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KATO Toru's concertina page
コンサーティーナ入門 教義

最初の公開 2019-11-7
最新の更新 2019-11-7
In this page, the founder (KATO Toru) shows five concepts for enjoying and playing concertinas.

雙面手風琴道心得 五箇條
一、貫中久の事
二、情況第一、伎倆第二、道具第三の事
三、行雲流水の事
四、用俗離俗の事
五、二燈の事
 一つ、貫・中・久を旨とすべし。貫通、的中、持久を期す。楽(がく)は兵法なり。心を攻むるを上と為す。楽器は弓、音は箭(や)、心は動く的なり。弓を挽(ひ)き箭を放ち的を射貫(いぬ)くがごとし。矢筒(やづつ)は限りあり。手風琴の橐籥(たくやく)に限りなし。虚(きょ)なれば屈(くっ)せず、動(うご)かせば愈々(いよいよ)出(い)づ。楽曲は古今東西の多きを厭はず、老若と緩急と雅俗の広きを厭はず。

 二つ、情況第一、伎倆第二、道具は第三たる事。それ、楽は食物(じきもつ)の如し。餓ゑたる人には目黒(めぐろ)の秋刀魚(さんま)も旨(うま)し。鬼も十八、番茶も出花。心の潮目を察せざるべらからず。名器を弾く手練(てだ)れも、風向き悪しくば、初学者にも負くることあり。

 三つ、行雲流水、逍遙自在の事。無形は無敵なり。古(いにしえ)の剣豪に「構へありて構へ無し」と言へるあり。座奏、歩奏、舞奏、臥奏(がそう)を選ばず。硬軟も雅俗も選ばず。型を究(きわ)めて型に嵌(はま)らず、型破りたれ。指もて弾くは初学、腕もて弾くは下手、体もて弾くは上手、心もて弾くは達人。心もとより無形なり。

 四つ、「用俗離俗」の説。俳諧は俗語を用ひて俗を離るるを尚ぶ。雅なるを驕(おご)るは雅ならず。俗なるを知りて俗を用ふるはすでに俗ならず。管風琴は女王、鋼琴は姫、手風琴は仕女なり。離俗の仕女はよく主人公たり。

 五つ、二灯(にとう)といふ事。四念処(しねんじょ)に「自灯明(じとうみょう)・法灯明(ほうとうみょう)」の教へあり。音(おん)は暗(あん)なり、また闇(あん)なり。音楽は暗き広野、己(おのれ)と楽器を二灯として歩むべし。楽器は道具なり。道おのづから具(そな)はる。道具は人間が作りし物なれば、道具のうちに代々の人間あり。人間は道具の本源なれば、われのうちにも種々(くさぐさ)の道具あり。われ手風琴を弾き、手風琴もわれを奏(かな)づ。二灯の一人(ひとたり)は、よく人為(ひとた)り。

 右の戯れ言(ざれごと)、話半分に聞き流すべし。呵々(かか)。
  丁酉年(ていゆうねん)立冬 加藤徹 識(しる)す

【現代語による自由訳】
 コンサーティーナの道についての五箇条のドグマは、以下のとおりです。
(1)「貫中久」ということ。
(2)「情況が第一、技術は第二、楽器は第三」ということ。
(3)「行雲流水」の精神。
(4)「用俗離俗」という発想。
(5)「二灯」のたとえ。

 一つ目のドグマは「貫・中・久」。
 これはもともと、戦国時代に発達した和弓の「日置流」(へきりゅう)の教義の一つです。
 戦場の実戦的な弓術で大切なのは三つ。鎧をも射貫く貫通力。狙った相手の急所に命中する正確さ。矢が途切れないように連射できる持久性。たしかに、どれが欠けても、戦国時代の戦場では、たちどころに敵に殺されてしまうでしょうね。
 音楽の心得は、兵法に通じるところがあると思います。中国の兵法の極意は、「三国志」の馬謖(ばしょく)が述べたように「攻心為上」、つまり敵の心を攻略することです。ここで敵とは、自分が演奏する音楽を聴く人のことを指します。
 自分が弾く楽器を弓に喩えるならば、楽器が奏でる音は、弓から放たれる矢です。演奏を聴く人の心は、戦場で動き回る敵のようなもの。いにしえの弓の名手のように、自分の楽器の音色で、お客さんの心のガードを見事に射貫いてみたいものです。
 戦国時代の武士が矢筒に入れて持ち運べる矢の数には、限りがあります。でも、コンサーティーナなど手風琴の楽器の蛇腹は、ふいごです。ふいごから奏で出せる音は、無限です。
 漢文の古典『老子』第五章には「天地之間、其猶橐籥乎。虚而不屈、動而愈出」という有名な言葉があります。テンチのカン、ソれナおタクヤクのゴトきか。キョにしてクッせず、ウゴきてイヨイヨ、イづ。宇宙という空っぽの空間は、まるで、巨大な送風箱のようだ。空っぽだからこそ尽きることがなく、動けば動くほどどんどん万物が生まれてくる。
 コンサーティーナの蛇腹の中も、空っぽの小宇宙です。客の心を攻めるあらゆる種類の楽曲を、どんどん弾きまくりましょう。

 二つ目のドグマは「情況第一、伎倆第二、道具第三」。
 音楽は飲食物みたいなものです。うまいもまずいも、「目黒のサンマ」とか「鬼も十八、番茶も出花」とか、情況次第で大きく変わります。ここでコンサーティーナを弾いたらきっとみんな喜んでくれるだろうなあ、という人たちの前で弾いたら、きっとみんなも「この楽器、すごい!」と思ってくれるでしょう。
 逆に、ベテランの演奏者が高価な楽器を弾いても、もしその場の人たちが「今は音楽は聴きたくない」と思っていたら、全然受けないでしょう。
 場の空気は、こわいです。下手くそな初心者の演奏が「かわいい」「珍しい」とほめられ、名人の演奏が「今は聴きたくない」「うるさい」と思われることもあります。
 情況を把握することが大事です。

 三つ目のドグマは「行雲流水」。
 大空をゆっくりとゆく雲や、川を流れてゆく水のように、一つの場所に執着せず、自由自在に演奏を楽しみたいものです。
 昔、剣豪の宮本武蔵は自分の戦いかたの流儀について「構へありて構へ無し」と言いました。決死の戦場で型とか構えにこだわると、敵に自分の次の動きを読まれ、たちどころに殺されます。
 演奏も同様です。練習曲で基本の型とか構えを身につけるのは良いことですが、本番で型にはまった演奏しかできなければ、敵、つまり聴く人の意表をついて、感動してもらうことは難しいかもしれません。
 コンサーティーナの演奏スタイルも、座奏だけに固定せず、歩奏や舞奏、臥奏など、その場の空気に応じて臨機応変に使えたら、すばらしいです。
 楽曲も、かたい曲、やわらかい曲、上品な曲、下品な曲、いろいろ弾けるようにしておくこと。そうすれば、聴く人の心を奇襲したり、急襲や強襲をかけたり、いろいろな攻め方が可能になります。
 コンサーティーナの弾きかたにも、型はあります。練習を積み重ねて、自分なりの型を作り、その型を究めた人は、型にはまらなくなります。さらに進んで、型破りの人になれたら、すごいです。
 どんな楽器もそうですが、指先でチョコマカと弾くのは初心者の段階です。ちょっとうまくなると、腕力でガシガシ弾けるようになりますが、これもまだまだ。足腰とか顔も含めた体全体で楽器を弾けるようになれば、上手。
 でも、演奏の達人は、心で楽器を弾きます。
 心には形がありません。だから演奏も、無形で型にはまらぬ自由なスタイルが最強です。

 四つ目のドグマは「用俗離俗」。
 江戸時代の俳人・与謝蕪村は「俳諧は俗語を用ひて俗を離るるを尚ぶ」と主張しました。俳句のセンスは、コンサーティーナの演奏のセンスと、通じるものがあります。
「これから上品な音楽を演奏してあげます。みなさん、私に対して失礼のないように、ちゃんと襟を正して聴いてください」
 という態度は、上品でも芸術的でもありません。
 反対に、ポップスでもアニメソングでも歌謡曲でも、みんなで楽しめる俗曲をその場の空気にあわせて自然体で演奏するほうが、よほど芸術的かもしれません。
 パイプオルガンを楽器の女王、ピアノをお姫様とするなら、コンサーティーナなどの手風琴はさしずめメイドさん。でも、往々にしてメイドさんが、女王や姫をさしおいて物語のヒロインになることがあります。楽器の演奏会でも、同様です。

 五つ目のドグマは「二灯」(にとう)。
 仏教の四念処(しねんじょ)という教えの中に「自灯明(じとうみょう)・法灯明(ほうとうみょう)」という比喩があります。自分自身と仏法、この二つを明かりとして、道を進みなさい、という教えだそうです。世の中には、マニュアルがないと学べない、とか、先生から教わらないとダメだ、という人もいます。たしかに、そういう楽器もあります。
 でも、よく考えると、どんな楽器も道具も、最初はマニュアルも先生もなかったわけです。ライト兄弟が初めて飛行機を飛ばしたときは、飛行機の操縦免許も、操縦法を教えてくれる学校も、当然ありませんでした。コンサーティーナなどの手風琴も同様で、発明当初は、マニュアルも先生もなかったわけです。
 もともと音楽は、つかみどころがない芸術です。だって「音」ですから。「暗」とか「闇」という漢字も「音」を含みます。
 音楽の世界は、薄暮の広野みたいなものです。道無き道を進めためには、ライトが必要です。自分自身と楽器。この二つを、二つの懐中電灯として、道を歩むしかありません。もちろん、先輩とか先生とか、本とかマニュアルとか、途中でさまざまな出会いがあることでしょう。でも、本当に頼れるのは、自分と楽器だけです。
 楽器は音楽の道具です。道具という漢字は、偶然かもしれませんが「道が具(そな)わっている」と書きます。
 道具は人間が作ったものです。歴代の人間の知恵、工夫、情熱、夢、思いが、道具の中にこめられています。
 人間は、道具のふるさとです。あなたやわたしの中にも、実はいろいろな道具の要素が、生まれつきそなわっています。コンサーティーナという道具の中にも、古今東西の人々の夢や思いがこもっています。
 わたしがコンサーティーナを弾くのか、コンサーティーナがわたしを弾くのか。うまいとか、へたとか、そんなことはあまり気にせず、楽器と自分の二人三脚で人生という道行きを楽しみたいものです。

   以上の戯れ言は、話半分でお聞き流しください。すみません。
   2017年の立冬の日に。加藤徹


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