物と事と時間 文学で楽しむ東洋哲学

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平成三十年(2018)六月二十三日 明治大学教授 加藤 徹

 

【講座内容】古来、洋の東西を問わず、モノとコトと時間は、人類の哲学的テーマでした。

なぜ時間は過去から未来にしか流れないのか?

なぜ自然には可逆変化と不可逆変化があるのか?

 過去はすでに存在しない時間。未来はまだ存在しない時間。存在するのは「現在」という一瞬の点のみ。ならばなぜ時間は写真のように凍りつかず、動画のように動き続けるのか?

 自分とは何か? モノとしての自分の肉体が新陳代謝で入れ替わっても、自分はまだ自分なのか? モノとしての自分が消えても、コトとしての自分は残るのか?

 孔子や蘇軾の漢文、李白や杜甫の漢詩、日本の和歌や古文の名作、金子みすゞや宮沢賢治の詩などをもとに、東洋人の哲学をわかりやすく解説します。(講師記)

 

★時間芸術と空間芸術

  時間芸術…音楽、文学など。コトの芸術。

  空間芸術…絵画、工芸、彫刻、建築などの造形芸術。モノの芸術。

  総合芸術…演劇、楽劇、映画など。

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★現代人と伝統的な時空間★

 現代人は、前近代の伝統的な人間とは、違う時空感覚で生きている?

 個人主義と古人主義

 一回性的時間(西暦、進化論的、キリスト教的)と輪廻的時間(元号、仏教的)

 ロジカル・シンキング(論理思考)とアナロジカル・シンキング(類比思考)

 人類の歴史の大部分は「前近代」である。現代人といえども、本当は、前近代の伝統的な感覚のほうがしっくりと感じられるのかもしれない。

 

★物について★

〇『岩波古語辞典 補訂版』(1974第一刷/1992補訂第三刷)より引用

(引用開始) もの【物・者】(一)⦅名⦆≪形があって手に触れることのできる物体をはじめとして、広く出来事一般まで、人間が対象として感知・認知しうるものすべて。コトが時間の経過とともに進行する行為をいうのが原義であるのに対して、モノは推移変動の観念を含まない。むしろ、変動のない対象の意から転じて、既定の事実、避けがたい定め、不変の慣習・法則の意を表わす。また、恐怖の対象や、口に直接のぼせることをはばかる事柄などを個個に直接に指すことを避けて、漠然と一般的存在として把握し表現するのに広く用いられた。人間をモノと表現するのは、対象となる人間をヒト()≫以下の一つの物体として蔑視した場合から始まっている≫(引用終了)

 

〇日本語の和語(大和言葉)には「もの」と「こと」という言葉があるので、日本語は哲学的思考に有利な言語である、という説もある。金田一春彦『日本語』岩波新書(青版および赤版)を参照。

 

〇漢字「物」の字源

 「物」は「牛」に「勿」と書く。字源については諸説あるが、「牛」は動物のウシ、「勿」は色とりどりの布ひれを集めた旗状のもの、を指すらしい。

なぜ、ウマでもイヌでもなくウシなのか? 『旧約聖書』「出エジプト記」の古代ユダヤ人は「金の子牛」の偶像を作って拝み、古代中国の三皇五帝のひとり神農は人身牛頭とされ、禅の「十牛図」でも牛を仏性のメタファーとした。これらとあわせて考察してみよう。

 

〇奈良の薬師寺の「仏足石歌」第十九番

与都乃閇美伊都々乃毛乃々阿都麻礼流伎多奈伎微乎婆伊止比須都閇志波奈礼須都倍志

()つの蛇(へみ) 五つの鬼(もの)の 集まれる

(きたな)き身をば 厭(いと)ひ捨つべし 離れ捨つべし

『涅槃経』の「地水火風は四大蛇の如く、五蘊は旃陀羅の如し」をふまえる。

 

〇『老子』第二十五章

有物混成、先天地生。寂兮寞兮、獨立不改、周行而不殆。可以爲天下母。吾不知其名、字之曰道。強爲之名曰大。大曰逝、逝曰遠、遠曰反。故道大、天大、地大、王亦大。域中有四大、而王居其一。人法地、地法天、天法道、道法自然。

物有り混成し、天地に先んじて生ず。寂(せき)たり寞(ばく)たり、独立して改(かわ)らず、周行して殆(とど)まらず。以(もっ)て天下の母と為すべし。()れその名を知らず、これに字(あざな)して道と曰()う。強()いてこれが名を為して大と曰う。大なれば曰(ここ)に逝()く、逝けば曰に遠く、遠ければ曰に反(かえ)る。故に道は大、天も大、地も大、王もまた大なり。域中(いきちゅう)に四大(しだい)あり、而(しか)して王はその一に居る。人は地に法(のっと)り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る。

 

★事について★

〇『岩波古語辞典 補訂版』(1974第一刷/1992補訂第三刷)より引用

(引用開始) こと【言・事】(一)⦅名⦆≪古代社会では口に出したコト()は、そのままコト(出来事・行為)を意味したし、また、コト(出来事・行為)は、そのままコト()として表現されると信じられていた。それで言と事は未分化で、両方ともコトという一つの単語で把握された。(途中省略―加藤)コト()は、人と人、人と物とのかかわり合いによって、時間的に展開・進行する出来事、事件などをいう。時間的に不変の存在をモノという。(以下省略―加藤―引用終了)

 

〇漢字「事」の字源

 「事」にあたる甲骨文字は、竹の棒(ないし小さな木の旗)を手でもつ形、と解釈する説が有力。人に「つかえる」(事・仕)、立つ、というイメージもある。

 

〇ミコト(御言・御事・命・尊)

『新約聖書』ヨハネ福音書冒頭の「ロゴス」()は、古代日本語の「ミコト」と訳すと趣旨を把握しやすい。

以下、https://ja.wikisource.org/wiki/ヨハネによる福音書(口語訳) より引用。

(引用開始) 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。(中略―加藤)そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。(引用終了)

 

〇山上憶良の和歌 『万葉集』八九四

 神代欲理云傳久良久虚見通倭國者皇神能伊都久志吉國言霊能佐吉播布國等加多利継伊比都賀比計理今世能人母許等期等目前尓見在知在……

神代(かむよ)より 言い伝て来らく そらみつ 倭国(やまとのくに)は 皇神(すめかみ)の厳(いつく)しき国 言霊(ことだま)の幸(さき)はふ国と語り継ぎ 言い継かひけり 今の世の 人もことごと 目の当たりに 見たり知りたり(以下略―加藤)

 

★時について★

 トキ()の語源は、動詞「トク」(溶く・解く。言葉によって解きあかす「説く」も)の連用形で、ツキ(月・尽き)と近縁の語、という説がある。

 

〇漢字「時」の字源

 「日」(日付、時間)と「寺」(足や手が動くように進んでゆく。仏教の施設「おてら」の意味ではない)を組み合わせた会意兼形声文字、という説がある。

 

〇『古今和歌集』巻七・賀歌巻頭歌、題知らず、詠み人知らず

我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで

→とこしえ(永遠) < 床石上

 

〇『論語』子罕第九に載せる孔子の言葉。

子在川上曰「逝者如斯夫。不舎昼夜。」

子、川の上(ほとり)に在りて曰はく 「逝()くものは斯(か)くの如きか。 昼夜を舎(お)かず」と。

 

〇時間は本当に「流れ」ているのだろうか?

 古代人のアナロジカル・シンキング(類比思考)

一日  朝   昼   黄昏  夜  →…→ 朝

一月  新月 三日月  満月  晦日 →…→ 新月

一年  春   夏   秋   冬  →…→ 春

一生  出生  若年  老年  死  →…→ ?

    時間の流れは、直線的か、円環的か、螺旋的か。

    西暦は通し番号、東洋の「干支」は六十年で「還暦」。

WOMBからTOMB(誕生) TOMBからWOMB(再生) 母胎回帰願望

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〇漢詩「薤露歌」(かいろのうた) 『古詩源』巻五より、無名氏の作

薤上露、何易晞。

露晞明朝更復落、

人死一去何時帰。

薤上(かいじょう)の露、何ぞ晞(かわ)き易き。露、晞くも明朝、更に復た落ちん。人、死して一たび去れば何れの時か帰らん。

→可逆変化と不可逆変化、熱力学第二法則

 

 

〇昼と夜   金子みすゞ

 

昼のあとは

夜よ、

夜のあとは

昼よ。

 

どこに居たら

見えよ。

 

長い長い

縄が、

その端と

端が。

 

 

〇北宋・蘇軾(そしょく 1037〜1101)の漢詩

 題西林壁

横看成嶺側成峰  横より看れば嶺と成り 側よりは峰と成る

遠近高低無一同  遠近 高低 一として同じきは無し

不識廬山真面目  廬山の真面目を識らざるは

只縁身在此山中  只だ身の此の山中に在るに縁る

 

 廬山煙雨

廬山煙雨浙江潮  廬山は煙雨 浙江は潮

未到千般恨不消  未だ到らざれば 千般 恨み消えず

到得還来無別事  到り得て 還り来れば 別事無し

廬山烟雨浙江潮  廬山は煙雨 浙江は潮

 

 

〇『荘子』雑篇・天下より、恵施(恵子)のパラドックス

惠施多方、其書五車、其道舛駁、其言也不中。歷物之意、曰「至大無外、謂之大一、至小無、謂之小一。無厚不可積也、其大千里。天與地卑、山與澤平。日方中方睨、物方生方死。大同而與小同異、此之謂小同異;萬物畢同畢異、此之謂大同異。南方無窮而有窮、今日適越而昔來。連環可解也。我知天下之中央、燕之北、越之南是也。氾愛萬物、天地一體也。」

惠施以此為大觀於天下而曉辯者、天下之辯者相與樂之。卵有毛、雞三足、郢有天下、犬可以為羊、馬有卵、丁子有尾、火不熱、山出口、輪不蹍地、目不見、指不至、至不、龜長於蛇、矩不方、規不可以為圓、鑿不圍枘、飛鳥之景未嘗動也、鏃矢之疾而有不行不止之時、狗非犬、黃馬、驪牛三、白狗K、孤駒未嘗有母、一尺之捶、日取其半、萬世不竭。辯者以此與惠施相應、終身無窮。

南方は無窮にして窮まり有り、今日、越に適()きて昔(きのふ)来たり。

火は熱からず。

飛鳥の景(かげ)、未だ嘗て動かざるなり。

 

〇刹那滅と刹那生

 以下『大正大蔵経』の『阿毘曇毘婆沙論』より引用。(引用開始)

若五道壞地獄身乃至即是天身。乃至廣説。

若五倶生何妨有六。若有者則可一時縁六根義。乃至廣説。

若不妨六乃至百千未來世中一時倶生。一刹那生一刹那滅。若然則無未來。以有未來則有現在。以有現在則有過去。若無未來則無現在。若無現在則無爲。若無有爲無爲則無一切諸法。(以下略―加藤)

   刹那滅については加藤徹『漢文力』中公文庫もご覧くださいますよう。

 

 

〇現世は心というスクリーンに写る映像

 

『古今和歌集』巻十八・雑歌下より よみ人知らず

世の中は夢かうつつかうつつとも夢とも知らずありてなければ

 

   現(うつつ) 現世(うつしよ) < 移し・写し・映し

  古代ギリシアの哲学者プラトンの「洞窟の比喩」

 

 

『金光明最勝王經音義』より

以呂波耳本へ止千利奴流乎和加餘多連曽津祢那良牟有為能於久耶万計不己衣天阿佐伎喩女美之恵比毛勢須

色はにほへど 散りぬるを 我が世たれぞ 常ならむ

有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず

 

 

〇『涅槃経』(ねはんぎょう)無常偈(むじょうげ)

諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽

しょぎょうむじょう ぜしょうめっぽう しょうめつめつい じゃくめついらく

諸行は無常なり 是れ生滅の法なり 生滅を滅し已おわりて 寂滅を楽となす

 

 

〇宮沢賢治「春と修羅」序

 

わたくしといふ現象は

仮定された有機交流電燈の

ひとつの青い照明です

(あらゆる透明な幽霊の複合体)

風景やみんなといつしよに

せはしくせはしく明滅しながら

いかにもたしかにともりつづける

因果交流電燈の

ひとつの青い照明です

(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

 

これらは二十二箇月の

過去とかんずる方角から

紙と鉱質インクをつらね

(すべてわたくしと明滅し

 みんなが同時に感ずるもの)

ここまでたもちつゞけられた

かげとひかりのひとくさりづつ

そのとほりの心象スケツチです

 

これらについて人や銀河や修羅や海胆は

宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら

それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが

それらも畢竟こゝろのひとつの風物です

たゞたしかに記録されたこれらのけしきは

記録されたそのとほりのこのけしきで

それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで

ある程度まではみんなに共通いたします

(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに

 みんなのおのおののなかのすべてですから)

 

けれどもこれら新生代沖積世の

巨大に明るい時間の集積のなかで

正しくうつされた筈のこれらのことばが

わづかその一点にも均しい明暗のうちに

  (あるいは修羅の十億年)

すでにはやくもその組立や質を変じ

しかもわたくしも印刷者も

それを変らないとして感ずることは

傾向としてはあり得ます

けだしわれわれがわれわれの感官や

風景や人物をかんずるやうに

そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに

記録や歴史 あるいは地史といふものも

それのいろいろの論料データといつしよに

(因果の時空的制約のもとに)

われわれがかんじてゐるのに過ぎません

おそらくこれから二千年もたつたころは

それ相当のちがつた地質学が流用され

相当した証拠もまた次次過去から現出し

みんなは二千年ぐらゐ前には

青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ

新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層

きらびやかな氷窒素のあたりから

すてきな化石を発掘したり

あるいは白堊紀砂岩の層面に

透明な人類の巨大な足跡を

発見するかもしれません

 

すべてこれらの命題は

心象や時間それ自身の性質として

第四次延長のなかで主張されます

 

     大正十三年一月廿日

 

※来週に続きます。李白や杜甫の漢詩、芭蕉や一茶の俳句は来週に。

 

 

 

 

 

物と事と時間 文学で楽しむ東洋哲学

平成三十年(2018)六月三十日 明治大学教授 加藤 徹

 

★小林一茶の俳句★

うつくしや障子の穴の天の川  小林一茶

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和語「ウツシ」 移し・遷し、写し・映し → ウツシヨ(現世)

〇『岩波 古語辞典 補訂版』(1992年補訂版第3)より

うつ−し【写し・移し】()[四段]<ウツリの他動詞形。物の形や内容そのままを、他のところにあらわれさせる意。ウツはアクセントも考慮すると、ウツシ()・ウツツ() のウツと同根。この世にはっきり形を見せ、存在する意。(以下略)>

和語「うつくし」 ← ウツ(内、空・虚、現・映)+クシ(奇し)

 

先週の前回の講座のあとの質問などを受けての補充

 科学的な教養知識が普及していなかった古代人にとって「物」は不気味な存在であり、どこの国でも「もの」を意味する単語は、しばしば、人間とは独立した意思をもって立ち現れるモノノケ的な存在を指した。例えば英語でもそうである。

日本の怪獣映画「モスラ対ゴジラ」の英語タイトルはGodzilla vs. the Thingである。米国のSFホラー映画「遊星からの物体X」の原タイトルは The Thing である。

中世から広まった「付喪神」や、近世以降に庶民層にも広がる物品供養、例えば針供養や人形供養などの習俗も、根底には古代的な「もの」への恐怖感がある。

 

『礼記』礼器より★ 儒教の「礼」の本質は、人類が万物を治めてこの世界で生きて行くための宇宙の、秩序化であった。 

礼也者、合於天時、設於地財、順於鬼神、合於人心、理万物者也。是故天時有生也、地理有宜也、人官有能也、物曲有利也。

礼の本質は、天の時間のサイクルにマッチし、地の資源を利用し、目に見えぬ鬼神とうまくつきあい、ヒトの本性に合致し、万物を理解して利用することである。

 

『荘子』外篇・知北遊より 自分の身体すら自分の思い通りにはならない物である、という諦念

舜問乎丞曰「道可得而有乎」。曰「汝身非汝有也、汝何得有夫道」。舜曰「吾身非吾有也、孰有之哉」。曰「是天地之委形也(以下、省略)」。

聖天子であった舜(しゅん)は、人生の師である丞にたずねた。「道を得て自分のものにすることは可能でしょうか」。丞は答えた。「おまえの身体すら、おまえの持ち物ではない。おまえが道をもつことなど、どうしてできよう」「私の身体が私のものでないとすると、いったい、誰のもちものなのですか」「天地自然からのあずかりものだよ」

 

王充『論衡』論死篇より。古代中国版「人間機械論」

人、物也。物、亦物也。物死不為鬼、人死何故独能為鬼。

人、物なり。物もまた物なり。物、死してキと為らず。人死すれば何の故にか独りヨく鬼と為らん。

人間はモノである。物もモノである。物は死んでも幽霊にはならない。物である人間だけが死んで幽霊になることは、ありえない。

 

『淮南子』天文訓より。「宇宙」の誕生について

未形、馮馮翼翼、洞洞灟灟、故曰太昭。道始生虚廓、虚廓生宇宙、宇宙生気

天地がまだ形をなしていなかった遠い昔、この世はぼんやりともやもやして、うすぐらくにごっていた。これを「太昭」、太古の明るい時代、と呼ぶ。自然の道のはたらきによって「虚廓」つまりからっぽの空間が生まれ、虚廓から「宇宙」(明確な領域的空間と、推移する時間。時空)が生まれ、宇宙から「気」(物質とエネルギー)が生まれた。

 

『淮南子』斉俗訓より。「宇宙」の定義。宇宙という語と定義は、戦国時代からあった。

往古来今謂之宙、四方上下謂之宇、道在其間、而莫知其所。

今来古往の時間の流れを宙と言い、四方上下の空間を宇と呼ぶ。自然の道はそのあいだにあるが、どこにあるのかを知ることはできない。

 

★杜甫は三国志の諸葛孔明の名声を「宇宙」的とたたえた★

詠懐古跡 其五 杜甫

諸葛大名垂宇宙 宗臣遺像肅清高

三分割拠紆籌策 万古雲霄一羽毛

伯仲之間見伊呂 指揮若定失蕭曹

運移漢祚終難復 志決身殲軍務労

諸葛の大名(たいめい) 宇宙に垂る

宗臣(そうしん)の遺像(いぞう) 肅(しゅく)として清高(せいこう)

三分割拠(さんぶんかっきょ) 籌策(ちゅうさく)を紆(めぐ)らし

万古(ばんこ) 雲霄(うんしょう) 一羽毛(いちうもう)

伯仲(はくちゅう)の間(かん)に伊呂(いりょ)を見る

指揮 若(も)し定まれば蕭曹(しょうそう)を失(しっ)せん

運移りて漢祚(かんそ)終(つい)に復(ふく)し難く

志(こころざし)は決するも身は殲(つ)きぬ 軍務の労に

 

★李白が書いた「四六駢儷文」の文体による銘文「春夜宴桃李園序」★

夫天地者万物之逆旅、光陰者百代之過客。而浮生若夢、為歓幾何。 古人秉燭夜遊、良有以也。況陽春召我以煙景、大塊仮我以文章。会桃李之芳園、序天倫之楽事。 群季俊秀、皆爲恵連。 吾人詠歌、独慚康楽。幽賞未已、高談転清。開瓊筵以坐花、飛羽觴而酔月。不有佳作、何伸雅懐。如詩不成、罰依金谷酒数。

夫れ天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり。 而して浮生は夢のごとし、歓を為すこと幾何ぞ。古人の燭を秉りて夜遊ぶ、良に以有るなり。況んや陽春我を召くに煙景を以てし、大塊の我に仮すに文章を以てするをや。桃李の芳園に会して、天倫の楽事を序す。群季の俊秀は、皆恵連たり。吾人の詠歌は、独り康楽に慚づ。幽賞未だ已まず、高談転た清し。瓊筵を開きて以て花に坐し、羽觴を飛ばして月に酔ふ。佳作有らずんば、何ぞ雅懐を伸べん。如し詩成らずんば、罰は金谷の酒数に依らん。

 

★松尾芭蕉『おくの細道』序★

月日(つきひ)は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行(ゆき)かふ年も又旅人也(たびびとなり)。舟の上に生涯(しょうがい)をうかべ、馬の口とらえて老(おい)をむかふる物(もの)は、日々(ひび)旅にして旅を栖(すみか)とす。古人(こじん)も多く旅に死せるあり。予()もいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそはれて、漂泊(ひょうはく)の思ひやまず、海浜(かいひん)にさすらへ、去年(こぞ)の秋江上(こうしょう)の破屋(はおく)に蜘(くも)の古巣(ふるす)をはらひて、やゝ年も暮(くれ)、春立(たて)る霞(かすみ)の空に白川(しらかわ)の関こえんと、そゞろ神(がみ)の物につきて心をくるはせ、道祖神(どうそじん)のまねきにあひて、取(とる)もの手につかず。もゝ引(ひき)の破(やぶれ)をつゞり、笠(かさ)の緒()(つけ)かえて、三里(さんり)に灸(きゅう)すゆるより、松島の月先(まず)心にかゝりて、住(すめ)る方(かた)は人に譲(ゆず)り、杉風(さんぷう)が別墅(べっしょ)に移(うつ)るに、

  草の戸も住替(すみかわる)る代()ぞひなの家

面八句(おもてはちく)を庵(いおり)の柱に懸置(かけおく)

 

★李の七言古詩「把酒問月」より★  「古人今人若流水」は名句として独立にも著聞する。月を超時空的存在の象徴として詠んでいる。

 把酒問月  酒を把()りて月に問ふ  李白

青天有月来幾時  青天 月有りて来(このか)た幾時ぞ

我今停杯一問之  我 今 杯を停めて一たび之に問ふ

人攀明月不可得  人 明月を攀()づるは得()べからず

月行却与人相随  月行 却(かえ)って人と相ひ随ふ

皎如飛鏡臨丹闕  皎として飛鏡の丹闕(たんけつ)に臨むが如く

緑煙滅尽清輝発  緑煙 滅し尽くして 清輝 発す

但見宵従海上来  但だ見る 宵に海上より来たるを

寧知暁向雲間没  寧(なん)ぞ知らん 暁に雲間に向ひて没するを

白兔擣薬秋復春  白兔 薬を擣()きて 秋 復た春

姮娥孤棲与誰隣  姮娥(こうが) 孤(ひと)り棲みて 誰と隣ならん

今人不見古時月  今人は見ず 古時の月

今月曽経照古人  今月 曽経(かつ)て古人を照らす

古人今人若流水  古人今人 流水の若し

共看明月皆如此  共に明月を看ること 皆 此(かく)の如し

唯願当歌対酒時  唯だ願ふ 歌に当たり酒に対するの時

月光長照金樽裏  月光 長(とこし)へに金樽の裏(うち)を照らさんことを

 

 

蘇軾 「赤壁賦」より★

 文人の蘇軾が「問答体」で時空に対する哲学を述べた長編の韻文。

 

壬戌之秋、七月既望、蘇子与客泛舟、遊於赤壁之下。 清風徐来、水波不興。挙酒属客、誦明月之詩、歌窈窕之章。少焉、月出於東山之上、徘徊於斗牛之間。 白露横江、水光接天。 縦一葦之所如、凌万頃之茫然。浩浩乎如馮虚御風、而不知其所止、飄飄乎如遺世独立、羽化而登仙。

【夜、「客」と一緒に、景勝地で船遊びをして、雄大な自然の風景と酒を満喫する】

壬戌(じんじゅつ)の秋、七月既望(きぼう)、蘇子(そし)客と舟を泛(うか)べて、赤壁の下に遊ぶ。清風徐(おもむろ)に来たりて、水波興(おこ)らず。酒を挙げて客に属(すす)め、明月の詩を誦(しょう)し、窈窕(ようちょう)の章を歌ふ。少焉(しばらく)にして、月東山の上に出で、斗牛の間に徘徊す。白露江に横たはり、水光天に接す。一葦(いちい)の如(ゆ)く所を縦(ほしいまま)にして、万頃(ばんけい)の茫然たるを凌ぐ。浩浩乎(こうこうこ)として虚に馮(よ)り風に御して、其の止まる所を知らずがごとく、飄飄乎(ひょうひょうこ)として世を遺(わす)れて独立し、羽化して登仙するがごとし。

 

於是、飲酒楽甚。舷而歌之。歌曰、

「桂櫂兮蘭槳、撃空明兮泝流光。渺渺兮予懷、望美人兮天一方」

客有吹洞簫者、倚歌而和之。其声鳴鳴然、如怨如慕、如泣如訴。余音嫋嫋、不絶如縷。

舞幽壑之潜蛟、泣孤舟之嫠婦。

【即興で、もしも時間をさかのぼれる船があったら、という趣旨の詩を詠む。「客」は笛で伴奏するが、その曲調はあまりに美しく悲しかった】

是に於いて酒を飮みて楽しむこと甚(はなは)だし。 舷(ふなばた)を扣(たた)いて之を歌ふ。 歌に曰はく、

「桂の櫂(さお)蘭(らん)の槳(かい)、空明(くうめい)を撃(さおさ)して流光に泝(さかのぼ)る。 渺渺(びょうびょう)たり予(わ)が懷(おも)ひ、美人を天の一方に望む」

と。客に洞簫(どうしょう)を吹く者有り、歌に倚(よ)りて之に和す。 其の声鳴鳴然(おおぜん)として,怨むがごとく慕(した)ふがごとく、泣くがごとく訴ふるがごとし。 余音(よいん)嫋嫋(じょうじょう)として、絶えざること縷(る)のごとし。幽壑(ゆうがく)の潛蛟(せんこう)を舞はしめ、孤舟の嫠婦(りふ)を泣かしむ。

 

蘇子愀然正襟、危坐而問客曰、

「何爲其然也。」

客曰「『月明星稀、烏鵲南飛。』此非曹孟コ之詩乎。西望夏口、東望武昌、山川相繆、鬱乎蒼蒼。 此非孟コ之困於周カ者乎。方其破荊州、下江陵、順流而東也、舳艫千里、旌旗蔽空。釃酒臨江、槊賦詩、固一世之雄也。而今安在哉。況吾与子、漁樵於江渚之上、侶魚蝦而友麋鹿、駕一葉之輕舟、挙匏樽以相属、寄蜉蝣於天地、渺滄海之一粟。哀吾生之須臾、羨長江之無窮。挾飛仙以遨遊、抱明月而長終、知不可乎驟得、託遺響於悲風。

【客に、なぜあなたの笛はなぜそんなに悲しげなのか、とたずねる。客は答える。赤壁は、三国志の曹操が戦った古戦場だ。曹操が率いた大軍団でさえ、いまは跡かともない。まして自分たちはちっぽけなモータルだ。永遠に流れるインモータルの存在である長江が、うらやましい。自分たちの切なさを笛の音にこめたのだ、と。】

蘇子、愀然(しゅうぜん)として襟を正し、危坐して客に問ひて曰はく、

「何爲(す)れぞ其れ然るや」と。

客曰はく「『月明らかに星稀(まれ)にして、烏鵲(うじゃく)南に飛ぶ。』とは此れ曹孟コの詩に非ずや。西のかた夏口を望み、東のかた武昌を望めば、山川相繆(まと)ひ、鬱乎として蒼蒼たり。此れ孟コの周カに困(くる)しめられし者(ところ)に非(あら)ずや。其の荊州を破り、江陵より下り、流れに順ひて東するに方(あ)たりてや、舳艫(じくろ)千里、旌旗(せいき)空を蔽ふ。酒を釃ぎて江に臨み、槊(ほこ)を横たへて詩を賦す、固(まこと)に一世の雄なり。而るに今安(いず)くにか在る。況(いは)んや吾と子と、江渚(こうしょ)の上(ほとり)に漁樵(ぎょしょう)し、魚蝦(ぎょか)を侶(とも)として麋鹿(びろく)を友とし、一葉の輕舟に駕し、匏樽(ほうそん)を挙げて以て相属(すす)め、蜉蝣(ふゆう)を天地に寄す、渺(びょう)たる滄海の一粟(いちぞく)なるをや。吾が生の須臾(しゅゆ)なるを哀しみ、長江の窮まり無きを羨やむ。飛仙を挾(わきばさ)みて以て遨遊(ごうゆう)し、明月を抱きて長(とこし)へに終へんことは、驟(にわか)には得べからざるを知り、遺響(いきょう)を悲風に託すなり」と。

 

蘇子曰、

「客亦知夫水与月乎。逝者如斯、而未嘗往也。盈虚者如彼、而卒莫消長也。蓋将自其変者而観之、則天地曾不能以一瞬。自其不変者而観之、則物与我皆無尽也。而又何羨乎。且夫天地之間、物各有主。苟非吾之所有、雖一毫而莫取。惟江上之清風与山間之明月、耳得之而為声、目遇之而成色。取之無禁、用之不竭。是造物者之無尽蔵也。而吾与子之所共適。」

客喜而笑、洗盞更酌。肴核既尽、杯盤狼藉。相与枕藉乎舟中、不知東方之既白。

【仏教の刹那生・刹那滅の宇宙観をふまえ、宇宙の摂理から見れば、インモータルもモータルであり、モータルもインモータルであると説き、今ここでは、無尽蔵である自然の善意を満喫すべきだと説く。客は笑って納得し、ふたりで飲み明かす。】

蘇子曰はく、

「客も亦夫(か)の水と月とを知るか。逝く者は斯のごとくなれども、未だ嘗て往かざるなり。盈虚(えいきょ)する者は彼のごとくなれども、卒(つい)に消長する莫きなり。

蓋(けだ)し将に其の変ずる者よりして之を観れば、則ち天地も曾て以て一瞬なる能(あた)はず。其の変ぜざる者よりして之を観れば、則ち物と我と皆尽くること無きなり。而るに又何をか羨(うらや)まんや。且つ夫(そ)れ天地の間、物各(おのおの)主有り。苟(いや)しくも吾の有する所に非(あら)ずんば、一毫(いちごう)と雖(いへど)も取ること莫し。惟だ江上の清風と山間の明月のみ、耳之を得て声を為し、目之に遇ひて色を成す。之を取れども禁ずる無く、之を用ゐれど竭(つ)きず。是れ造物者の無尽蔵なり。而して吾と子との共に適する所なり」と。

客喜びて笑ひ、盞(さかずき)を洗ひて更に酌(く)む。肴核(こうかく)既に尽きて、杯盤狼藉(はいばんろうぜき)たり。相与に舟中に枕藉(ちんしゃ)して、東方の既に白むを知らず。

 

 

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今回の講座と関連する拙著  加藤徹『漢文力』中公文庫 741円

 

加藤徹が今後、朝日カルチャーセンターで担当する予定の講座

新宿教室 7/9 7/23月 「史記」刺客列伝を読む

新宿教室 7/23 8/27 9/24月 反乱者たちの中国史]

千葉教室 7/12木 戦前の漢文教科書を読む