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  中国3千年旅と文学  朝日カルチャーセンター新宿教室
2018年 3/10土曜 10:30-12:00 講師 明治大学教授 加藤 徹
 
【講座内容】昔の旅は大変だった。日数も、お金もかかった。東洋文学には旅を詠んだ詩人が多い。唐の漢詩人であった杜甫や李白も、日本の歌人であった西行法師や俳人の松尾芭蕉も、豊かな旅情を詠んだ名作を多数、残している。金もうけとは迂遠なイメージがある詩人たちは、なぜあのような長期の旅ができたのか? 資金はどうやって工面したのか? どこに泊まり、どんな交通機関で移動したのか?
 東洋文学の旅の原点は、2500年前の孔子にある。みずからを「東西南北の人」と呼んだ孔子は、弟子たちを引き連れ集団就職先を求めて諸国を遊説し、旅先でお金をかせいでさらに旅を続けるという、文人的旅行スタイルの元祖となった。
 本講座では、旅を詠んだ名作を手がかりに、中国の古典文学における旅の歴史を、その裏面史も含めて解説する。
 
★語源と字源
日本語「たび」の語源は不明。
 「給(たべ)」「手火(たび)」「他火(たび)」「たどる日」「発日(たつび)」「外日(とび)」「外辺(たび)」「飛(とび)」のほか数多くの説があり、正確な語源は未詳である。
 
漢字「旅」の字源説
「旗」と「旅」の共通部分である「はた」の右下に、「人人」がつきしたがう様を描いた会意文字。「軍旅」の「旅」が原義に近い。音「リョ」は、ともがらを意味する「侶」と同系。「旅」には「たび」の他に「旅陳」「旅祭」など「ならべる」という意味もある。
 
★師団と旅団
 師は先生、旅はたびの意だが、古代は軍隊の単位でもあった。
 班固『白虎通コ論』「五人為伍、五伍為両、四両為卒、五卒為旅、五旅為師、師二千五百人、師為一軍、六師一万五千人也。」
伍5人 両25人 卒100人 旅500人 師2500人 軍12500人
周の天子は六軍=75000人 諸侯の三軍=37500人
参考 中国の古典笑話「孔子の三千人の弟子の就職先は?」「五百人は旅する行商人になって、二千五百人は教師になったよ」「その根拠は?」「儒教の古典の記載には、五百人は旅、二千五百人は師、とある」
 
★古代中国の身分制度
 天子(周王)、諸侯、卿・大夫・士(けいたいふし)、民
   cf.四民、士民、百姓、士農工商、……
『管子』小匡「士農工商四民者、国之石民也。」
 孔子を始め、中国古典文学の文人の身分の大半は「士」であった。
 
★「商」の語源
 日本語「あきない」は「秋のおこない」の意。
 漢語「商」は、もともと殷人の自称。日本語では「殷王朝」と呼ぶが、中国では「商王朝」と呼ぶのが普通。紀元前十一世紀、西の周は、東の「商」を滅ぼした。亡国の民となった商人は、各地を流浪して物財の交易で身を立てた。これが「商業」「商人」の語源である。古代中国では、「士」と「商」はよく旅に出た。
 
★外交の旅
 司馬遷『史記』呉太伯世家に載せる、呉の公子・季札(きさつ)の「季札、剣を掛ける」の故事「季札挂剣」(きさつけんをかく)
 季札之初使、北過徐。徐君好季札剣、口弗敢言。季札心知之、為使上国、未献。還至徐、徐君已死、於是乃解其宝剣、系之徐君冢樹而去。従者曰「徐君已死、尚誰予乎」。季子曰「不然。始吾心已許之、豈以死倍吾心哉」。
 季札の初めて使ひするや、北のかた徐君を過(よぎ)る。徐君、季札の劍を好む。口、敢て言はず。季札、心に之を知る、上國に使(つかい)する為に、未だ獻ぜず。還りて徐に至る。徐君已に死す。是に於て乃ち其の寶劍を解き、之を徐君の冢樹に繋(か)けて去る。從者曰はく、徐君已に死せり。尚ほ誰に予ふるか、と。季子曰はく、然らず。始め吾が心、已に之を許せり。豈に死を以て吾が心に倍(そむ)かんや、と。
 
★食客と館と官と旅
 春秋・戦国時代から「食客」の風習が有力者のあいだに広まった。食客は、地縁や血縁にしばられず、自分個人の技芸を生かして、自分を厚遇してくれる主人を探して各地を旅し、気にいったらその主人のもとにいついた。
 食客に関する故事成語は多いが、『史記』平原君列伝を出典とする毛遂の故事成語「嚢中の錐」は有名。また『史記』孟嘗君列伝に出てくる食客・馮驩(ふうかん)が「長剣よ帰ろうか」と歌った故事も有名。
 食客は、公用人として「官(館)」に集団で起居し、これが後世の「官」の起源となった。本来は集団が起居する建物を意味した「官」という漢字が後世、役人の意味で使われるようになったため、新たに「食べる」を加えて「館」という会意文字が作られた。
 
★前近代は「どんぶり勘定社会」だった
 昔の中国には、戸籍制度もちゃんとしていなかった。軍隊には定数はなく、庶民の職場も、住み込み、日払いがあたりまえ。時間や金銭はすべてどんぶり勘定であった。
 旅行も、今と違って事前に綿密な日程表や予算を立てることは不可能だった。生きているうちに、とりあえずの目的地にたどりつければよかった。泊まる場所も最低限、雨風をしのげれば良かった。公用人は駅舎を使うことができた。一般の行旅人は、商業的な旅籠だけでなく、寺の宿坊、無人のほこら、素封家の軒下、見知らぬ一般住人の自宅に一夜の宿を借りることもよくあった。
 昔の中国では「男手(おとこで)」は引く手あまただった。文字の読み書きができる知識人や、肉体労働ができる男、武術など技芸を身に着けた男は、見知らぬ土地に裸一貫で行っても、飯を食って生きてゆくことができた。
 例えば、孔子や李白や杜甫のような名士は、旅の行く先々の土地で生活費と旅費をかせぐことができた。
 
★孔子の旅
 孔子(前552-前479)は、前497年に魯国の官を辞し、事実上の亡命生活に入り、弟子たちとともに諸国を転々とした。13年後の前484年、69歳になった孔子はようやく魯に帰国した。その後、前479年に74歳で死去した。
 孔子の旅は「旅」の字源のように、師たる孔子のもとに弟子たちが隊列を組んで付き従った「集団就活旅行」であった。たひたび困窮したが、孔子は旅の途中で餓死者を出さなかった。愛弟子の顔回が困窮死したのは、魯に帰国したあとである。
 
『礼記』檀弓上「吾聞之、古也墓而不墳。今丘也、東西南北之人也、不可以弗識也。」
 
★中国人の人間関係の道
 血縁 宗族(父系同族集団)による道
 地縁 同郷人の連帯による道
 職縁 同業者の連帯による道
 学縁 学問や宗教の連帯による道
cf.春秋時代の孔子は学縁と職縁を活用。三国志の劉備は血縁と学縁(盧植先生)を活用。
 
★唐の太宗皇帝の貞観(じょうがん)の治
 『資治通鑑』に「海内升平、路不拾遺、外戸不閉、商旅野宿焉」とある。天下太平のおかげで治安がきわめてよくなり、道の落とし物を拾って盗む人もおらず、家の戸締りをする必要もなく、旅の商人は野宿できるほどになった、という意味。
 
★学縁の旅の一例 禅僧の「一宿覚(いっしゅくかく)」の故事
  永嘉玄覚 ようかげんかく(?―713)
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説より
 中国、初唐の僧。字(あざな)は明道。諡号(しごう)は真覚(しんがく)大師、無相(むそう)大師。浙江(せっこう)省温州(おんしゅう)府永嘉(ようか)県の生まれ。幼少で出家して三蔵を学び、とくに天台止観(てんだいしかん)の法門に優れていた。左渓玄朗(さけいげんろう)(673―754)の勧めで曹渓(そうけい)の禅宗第六祖慧能(えのう)に参じ、問答を交わして印可(いんか)を受けて一泊した。そのために、人々は彼を一宿覚(いっしゅくかく)と称したという。(以下略)[椎名宏雄]
 
★技芸者の旅の一例 唐の時代の七言絶句
  別董大   董大に別る
高適(こうせき ?〜765)
 千里黄雲白日?   千里の黄雲(こううん)白日(はくじつ)?(くら)し
 北風吹雁雪紛紛   北風 雁(かり)を吹きて 雪紛紛(ふんぷん)
 莫愁前路無知己   愁(うれ)ふる莫れ 前路(ぜんろ)に知己(ちき)無しと
 天下誰人不識君   天下 誰人(たれびと)か君を識(し)らざらん
 
※董大は、当時の有名な琴師であった董庭蘭を指す、という説が有力。
bie2 dong3 da4 / gao1 shi4 / qian1 li3 huang2 yun2 bai2 ri4 xun1 / bei3 feng1 chui1 yan4 xue3 fen1 fen1 / mo4 chou2 qian2 lu4 wu2 zhi1 ji3 / tian1 xia4 shui2 ren2 bu4 shi2 jun1
 
★宮廷詩人・李白の旅
 
 春夜宴桃李園序      春夜 桃李園に宴するの序
李白(701〜762)
夫天地者、万物之逆旅、  夫(そ)れ天地は万物の逆旅にして、
 光陰者、百代之過客。  光陰は百代の過客なり。
而浮生若夢、       而(しか)して浮生は夢の若し、
 為歓幾何?       歓を為(な)すこと幾何(いくばく)ぞ?
古人秉燭夜遊、      古人 燭を秉(と)りて夜に遊ぶは、
  良有以也。      良(まこと)に以(ゆゑ)有るなり。(以下略)
 
【参考】 松尾芭蕉「奥の細道」より
 月日は百代の過客(くわかく)にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらへて老(おい)を迎ふる者は、日々旅(たび)にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風(かぜ)にさそはれて漂泊(へうはく)の思(おもひ)やまず、(以下略)
 
夜宿山寺
李白
 危楼高百尺  危楼 高さ百尺
 手可摘星辰  手 星辰を摘むべし
 不敢高声語  敢て高き声で語らず
 恐驚天上人  恐らくは天上の人を驚かさん
 
 ヨル、ヤマのテラにシュクす。リハク。キロウ、タカさヒャクシャク。テ、セイシンをツむべし。アエてタカきコエでカタらず。オソらくはテンジョウのヒトをオドロかさん。
【大意】目もくらむような楼(たかどの)は、高さが百尺。手を伸ばせば、夜空の星をつかみ取れそうなほど。あえて高い声で話さない。天の上に住む人を驚かせてしまうかもしれないから。
【注】李白が江心寺(現在の湖北省黄岡市黄梅県蔡山鎮にある「蔡山寺」)で詠んだ五言絶句と伝えられている。別の本では「題峰頂寺」というタイトルで、「夜宿峰頂寺、挙手捫星辰。不敢高声語、恐驚天上人」に作る本もある。後半の二行は同じだが、前半の二行は「夜、峰頂の寺に宿す。手を挙ぐれば星辰を捫(な)づ」と違っている。
ye4 su4 shan1 si4  Li3 Bai2
wei1 lou2 gao1 bai3 chi3、 shou3 ke3 zhai1 xing1 chen2.
bu4 gan3 gao1 sheng1 yu3、 kong3 jing1 tian1 shang4 ren2.
 
 贈汪倫
李白
 李白乗舟将欲行   李白 舟に乗りて将に行かんと欲す
 忽聞岸上踏歌声   忽ち聞く 岸上 踏歌の声
 桃花潭水深千尺   桃花潭 水 深さ千尺
 不及汪倫送我情   及ばず 汪倫が我を送るの情に
 
 オウリンにオクる。リハク。リハク、フネにノりてマサにユかんとホッす。タチマちキく、ガンジョウ、トウカのコエ。トウカタンスイ フカさセンジャク。オヨばず、オウリンがワレをオクるのジョウに。
【注】★汪倫=安徽省県(あんきしょうけいけん)の県令をつとめたことがある、桃花潭の村の名士。★李白五十五歳の作
zeng4 wang1 lun2 / li3 bai2 / li3 bai2 cheng2 zhou1 jiang1 yu4 xing2 / hu1 wen2 an4 shang4 ta4 ge1 sheng1 / tao2 hua1 tan2 shui3 shen1 qian1 chi3 / bu4 ji2 wang1 lun2 song4 wo3 qing2
 
  早発白帝城  早に白帝城を発す
李白
 朝辞白帝彩雲間  朝に辞す 白帝 彩雲の間
 千里江陵一日還  千里の江陵 一日にして還る
 両岸猿声啼不住  両岸の猿声 啼き住まざるに
 軽舟已過万重山  軽舟 已に過ぐ 万重の山
 
 ツトにハクテイジョウをハッす。アシタにジす、ハクテイ、サイウンのカン。センリのコウリョウ、イチジツにしてカエる。リョウガンのエンセイ、ナいてヤまざるに、ケイシュウ、スデにスぐ、バンチョウのヤマ。
【注】李白は安禄山の反乱の時、江陵の地で半独立政権をたてた唐の永王(?〜757)の幕僚となった。永王は、玄宗皇帝の息子で、粛宗皇帝の異母弟である。粛宗は永王は反逆者と見なして討伐し、李白も連座して流罪となったが、途中で赦免されて戻った。
 
★杜甫の旅  家族を連れて生活のため各地を流浪
 
  旅夜書懐   旅夜(りょや)懐(おもい)を書(しょ)す
杜甫(712〜770)
 細草微風岸  細草 微風の岸
 危檣独夜舟  危檣(ききょう) 独夜(どくや)の舟
 星垂平野闊  星垂れて 平野闊(ひろ)く
 月湧大江流  月湧きて 大江(たいこう)流る
 名豈文章著  名は豈(あに)文章もて著(あら)はれんや
 官応老病休  官は応(まさ)に老病にて休(や)むべし
 飄飄何所似  飄飄(ひょうひょう)何の似たる所ぞ
 天地一沙?  天地の一沙鴎(いちさおう)
 
 lv3 ye4 shu1 huai2 / du4 fu3 / xi4 cao3 wei1 feng1 an4 / wei1 qiang2 du2 ye4 zhou1 / xing1 chui2 ping2 ye3 kuo4 / yue4 yong3 da4 jiang1 liu2 / ming2 qi3 wen2 zhang1 zhu4 / guan1 ying4 lao3 bing4 xiu1 / piao1 piao1 he2 suo3 si4 / tian1 di4 yi1 sha1 ou1
 
★蘇軾の旅の漢詩
  廬山煙雨
北宋・蘇軾(1037〜1101)
 廬山煙雨浙江潮  廬山は煙雨 浙江は潮
 未到千般恨不消  未だ到らざれば 千般 恨み消えず
 到得還来無別事  到り得て 還り来れば 別事無し
 廬山煙雨浙江潮  廬山は煙雨 浙江は潮
 
 ロザンエンウ。ホクソウ、ソショク。ロザンはエンウ、セッコウはウシオ。イマだイタらざれぱセンパン、ウラみキえず。イタりエてカエりキタればベツジナし。ロザンはエンウ、セッコウはウシオ。
【注】蘇軾(蘇東坡)による禅詩。七言絶句。★廬山=江西省九江市南部にある名山。現在、ユネスコの世界遺産。霧雨にかすむ廬山と、浙江省の「銭塘江大潮」は、中国人なら誰もが一生に一度は行って見てみたいと思う天下の奇観であった。★到得還来無別事=実際に見に行き、帰ってきてみれば、何でもない。
Lu2 shan1 yan1yu3 / Bei3 song4 / Su1 Shi4 / lu2 shan1 yan1 yu3 zhe4 jiang1 chao2 / wei4 dao4 qian1 ban1 hen4 bu4 xiao1 / dao4 de2 huan2 lai2 wu2 bie2 shi4 / lu2 shan1 yan1 yu3 zhe4 jiang1 chao2
 
   題西林壁   西林の壁に題す
蘇軾
 横看成嶺側成峰  横より看れば嶺と成り 側よりは峰と成る
 遠近高低無一同  遠近高低 一として同じきは無し
 不識廬山真面目  廬山の真面目を識らざるは
 只縁身在此山中  只だ身の此の山中に在るに縁る
 
 セイリンのヘキにダイす。ホクソウ、ソショク。ヨコよりミればレイとナり、ソバよりはホウとナる。エンキンコウテイ、イツとしてオナじきはナし。ロザンのシンメンモクをシらざるは、タだミのコのサンチュウにアるにヨる。
【注】西暦1084年、蘇軾が四十九歳の作。五年に及んだ流罪生活を終えた直後、立ち寄った先で詠んだ七言絶句。★題西林壁=廬山のふもとにあった西林寺の壁に書いた漢詩、という意味。★嶺・峰=訓読みはともに「みね」だが、この詩では、嶺は連嶺(連山。連峰。いくつも連なっている峰)、峰は独立峰の意。★真面目=シンメンモク、シンメンボク。ありのままの本当の姿。「まじめ」の意ではない。
ti2 xi1 lin2 bi4 / bei3 song4 / u1 shi4 / heng2 kan1 cheng2 ling3 ce4 cheng2 feng1 / yuan3 jin4 gao1 di1 wu2 yi1 tong2 / bu4 shi2 lu2 shan1 zhen1 mian4 mu4 / zhi3 yuan2 shen1 zai4 ci3 shan1 zhong1