられた。漢の滅亡後、『論語』は「邦」に戻ったが、「相国」はそのまま「相邦」に戻ることなく使われ続けた。平清盛が「入道相国」と呼ばれ、足利義満が立てた寺の名前が「相国寺」であるのも、劉邦の影響である。

 この他、諱を避けるため「欠筆」などの手段を取ることもあった。

 中国最後の王朝である清朝の歴代皇帝は、比較的に開明的だった。清朝の皇帝は、即位すると、自分の諱をわざと同音の難しい字に改めることがあった。人民が避諱のせいで不便にならぬための配慮である。

 例えば、アヘン戦争のときの皇帝であった宣宗(日本では元号で道光帝と呼ばれる)は、皇子だったころの諱は綿寧(めんねい)だったが、皇帝に即位したあとは自分の諱を旻寧(みんねい)に改めた。人民が「綿」という漢字を使えなくなり不便になることを避けるためだった。

 これと対照的なのは、徳川五代将軍綱吉だった。綱吉は長女の鶴姫を溺愛し、「鶴字法度」を出し、庶民が鶴字・鶴紋を使用することを禁じた。井原西鶴は雅号を改めて「井原西鵬」(さいほう)と名乗るなど、庶民は迷惑をこうむった。

 

日本

 日本の貴人の諱に対する感覚は、中国社会とは違っていた。

 中国人の諱は、王莽時代の諱に関する法令の影響もあり、後漢から三国志の時代にかけての英雄は一字の諱が多い。

 これに対して昔の日本の貴人の諱は、二文字以上であることが少なくなかった。日本人の諱のうち、共通している字を通字(とおりじ)、個性を示す字を偏諱(へんき)、と呼ぶ。

 豊臣秀吉、豊臣秀長、豊臣秀次、豊臣秀頼、の名前の通字は「秀」である。秀吉の「吉」は偏諱である。

 昔の日本では、主従関係の証しとして、家来筋に主人の諱の一部を与える「一字拝領」という習慣があった。豊臣秀吉から通字や偏諱をもらった大名には、徳川秀忠、結城秀康、宇喜多秀家、大谷吉継などがいる。

 通字についての感覚も日本と中国では大きく異なる。

 中国では、通字は「同世代」「同格」など横で共有するものである。

 日本では、通字は横だけでなく、「親から子へ」「師匠から弟子へ」など縦に共有することも許される。例えば、三浦姓の日本人は、鎌倉時代の三浦義村以来の伝統で、今も先祖代々「義」の通字を共有することが多い。日蓮宗や浄土真宗の高僧の法号も、それぞれ「日」や「如」という通字を師から弟子へと縦に代々、継承する。

 かしこきあたりのお名前も、そうである。

 中国では、縦の通字の共有は「以小犯上」になってしまうので、京劇俳優の芸名など少数の例外を除き、上から下への縦の通字、という発想はない。

 

 

補充資料 孔子の子孫の輩行(「排行」との違いに注意)

孔子の子孫は、第五十六代から第百五代にかけては、以下のような行輩(字輩、輩行字)を使うことが決まっている。「希言公承、宏聞貞尚衍、興毓傳繼廣、昭憲慶繁祥、令コ維垂佑、欽紹念顯揚、建道敦安定、懋修肈懿長、裕文煥景瑞,永錫世緒昌」

中華民国の政治・経済の実権を握った「四大家族」は蒋介石・宋子文・孔祥熙・陳果夫だが、孔祥熙(1880―1967)は第七十五世代の「祥字輩」である。

孔子以外にも、歴代の輩行を数百年後の未来の子孫の代まで決める例はたくさんある。

 

 

ウィキペディア「西郷隆盛」の説明より 2018625日閲覧

 諱は元服時に隆永(たかなが)のちに武雄・隆盛(たかもり)と変更。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変更。号は南洲(なんしゅう)。隆盛は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父・吉兵衛の名で届け出てしまい、それ以後は父の名を名乗ったためである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門、大島吉之助などの変名も名乗った。

 

 田町駅の近くにある「西郷南洲・勝海舟会見之地碑」

 

 勝海舟の名前は、麟太郎(通称・幼名)、義邦、安芳など。海舟は号。

「西郷隆盛と勝海舟の会見」という表現は、諱と号の非対称性ゆえ厳密には不自然。両方を号にして西郷南洲と勝海舟の会見、とするか、通称どうしで西郷吉之助と勝麟太郎の会見、と呼ぶのが正しい。

 

 

以上